半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

パワハラ防止法 どうする?

f:id:hanjukudoctor:20200103125824j:plain:w300
2020年 鞆の浦
あんまりニュースにもなっていないし、騒がれてもいないけど、来年度からパワハラ防止法が施行される。
corporate.vbest.jp

パワハラ防止法(厚生労働省の資料)
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000527867.pdf

施行時期は未だはっきりしていないけれども、大企業においては2020年6月らしい。
もう待ったなしだ。

実際の業務に落とし込むのに、パワハラの定義や線引きなど、現場においては数々の「?」がとびかいつつのだろうと思う。
だが、数年経つと、当たり前のことになるのかなあと思う。男女雇用機会均等法のように。

しかしその歴史の立会人になるのは、人事担当および経営者としては、ストレスでしかないと思う。
文化の変遷に伴う摩擦の処理は、本当に消耗することだからだ。

医療とか介護の現場は、もっと複雑だ。
例えば、うちの職場は、まずまず男尊女卑的な考えは薄い。
年功序列的な考え方も、それほど強くはない。
職域同士のヒエラルキーも比較的緩やかではある(とはいえ、公平に言えば、基幹病院レベル程度だとは思う。ただ、中小病院および無床診療所の多くは、医師とそれ以外の階級差はかなり大きいことが普通だ)。*1
ところが、顧客のほとんどは、過去の世代の住人だ。
すなわちセクハラ、パワハラ、なんなら暴力も当たり前にあった時代。
女は男の言うことには逆らうな、年上の言うことに年下が逆らうなんて言語道断、なんてえ価値観。

結果として、医療現場においては、例えば男女、例えば年少と年長、などについて、さまざまな考え方が飛び交っている。
大正昭和のレベルから、平成から令和。日本人の考え方も随分変わったものだ。
企業としては、令和の考え方を基準にしたフラットでフランクな組織を作りたいが、もっとも尊重すべき顧客が、大正昭和のレベルに止まり、偏狭な自らの価値観に基づいた考え方をこちらにも強要しようとすることがある*2
そういう齟齬のもとでは、数々の悲劇が生じる。
せっかく働きやすい環境づくりに腐心しても、若いやる気のある職員が心無い高齢者の言動に心を折られたりすることもある。

* * *
halfboileddoc.hatenablog.com

私は、映画『八甲田山』が大好きで、DVD、Blu-Rayも持っていて自宅で時々みなおす。
あれは「軍隊もの」というカテゴリーというか「中間管理職悲哀物語」みたいなもので、
バカな上官にあっちいけこっちいけと指図される神田大尉(北大路欣也)の苦悩と愚かなトップの戦略で自滅する集団というのがストーリーの根幹となっている。指令系統の明確化とブレない戦略が大事、というマネジメントに関する物語なのだ。

ただ、現代の若者にあれをみせても、あんまりピンとこないみたいだ。

映画は1978年。劇中の舞台は1902年。
観劇していた当時昭和の社会人にとっては、この『八甲田山』の世界のありようは実際の会社組織と地続きなものだった。
パワハラというか、上官の命令は絶対で、当時の仕事のあり方も、そんなに変わらなかった。だから映画『八甲田山』は、ある種、実際の社会の縮図のようなリアリティは十分にあった。
ただ明治の軍隊では、上官の命令は絶対である上に、間違った上官の命令に従い、そのまま死んでしまっても文句は言えない。昭和の社会では、さすがに殺されることはなく、まあ辞める自由は残されてはいただろう*3
観客のサラリーマンにとっては、映画の舞台は、今と地続きではあるけれど、そのまま命を簡単に奪われうる。その酷薄さは観劇に足る非日常だったのだろう。
しかしあれから50年たった現代人にとって、劇中の明治の社会も、昭和の社会も、今のそれとはあまりに違いすぎて、もはや共感さえも得られにくくなり、ただの寓話めいたものとしか消費できない。
明治は言うにおよばず、昭和も遠くなりにけり。

* * *

昨年、一昨年では、昭和世代では、体罰と年長服従の象徴であった大学の運動部やプロスポーツ業界でさえも、パワハラという言葉にの名の下に数々の服従・盲従を強いる行為が明るみに出され断罪された。

確かに世の中は変わりつつあるのだろう。
ただ、世の中すべて開明的な人物ばかりではない。階級を登ってゆく人間の中には、階級意識に人一倍敏感で、その差を最大限に利用し、言動を最適化するような人間はいる。発揚型人格
の方は感情をコントロールできない、なんてこともよくある。

でも、とっさの一言で一生を棒に振る、なんてことが起こるのも、つらい。
昨今のITを駆使して、例えば、FitBitみたいな体活動計みたいなバンドは作れないか。
名付けて「パワハラ防止計」。
しゃべっている内容をすべて録音し、自然言語処理し、パワハラに該当しそうな暴言や侮辱語を発すると、バイブレーターで通知する。なんなら電流を流してもいい。なんならアナルパールに電流を流す仕様でもいい(笑)。

こういうのを付けて、不用意な言動を発する瞬間、または兆しがあれば警告を発して止めることができればいいんじゃないかと思う。

「どうしてこんな簡単なことができないんだ!!
  お前なんか死………はうううぅ!、いや、なんでもない……」*4

というか、自分の会話をすべて文字起こしして、統計処理や言語解析して、喋り方の論理性や抑揚、滑舌などをスコアリングするバンドは、10年後とかには実用化されているような気がする。隠キャ、発達障害の方などは、そういう補完技術があれば、普通の会話をきちんとすることができるだろう。

