半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

医療崩壊の波頭に立って~滅びの世代

 市中病院に赴任してしばらく経ったということを前回書きました。

 現在勤めている中規模市中病院には消化器の内科が二人しかいません。おまけに夜間の救急も結構受け付けています。ものすごい腰の軽い病院です。もう「おっぴろげ」。

 するとどうなるか。

 当然夜間の緊急内視鏡などのお呼びがかかるわけですな。我々消化器内科に。

 基本的に夜間の緊急手技は不測の事態が起こる可能性があるので、人数は多い方がいい。ので、そうした緊急例があると二人とも動員されることになっています*1

 これ、結構しんどいんですよ。

 平均してみると夜間または休日に月10回前後コールがあります。これは消化器の医者として、とりわけ多い数ではないのですが、上述した事情により、医師の待機は365日24時間ということになります。これをほぼサポートするのは、なかなか厳しいことです。おまけに通常の当直もある*2

 僕は前回書いたように病院から車で30分くらいのところに住んでいますから、そうなると、これがもう本当にお酒がのめない。

 僕はここに来る以前からお酒をまったく飲まない生活になっていたので平気っちゃあ平気ですが、時にはほんの少しのアルコールを入れたい夜だってある。

 私の上司などはもともと飲む人であったにもかかわらず、こうした状況なので飲まなく(そして今では飲めなく)なったらしい。このシステムが成り立っているのは、我々が酒を飲まないということが前提となっているわけで、システムとしては非常に脆弱といわざるを得ない。というか、こんなのシステム以前の問題ではあります。お酒に限らず、土日に自由に出かけたりすることもできませんし。

 少なくとも、我々はこうして人間としての快楽の少なからぬ部分を犠牲にして仕事をしています。ちょっと想像してみてください。お酒を飲む人は、外的要因でまったくお酒を飲まないと禁止されることを。そして、休日にお出かけするのが好きな人は、そういうことを禁止されて働いている人がいるということを。

 そうやって、田舎の病院は、なんとかまわっています。

* *

 おそらく、おそらく。

 この病院はおそらく疲弊していますし、近い将来おそらく戦線崩壊するでしょう。

 その根本の原因は、マクロ的には医療費の絶対的な抑制政策です。

 しかし、実際にその医療崩壊の波頭に立って思うことは、たとえそういったマクロ的な必然性をもって医療が崩壊するとしても、ミクロ的には例えば病院内のさまざまなごたごたとか内紛によって崩壊したかのように見えることです。

 史学と経済史学の違いとでもいいましょうか。ジュリアス・シーザーは、ジュリアス・シーザー個人の人格だけであのような偉業を成し遂げたわけではなくて、当時のローマのおかれた状況が、ジュリアス・シーザー的行動を生んだわけです。シーザーが偉大だったのは、人格が偉大だっただけではなく、当時の現状に対し、最適解を打ち出すことができたから。もう少し近しいことを言えば、橋本龍太郎一人のせいで不況が長引いたわけではないということ。

 例えばこの病院にも一部の働かない医師、融通の利かない事務、一部の働かない看護師がいて、病院としてのパフォーマンスを下げており、それによって我々のモチベーションも逓減しています。今後仮に病院が崩壊するとすれば、おそらくそういうことも原因の一つとして後世振り返られるのではないかと思いますが、それはそれとして、おそらく病院の崩壊は医療費抑制政策と地方切捨てのためだろうと思います。だって、いままでだって、そういう不愉快が蔓延しながらも(どんな職種でどんな職場でも、システムがまったく完璧なところなどはないわけで)それでも病院は回っていたわけですから。

 仕事が回らなくなり、業績が悪化すると、その「原因探し」が行われるわけですが、そういう場合にはそういう院内レベルでの不愉快な事象が原因に帰せられるでしょう*3

 でも、そういう事象が、病院が好調の時にだって改善されないのに、業績が悪化した時に改善されるはずがないんです。たら、ればの世界で振り返っても、崩壊は規定路線なのかなあと思ったりします。

