半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

地回りMRの未来

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どのような文明でも、黎明期には土地が開拓され*1たりして人口が増えて発展してゆきます。
成熟期に入ると単位面積当たりの収穫量は頭打ちになり、コストに対するリターンが逓減してゆきます。
さらに気づかれない形で生産性の低下が先行し、生産性の低下があるポイント(損益分岐点的なもの)を割り込むと、悪循環に陥り、かなり悲惨なスパイラルが発生し、最終的には環境を消耗させきって土地は荒廃し、文明は長い停滞期に入ります。

 ギリシア都市国家群、メソポタミア地方、北米アメリカ、南北アメリカイースター島などで、このような経過が観察されています。「文明崩壊」「人はなぜ人を食べたか」という本にはこのあたりが詳述されていますが、そもそもが私はこういう「世界の終り」に幼少期から非常な興味がありました。
おそらく一代で開業した父を背中にみているときに、自分が担うのは別の局面ではないか?ということを強く意識したせいだと思います。

ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源 (ハヤカワ文庫―ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源 (ハヤカワ文庫―ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

文明崩壊 上巻

文明崩壊 上巻

hanjukudoctor.hatenablog.com
(以前にこのようなことも書いています)。

* * *

文明の衰退期の局面には暮らしたくないよなーとつくづく思います。
今日よりも明日の方が悪くなる世界。
今ある人口を将来は支えきれず、餓死や逃散が横行する。

最近強く感じるのはMR*2さんの業界はまさにそのような収斂局面にあるってこと。
先発品が構造的に出にくくなっている現状、ITの発達による対面面談の効用限界。
それどころか高コスト体質の製薬会社の重荷として*3、MRの社会的意義は、今後ますます逓減してゆくのでしょう。

このことは経済財政諮問会議での「骨太方針」というのにもはっきり示されていました。
日本の製薬会社の財務構造は極端に販管費に重点を置きすぎており、創薬の点で国際競争力を完全に失いつつある。*4
財務的な構造改革が暗に促されています。

今は個々のMRの暮らしぶりは変わっていません。
しかし兆しはあり、大きな変動は起こっています。
数年以内に体制は目に見えて変わるでしょう。
個々の薬剤にスペシャライズドされた本社配属のMRはともかく、地方営業所のMRは、いつまでいるのか。

私はMRを「医療情報の中間流通業者」とみなしています。ここ近年の流通革命がこの分野にも起こっただけのことです。
営業所もどんどん集約され、地方の講演会なども、どんどんWeb講演会などに置き換わっています。

MRが自社製品をアピールするために配っていたノベルティグッズは、2018年末で廃止です。

考えてみたら「営業」で、夜の接待もない、価格交渉権もない。他社との比較も制限されている。ノベルティなどもない。これでどうやって売るのか。

うまい商売は、いつまでもは続かない。
でも、本気で足元が脅かされないと、なかなか動くことはできないんだろうなーと思います。
医者もよく言われる、「茹でガエル」の理論ですね。


* * *

今後の方向性として僕が考えるのは以下の通り。

  • エージェント化。MR資格を保つフリーランスが、新薬がでたら1~2週間どっかで研修を積んで焼畑農業的に全国プレゼンしまくる。役目を終えたら契約終了。これは製薬会社としてはMRを外注化して固定費を抑えることになります。まずまず、現実的ですし、一部そうなっています。
  • キュレーター化。例えば薬の知識が十分あるなら、卸会社に転籍すれば、他社比較ができます。「保険の窓口」みたいに、製薬会社に偏らない情報提供ができれば、医療者にとってはかなり便利です。ただしこれ、マネタイズは難しいと思います。今より該博な知識を要求される代わりにフィーは下がる*5
  • ドラッカー流の「顧客」の再定義も面白い。今までの構造ではMRの顧客は医師でした。これを最終消費者である患者さんにすれば?そういう起業はないもんでしょうかね。

* * *

ただ、「MRやばいやばい」みたいに対岸の火事をみているつもりでも我々知的職業としての医療職の衰亡の方が、早いかもわからんよね。
AIとかにやられて。

また、いまある医療行為の多くが、不必要なものとしてバッサリ切り捨てられることもありうる。
本当に国にお金が無くなったら、ADLが落ちた方の存命は社会的に望まれなくなるでしょう。
倫理的にどうか…という問題が生じれば、倫理観の方がおそらく変わる。
いまだってゆるやかにそうなりつつあります。

その他のBlogの更新:

 急に寒くなりました。今週末も東京に出張していたんですが、土曜日の午前中の時間を利用して、中野にあります「むし社」にいって来ましたよ。
 昆虫好きの息子のために、聖地巡礼といいますか……
2019年むし社カレンダー無料配布だったものですからね。
個人的なことを言えば、カブトムシ・クワガタの匂いは苦手です……

ジャズブログ:

更新なし

*1:狩猟採集社会を除く

*2:MRはmedical representatives の略で、簡単に言うと製薬会社の営業の事です。

*3:MRの給与は我々医療対人援助職が想像しているよりもずっと高い

*4:そもそも世界の中で薬を創る能力のある国は6カ国しかないそうですが、ここ近年はアメリカだけが伸びている状況らしい

*5:ま、今はその社会貢献性に見合わない報酬だと、単純に言えると思います。

エナジードリンクの欺瞞

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エナジードリンク飲んでますか?