*1:以前はそうではなかったし、むしろブラック企業っぽい風土さえあった。

*2:なんとなれば彼らは尊重されるべき「年長者」であり、なおかつ尊重されるべき「顧客」でもあるわけだからね。

*3:過労死や不慮の事故死、自殺はありえるだろうが、しかし軍隊だと上官の命令で死ぬのは当たり前、昭和の平和社会ではさすがに、死ねという命令にはならない

*4:というかこの提案そのものがパワハラ的でもあるし、セクハラでもある。自家撞着じゃねえか

ドローン銃は多分やむにやまれず使うことになるだろう

f:id:hanjukudoctor:20191228101552j:plain:w300
2019年, 遥照山

暖冬であるとはいえ、さすがに一月は寒いですね。

* * *

hanjukudoctor.hatenablog.com

人口減少社会では田舎のインフラは更新されず荒れ果ててゆくであろう、と以前に書きました。

僕たちの住んでいるこの社会の衰亡は少し寂しくもある。
が、人の活動の間隙をぬって草木が生い茂ってゆく様は美しくもある。
熱帯諸国の砂漠化に比べれば、なんて恵まれていることか。

ただ「自然礼賛」なんて、都会もんの甘い考え。
平成狸合戦ぽんぽこ』は昭和から平成にかけての話であって、令和の今では状況は全く逆のようで。
野生動物は保護するどころか増えすぎて獣害がコントロールできなくなりつつある。

* * *

担当している患者さんに、狩猟が趣味で猟友会にも入っている人がいる。*1
その人曰く、
「いや、もう全然追いつかないんですよ。
 そろそろ僕らもギブアップしそうです」

もう最近は野生動物が増えすぎて、どんどん来る依頼をさばききれないらしい。
というのは狩猟者も近年激減かつ高齢化もしているから。

過疎地の高齢化により耕作放棄地はどんどん増えている。
結果的に、イノシシ・サル・シカ、クマなどの野生動物は激増。
こうした野生動物は当然食べ物を求めて人里に降りて畑を荒らす。

今までは獣害は、人の住む地域や畑に野生動物が侵入してくれば、山へわけいって狩りをし駆除していた。
人が、野生の世界に攻め込んでいたわけだ。
しかしそろそろ攻守が逆転しそうな勢いらしい。

なにしろ狩り手はどんどん減るし高齢化している。
相手はどんどん数が増えている。
地方中核都市に近いエリアでさえこれだ。
山間部はもう、のっぴきならないところまで来ている。

* * *

耕地に電気柵などを作り動物を防ぐのも一つの考え方だ。
が、この前述べたように道路などのインフラでさえ荒れるに任せているような現状。
そんななか耕作地や居住地の周囲を野生動物が入れないように新たに柵で囲むなんて、絵空事だ。

では どうするか。
自動化するしかないではないか。

表に出れば倫理的な問題もあるのであまり報道されないようだが、実は世界の紛争地では、ドローンを用いた自動攻撃、迎撃システムは実用化されているらしい。
アシモフの「ロボット三原則」にも違反している*2からドローンそのものに銃火器をとりつけ、殺傷能力を持たせるというのは、アメリカにおいても議論をよぶ話題のようだ。*3

しかし空を飛ぶタイプのドローンに銃をつけ、AIに対人回避装置をつけて運用すれば、害獣の駆除は、かなり低コストで賄える。
飛行タイプのドローンでなければ、ボストンダイナミクスが作っているような、犬みたいなロボットに銃をつけてもいい。
そうしたドローンに耕作地や居住地を警備させるなら、24時間稼働も可能だし、比較的コストもかからない。
電気柵のように広範なエリアに敷設する必要なく、境界部に配置すればすむ。
なんなら遺体を回収することができれば、食肉の資源にもなる。

色々考えるけど、これ以外にコストがかからないいい解決策を思いつかない。

そもそも、戦後日本では原則として国内での銃は認められていない。
にも関わらず、それでは現実的に野生動物に対応できないので、猟銃免許という逃げ道がある。
今までの猟銃免許+猟友会で守ってきた枠組みが崩壊するのであれば、新たな防衛体制を超法規的に作るしかないではないか。

だから2025年までには、日本でもドローンを用いた野生動物の狩猟装置が配置されるんじゃないかと思っている。*4

 日本では、当然対人の射撃を回避されるように設定されるだろう。あくまで害獣駆除目的だから。
 だが、ヤクザなどの反社会勢力が農産物を盗みに来る事例はかなり多い。
 場所によっては、対人殺傷射撃モードをオンにして運用する地域もでてきて論議を呼ぶ、なんてことも起こりそうだ。

