半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

年賀状の意味と今後

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2020年、仙酔島
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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

hanjukudoctor.hatenablog.com

以前に書いたことがありますが、最近は正月らしさをあまり味わったことがない。
年末年始は、アルバイトの非常勤の先生で病院の日当直を回しているが、
バイトの先生に休みの間の入院のことをすべて責任をもって指示してもらうのは酷だと思っているので*1、1日1度は病院に来て回診や指示を出す。必要ならICもする。ま「つなぎ役」みたいなことを数年来やっている。

そういうわけで、お正月はどこにもいけない。
どこにもいけないが、家族で近場の観光地を回ったりはした。
空いた時間にはピアノを弾く。*2
ただ、Blogとか、書かなきゃいけない原稿とか、仕上げなければいけないプレゼンのパワーポイントなどはビタイチすすまなかった。

なんだ、しっかりネジを緩めているじゃないか。
まあまあの休日だったと思う。

* * *

正月といえば年賀状。
ここ最近はSNSなどをみていても「紙の年賀状はやめました」というお便りをぽつりぽつりみるようになった。

ちなみに私はといえば、ダメ人間なので、「年賀状やめました」以前に、始めたことさえない。
基本、返さない。
家庭を持つようになってから年賀状は家族全体の案件となったので、今では妻が自動的に返してはいるけれども、年賀状自体にあまり意味を見出したことはない。アクティブな友人関係はSNSで事足りるし。

ただ、それは私は今壮年期で、仕事もプライベートもまあまあ華やかで忙しくしていて、どちらかというと人間関係を把握しきれていないからゆえにそう感じるのであって、もし自分に「余生」なるものがあったりしたら、年賀状というものにはまた別の意味があるのではないかと思う。

そういう意味では、年賀状を出す習慣は「年金」のようなものだ。
筆まめな人は、年賀状でのやりとりを毎年続けているが、これは積立金のようなもの。
老後まで続けていれば、思いもかけない、心の交流になったり、ひょっとしたら文通だけではなく会いに行ったりするような関係になったりするのかもしれない。
僕なんかは年賀状なんて一切出さないから、積み立てた友人関係がない。
仕事や音楽の友人関係なんかは顔をださなくなったら終わりだ。
年金未納の高齢者と同じく、大きな欠落を抱えて孤独な老後を生きることになるだろう。

そう、年賀状は個人の人間関係=「社会資本」の年金の積み立てなのだ。

* * *

ところが、さすがに一世紀近く続いたこの年賀状のあり方も、ITが導入された社会の変化の中で運用が難しくなったように思える。
紙の手紙・葉書を出す習慣が、勤労世代以下では失われつつある。
出す方も受け取る方も、紙に書いて意思を伝えるという行動様式に慣れていないからだ。
ラブレターだって、今はLINEなどのSNSで出される。
今では、かろうじて、年末の「年賀状」という風習だけが、最後の砦だ。

そして、それも徐々に失われつつある。世代間の断絶はあるけど。
* * *

実は、年賀状という風習は、古代から綿々と続く風習ではない。
昔は近所に、年賀の挨拶回りをすることが習慣であった。会えない遠方の友人に、対面の挨拶の代替として年賀状を出していた。

ならば、「年賀状」だけではなく「年賀の挨拶」も含めて電子化したらどうか。
紙の年賀状をやめるなら、代替案を、できれば国内発のサービスでIT化してほしいと思う。

以下は僕の妄想。

まずFacebookのような、年賀状のポータルサイト。各人はアカウントを作る*3
自分のアカウントには、年賀のコンテンツをアップロードできる。
一次元であれば、いわゆる テキストによる年賀の挨拶。
二次元であれば、年賀はがきのような、イラストや写真をおりまぜた、今我々が年賀状にしているような「年賀状」。
三次元であれば、例えば、近況報告などを喋っている動画など。

で、年賀状をやりとりするような関係の人どうしは、FacebookTwitterのような相互フォローの関係を構築する。
要するに、年賀状を「出す」よりは、それぞれの人の元に「訪れる」というような格好になる。

もちろん、お互いに双方向のやりとりもできるようにしておきたい。
どれくらいの範囲までオープンにするかは個人が自由に決められる。
また他のSNSと同様にブロックなどの権利も担保する。

ま、要するに「年賀状」を口実にしたSNSを構築するということだ。

これのいいところは、膨大な年賀状のやりとりに費やされる物流への負荷が減らせることだ。
もちろんこれはいいことばかりではなくて、郵便にとっては売り上げの減少につながる。
ただ昔から年賀状の配達は一時的に膨れ上がる需要に対し、アルバイトを雇ってなんとか回しているのが現状だ。
若年人口の減少も手伝い、これらの臨時採用の年賀状配達員の調達は今後難しい。
多分、田舎でも都会でも、いずれ年賀状は配達できなくなる。*4

むしろカニバリの危険をおかしてまでも、この「年賀状SNS」は日本郵便が構築すべきだった。
というか、10年前にきちんとそれができていれば、日本人はFacebookでなく、このサービスを使っていただろう。

このSNSの強みは、各人のアカウントと住所が紐付けされた情報をSNSの胴元が持てることだ。
住所変更で郵便がどっか行ったりもしないし、このデータベースは、他社がもちえない宝の源泉になる。
なんなら年賀状に限らず、通常の郵便のやりとりも、そのインフラでやればいい。*5

…ということを10年前くらいからなんとなく思っていた。
しかしそういうサービスはあらわれず、人々は既存のSNSを利用して、まあそれに近いことをやっている。
このままでは残念ながら年賀状という習慣そのものは、IT化の波に乗り遅れ、おそらく衰退していくんじゃないのかなあ。

そうなると、今紙の年賀状をやりとりしている人たちの「社会資本の積み立て年金」だって、無価値になってしまう。
僕は「社会資本の積み立て年金」未納なので別に構わないが、なんだかそれは今まめに手紙のやり取りをしている人たちも、今年はやめようかどうしようか、迷っている人たちを、気の毒に思うのだ。

*1:この辺は考え方だが、当院の診療密度の肌感覚とか、病棟内のコンセンサスを知っている人が指示を出した方が結局うまくいくのだ

*2:普段は細切れにしかできない基礎的な練習をみっちりやったり、試していなかったことを取り入れたり。

*3:「Hunter x Hunter」における「ホームコード」のようなものが想像しやすいかもしれない。

*4:あるいは。臨時配達局員に学生ではなく高齢者のアルバイト、となるかもしれない。学生の時に年賀状配達のアルバイトをし、長じて仕事を引退し、歳をとって、老後にまた年賀状配達のアルバイトをする。これはこれでなんかディストピア感がある。

*5:例えばはがき63円のかわりに、メッセージのやりとりを5円とする。それでも利鞘はとれると思う。祝電・弔電のたぐいはこちらに取り込めると思う。というか電報なんてやめたらいいじゃんと思うけど。内容証明や書き留めなどは、今では結構な額がかかるが、コピーが残るので、このSNS上のやりとりが法的な証拠能力を持たせることは可能だと思う。