コロナ・コロナ、コロナ…
今更ですが、あけましておめでとうございます。
11月12月1月。なんも書いてなかった。やー怒涛の3ヶ月でした。*1
音楽活動はそれなりにしていましたが、犠牲になったのがBlogとかNoteで書いてたところ。
文章を書く脳の余裕が完全に失われていました。
病棟もクラスターにおそわれたり、11月には在籍医師の半数がコロナで病欠*2になったり、あと年末年始には家族も熱がでたり。
私は明確にコロナには罹っていないのですが、まあ足跡をたどってみると、どっかで不顕性感染になっていてもおかしくないやな。とは思っています。
しらんけど。
5類相当へ引き下げ。
第八波も落ち着いてきたところのタイミングで、5類相当への引き下げがようやっと形になった。
5類引き下げはまあ、妥当だろ、とは思っていました。
当初四月から…みたいに言っていたのに、蓋をあけると、GWおわり、サミットの始まる直前の五月八日から、だと。
せこ!ずる!しょうもな!
こういうところ、なんか「この政権についていこう」っていう気にさせられないんだよな……とは思う。
政府はきちんと言わないけど、5類相当になるというのは、要するに
「2類→非常に重大な感染症。きちんと囲い込んで感染を撲滅すべし」
ではなくなったからだ。
それはしかしコロナが、重大な感染症ではなくなったからではなく*3、単に囲い込みと封じ込めが現実的に不可能であるという判断を下したからにすぎない。
要するに「この仕事が終わった」ではなく「この仕事は終わってないけど、意味がなくなったから終わる」ということ。
そのへんのニュアンスについて、政府はあまりきちんとアナウンスしてくれないよな、と思う。
2類相当の時のように莫大な予算をつけ、医療機関にコロナ関連の診療を支援するやり方は、もう意味がない。
がんばっている医療機関当事者ではあるけれど、それはしょうがいよなーとは思っている。
「今までの対策は意味がありませんでした」と表明して、手のひらを返す(引き返す)ことは、日本社会ではすごく忌み嫌われること。
日本の歴史をみていても、日本の意思決定システムは、一旦決まったことを中断する、ことがなかなかできない。
これって、なぜなんだろうね?
太平洋戦争然り、バブル崩壊しかり、民主党の時の「脱ダム」もそう。原発行政もそう。
全部似たような匂いがする。
*4
おそらく意思決定=「和を持って尊しとなす」のシステムが、決定事項を覆すコストを増大させているから、だとは思う。
「決めた」事実に逆らうこと自体が忌み嫌われる。
だから、その決定事項を覆せば済むのに、さらに細則は補足で、バグをUpdateしようとすることが多い。
決めるのに時間がかかり、そして決めたことをやめるのにはさらに時間がかかる日本。
その点、専制国家中国ってすごいよね。
昨年末の「ゼロコロナ」から、何もいわず掌返しをした。
まあ見事な変わり身だった。
犠牲者も相当多かったようだし、日本人的な心性ではありえないけど責任もとらない。
全くすごい国だよね(反語的表現)。
でも、そこで論理的整合性を貫徹してゼロコロナ政策続けるよりは、ずっとましなわけですよ。
日本の「引き返せない」体質、どうにかならんもんですかねえ。
* * *
ま、そうは言ってもね。
国家レベルのサンクコストって、金銭的な部分での損得勘定はまあ算出することはできるけど、
例えば、コロナ禍の中で、学生さんたちは通常の生活を奪われ、部活とかも満足にできなくて…みたいな青春の2年間の停止があったりしたわけで、
こういうの、「コロナの拡大を防ぐために我慢をした」というストーリなら受け入れられるけど、
「あの我慢は無駄だった」という事実は、受け入れられんわな。
若者は特にだけど、僕たちおじさん世代だって、高齢世代だって、自分の人生をコロナに曲げられたのは事実なので、
サンクコストというのは、なかなか厳しい話ではある。