近況でもふれている通り、最近の私は「なんか歩く人」になっている。
プライベートな時間のほとんどを、低山を歩いたり、舗装道路を歩いたり走ったりしています。
これ漠然と「体力づくり」という言葉でひとくくりにしていますが、高齢医療を行なっていると移動能力の有無が長寿の決め手やな、ということを痛感するわけです。
歩けるか、普段から歩く習慣があるかどうかが、60代以降の健康維持に予想以上に大きな影響があることを実感します。
まずは自らが歩く能力を強化してみようというのが発端でした。
昨年の夏ごろから歩く量を激増させ1日の平均歩数は10000歩を超えました。
また土日にまとめて歩くのも増えてきました。1日に20km〜40km弱歩けるようになりました。
最近も近在の低山のハイキングコースや国道県道を歩きまくってます。
YAMAPでみられる過去の軌跡の軌跡を意図的に拡大する個人的な遊びをしています。居住地のエリアの昔は車でいっていたところはだいたい軌跡で繋がってる状態になりつつあります。
こんな感じ。
JRの山陽本線沿いのジョギングとかもしていて、現在 三原は本郷から岡山市は庭瀬駅まで。
これをすすめて広島県・岡山県は横断したいと思う。
また中国自然歩道の踏破にも取り組んでいます。
www.yamatomichi.com
この記事は九州自然歩道のハイク記事ですが、こういうのが中国地方にもあるわけです。
こういう独りジョグ&ハイクをしていて、そのために生活がかなりかわった。
メリット
メリットは大きいと思う。
痩せる
さすがに1日平均15000歩は月間でいうと300km近く歩く計算になる*1。
さらに週末は3万歩とか4万歩とか歩いていると、さすがに痩せだした。
歩きを強化しはじめて現在6-7kgくらい痩せた。
一切食事制限などしていないのにだ。
明らかに足とかの筋肉量も増えており、自分史上一番身体はキレているはずだ。*2
衣食住のレベルが下がっても満足度が落ちない
炎天下の中観光地でもない僻地を何時間も歩く。
蜘蛛の巣だらけの低山の藪の中を歩くことは基本的に不快だ。
疲労感もはげしい。
だからこそヘトヘト・ヘロヘロになって飲む水は、今までに飲んだどんな飲み物よりもうまい。
疲労困憊で食べると、なんでもうまい。
歩き終わって駅のベンチで休む。ただの木の固いベンチも、天国のように感じられる。
家に帰って寝ると、どんなに不眠でも泥のように眠ることができる。眠剤など全く不要。
もともと私はグルメでもないし食べ物の好みもうるさくないのだが、こういう生活で、衣食住へのこだわりがさらに無くなった。
何を食べ・着・どこにいても、以前より快適に思えるようになった。
これは本当にすばらしいこと。
「満足のゆく人生とは」とか「収入に見合ったすばらしい生活とは何か」みたいなのが馬鹿らしくなる。
沢山歩いて疲労のあげくにガブガブ飲む水が、世界で一番うまいのだ。
すげえ生きている感じがする。
自己肯定感が爆上がりするので、色々迷っている諸兄は、とりあえずへとへとになるまで歩いてみたらどうだ
*3。
デメリット
アラフィフ男性のファッション問題
上述の通り痩せたんですよ。シュッとした。
となるとオシャレしたくなるじゃないですか。
…とおもって、従前から読んでた物欲系雑誌とか、MBチャンネルとか、イケオジコーデとかそういうサイトとか動画とかも見るけども、今は完全に興味がアウトドアに特化しちゃってるんですよね。
化繊ばっかりで、オーセンティックな服に興味が湧かない。
もちろんアウトドアなりに小綺麗にはしたくていわゆる「モンベルおじさん」はアレなのでArc'teryxにかなり肩入れしてみました。統一感あってオシャレかもしれんけど服そのものは、まあいうたら体育教師のジャージです。
……これ、オシャレなん?
少なくとも雑誌とかのおすすめの着こなしとはかけ離れつつあるわけ。
隠者気質に磨きがかかりそう
結局登山にしろジョギングにしろ、行動には個人のありようが反映される。
結局自分は単独行動が好きだなあ……と痛感。
「みんなで」ジョギングとか登山という方向性にはなかなか食指がうごかない。
平日の夜も土日も「どこに行こう……」と考えていて(当然単独行動)会食とか、趣味(ジャズ演奏)の集まりに顔を出すのをどんどん減らしている昨今。
時間は有限ですからね。
アウトドアだけど、人間関係的にはほぼ引きこもりです。
経営者は人と関わりをもってなんぼだと思うんです。
が、どうも、自分のこの性質、個人としての心身の健康にはいいけど経営者としては不健全なんじゃないか?この趣味を5年10年続けると中長期的にはどう影響するか気にかかる。
アウトプットしなくなった
最大の問題がこれ。
30kmとか歩いて、帰宅する。飯食うて風呂入ってぐうぐうねる。
爽快なんです。
そうすると、本よんでその感想とか書いたりとか、アウトプットの気概が、びっくりするほどなくなった。
本はそこそこ読んでますがアウトプットが億劫になった。
「ま、どうでもいいか」
歩いている時って、いろいろ考えるんですけどね。
歩き終わってシャワーざーっと浴び、排水溝に流れる水と一緒に自分の中の屈託もざざーっと流れていってしまう。
「まあいいか敢えて主張しなくても」みたいになっちゃう。
これ、きっとある種のマインドフルネスなんでしょう。
自分のあり方がこんな行動変容でここまで変わるのか、と感慨深くもあるんですけど。
* * *
考えてみると、自分は小学校の時に、大休憩になれば校庭に飛び出してゆく少年を横目に、
本を読んでいるタイプだった。
運動は苦手で、本が好きだったんですが、ではそういう泥んこ小学生の友情は、羨ましかった。
休憩時間に独りで本を読むというのは、孤独と向き合うことでもあった。
今になって、そういうインドアの自分から、外遊びの少年の側にスイッチしているわけです。
(でも生来の孤独感は消えないですけどね)
校庭で力一杯遊んでいるようなやつは、ちゃあちゃあ言わない。
そういうキャラ変の、当然の帰結なのかしら。
では、このグダグダ言ってる僕の25年くらいは、いったいなんだったんだろう?