半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

「住み慣れた家で暮らす」在宅医療のイメージは……

2024, 岡山県

2024年、障害・医療・介護の診療報酬改定。
トリプル改定が目前に迫っている。
現在短冊が出揃ったがなかなか厳しい内容である。
……が「まあ妥当かな」とも思える。
正確にいうと「厳しい……けど、しゃあないな…国に金がないんだし」という感じだ。
特に国保社保ともに、保険者組合にお金がないんだな…と痛感する。
金はないが、需要は増える。
そりゃ厳しいわけだ。(医療者を)生かさず殺さずでやってくしかないでしょう。

うちは82床で一般37床、地ケア45床で運営しているのだけれど、これだとDPC対応の急性期一般が厳しくなった。今回月90件の入院がDPCの要件に加えられるけれど、これはうちの規模だとギリギリ。月間でいま当院は110件くらい入院を受け入れているが、地ケア直入、短期滞在のものも含まれているので、月90を捻出するのは難しい。
 幸い、急遽降ってわいたかのように新設された「地域包括医療病棟入院料」というのに移行するよな…という感じである。*1

在宅医療

地域医療構想でも療養病棟から在宅医療への転換が言われて、実際療養病棟のうまみをどんどん削っているおかげで、多くの地域では療養病床は減少に転じている。
だいたい厚生労働省(と財務省)の目論見通りだけど、減少は予定していた分には届かない。

まあ、地域では、供給が減ったおかげで、療養病棟はどこも満床で転院させにくい。
いきおい在宅に戻る人たちが増えている。
とはいえ「在宅」は結構イメージと違うことを実感する。

在宅

在宅医療、在宅往診。
「住み慣れた家で最期まで暮らす。」とかいいますけれど。

そういう世間の「在宅」イメージの例が、たとえば海老蔵さんの妻、小林奈央さん。
乳がんで闘病し、最期は緩和ケアうけつつ自宅で亡くなられた。34歳だった。
あの時は、日本中が涙したし気の毒だと思ったが、最期まで幼い子供と一緒に生活するメリットという意味で、在宅医療のよさのアピールだったなあと思う。

住み慣れて、長年暮らしてて勝手がわかっている自宅で暮らす。
確かに魅力的なこと。
これをサポートするために、在宅往診・訪問看護・ヘルパーサービス、訪問リハビリなどの各種サービスが存在し、そういうサービスを付帯させて自宅での生活を続ける。
それでも終日介護が必要な状態となり、自宅で暮らすことが難しくなると「仕方なく」介護施設にうつって生活をする。

これが、なんとなく介護の流れである。
(ちなみに介護施設も「病院」ではないので「在宅」である)

ただ、ここ10年20年の可処分所得の減少が、この定型の流れを変えている。

施設に入れない

はっきり言うと施設は高い。
介護サービスがついて、個室で。風呂介助とかもついて、食事もついて。
となると普通のアパートより高くなるのは当然だ。
安くても月に10万〜15万はかかる。
それで東横インレベル。もっといい暮らしとなるともっと高くなる。
もちろん非課税世帯や生活保護世帯には各種の減免措置はあるが、生活保護の医療費がほぼ無料…というふうには補填されない。

医療に関しては生活保護費は割と最強カードであるが、介護部門に関しては、けっこうしょっぱい。
年金も貯蓄も個人差がかなり大きい。
払える人は払えるけど、払えない人は払えない。

統計値によると、50代の単身世帯で金融資産保有額は平均値が1048万円、中央値が53万円らしいよ。
もし君が僕と同世代のアラフィフで、独身だとしよう。
自分の老後計画だってままならんじゃないの。
そんな中、ご両親が倒れました…なんて電話かかってきたって、施設のお金なんて出せないし。

金がなかったら介護施設に入れない、というケースはすごく増えている。
お金がないから、在宅で暮らしていても各種介護サービスも十分に使用できない。

最近は、積極的な理由で自宅で暮らす、ではなく施設にいく十分なお金がないから自宅、の人が増えた。
そうなると、
住み慣れた自宅>施設 ではなくて、
施設 >>自宅 という感じになる。

都市部の集合住宅の単身世帯の高齢者。
そういう経済状況だったら自宅も綺麗で整然としてはいない。
認知症になり、ゴミ屋敷みたいな耐震不適格の木造住宅で暮らす。
トイレに行けないから、部屋の一角を排泄スペースにしていて床が腐っていたり、みたいなこともしょっちゅうだ。

そういう消極的理由での「在宅」をサポートするのは、なかなかつらい。
シンプルにいって、金があったら状況は改善するけど.…
訪問看護や往診はなかなかきつい。

火の鳥「生命編」より

昔「火の鳥」生命編に、サイボーグ手術の成れの果てのおばあちゃんが出てきたの覚えているだろうか?クローン人間のハンティングの対象になった青居部長が逃げ込んだアパート。
最後はゴキブリが口に入って死んでしまったけれど、
僕が考える孤独な老人の在宅医療のイメージの原風景はあれだな。*2

いずれ「在宅往診」の大半が、ライフログモニタのついたベッドで過ごす要介護4〜5の単身高齢者を巡回し、生命反応がなくなれば機械的に看取りにゆく、形になっていくと思う。
多死社会、病院から在宅へ、ってそういうことだよ。
昭和20年代と違うのは、圧倒的に単身世帯が増えたことだ。

在宅訪問にはセンシングのモニターが一覧になっていて、
「あ、No. 102の方、亡くなったみたいだわ、汁が出ないうちに確認しにいこうか」
みたいに、淡々と在宅孤独死を処理してゆくようなディストピアが、おそらく僕らの頃は当たり前になる。