*1:ちなみにですが、猟銃免許の医師の診断書にはいつも悩まされる。責任持てへんって…

*2:そもそもロボット三原則はSFの世界の話であって、我々の住んでいる世界線ではロボット三原則というヒューマニズムは適用されなかったらしい

*3:ハッキングされる可能性もあるからね

*4:最初は威嚇装置のみかもしれないが

『日本婚外子協会』設立を

www3.nhk.or.jp

まあ、そうなんですけれどね。
日本の将来を予測する少子化推計には、まあまあ少子化対策がうまくいった場合、普通の場合、うまくいかなかった場合みたいにシナリオ別にはなっているけれども、別に今回の報道は、出生数がこのシナリオの低位シナリオを下回った、という訳ではないらしい。
(私も専門家ではないので、報道資料をぱっとみただけで把握はできないのだ)
しかしいずれにしろ、内閣府でシミュレーションされている未来予想からは大幅にはずれてはいないようで、この数字にニュースバリューは本当にあるのか疑問だが、年始の報告に対しこういうコメントには、そりゃあなるか……と思う。

予想通りだからといってハッピーというわけでもない。
「地獄への特急列車、今順調に三途の川駅に着きました」って感じだものね。

https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/meeting/taikou_4th/k_1/pdf/s3.pdf
内閣府の資料。これを見る限り、90万人を割り込むのは、まあ既定路線ではあるように思われる。

hanjukudoctor.hatenablog.com
以前にこういうのを書いた。

婚外子が社会に認められるようになれば、もう少し出生率が増えるんじゃないか?
しかし現実は週刊文春を代表とするようなマスメディアは、社会の非寛容化をますます進めており、ただでさえ絶滅に瀕している日本の性行動にさらにトドメをさしているのではないか。

という話でした。
では、どうしたらいいか。
社会規範を変えることはなかなか難しいし、政策誘導もできない。

例えば「日本婚外子協会」という少子化担当大臣の監督下の外郭団体を作ってみたらどうだろう。
現在の日本では不倫、婚外子に対するバッシングが少なくないが、もう、政策として婚外子への差別はあかん、ということを公言しちゃうのである。
むしろ婚外子は国を救う宝なんだよ。と。

具体策としては、

などだ。
もちろん、婚外子に関連しうるマスコミ報道に対しては愚直に声明文を出す。
つまり『文春砲』が炸裂するたびに「いやいや、こういう恋愛が、少子高齢化に貢献する可能性もあるんですから、これでバッシングすること自体は婚外子協会としては反対しまーす!」といちいち反論のコメントを出すのだ。
スキャンダル報道があれば、当人は世の中すべてが自分の敵にでもなったように心細いと思うが、それを緩和できるくらいの効果はあるだろう。政府筋が応援するんだぜ。

文春砲がなぜ恐怖の的かといえば、あとでじわりと効いてくるのは、契約している企業CMが手を引いたりするからなのだが、婚外子協会ではこういったタレントのスキャンダルにもタレントに寄り添い、支援・対応してゆく。

それぞれの事案ごとにフォローアップし、例えば、企業のCM契約がどうなったかというのも数値化し、不倫騒動の前後でCM契約を引き上げる企業には、「婚外子協会」から抗議文を送りつける。
もう少し事例が集積すれば、文春砲が発せられた瞬間に、事務所と連携をとりあって、提携先企業へ釘をさすような文書を送ってもいいかもしれない。
なんなら、婚外子協会から、AC(公共広告機構)へ紹介して、逸失したCM出演料の代わりに補填することさえも検討しよう。
婚外子協会の会長は、人脈が広く、怒らせたらめんどくさそうな著名人を起用する。

もちろん、文春砲のすべてに対応するわけではない。
これは「婚外子協会」なのであるから、例えばLGBTの方の恋愛が暴露されたり、SMバーでご乱行みたいなやつは、出産に繋がらないわけなので、支援しない。40歳以上の女性のスキャンダルに対しても、支援はしない。
あくまで、少子高齢化に貢献できそうな性行動を支援する。

こんな協会作ったらええんちゃうの?

なんて僕は酒の席でよく冗談めいて、いうのだけれど。
それくらいやらないと、日本の婚外子蔑視の社会意識って変わらないんじゃないか。
というか、ここ数年さらに非寛容化している風潮を、せめてもとにもどせたら、それでいい。

* * *

ただ、もともと婚姻制度もフリーでオープン。なおかつ育児先進国でもある北欧のフィンランドでも近年立ち枯れるように出生率が激減している。
制度を洗練させたからといって少子化が改善されるわけでもないようだ。


その他のBlogの更新:

ジャズブログ:

セッションのバランシングとマネジメント: - 半熟ドクターのジャズブログ
セッションにおける意識と振る舞い方に関する一考察。ちょっと長くなりすぎました。

年賀状の意味と今後

f:id:hanjukudoctor:20200103110057j:plain:w300
2020年、仙酔島
:
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

hanjukudoctor.hatenablog.com

以前に書いたことがありますが、最近は正月らしさをあまり味わったことがない。
年末年始は、アルバイトの非常勤の先生で病院の日当直を回しているが、
バイトの先生に休みの間の入院のことをすべて責任をもって指示してもらうのは酷だと思っているので*1、1日1度は病院に来て回診や指示を出す。必要ならICもする。ま「つなぎ役」みたいなことを数年来やっている。

そういうわけで、お正月はどこにもいけない。
どこにもいけないが、家族で近場の観光地を回ったりはした。
空いた時間にはピアノを弾く。*2
ただ、Blogとか、書かなきゃいけない原稿とか、仕上げなければいけないプレゼンのパワーポイントなどはビタイチすすまなかった。