 もし今の病院が崩壊しても、それは各人の努力が足りなかったから、ではないということは、私は今の時点で申し上げておきたいと思う。

 もしミッドウェー海戦で勝っていたら?いや、やっぱり経済的パリティによって、日本は負けていたでしょう。

 広島カープが勝てないのも、ブラウン監督のせいではありません。

* *

 ともかくも、この病院は常に現在の医療レベルから縮小・後退の危機にさらされています。

 原因は医師の純減です。

 内科医はおそらく3年前から比べると3割~4割方減少しており来年度の増援の予定もない。

 一歩引いた位置で、冷静に考えてみると、状況は絶望的です。

 では、なぜ我々はこの病院で働きつづけているのでしょうか。

* *

 ドライな見方をしますと、一つには我々医師(もしくは看護師)は資格職であるからです。会社の倒産とは違って、崩壊した病院に最後まで残ったからといって、再就職が困難になるわけではない。崩壊を見届けたあとで、おもむろに別の場所に移って働けばいいだけのこと。

 ただ、それだけではなくて、そもそも医療というもののメンタリティも関係しているような気もするのです。

 医療とは、そもそも「失うもの、損なわれたもの」を相手にする職業です。

 医療は、今日よりもよい明日をめざす、といった類のものではありません。

 昨日よりも悪くなった今日をなんとか昨日の状態に近づける、というのが医療です。

 人の死は個人レベルでの崩壊であり、病気というのはそういった長い滅びのプロセスの一つです。

 形成外科や産科、小児科のような領域を除けば、我々医師は常に個人レベルでの「滅び」と相対しています。そういう患者に接し、時に励まし、時に喜び悲しみを共有することは我々の仕事の一部となっています。

 その意味で、医師はきわめて「滅び」に対し受動的たらざるを得ません。逃げずに、受けて、その上で前向きな方策を考える*4

 患者の予後が極めて厳しいことが予想される場合においても、逃げずに、冷静に、そして前向きに可能な治療の選択枝を検討するのが医療という仕事です。

 そういう思考プロセスに慣れた人間は、やはり自分の職場の危機や崩壊というものに対しても、同じアプローチをするのではないかと思うのです。

 あと一ヶ月生きられるかどうかという患者に対し医療を施し、励ます人間が、「半年後にこの病院がやばい」からといって逃げ出すことができるでしょうか。

 ネット上では医者の「ドロッポ」=Dropoutは顕在化していますが、それでもまだ自分の職場に踏みとどまっている医師が多数派ではあります。

 まがりなりにも高学歴とされる医師が、冷静に考えると愚かしいとしか思えない今のような行動をとっているのは、多分、そういうことなんですよ*5

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 ところで、僕は1970年代生まれの、いわゆる第二次ベビーブーマーなわけですが、実は、我々の世代は、こうした医療崩壊の現場に不思議と違和感を感じません。

 なぜなら、我々の世代には「滅び」というスティグマが深くこびりついているから。

* *

 我々は思春期の時期にバブル景気を横目で見ながらその恩恵にあずかることなく、モラトリアムの期間をバブル崩壊後の沈滞の中で過ごした世代です。バブル景気の反動である就職氷河期にもろにひっかぶった世代であり、いわゆる企業で「空洞」とされている世代です(その空洞は、団塊の世代を保護することにより作り出された)。それより下の、よりのびやかな個人主義のジェネレーションにも属せず、下の世代からも突き上げられ、上の世代の既得権からも外れています。自分達の頃にはそのシステムが崩壊しているであろう現在の年金システムを下支えすることを暗に求められている世代でもあります。