ちなみにこの調子で人口は減り続けるのだから、
僕が死ぬ頃には、たとえ金があっても、同じく最後は在宅で孤独に死ぬしかなくなるだろう。

まあ、マトリックスにでていた「コクーン」のような下の世話や入浴までもベッド上で自動洗浄できるような機械が出現していたらいいなと期待している。

*1:まだ細かい詰めがでていないけれど、中小規模のDPC病院の「逃げ道」として用意されたのは明白。今回はそこそこの点数にして誘導してくれると思いたい。まあこれはきっと「孔明の罠」で数年後には雪隠詰めになっているんだろう

*2:あれはジュネという小さい子が一緒に暮らしていただけまだマシだと思ったが

歩くようになってアウトプット欲が激減してしまった

2024, 岡山

近況でもふれている通り、最近の私は「なんか歩く人」になっている。
プライベートな時間のほとんどを、低山を歩いたり、舗装道路を歩いたり走ったりしています。

これ漠然と「体力づくり」という言葉でひとくくりにしていますが、高齢医療を行なっていると移動能力の有無が長寿の決め手やな、ということを痛感するわけです。
歩けるか、普段から歩く習慣があるかどうかが、60代以降の健康維持に予想以上に大きな影響があることを実感します。
まずは自らが歩く能力を強化してみようというのが発端でした。

昨年の夏ごろから歩く量を激増させ1日の平均歩数は10000歩を超えました。
また土日にまとめて歩くのも増えてきました。1日に20km〜40km弱歩けるようになりました。

最近も近在の低山のハイキングコースや国道県道を歩きまくってます。
YAMAPでみられる過去の軌跡の軌跡を意図的に拡大する個人的な遊びをしています。居住地のエリアの昔は車でいっていたところはだいたい軌跡で繋がってる状態になりつつあります。

2024現在の歩いた軌跡

こんな感じ。
JRの山陽本線沿いのジョギングとかもしていて、現在 三原は本郷から岡山市庭瀬駅まで。
これをすすめて広島県岡山県は横断したいと思う。
また中国自然歩道の踏破にも取り組んでいます。
www.yamatomichi.com
 この記事は九州自然歩道のハイク記事ですが、こういうのが中国地方にもあるわけです。

こういう独りジョグ&ハイクをしていて、そのために生活がかなりかわった。

メリット

メリットは大きいと思う。

痩せる

さすがに1日平均15000歩は月間でいうと300km近く歩く計算になる*1
さらに週末は3万歩とか4万歩とか歩いていると、さすがに痩せだした。
歩きを強化しはじめて現在6-7kgくらい痩せた。
一切食事制限などしていないのにだ。
明らかに足とかの筋肉量も増えており、自分史上一番身体はキレているはずだ。*2

衣食住のレベルが下がっても満足度が落ちない

炎天下の中観光地でもない僻地を何時間も歩く。
蜘蛛の巣だらけの低山の藪の中を歩くことは基本的に不快だ。
疲労感もはげしい。

だからこそヘトヘト・ヘロヘロになって飲む水は、今までに飲んだどんな飲み物よりもうまい。
疲労困憊で食べると、なんでもうまい。
歩き終わって駅のベンチで休む。ただの木の固いベンチも、天国のように感じられる。
家に帰って寝ると、どんなに不眠でも泥のように眠ることができる。眠剤など全く不要。

もともと私はグルメでもないし食べ物の好みもうるさくないのだが、こういう生活で、衣食住へのこだわりがさらに無くなった。
何を食べ・着・どこにいても、以前より快適に思えるようになった。
これは本当にすばらしいこと。
「満足のゆく人生とは」とか「収入に見合ったすばらしい生活とは何か」みたいなのが馬鹿らしくなる。
沢山歩いて疲労のあげくにガブガブ飲む水が、世界で一番うまいのだ。
すげえ生きている感じがする。
自己肯定感が爆上がりするので、色々迷っている諸兄は、とりあえずへとへとになるまで歩いてみたらどうだ
*3

生活習慣病が改善

いわゆるオーバーカロリーによる脂肪肝や、妙に高かった脂質や尿酸などは、ハードなウォーキングで完全に正常値になった。
血圧は薬をのんでいるが、安定している。

ただし、変化は変化だ。デメリットもいくらかあるように思う。

デメリット

アラフィフ男性のファッション問題

上述の通り痩せたんですよ。シュッとした。
となるとオシャレしたくなるじゃないですか。
…とおもって、従前から読んでた物欲系雑誌とか、MBチャンネルとか、イケオジコーデとかそういうサイトとか動画とかも見るけども、今は完全に興味がアウトドアに特化しちゃってるんですよね。
化繊ばっかりで、オーセンティックな服に興味が湧かない。

もちろんアウトドアなりに小綺麗にはしたくていわゆる「モンベルおじさん」はアレなのでArc'teryxにかなり肩入れしてみました。統一感あってオシャレかもしれんけど服そのものは、まあいうたら体育教師のジャージです。
……これ、オシャレなん?
少なくとも雑誌とかのおすすめの着こなしとはかけ離れつつあるわけ。

隠者気質に磨きがかかりそう

結局登山にしろジョギングにしろ、行動には個人のありようが反映される。
結局自分は単独行動が好きだなあ……と痛感。
「みんなで」ジョギングとか登山という方向性にはなかなか食指がうごかない。
平日の夜も土日も「どこに行こう……」と考えていて(当然単独行動)会食とか、趣味(ジャズ演奏)の集まりに顔を出すのをどんどん減らしている昨今。
時間は有限ですからね。
アウトドアだけど、人間関係的にはほぼ引きこもりです。