なんだ、しっかりネジを緩めているじゃないか。
まあまあの休日だったと思う。

* * *

正月といえば年賀状。
ここ最近はSNSなどをみていても「紙の年賀状はやめました」というお便りをぽつりぽつりみるようになった。

ちなみに私はといえば、ダメ人間なので、「年賀状やめました」以前に、始めたことさえない。
基本、返さない。
家庭を持つようになってから年賀状は家族全体の案件となったので、今では妻が自動的に返してはいるけれども、年賀状自体にあまり意味を見出したことはない。アクティブな友人関係はSNSで事足りるし。

ただ、それは私は今壮年期で、仕事もプライベートもまあまあ華やかで忙しくしていて、どちらかというと人間関係を把握しきれていないからゆえにそう感じるのであって、もし自分に「余生」なるものがあったりしたら、年賀状というものにはまた別の意味があるのではないかと思う。

そういう意味では、年賀状を出す習慣は「年金」のようなものだ。
筆まめな人は、年賀状でのやりとりを毎年続けているが、これは積立金のようなもの。
老後まで続けていれば、思いもかけない、心の交流になったり、ひょっとしたら文通だけではなく会いに行ったりするような関係になったりするのかもしれない。
僕なんかは年賀状なんて一切出さないから、積み立てた友人関係がない。
仕事や音楽の友人関係なんかは顔をださなくなったら終わりだ。
年金未納の高齢者と同じく、大きな欠落を抱えて孤独な老後を生きることになるだろう。

そう、年賀状は個人の人間関係=「社会資本」の年金の積み立てなのだ。

* * *

ところが、さすがに一世紀近く続いたこの年賀状のあり方も、ITが導入された社会の変化の中で運用が難しくなったように思える。
紙の手紙・葉書を出す習慣が、勤労世代以下では失われつつある。
出す方も受け取る方も、紙に書いて意思を伝えるという行動様式に慣れていないからだ。
ラブレターだって、今はLINEなどのSNSで出される。
今では、かろうじて、年末の「年賀状」という風習だけが、最後の砦だ。

そして、それも徐々に失われつつある。世代間の断絶はあるけど。
* * *

実は、年賀状という風習は、古代から綿々と続く風習ではない。
昔は近所に、年賀の挨拶回りをすることが習慣であった。会えない遠方の友人に、対面の挨拶の代替として年賀状を出していた。

ならば、「年賀状」だけではなく「年賀の挨拶」も含めて電子化したらどうか。
紙の年賀状をやめるなら、代替案を、できれば国内発のサービスでIT化してほしいと思う。

以下は僕の妄想。

まずFacebookのような、年賀状のポータルサイト。各人はアカウントを作る*3
自分のアカウントには、年賀のコンテンツをアップロードできる。
一次元であれば、いわゆる テキストによる年賀の挨拶。
二次元であれば、年賀はがきのような、イラストや写真をおりまぜた、今我々が年賀状にしているような「年賀状」。
三次元であれば、例えば、近況報告などを喋っている動画など。

で、年賀状をやりとりするような関係の人どうしは、FacebookTwitterのような相互フォローの関係を構築する。
要するに、年賀状を「出す」よりは、それぞれの人の元に「訪れる」というような格好になる。

もちろん、お互いに双方向のやりとりもできるようにしておきたい。
どれくらいの範囲までオープンにするかは個人が自由に決められる。
また他のSNSと同様にブロックなどの権利も担保する。

ま、要するに「年賀状」を口実にしたSNSを構築するということだ。

これのいいところは、膨大な年賀状のやりとりに費やされる物流への負荷が減らせることだ。
もちろんこれはいいことばかりではなくて、郵便にとっては売り上げの減少につながる。
ただ昔から年賀状の配達は一時的に膨れ上がる需要に対し、アルバイトを雇ってなんとか回しているのが現状だ。
若年人口の減少も手伝い、これらの臨時採用の年賀状配達員の調達は今後難しい。
多分、田舎でも都会でも、いずれ年賀状は配達できなくなる。*4

むしろカニバリの危険をおかしてまでも、この「年賀状SNS」は日本郵便が構築すべきだった。
というか、10年前にきちんとそれができていれば、日本人はFacebookでなく、このサービスを使っていただろう。

このSNSの強みは、各人のアカウントと住所が紐付けされた情報をSNSの胴元が持てることだ。
住所変更で郵便がどっか行ったりもしないし、このデータベースは、他社がもちえない宝の源泉になる。
なんなら年賀状に限らず、通常の郵便のやりとりも、そのインフラでやればいい。*5

…ということを10年前くらいからなんとなく思っていた。
しかしそういうサービスはあらわれず、人々は既存のSNSを利用して、まあそれに近いことをやっている。
このままでは残念ながら年賀状という習慣そのものは、IT化の波に乗り遅れ、おそらく衰退していくんじゃないのかなあ。

そうなると、今紙の年賀状をやりとりしている人たちの「社会資本の積み立て年金」だって、無価値になってしまう。
僕は「社会資本の積み立て年金」未納なので別に構わないが、なんだかそれは今まめに手紙のやり取りをしている人たちも、今年はやめようかどうしようか、迷っている人たちを、気の毒に思うのだ。

*1:この辺は考え方だが、当院の診療密度の肌感覚とか、病棟内のコンセンサスを知っている人が指示を出した方が結局うまくいくのだ

*2:普段は細切れにしかできない基礎的な練習をみっちりやったり、試していなかったことを取り入れたり。

*3:「Hunter x Hunter」における「ホームコード」のようなものが想像しやすいかもしれない。

*4:あるいは。臨時配達局員に学生ではなく高齢者のアルバイト、となるかもしれない。学生の時に年賀状配達のアルバイトをし、長じて仕事を引退し、歳をとって、老後にまた年賀状配達のアルバイトをする。これはこれでなんかディストピア感がある。