 重要なのは、我々の人格形成期に「右肩上がりの日本経済」というドグマが揺らいだことです。日本が政治的にも経済的にも不安定な迷走を始めたのは我々が社会に参画しようという前後で、それ以降我々はどちらかというと右肩下がりで、不安定な社会に生き、そしてそのことを受け入れて生きています。我々は社会人になってから、一貫して下り坂を降りて、そしてこれからも降り続けるのでしょう。

 はっきりいうと、負け犬根性に慣れているんです。

 医療業界もそうで、基幹病院で最も厳しくつらい労働に従事しているのは、やはりこの世代です。下の世代はスーパーローテートという制度に保護され(実際にはそんなによくはないだろうが、我々には実に羨ましくうつる)、最下層の労働を30代になっても続けている。

 かつてあれほど強固であった日本の社会の繁栄は今後色あせ、それこそ老化のごとく、緩やかにシュリンクしていくのでしょうが、まるで腐海のほとりに生きる者の如く、我々は滅びを自らの生活の一部として受け入れています。そう、宮崎駿ナウシカ』の世界は、我々の世代にとっては単にメタフォリカルな意味合い以上に、他人事ではなく、リアリティがあるフィクションでした。

 おそらく我々は、これから起こるさまざまな日本の社会の衰退を予感して、そういう事態でもショックを受けないように、前もって無意識下に我々の感情を鈍麻させているのだと思う。これが我々の世代の暗黙知です。

 おそらく僕にもそういった麻酔が効いているのでしょう。近い将来起こりうる医療崩壊津波の波音が迫っても、それはそうとして、変わりなく仕事ができているのは、おそらく、そういうことです。

 もし明日世界が滅ぶとしても、私はりんごの木を植えるでしょう。

 今やっていることと同じように。

* *

 対照的なのが、いわゆる『団塊の世代』です。

 上では、社会的なレベルでの「滅び」について触れましたが、団塊の世代である彼らは一貫して右肩上がりの成長を続ける社会に生きてきました。つまり「三丁目の夕日」世代である彼らは、滅びることになれていない。

 病気は、個人レベルでの「滅び」です。ゆえに彼らの世代は病気に対する受け入れが総じてよくありません。まず、基本的に人間は滅びるものであるという基本的事実さえ実感として受け入れられない方がおられます。

 頑張ればなんとかなった社会で生きてきた彼らには、頑張ってもなんとかならないものがあるということは理解不能なのかもしれません。治らなかったら「医者が頑張らなかったせいだ」という風に考えるのは、我々にしたら理解不能なのですが、それは彼らが育った環境を斟酌する必要があります。

 いわゆる戦前の世代はそうではありません。若いうちに滅びの刻印を強く焼き付けられた彼らは、人が死ぬということも理解していますし、病気の受け入れにもある種の恬淡さがあります。そして、戦火を生き抜いた彼らは肉体的にも頑強であり、その下の世代よりも、精神的には病気を受容するにも関わらず、肉体的には長持ちするのです。

 悪性疾患を前にして団塊の世代が時にみせる「脂っぽさ」と、実際の病苦に対する脆弱さは、しばしば僕らを辟易させます。でも、きっとそれより下の世代の僕らはもっとひどいのでしょうが。

 しかし、おそらく、今後起こる日本の衰退、それのサブカテゴリーとしての医療崩壊の中で、空気読めない行動をとり、結果的にさらに崩壊を早めることに加担するのが、この世代の人たちではないかと、僕は最近危惧しているのです。

*1:あと、内視鏡部門の看護師さんが一人ついてくれる。これはありがたい。大きい、そして看護師が働かない病院では、全部医師が(終わった内視鏡の洗浄まで)しなければいけないから。

*2:内科当直が月3-4回前後ある。これもあまり寝れない

*3:ま、実際、相当不愉快なことはあります。これはまた書きましょう

*4:まるで、プロレスラーのようですな。

*5:但し、例えば医療訴訟などで医師を続けられないくらいに危機的な状況では、やはり逃げざるを得ないでしょう。