経営者は人と関わりをもってなんぼだと思うんです。
が、どうも、自分のこの性質、個人としての心身の健康にはいいけど経営者としては不健全なんじゃないか?この趣味を5年10年続けると中長期的にはどう影響するか気にかかる。

アウトプットしなくなった

最大の問題がこれ。
30kmとか歩いて、帰宅する。飯食うて風呂入ってぐうぐうねる。
爽快なんです。
そうすると、本よんでその感想とか書いたりとか、アウトプットの気概が、びっくりするほどなくなった。
本はそこそこ読んでますがアウトプットが億劫になった。
「ま、どうでもいいか」

歩いている時って、いろいろ考えるんですけどね。
歩き終わってシャワーざーっと浴び、排水溝に流れる水と一緒に自分の中の屈託もざざーっと流れていってしまう。
「まあいいか敢えて主張しなくても」みたいになっちゃう。
これ、きっとある種のマインドフルネスなんでしょう。
自分のあり方がこんな行動変容でここまで変わるのか、と感慨深くもあるんですけど。

* * *

考えてみると、自分は小学校の時に、大休憩になれば校庭に飛び出してゆく少年を横目に、
本を読んでいるタイプだった。
運動は苦手で、本が好きだったんですが、ではそういう泥んこ小学生の友情は、羨ましかった。
休憩時間に独りで本を読むというのは、孤独と向き合うことでもあった。
今になって、そういうインドアの自分から、外遊びの少年の側にスイッチしているわけです。

(でも生来の孤独感は消えないですけどね)

校庭で力一杯遊んでいるようなやつは、ちゃあちゃあ言わない。
そういうキャラ変の、当然の帰結なのかしら。

では、このグダグダ言ってる僕の25年くらいは、いったいなんだったんだろう?

*1:一歩70cm x 15000 x 30=315km

*2:ただし上半身はほとんど何のワークアウトもしていないので、ベストボディ的な観点からはややアンバランスかもしれない

*3:そもそも歩き出すきっかけには仕事上の悩みとかもあり、「精神的苦痛に比べれば肉体的苦痛だなんて…」と唱えながら歩いていたら、とんでもない距離をあるくようになって、「どんだけ精神的苦痛あんねん笑」なのがきっかけだったのだ

能登半島の再建は可能か

2024年、裏山

今年もよろしくお願いします。

よりによってお正月に、能登半島で大きな地震が起きた。
地震で被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

建物の多くが倒壊し津波などの被害のある土地に、しんしんと雪がふりつもるさまを見ると、被災なさった方々が本当にお気の毒。
もともと北陸はとても寒いところ。
建物が壊れ、停電したようなところで過ごさなければいけないなんで、どんなにしんどいことだろう。
TVで被災地の様子が映されると、本当にああ気の毒だと思う。

夜、酔っ払って道で寝ると死んでしまうような土地の災害はに、とてもつらい。
72時間ルールっていうけど、あんな厳しい気候の中で一晩生存することだって奇跡的だと思う。

なんてつらいことだろうか、と思う。

超高齢社会

さらにいうと、能登半島はとんでもなく高齢社会のようだ。
地震前の統計では能登北部の高齢化率は46.6%。
日本の田舎はどこでもそうだけど、能登はさらに交通の便も悪いし、僻地中の僻地とも言える。
限界集落だらけのようだ。

もと新潟県知事の米山さんがX(旧twitter)にこういうコメントをしてなんか各方面からぶっ叩かれていたが、まあ地方自治体の首長経験者として頭を悩ませた経験がいわしめているのだろう。

これに対して、どうすべきか、は僕はノーコメント。
米山氏の言い分もよくわかるし、被災して絶望を感じている人の「お気持ち」もよくわかる*1

ただ、普段高齢者に仕事で接している自分の感想を言うと、
「仮にめちゃくちゃお金をかけて復興させても、元のコミュニティは戻らんだろうな」と思う。
また「集団移住したら、あっというまに自立していた人たちも要介護者の集団になってしまうだろうな」とも思う。

高齢者は変化への耐性が低い

限界集落でそれぞれに役割をもって生活している高齢の人たち。
その自分の生活のルーチンが確立できているからこそ、その生活がきる。
田舎の、インフラも整わない生活ではあるが、何十年も慣れ親しんでいるからこそ自活できるのだ。

もし被害を受けた家を同じように再建したところで、全く同じ設備にはできない。

たとえば、カチカチカチとハンドルを回して点火する、昔懐かしのガス湯沸かしの風呂とかの家も、中にはあったはずだ。
家も、木造の古民家のような家が多い。重い瓦葺き。密閉性の低い建屋。
古くからの石油ストーブを使っている家もあるだろう。

今の観点でみると、明らかに不便なのだ。
でもそれに慣れた人にとっては、それがデフォルトであるし、なんなら目をつぶっても操作できる。

でも再建するなら、普通の建売住宅に、オール電化で全く新しい、スイッチ一つでスイスイ動く家電、と、なるだろう。
だって、そんな昭和の家電、数を揃えることなんてできない。
昔ながらの家の作り方だと、とんでもなく金がかかるから。
仮に他人からみて「同じような感じ」にできても、当人にとっては全く同じものでないと結局使いこなせない。

高齢の方の多くは新しい家電を使いこなせないし、使うことにストレスも感じる。
適応できない人はかならずいる。

家の間取りがかわったり、家電が更新されると、80歳を超えたりすると、適応できない事例はよくある。

バリアだらけ、隙間風だらけの家でも、住み慣れていると暮らせる。
バリアフリーオール電化の家を供給されても、使いこなせない。
で、そういう不適応の状態に置かれると、あっという間に認知症がすすんでゆくのである。