*5:例えばはがき63円のかわりに、メッセージのやりとりを5円とする。それでも利鞘はとれると思う。祝電・弔電のたぐいはこちらに取り込めると思う。というか電報なんてやめたらいいじゃんと思うけど。内容証明や書き留めなどは、今では結構な額がかかるが、コピーが残るので、このSNS上のやりとりが法的な証拠能力を持たせることは可能だと思う。

誰かのために生きること

f:id:hanjukudoctor:20191214084930j:plain:w300
2019年, 下関

よくでてくる説話がある。

地獄と天国のお箸の話、というと知っている人も多いかもしれない。

www.rengyouji.com

天国も地獄も長いお箸をもって食事をする決まりになっている。
地獄では、うまく食べられないから、争い、他の人の食事を奪ったりして食事ができない。
ところが、天国では、みながお互いに食事を食べさせあっているから、楽しく食事ができている。

ようするに天国も地獄も同じ。利他精神をもっているかどうか違いなんだ、という話。

利他精神はともかく、誰かのために生きる方が、自分一人のためだけに生きるよりもずっと力がでることは、自分の経験に照らしてみても確かだ。

家族、妻や子供のためだと思うと、仕事も頑張れる。
経営者というのも、経営者の高い報酬のために働くというのではつまらない。職員や患者さんのために働く、と思えてこそ、知力・体力をしぼりつくしたいい仕事ができるというものだ。

もちろん「みんなのため」というのを前面にだし、その実「やりがい搾取」のようなものはどうかと思うが「自分が生きる」ためだけに働くよりも、背負うべきものを背負った方が、自らの力のリミッターをはずすことができるような気がする。

要するに「誰かのために働く」ことは、 今風に言えば、自分に「レバレッジ」をかけているのと同じことだ。
*1

* * *

わたしは中小病院の*2内科もしつつ、いまだに基幹病院での肝臓内科外来も続させてもらっている。肝臓ガンの治療手技からは手を引いて久しいが、驚異的な粘りを見せ存命し僕の外来に通い続けている肝臓癌の患者さんも何人かいる。ネクサバール(Sorafenib)開始してLong SDでもう8年とかね。

係累がいない人って、正直同じ治療をしても、そんなにもたない印象がある。
自分独りのためにしんどい治療に耐えて頑張るというのは限界があるのだと思う。見られているからこそ頑張れることもある。

さらに「誰かのために生きている」人は、もっと力をふりしぼれる。
これは障害を抱えたパートナーやお子様をもった担癌患者さんを診させていただいた経験からだ。
皆、こちらが頭を垂れるような踏ん張りをみせて死線や苦痛を乗り越える。
乗り越えている。
「あいつを残して死ねん」ってやつ。
もちろん最後には人は亡くなる。
 だが総じて、他人のためなら、人は一線を超えた力を出せると思う。

もちろん、それが幸福かどうかは、別の話だがね。

* * *

人と人との繋がりっていうのは、20代30代40代に僕らが思っていた以上に、大事なものらしい。

「マイルドヤンキー」という用語にもあった、収入は低くても地方に定住し、地元との繋がりを大事にする生き方は、金額には計上できない社会資本を多くもっている。彼らは低収入ではあれど、それほど不幸ではない。

もちろん人間関係そのものは煩わしいものでもある。
人の悩みなんて、つきつめていうと金か人間関係の二つしかない。
でも、あるないのレベルで問えば、人間関係なくては人は幸福ではいられない。

ひょっとしたら「失われた30年、40年」の主犯は、少子高齢化そのものではなく、単身世帯化にあるのではないか?
とまでいうと、言い過ぎだろうか。

でも、バブル崩壊のあと「清貧の思想」というのが流行ったが、清貧でおしとおすのなら我々はもっと人間関係に注意をはらうべきであったと思う。
お醤油をご近所さんと貸し借りできるような関係でないと、貧しくても幸福な暮らしはできない。

孤独な金持ちは不幸だ。
だが、孤独な貧者は、不幸以前の問題なのである。

あなたは大丈夫?
もちろん、今人間関係には恵まれているかもしれない。
でもさあ、20代の頃は一緒にご飯行く相手には事欠かなかった。30代でもそうだ。
でも私のことでいえば、40代、ふと独りでご飯となった時に、食事に誘うことに気遣いなどから躊躇してしまう自分がいる。

宇宙の始まりから終焉のように、宇宙は膨張し拡散する。
銀河系同士はどんどん遠ざかる。
人間関係もそんな風に、年を減るとどんどん距離が広がるように思う。
40代でそうなのだからその延長線上の60代、70代にはどうかというと、ちょっと恐ろしい気がする。

* * *

反面、誰かのために生かされるということもある。

天涯孤独の身であれば、もし意思決定権が失われて、自分でご飯も食べられなくなってしまっても、ACPなどで来し方行く末を決めていれば、まあ、自分の望む決着をつけることができる。