だから集団移住もなかなか難しい。
今まで自立できていた人も、新しい環境で同じように自立できる人は、高齢者ではかなり少ない。
でも、コミュニティを保って同じ場所で新しい家を建てても、超高齢の方から脱落してゆく。

全く同じ材質、什器、家電を再建したらいいかもしれないが、それは現実的に不可能だ。
なら、同じ土地に新しい建物をたてようが、七尾や金沢の集合住宅に移住させようが、自立できていた80代の40%くらいが、一年後には要介護2以上に落ちてしまう可能性が高いと思う。

人は、その場所・生活パターンも含めて「人」なのである。
新しい容れ物でゼロからやり直すには、ある程度の適応力が必要になってくる。
それが若さってものだ。
かなりの高齢者になってくると、そういうレジリエンスが失われる。

南海トラフ地震

残念ながら日本は災害の多い土地柄。
今後も南海トラフ地震も高い確率で起こるし、活火山の噴火もありうる。
今後も壊滅の危機に陥る限界集落はコンスタントに出現するはずだ。

その集落の再建を、どのような形で目指すか。
おそらく高齢化率・後期高齢化率、平均年齢などがある閾値を超えると、上述したように、どんなにコストをかけても
再建は難しいんじゃないかと思う。その見極めができないか。

例えば、医療の世界とかだと、FIM(運動能力の評価)とか認知症のスコアとかで評価して、
リカバーできる事前確率を推定するわけである。
災害後の立ち直りについても、集落ごとにデータを集積し、統計をとって、今後に役立てるべきなんだと思う。

できれば、ある程度 統計値から推定した事前確率から、再建できる町とそうでない町を峻別できればいいのだが。
あれ?………米山氏の主張に近くなってしまうんだな。

これって、残酷に思えるかもしれない。
けれども、フレイルが進み、どんなに努力してもADL向上が望めない高齢者に「頑張ってもとどおり歩けるようになりましょうね!」といって期待をもたせてリハビリを強要する方が残酷だったりするのだよ。

限界集落も同じで「…もうゆっくり休みなさい……安らかに…」という処方箋が正しい事例は必ずあると思う。

*1:「理」の話と「情」の話なんだとは思うのよ

「欲」と向き合う

2023年、大野城

最近「ダンジョン飯」が大団円を迎えた。

諸事情で食料を買うお金がない冒険者が、ダンジョンの中の倒したモンスターを調理するという破天荒な導入部であったが、バラエティに富み魅力的なキャラクター、しっかりとした世界観。笑いあり、シリアスさありのプロッティングで、物語にも惹き込まれるし、いろいろ考えさせられたよい作品でした。

ネタバレになってしまうのであまり詳しくは言えないのだが、物語の中で「お前の望みはなんだ?」という問いかけがある*1。これでストーリーは大きく転回してゆくわけだが、
改めて、僕自身の欲、ってなんだろなと考えさせられたのだ。

経営者にとって「欲」って大事

会社*2の経営に、一番必要なのは何か?
頭脳かもしれないし、統率力かもしれない。
交渉する力かもしれないし、意思の力かもしれない。
こういう「能力」こそが経営者に必要な資質だと、自分も思っていた。
  のだが、案外経営者自身の「欲」が重要なファクターかもしれない、と最近考えるのだ。

「欲」は、普通に考えると「能力」ではない。
一個人として生きていくのであれば、むしろデメリットといってもいい。*3
でも、こと経営ということになってくると、デメリットではなく、むしろ必須でさえあるかもしれない。

もちろん、欲というのはいろいろで、物欲や金銭欲という即物的な欲もあるけれども、
もうちょっと高潔な社会課題解決への欲望とか、名誉欲とか、ビジョンの実現のような欲もある。
それもひっくるめての「欲」ということになる。

自分の「欲」

困ったことに、今の自分には、この「欲」が少し欠けている。
2016年に父から医療法人の理事長を引き継ぎ、気がつくと8年たった。
幸い経営の財務状況としては安定している。
もちろん、細かいことを言えば当然課題はあるが、ただ、まあこれで「合格点」かな、なんて気を抜いてしまっている自分がいるのだ。

2022年度はひどかった。
きちんと働ける医師が減員し*4、個人的には医師のキャリア史上最高に忙しかった。
時間外の残業こそしなかったものの、労働時間内はずっと気の休まらない状況だった。
2023年度に入り幸い医師は増員できて、個人としての仕事量は減らせて、余裕をもって仕事ができるようになった。

だが、では、一息ついて経営的なブランディングとか何か新しい取り組みをやろう、とはならず、
だらだら本を読んだり、Youtubeとかアマプラみて、アウトプットしようにもやる気が起こらない状態が続いた。
今にして思えば、どうやら、バーンアウトしていたんだと思う*5

理事長に就任した当初は、かなり自分の性格に合わないようなこともやった。
むりして「赤レンジャー」たろうと努力した。
でも、本来の自分は孤独を好む隠者気質なのである。
医師の業務にも忙殺されて、ここ最近は「とにかく俺の邪魔をしないでくれ」(トラブルを起こさないくれ)みたいなマインドになってしまっていた。
これってあんまりよくない。
多分、かなりよくない。

トラブルを起こさないでほしい、なんていうのは会社を成長・拡大させるタイプの「欲」ではないのだ。
「任期中を大過なく……」というのはサラリーマン社長じゃないか。
きちんと制度を作ってまるで精密な機械のように組織が運営される、なんてのは、乱世には向かないし、中小企業のありようでもない。
現代はVUCAの時代。医療業界も、乱世といいますか、舵取りの難しい局面に入るのに。

「欲」。
満たされない思いを、満たすように努力する。
それによって、現在のありように変化を与える。

市井の人、一家庭人としては、強欲は害でしかない。
七つの大罪」てありますやん。
虚栄・嫉妬・倦怠・怒り・強欲・貪食・淫蕩。
人として「コレはアカン」というやつ。

ところが、こと経営者に関しては、欲が推進力として必須である、のは面白い。

欲は会社の駆動力であり、会社の規模は、その経営者の欲(もうちょっと上品に言えばビジョン)で決まる。

強欲な社長。
同僚を傷つけるかもしれないが、会社そのものは成長させることができる。
ジョブズとかがいい例。
経営者としては卓越しているけれど、とてもじゃないが同僚として一緒に働きたくはない「いやな奴」ではあった。
でも、逆に同僚にあたりがよくて搾取もしないいい人だけど、会社は先細り、もダメでしょ。

要するに、会社の成長のためには、強欲を取り入れ、なおかつ人として破綻しないようにそれを適切にコントロールしないといけない。

しかし50を目前に迎えた僕は、もう若くはない。
目先の欲がどんどん希薄になっている。
衣食住についてもどんどん恬淡になっている。
なんなら山を歩いていて疲労の果てに飲む一杯の水が極上にうまい、みたいな感じになっているのだ。
これじゃあなあ…

清貧ではだめなのだ。会社に変革を起こすなら、欲望をも取り込まないといけない。
たとえそれが、毒であったとしても。

こういうマインドが必要ではないかと思っているのだが、でも、
それを取り入れて適切にコントロールできる自信もない。

まあ、この前書いた「盛和塾」っていうのはそういう個人と「欲」をうまく切り離し、
「いやな人」にならず、欲を昇華する装置としてはよくできているのかもしれない、とは思う。

それにしても「欲」なんて学校でも教わったことなかったよ。
頭を良くする、ことが、努力したって一筋縄ではいかないのと同じくらいかそれ以上に、欲の量を増やすのも、努力してできるものではないよね。

*1:言うまでもなくこういうことを言ってくるのは悪魔で、いわゆる「悪魔の取引」ってやつ

*2:うちは医療法人ではあるが

*3:七つの大罪」ってありますやん。

*4:ここは言いたいが言えないことが沢山あった

*5:最近は山歩きなどをして自分を取り戻し、メンタルとしては少し回復している

すごいぞ病院マーケティングサミット

2023, マーケティングサミットのようす

コロナ禍による長い中断を経て、2023年、病院マーケティングサミットが4年ぶりにリアルで開催された。*1
舞台は、意外にも武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス。
初めは「なぜ美術大学で?」と疑問だったが、これには深い意味があるようだ。

美術大学で学ぶ「デザイン」は、単に視覚的な美しさだけでなく、システムや組織構造のデザインにもその思考が及ぶ。
デザイナーは、抽象的な思考や課題の抽出において、独自の強みを持っている。
まさに、医療業界が必要とする新しい視点だ。
今後こうした他業種の強みを医療でも活かしていくことが必要だよなあ、と痛感させられた。

昼休憩のワークショップでは、学生たちが地域社会でのアート作品展示(インスタレーション)を通じ、地域との関わり方を提案していた。
美術系の学生と交流し、街を一緒に歩いてご飯食べてという体験はめっちゃおもしろかった。
新鮮な驚きもあり、医療業界における地域との関係性について深く考えさせられた。

サミットはリアル開催が日曜日、その後オンラインで月火水の3日間にわたって開催された。
病院ファンづくりの地域取り組み事例が多数紹介された。
「甲子園」と題して、各地区からの演題を「地区予選」形式で紹介し、視聴者は投票で評価する。その評価によって「本選」に進む。
ゲーム性ありインタラクション性ありでおもしろかった。*2
オンラインの使い方を熟知してるなあと思った。

コロナ禍以前のマーケティングサミットは、他業種の新風を医療業界に吹き込むという鼻息の荒さもあった。
ちょっと若気の至り的な感じもあったと思うし、他業種からの資金もあって派手な感じもあった。
しかしコロナ禍を経て、この会はずいぶんと深化したと思う。
結局「地域社会への真剣なコミットメントなくして病院の未来はないよね」という地に足のついたメッセージが前面に押し出され、より現状に即した実践的な方向が明確になりつつある。

残念に思ったのは、まだまだ内容の割に参加者が少ないこと。桁二つ多くてもいい。
オンライン参加は無料であり、すべての医療関係者にとってかなり有益な情報なのに……
*3
もっと多くの医療関係者がこの貴重な機会を活用してほしい。

サミットのアーカイブはLINEで登録すると視聴できる。
ぜひ多くの医療関係者に見てほしいなあと思うのであった。

*1:ちなみに、私もたまたまであるが、コロナ前の第一回福岡・第二回神田明神ホールとも参加している。自組織の広報に課題があると思っているが、問題点はまだまだ解消されていない

*2:ちなみに私も中四国ブロックでファシリテーターやらせていただきました。お声がかかったのは会の2週間くらい前!フットワークの軽い会である。「形式主義」の真逆といったところか。

*3:オンライン開催の強みで、録画された内容をあとで見ることはできるが

盛和塾とはなんだったのか

2023, 広島県(もみじ祭りの府中八幡)