だけど、たとえどんな高齢であっても、肉親が亡くなるということが受け入れられない「熱心な親族」の感情論にひっぱられ、適切な幕引きのチャンスを逃してしまい、胃瘻なんか造設されちゃう、なんてこともある。
こうなると、「地獄への道は善意で敷き詰められている……」とでもいいたくもなる。

ま、そういうことも含めてのACP改め「人生会議」ということだな。

その他のBlogの更新:

ジャズブログ:

*1:もちろんこれはオールドスタイルの働き方でして、能力のある東京の若者が、自己実現のために働くようなパターンは、またそれはそれで別のやり方のレバレッジの掛け方なのだと思う

*2:80床足らずの小さい病院(10対1急性期と地ケア)ではあるが、病床稼働率は95%、急性期病棟の平均在院日数は8日。みんな頑張っていますよ。

後期高齢者の2割負担は、診療環境をどう変えるか。

f:id:hanjukudoctor:20191117073047j:plain:w300
まだ、もう少し先の話だが、これまた剣呑なニュースがやってきたぞ。
www.tokyo-np.co.jp

現在1割の後期高齢者の自己負担比率を、2割に上げてゆくらしい。

ちょっと前に財務省が「医療費を下げますよ!」みたいに名言していたニュースがあった。
(あ、これは我々が支払う自己負担を下げる、医療費そのものを切り下げてゆくということです)
www.m3.com
今(9月〜11月)は2020年度の診療報酬改定の詰めの段階。このタイミングで財務省のこのアナウンスメントには、いつも大きな意味が込められている。

ちょっと前に、僕のブログにしては珍しくバズった記事があった。
hanjukudoctor.hatenablog.com
ブックマークでは随分批判もいただりもしたが、一言でまとめると、

消費税増税は「景気がどうあろうが、とるものとってゆきますよ」という財務省の意思を感じるよなー

という話である。

これに対して、

  • 景気を冷え込ますようなことをしてどないすんねん、
  • 亡国の財務省官僚乙

みたいな感想も多く見られた。
 まあ、僕もそこはそうも思う。

でも、これから先に、とめどなく上がってゆく医療費・年金・介護保険費用のことを考えたら、多分なりふり構ってらんないのかなあ、なんて思う。
制度をクラッシュさせずに継続させるには、どうしたらいいか。ということを官僚は真剣に考えている。
どないしたって、すべての人が満足できるような政策はとれない。
痛みを分かち合いながら、妥協点をさぐるしかない。

病院の3割が赤字である、というのが発表されても、さらに医療費は下げる覚悟。
これは、総量が増えるので一人当たりの単価をどうしたって下げないと回らないから仕方がないのだ。
2030年くらいまで、医療機関は「生かさず殺さず」のていで取り扱うということだと思う*1

* * *

1割負担が2割負担に増える。
単純に「1割増えるのか」と思う阿呆はいないと思うけど、
もし医療費が同じであれば、窓口で払うお金は、倍に増える。
消費税の2%増なんて目じゃない。*2
倍だぜ、倍。

もちろん、ここにはからくりがある。
例えば生活保護世帯は自己負担がそもそもゼロで、関係がない。癌や重篤な内臓疾患があって入院、通院をしている人は、高額療養費制度で、倍にはならない*3

では、どうなるかというと。
かかりつけ医のところにゆるゆるとかかっている、生活習慣病の人、糖尿病なども1剤や2剤でコントロールできているような人。
比較的軽症で、予防医療的な内服治療を受けているような「元気中高年」の負担は純粋に増える。
年金の中で医療費のやりくりをしている人にとっては、相当な打撃になる。
Opじゃない整形とか、ペインクリニック、耳鼻科・皮膚科もおそらく打撃だ。

地域の診療所、いわゆる開業医に関して言えば、顧客の30-60%程度が、こういう「ライト・ユーザー」がターゲットだ。
こういう人たちがどういう受診行動にでるかというと、一部の生活に余裕がある層を除いて、自己負担分を維持する方向に動く。
つまり医療費の総量を切り下げてゆく。
なんとなく採血していたのが、採血は半年に一度でいいです、とか検査をしぶったり。
月一回の受診を守らせる医療機関から、2ヶ月・3ヶ月ごとの受診を許容する医療機関に流れる、ということもあるだろう。

開業医は、一人の患者さんの支払いを最大化しようと無意識に考えて診療計画を立てることが多い。
そこに患者サイドから抑制がかかる。

この辺り、ネゴシエーションを患者さんときちんとできるようにならないと、厳しい。
何も言わず検査をドチャクソ盛ってくるような先生は、敬遠される可能性はある。

その意味で医師〜患者の対話がきちんとできる若い先生が有利になるかもしれないが、損益分岐点がかなり上がるので、新規開業はかなり厳しくなりそうな気がする。今の開業医の勢力の中で「みんなで冷や飯食え」というのが基本方針なので、新規参入を許すかどうか…かなりタフな戦いになりそうな気がする。ま、そのあたりを見越して、一昨年くらいから、当地域でも新規開業が妙に増えていた。
多分ラストチャンス、という感じなんだろうね。

* * *
もっとも、ポリファーマシーについては解決に向かうのかもしれない。

今までは、ガイドラインにしたがって、高血圧・脂質・尿酸などについて治療目標に従い投薬していた。
高齢者は複数の疾患を抱えることも多く、気がつくと5種類、10種類と内服薬が増える、なんてことはざらにあった。
この状況(多剤服用=ポリファーマシー)を減薬しましょうね、という潮流は数年前から始まっている。
 が、色々あって、なかなか進んでいない現状がある。