盛和塾とは

盛和塾は、日本の著名な実業家、稲盛和夫氏によって設立された経営者のための私的塾。
www.kyocera.co.jp

稲盛さんが病没する前に組織としては解散してしまったが、この塾は、稲盛氏の経営哲学や人生観を学び、共有する場として有名だった。

盛和塾の主力は中小企業の経営者たちである。
私も中小企業経営者の端くれであるが、中小企業向けの経営の勉強会・セミナーは実に多い*1
そういう勉強会では、3〜4回に一度くらいは、盛和塾、稲盛イズムに出くわしたものだった。

盛和塾の思想とその受容

盛和塾そのものについては、稲盛さんの著作を読んでいただきたい。

  • 正しい心がけと努力: 個人の成長と組織の成功は、正しい心がけと継続的な努力によって達成されるという考え。
  • アメーバ経営: 小さな自律的なユニット(アメーバ)に組織を分割し、各ユニットが独立して利益を追求する経営手法。
  • 貢献と謙虚さ: 社会への貢献と謙虚な姿勢を重視する(特に経営者は清貧でないといけない)

というのが骨子であった。
理想は、非常に高邁であり、特に会社は私物ではなく社会的公器であるという考え方は、多くの迷える経営者の羅針盤になっている。

しかし、この塾の考えに、違和感を感じる方も多い。
「なんか、宗教っぽいよね」みたいな感想。(実は私もそうだ)。

その理由は、現代人が思想信条を他者に強制されることに強い抵抗感を持っているから、だと思う。
特に筆者を含む団塊ジュニア世代でそれは顕著だ。
民主主義社会なおかつ無神論社会である日本は精神的な自由さにおいて世界でも群を抜いていると思う。*2

盛和塾はある種のモラルによる「枷」をはめる。
そして、そのモラルは、前近代的な感じがちょっとするのである。

とはいえ組織を率いて会社を維持運営することは、普通の行為ではない。
その尋常ではない行為は、普通に学校教育を受けて普通に社会にでた普通の人間に簡単にできることではない。
どうしても、ある種の「帝王学」が必要になってくる。
そういうマーケットニーズに「盛和塾」はうまく応えたのだろうなと思う*3

盛和塾と日本的組織の伝統

ただ、盛和塾は、いわゆる世界標準の「帝王学」とはちょっと違う。
MBAのような経営のためのコモディティとも違う。
盛和塾は「帝王」になるための学問・教材ではないし、グローバルスタンダードのビジネスマンのコンテンツでもない。

ありていに言ってしまえば、盛和塾の理想は日本伝統の「ムラ社会」である。
盛和塾が理想とするトップは「帝王」ではなく、プロ経営者でもなく、ムラの中の「村長」のような存在を理想としている。

軍隊、伝統的な企業組織にみられる日本のムラ社会は集団が一丸となって機能する特徴を持つ。
そして意思決定も、ヨーロッパ型の「トップダウン」ではなく「和をもって貴し」という集団合議性をとる。
盛和塾は、まさにこのような伝統的な日本的な集団をロールモデルとしている。

日本には「絶対君主制」は馴染まない

アングロサクソン的な「絶対君主によるトップダウン」組織は日本の風土には馴染まない。
経営層と被雇用者は隔絶した存在で、経営者は戦略に携わり、すべての責任をとるかわりに多くの報酬をとる。
こうした組織が欧米の標準であると思うが、これは伝統的な日本の組織ではない。

なぜ盛和塾で「トップは清貧たれ」と口を酸っぱくして強調していたのは、
日本では「ボス」は受け入れられないからである。

ボスとリーダーの違い

農作業とかも普通の村民と同じように行うが、意思決定の合議ではリードする。そういう村長(むらおさ)の立場であれ。
共産主義ではないのだから、一般社員よりは裕福であることは許容されうる。
が、貴族と平民のように隔絶した存在になってはいけない。
なぜそうしなきゃいけないかというと、この形でないと日本の組織の良さである「良質なミドル層」のモチベーションを保ち、組織力を有効に発揮できないからだ。
(逆に言えば、欧米型のトップダウン型の組織ではミドル層が萎縮しがちでボトムアップが弱くなる)
これが盛和塾の本質であったのではないかと、僕は勝手に思っている。

盛和塾は日本型ムラ社会 2.0だった

日本的な「ムラ社会」は、悪名高い、大日本帝国陸軍、体育会系などの組織に堕してしまう可能性も十分ある。
halfboileddoc.hatenablog.com
日本的なムラ社会の宿痾である「集団で決める=責任者の不在」はビジネスにおいて、決定スピードが低下し誰も責任をとらないという弊に陥りやすい*4
それではグローバル時代に適合できない。

だけどアングロサクソンのようなトップマネジメントに耐えうる人材は日本にはあまりにも少ない。

盛和塾というのは、できるだけ「ムラ社会」システムの悪い部分を廃し、現代においても通用する、ある種のリノベーションであったと思っている。これが昭和の時代に盛和塾が流行した理由ではないかと僕は思っている。
盛和塾は日本型ムラ社会 2.0だったのだ。

盛和塾は時代遅れになった

盛和塾は現在解散している。
これを残現在念に思う人も多いし、トップに対して厳しい倫理的規範を強いた盛和塾に今でも社会的意義はあるとは僕も思う。

ただ、時代は変わった。
MBA(だけではないが)世界標準の経営手法がコモディティ化し、日本でもそういう経営手法を身につけた経営層は出てきたし、なんといっても盛和塾はそうした学問的な再現性に欠け、いかにも属人的であったのだ。

2000年代にITベンチャーなどで出てきた若い経営者達は、盛和塾的なマインドとは全く無縁である。
彼らは日本的な集団による組織力を強みとしていない。

ライフスタイルとしても盛和塾はトップの高収入を厳しく戒めているのも、時代にそぐわなかった。*5
盛和塾の塾生の、ある中小企業の経営者の立志伝の講演を聴いたことがあるが、しみじみと「クラウンに、乗りたかったー……」と述懐していたのが僕には忘れられない(それくらい彼は真面目な盛和塾の信奉者だったのだ)
そういう時代的な流れからは、盛和塾は解散しなくても、次第に厳しくなっていったのかなあとも思っている。

まとめ

地縁や血縁による集合がなくなった戦後、ゲマインシャフトとしての会社組織のあり方に、盛和塾ロールモデルとして有効であったと思われるが、前提とする社会状況は変化し、盛和塾の強みもやや色褪せているように思われる。

ただし、日本人が集まって組織を作るなら、日本的なムラ社会が我々の精神の基層にあるはずだ。
また誰かが、令和における盛和塾。「日本型ムラ社会3.0」のモデルを作るんじゃないかと僕は期待している。

*1:中小企業の経営者の多くは「経営」に長けている人ではない。創業者は自分のやりたい事を起業で成し得たわけで、必ずしもマネジメントが得意であるわけではない。体系的な経営手法が欠けていると自覚する人は勉強したりする。一方経営者2世・3世は、内的動機付けなしにある程度の規模の経営に携わる人も、行動規範を「勉強」しがちなのである

*2:しかし、この20世紀的な心性は、21世紀の世界の分断という文脈では、やや不適応に感じられることもある。22世紀にこの自由さが担保されている保証はないのだ。

*3:特にMBAのようなプロの経営者のための資格というものがない昭和末期には

*4:中途半端な地方公務員組織とかがよくそんな感じになっている

*5:80年代にアメリカでも日本でもこっそり所得税累進課税が緩和された。21世紀の所得格差の拡大はここから始まっている

「情報の非対称性」の21世紀的な解決法

2023, 広島

医療と情報の非対称性

医療業界は、情報の非対称性が特に高い分野だ。

情報の非対称性(じょうほうのひたいしょうせい、英: information asymmetry)は、市場における一方の取引主体が他方よりも多くの情報を保持したり、またはより良い情報を持っている取引における意思決定やその不均等な情報構造を指す。
「売り手」と「買い手」の間において、「売り手」のみが専門知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというように、双方で情報と知識の共有ができていない状態を指す。
情報の非対称性は、取引の力の不均衡を生み出し、取引が非効率になり、最悪の場合、市場の失敗を引き起こす可能性がある。この問題の例としては、逆選択モラルハザード、および知識の独占などが挙げられる。(Wikipedia

要するに、売り手はなんでも知っているが買い手はなにも知らないという業態が、この「情報の非対称性」の構造だ。
冠婚葬祭業界であるとか、中古車市場、生命保険とか。医療もこの一つ。

この状況では、取引の誠実さは、売り手の誠実さに大きく依存する。
前近代の情報の非対称領域では、買い手は「カモ」にされるのがならわしであった。

医療は「国民皆保険制度」の制度で金額ベースではカモにはされにくい構造にはある*1が、その分顧客は、お気持ちベースでは不満足を強いられている。不機嫌で不親切*2医療者。顧客の満足度は低い。
「商売以前」の状態が当たり前だったりする。

顧客の望むサービスを提供できているか?

 ……そういう視点はかつて構造的に欠如していた。

医療の現場では「十分な説明不足」「選択肢の提示不足」が起こりやすい。
かつては医師の「パターナリズム」(権威主義的な押し付け)*3が当たり前だった。これは医療の提供側に情報を提示するリソースもスキルも不足気味であったから*4
また、かつての医療水準では、情報の提示をした上で治療方法の選択をする、という選択肢がそもそもなかった面もある。

私も、基幹病院に勤めていた時から、これは医療の課題とは思っていて。自院にもどり、事業を継いでからも個人的な診療スタイルや組織改革などを通じてこの問題に取り組んだ。わかりやすく説明し、誠実に情報伝達を行おうとした。現在もその努力は続けている。*5

しかし、最近はこの情報の非対称性を、我々の予想の斜め上の方法で突破する事例が頻発しているようだ。

情報の非対称に対する新たな対処方法

最近よく見かけるのは、SNS(旧ツイッター、現X)で
「ちょっと聞いてください、あり得ないことが起こりました!こんな目にあいました!」みたいな投稿。

かつては、情報の非対称性によって不利益を被った買い手は、不満の声を上げられず泣き寝入り。
今は一人称視点で自分の体験をSNSで拡散できる。*6
多くのSNSユーザーは投稿者と同じく買い手の立場。だから不満は共感を得られやすいので拡散・炎上しやすい。
そして「ひどい仕打ち」をした会社とかに電凸*7する人も出たりして「ネット意趣返し」現象もおこる。

情報の非対称のデメリットはかつては顧客に一方的に存在していた。
ただ、現在は情報の非対称性の劣位に置かれた買い手(消費者といった方がいいかもしれない)は、数の力で大衆を味方につけ、情報の非対称で守られた閉鎖空間を侵食し、突破することができる。
これが、21世紀的な新たな現象だ。

テレビドラマにテンプレはあった

この行動パターンのルーツは、テレビドラマではないかと僕は思っている。*8

情報の非対称性の高い、閉鎖的な業界。
そこにやってくる(素人視点に富んだ)主人公。
特殊業界での特殊なルールを、素人的な視点をもった主人公が「それはおかしい」と声を上げる。
なんやかやあって素人的な意見を取り入れて、開かれた状態になりました。
……テレビドラマなどのお決まりの筋書きである。