しかし、自己負担が増えれば、より大胆な減薬が、患者さん側から要求される可能性が高くなると思う。
(それを容認しない開業医の元からは、おそらく患者さんは立ち去ってゆくだろう)

75歳以上の高齢者に関しては、降圧などによって得られる恩恵、予後延長効果というのは、明確なエビデンスが少ない。
(ナショナルスタディなどはあるが、大規模な介入研究は、交絡因子が多すぎて結構難しいのだ)
だから「75歳以上では、そもそもガイドラインに沿った治療目標に根拠はない」と強弁された時に、反論ができない。
だから、多分、後期高齢者に出す内服薬を減らしてゆく、という方向のもとで、多分この「75歳以上には予防の効果のエビデンスがない」という金科玉条は持ち出されるんだろうな、と思う。

実は「『予後延長効果があった』というエビデンスがない」というだけで「『予後延長効果がない』というエビデンスがある」ではない。多分その辺は意図的にミスリードして、高齢者に脂質や血圧の薬は効かない!なんていう声が大大的に叫ばれてしまうのかしら。


* * *
「部屋を片付けて、素敵な生活を営むために断捨離しちゃいましょう♪」とか言っていた人が、生活が苦しくて、
「食費が足りないので、このタンスをセカンドストリートに売っちゃいます……」になるようなもので、


今は「ポリファーマシーによる、副作用や服薬コンプライアンスも悪化を食い止めるために減薬しましょう」というのが、
自己負担2倍時代には「もう薬代がかかってかなわんから減薬してくれ」というあけすけな理由になるんだろうね。

なんだか、現実世界が、藤子不二雄Fの『定年退食』じみてきた!
magazine.manba.co.jp

個人的には、この元気世代の自己負担はともかく、お金がかかるわりに意義が少ない医療にメスは入らないのか、と思う。
例えば、要介護4・5で、自己決定権の失われた人たちに対する、濃厚な医療ね。

経営者としてはここにメスが入るのは正直痛いところではあるのだが、地域全体・医療界全体を考えると、見直しが必要ではないかと思う。

追記(12/6)

長々と書いては来ましたが、今回のこの提案は早々につぶされたようですね。
まあ、日本医師会のコアである開業医の既得権益を狙う政策が、やすやすと実施されるはずもないとは思いました。

ただ、この今の来年度の診療報酬改定の時期に2022年の自己負担率の話をぶつけてきたのは、そもそも囮というか、「避雷針」なんではないか、という気もします。

この提案に注意を引きつけ、みんなの意を汲んでひっこめるという姿勢をみせておいて、
もうちょっと地味な提案をいくつか通させる。

 そんな目論見があるのかもしれません。

*1:もうちょっというと、2030年くらいになって医療法人の半分くらいがもうやってけませーん、となっても、人口が減るからいいんじゃないか、と思っているフシはあるね。また、その頃医療そのものが激変している可能性もあるし

*2:ま、あれも25%増税なわけだけれど

*3:もちろん、何らかの形で負担は増える覚悟は必要で、ギリギリの生活にとっては、結構重たい問題だ

「ACP=人生会議」なんて「死」の婉曲語そのものだっつーの。

吉本新喜劇の座長、小藪が参加したACPこと人生会議のポスターが猛批判にさらされているそうな。

www.yomiuri.co.jp

「死」を連想させるから…ということだそうだ。

え?
何を言っているの?

* * *

ACP Advance Care Planningという言葉が「人生会議」というふわっとした呼称に決まったのは一年ほど前。
まあ外来語よりはわかりやすいので、より一層の普及を、という方向性については別に反対はない。

「人生会議」って、一般語である「家族会議」に重ね合わせようという意図があるのかなあ。
家族会議というのは、構成員の就職・退職などの進路変更、結婚・離婚などの家族の諸問題に対して家庭で話し合うこと*1なのだが、この人生会議=ACPって、身も蓋もなくいっちゃうと「来るべき死」に対する対応そのものである。

ぶっちゃけ「ACP=人生会議」を「死」の言い換え語と考えて構わないくらいだ。

要するに、「うんこ」のことをお通じといったり、お手洗いと言ったり、おちんちんのことを「ムスコ」とか「アレ」とかいったり、セックスのことを「アレ」とか言ったりするのと同じ。
「アレ」って便利だなオイ!

「死」と直截的にいうのがはばかられるので、「ACP」と言い換えているだけだ。
それをさらにオブラートに包んだのが「人生会議」という言葉、と言っていいだろう。

もちろん「死」と「ACP」は根本的に概念が違う言葉だ。
けど、最近は学会のシンポジウムなどで「死」に関する議論をしたいときに、ACPという言葉を使うことが多い。
その「ACP」意味が通らないなあ、という文章で、「ACP」を「死」に置換するとすっきり理解できる、というパターン、実によく目にするんだよね。

その意味では医療関係者にとっては「死」と「ACP」という言葉はほぼ等価であったりする。Fuckの代わりの4 letter wordみたいなもんだ。
*2

だから、批判の気持ちもわかるけど、ああいうポスターが出て来ざるを得ないのは、
結局いま、死について考えるのを忌避している人たちへの対応で、まさに色々問題が起こっているからだ。