テレビ業界は、単にドラマの題材のネタのため90年代以降、刑事物、医療もの、裁判ものなど多種多様な領域のドラマを作成した。情報の非対称性の高い業界を描いたものも多く、こうしたテレビドラマは「特殊業界の紹介」のような意味合いもあり、業界に興味を持ち参入人口を増やすなどのメリットもあった。

ただ、ドラマでテンプレ化された上述のプロットが、SNSでの告発行為のロールモデルになっているように思われる。*9

情報非対称性とコンテクスト

ただ、この現象は、情報の非対称という言葉だけで切り取るのではなく、「コンテクスト」でも考えるとわかりやすい。
情報非対称の解決法が、このような数の暴力を介した形になっているのは、社会が、ハイコンテクストからローコンテクストに移行しつつあるためかもしれない。
なぜならば情報の非対称性、つまり売り手と買い手の情報格差はインターネットで確実に減少しているからだ。

かつては専門知識を持つ医師・医療従事者が一方的に情報を持ち、患者や顧客はアクセスできなかった。
しかし、現在はPubmedGoogle Scholarなどのツールを使えば良質のガイドラインや論文にアクセスすることは可能だ。

医学教育を受けていない顧客が、そういった医療情報にアクセスし、医師とも対等な議論を繰り広げる。
そういう未来が来ると、僕は思っていた。
この僕の思いのロールモデルは 古生物学者のグールドである。
彼は40代のとき腹膜中皮腫という予後不良な悪性疾患に罹患したが、その際その領域の学術論文を読みまくり、医師の視点での論文の解釈を理解しすすんで化学療法を受け、正しい選択をした結果、なんと寛解しそのあと20年生きた。
gssc.dld.nihon-u.ac.jp

でも、そういう理想の形で情報の非対称性を乗り越える人には、日常臨床では残念ながらほとんど経験しない。

いわくタバコは体に悪くない、コレステロールの薬は無駄だ、血圧は下げない方がいい、ワクチンは打たない、みたいな、断片的な情報をくみあわせて、その人にとって都合のいい謎理論を持ち込む。
それでいて医療従事者と対等な知識があると思い込むバカか、上述したように情報の非対称性の壁を数の論理で強行突破するような例ばかりだ。

情報の壁は今では間違いなく低くなっている。
でも、その情報を正しく取り扱うリテラシーも、残念ながら(かなり)下がっていて、手に入れた情報を正しく咀嚼する力は、かなり低い。*10

ローコンテクスト社会はある種の地獄

ローコンテクスト社会は、バカに有利にできている。
専門知識を持たない大衆が絶対君主であり、彼らの判断が基準となる。
彼らの尺度で、理解を超えているものは「不親切」と断罪され、攻撃され、炎上する。

「多様性」の名のもとに、前提とされる知識レベルは著しく低くなった。
これがローコンテクスト社会だ。

ローコンテクスト社会では、情報は断片的でその背景や文脈は共有されにくい。
SNSはローコンテクスト社会そのものであり誤解や偏見はむしろ増幅される。
知識や経験を持つ者と持たない者との間の情報格差はむしろこの新時代に広がっている。*11
そしてSNSを通じて情報が拡散される過程で、情報の非対称性の優位は逆転している。
バカはバカに共感するし、バカの方が圧倒的に数が多いからだ。

もちろん情報の非対称性の解決のすべてが悪いわけではない。
たとえば、葬儀業界のようなかつて情報の非対称性によって保護されていた「非合理的な商慣習」は、情報がオープンになることによって業界構造はオープンになった。
ただ閉鎖しているだけで利があった非合理な習慣は大衆化により扉を開かれ是正される可能性はある。

だが、医学は閉鎖的な学問体系ではない。
自然科学の一分野であり、合理性・再現性をもった科学であり、非合理性は乏しい。
だが、そのロジックを理解し咀嚼し、応用するには、それなりの自然科学や医学へのリテラシーを必要とする(多くの場合数年間の医学教育を要する)。
そのリテラシーがない人にとっては医療者は「わけわからんことをいうやつ」「よくわからないが信用できない」となる。

反ワクチン勢が、コロナ禍であれだけ勢力を伸ばしたのは、そういうことだ。

医療業界は、進化を続け、よりよい医療になるように不断の努力が必要だとは思うが、
大衆という移り気だが残酷な絶対君主のご機嫌を損ねないようにしなければいかんと思う。

もう、だいぶ損ねちゃってるように、最近は思う。

*1:逆にいうと、自由診療においては、顧客がどれほど「カモ」にされているか。実例はなんぼでもある

*2:に見える

*3:「指導」という言葉に全てが集約されていると思う

*4:昔に比べると最近はましにはなっていると思う

*5:用語としては「シグナリング」という解決方法に該当する

*6:SNSは自分に都合のいいことしか書かないので、リテラシーを持って読み込めば、「こんなひどい目にあった」といっている当人の行動がかなり常識はずれだったりすることは結構ある

*7:懐かしい言葉だな

*8:あとは漫画ね

*9:特殊業界のドラマにやたら青臭い素人視点の逆転劇みたいなのが多いのは、結局テレビ業界の人間が当該領域のことを深く理解せず、あくまでTVマンとしての視点でその業種の印象批評をしているからだと個人的には思っていた

*10:そもそも情報が多すぎるのかもしれない

*11:Googleだって使い方にうまいヘタはあるからだ