そういう人たちに対し、現状これではいかんですよ、と提案するために意図して作られたポスターなのに、それが批判される。そういう態度だから、こういう啓発をしなければいけないのに。全くこの世は救いがたい。

* * *

人は必ず最後には死ぬ。
みんな理屈では知っている。
だが、こんな当たり前のことも、体感しないと、理解はできない。

自分の家族や友人が死ぬというときに、この事実を受けいられられるか、というと、はなはだ疑問だ。


現代の日本で、都市生活を営む限り、死を目にすることは少ない。
身内・知人の死の経験も圧倒的にすくなくなった。

 私は2000年から2002年まで、島根県平田市というところに住み、研修医をしていた。*3。2000年の当時でさえ高齢化率が25%という、高齢先進地域だった。

そんな田舎では死はかなり身近だ。
町内は概ね知り合い同士であり、ご高齢の方は順番に死んでゆく。
各家庭に有線放送があり、「町内の誰々さんが死んだ」みたいなお悔やみ放送が毎日流れる。*4
亡くなったら、みんなお家に行って挨拶をする。暇な知り合いは葬式ももちろん出席する。

動物だって死ぬ。
国道にはしばしば跳ね飛ばされたイノシシや鹿が死骸をさらしている。
もちろん犬や猫も。
農地も多いのだから草も一年経ったら枯れる。
枯れ草は燃やされるし、肥やしにしたりもする。
我々も、草木も動物も生命であり、生きとし生けるものは循環している。
 田舎にいると、そのことを日常に体感しやすい。

ところが都市生活はそうではない。
まず、多様性が少ない。
大規模で効率的な交通輸送システムに適合した人でなければ都市生活を続けることは許されない。
幼児も老人も満員電車には向いていない。
効率が優先される世界では、死にちかづいた人、高齢者や障害者は表舞台からそっと退場し、目に触れなくなる。

そういう世界で生活していると、死どころか「老い」に触れる機会さえ少ない。
おまけに最近は「家族葬」が増えている。
 葬式に出席する機会は確実にこれから減るってことで、自分の近親者が死ぬときまで、葬式さえも出たことがない人が増えるということだ。ますます、勤労世代の都市生活は死から遠ざけられる。

そういう生活においては「人は死ぬ」という当然の事実を体感しにくい。
身内が亡くなりそうだ、といって、駆けつけてきて、医師の説明を聞いても、「そもそも人は死ぬ」という大前提の事実を受け止められない。だから超高齢者や、認知症も末期になって、本人も生きているのか死んでいるのかわからなくなっている様な方に対して「機会損失は許されない」みたいな考えで、濃厚な医療を望んだりする。

20年ばかり医者をやっているが、都会からやってきて、ビジネスにおける商取引のマインドそのままに、高度な医療を要求する子供の、現実からかけ離れた要望、みたいなパターンには数限りなく出くわした。*5

* * *

もっとも勤労世代だけではなく、高齢者である当人も似たり寄ったりではある。

hanjukudoctor.hatenablog.com
(これは10年前に書いた記事ですが、団塊の世代は、日本が右肩上がりの時代に人格形成されたために、滅び・死というものの受け入れが悪く、努力で回避できるんじゃないか、と思っているフシがある)

基本的には「死」に関することを先送りにすることはかなり多い。
私の外来でも人生会議という名称が決まる前から、ACPのパンフレットと記入用紙を結構配っている。
のだが、3割くらいは「それについて考えるのが怖いから書かない」といって持ってこない。

喫煙者で、禁煙をすすめても「いや先生オレはピンピンコロリで死ぬからいいんだよ」とかうそぶく御仁には、ちょっと前からそのタイミングでACPの用紙を渡すようにしている。そういうシチュエーションでさえ、ちゃんと書いてこないよ、みんな。
 基本的には、周りがぽろぽろ死にだす年齢になっても、自分のことをきちんと考えよう…とはならない。
 皆、自分の見たい現実しか見ようとはしないのだ。


 そういう毎日を過ごしているので、今回のニュースは「さもありなん」。
 一石を投じる意味はあればいいと思うけど、きれいごとで、隠蔽して終わりだったら意味がないなあと思う。

 医療現場にいる我々は、事前に意志決定ができていない人の臨死に際しての方針決定にうんざりしている。

hanjukudoctor.hatenablog.com
ただ、以前にも書いたが「ACP=人生会議」が普及して実を結び、我々現場の人間の役に立つには多分5年10年以上かかるだろう。

人生会議を普及させて、「死」のあり方についてみなが議論することはいいことだとは思うが、多少ネーミングの時点で死を意識させた方が、余計な幻想を抱かずに済むのかもしれない。

その意味では『人生会議』ではなくて『終活会議』の方がよかったかもしれないな。

*1:これも家長制度がなくなり、家族主義から個人主義へ変遷し、個人に関することは家族で議論してもしょうがないと、なってくるようにも思う。

*2:実は厚生労働省には「死」の婉曲語がもう一つある。曰く、「人生の最終段階」。これはあんまり人気がないね。

*3:ちなみに今はもう平田市平成の大合併で、もうない。出雲市編入されてしまった

*4:私の官舎にも有線放送があり、誰々さんが亡くなりました…というのが流れ、自分が主治医だったりすると、なんかスイマセン…という気になった

*5:もっともこれはアメリカも同じだそうで、「カリフォルニアの親戚」みたいな言葉もあるそうだ。