* * *

僕は、長らくレッドブル党でありまして、何かっちゃあ、あの甘ったるい飲料を飲んでいます。
場合によっては一日に2本3本飲むことも当たり前。

* * *

私は1974年生まれ、2000年卒の内科・消化器肝臓内科です。
いわゆる団塊ジュニア世代でありまして、多分今よりは競争率の激しい環境で受験勉強に臨み、医師になりました。

2000年に研修医になった時にはInternet上にWebsiteを作り、半熟ドクター(Half-Boiled doctor)という名前で、なんか色々書いていました。
それはともかくとして。

私が駆け抜けた時代は、割と若者が割をくった時代ではないかと思います。
いわゆるロスジェネ。
同世代の非医療関係の友人は、就職氷河期で苦労していました。
医療情勢も、私が医者として育った2000年から2010年の頃は、あまり雲行きがよくなかった。
全体としては、メジャー離れ、内科離れ、大学医局離れが静かに進行していました。
そんな中で、地方国立大学の消化器内科の医局に所属していた私。おまけに昨今叩かれている、大学の無給医。
いや、無給医ではないですよね。学費を払って仕事を「させていただいて」いたわけです。

田舎には内科医が少なくて。
なおかつ大野病院事件などもあったりして。
医療が信用されないというか、非医療者から不信の目を向けられる時代でした。
医療過誤訴訟も多かった。
そして、自分たちが一人前になると、今度はスーパーローテート制度が始まり*1、後輩の入局が二年途絶えたりして、医局人事が麻痺して、またそれでみんなデスマーチを乗り切ったりもしました。

とはいえ、楽しかったですよ。別に人間どこだって楽しめはするもんです。
ただ、プライベートの時間は制限されていたし、今の「働き方改革」的には完全アウトな日々でした。

* * *

2007年から野戦病院型の市中病院にでて、ずっと待機で呼ばれ続ける日々が始まりました。月に6−7回当直もしくは待機(オンコール)、それに加えて消化器救急(吐血とか)随時というハードな業務でして、その頃くらいから、30代後半、睡眠障害が始まります。
内視鏡センターのリカバリー用のリクライニングベッドで仮眠をとるのは当たり前でしたから、無理もなかったのかもしれません。*2
頭の中に薄靄がかかったようなのが常態で、医者はつくづく体力だよなあと思いました。
完全に飲酒の習慣がなくなり、15kg程度のハードなダイエットに成功したのもこの頃です。

その次の病院は、同じく市中病院でしたが、医師が多く役割分担が出来ていたので、専門特化して、前ほどハードな何でも屋ではなくなりQOMLはかなり改善したんですが、睡眠障害は改善せず、変な睡眠リズムのまま生活が続いていました。
この頃は本当に生活は荒んでいて、夜中の2時から6時までカラオケボックスにいって楽器の練習をしたり、眠れない朝4時にジョギングをしたりしていました。*3
この頃当直明けのどろりとした精神状態をなんとかしたくて、レッドブルを飲み始めるようになりました。

* * *

医学的に考えると、エナジードリンクに、そこまでの覚醒効果はありません。
ただ、カフェインを手軽に摂取できるので*4、それによる頻脈とか動悸感は、エンジンにニトロを入れるが如きのブースト効果のような錯覚があり、プラセボとして、自分のルーチンとして、飲用していたように思います。
エナジードリンクを入れることで、心の中のBダッシュボタンを押していたわけです。

ただ、常に疲れているので、だんだん量が増える。
レッドブルを一日一本、当直明けは2〜3本、みたいになって、ちょっとやばいと思いました。

* * *

今は中小病院の内科医師(肩書は理事長)ですが、実は今が人生で一番忙しいです。*5
エナジードリンクも飲みまくりの日々でした。

去年、少し思うところがあって*6エナジードリンクの常用をやめることにしました。
レッドブルのかわりに、職場のウォーターサーバーの冷たい水を飲むことにしました。
ごくごくと。
するとね、別になんの問題もなく働けるわけです。

やっぱり、プラセボ

今は、当直の日とか、まあまあ疲れているときはやはり飲むことはありますが、量は3分の1くらいに減っています。

自省しますと、やはり、本心では当直はしたくないんだと思います。
いつもと別のモードにスイッチを入れるために、この手のエナジードリンクを使っていたんだと思います。

その他のBlogの更新:

いやー…2週間空いてしまいました。色々忙しかった…というとアレですが(前から忙しかったですから)。
悪い癖がでました。大体過去数年間は年間数本しか書いていないのに、結構9月から割と密に書いたんで…
Web腎虚かしらん。

*1:ちなみに私は大学病院での研修を半年してから、地方の病院に赴任しましたが、実はこのとき研修医ではなく医員待遇だったんです。今思うと「怖っ!」と思いますが、そんな中生意気な私を導いてくれたローテーターの先輩、内科部長、院長には今でも頭は上がりません。

*2:唯一の救いは、この病院は超野戦病院型だったので、日中の外来の患者さんは決して多くはなく、当直明けですらない夜間業務でぶっ倒れていても、まあなんとか回ってたことでしょうか。

*3:個人的な感想をいうと、朝の5時台はジョギングで済みますが、朝4時台は不審者です。

*4:ほんとにヤバイときにはカフェインタブレットを試したことがあります。結構頻脈になって、キメてる感じがありました

*5:当直はそれほど多くはありませんが、日中の外来・病棟がとにかく忙しく、バタバタ走り回っています。合間に各種会議があるし。医師会理事もしているもんですから、その手の仕事も多くなり、気がつけば、一ヶ月家で夕食をとるのは1日か2日になりました。土日はたいてい何かあって出張しています。

*6:ちょっとだけ長生きしたくなったんです

免疫「力」の話

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(2007年に旧サイト『半熟ドクター』に書いたものを少しリライトしました)

 2018年は本庶先生がPD−1でノーベル賞を受賞され、癌免疫療法の認知度が一気に高まった感あります。非常に喜ばしいことではある反面、高額な民間代替療法としての「癌免疫療法」に患者をミスリードしないかという懸念もあります。
 新しい免疫療法もとんでもなく高額ですが、まあまあ由緒正しい詐欺である「癌免疫療法」*1も、まあまあな金額を患者からむしり取るわけで、そこも鑑別が難しいところでもあります。

 免疫については、それが詐欺かホンモノかは、私は次のスクリーニングを用いています。

「免疫力」という言葉を使っているかどうか。

です。

「免疫力」という言葉はカモ発見器であり、「免疫力」という言葉をみれば、我々は眉毛にツバを塗ればいい。

* * *

 免疫、というメカニズムは、非常に複雑な生体内のシステムとして間違いなくある。
 個々人によって免疫という防御力の強さ弱さという違いも当然あるでしょう。

 こうした学問的集積を受けて、例えば健康番組やサプリメントの宣伝などでは「免疫力」という言葉を使います。
 が、医者は声高には主張しませんが、現時点では、個々の免疫システムの強さ弱さを測る総合的な尺度は、ないんです。

 体内の免疫機構は非常に複雑な系です。
 液性因子(免疫グロブリンとか)や細胞因子(T/B cell,Dendritic cell, NKT cell, macrophageなどのさまざまな細胞)が複雑なネットワークを形成している。Toll-like receptorなどによるinnate immunityの研究お盛んですし、そもそも我々の皮膚や消化管上皮などの物理的な障壁*2、生体の防御システムの一つであり、これも広義の免疫システムに含みます。

 我々が観測出来るのは、この複雑なシステムの部分部分の要素だけです。
 確かに免疫学は近年発達いちじるしく、計測しうるパラメーターは沢山ありますが、総合的な「免疫のつよさ」というのは測れない。
 生体内での免疫の総合力は、定量化できない。

* * *

 例えばワールドカップのサッカーチーム。
 どの国がどれくらい強いという、強さの総合力は、数値で表すことは出来るでしょうか?

 ブラジルは多分日本よりも強いことはわかる。
 ですが、何倍強いとか、そういう定量的な評価は難しい。
 現時点で、スペインとドイツどちらが強いか、というのもわかりません。

 サッカーの場合、二つのチームを直接争わせれば、勝った方が強ことで優劣はつきます。
 だが、個人Aの免疫力と個人Bの免疫力を直接戦わせることはできません。
 比較したい二つのチームを直接戦わせることが出来ないのであれば、全く同じ対象に戦わせて比較するという手法も可能でしょうが「免疫力」に関しては同様のアプローチをとれません。
 例えば実際に病原菌(もしくは免疫系に反応するような物質)を体内に入れて、免疫系の反応を見る、という手法は、免疫に異常を来しているかもしれない人間に多大なリスクがあるので、ちょっと現実的に難しいでしょう。
 
 なら、試合をしない状態で選手を評価しないといけない。
 これはパドックで馬の状態を見て、馬の強さを推測するのと同じです。

* * *

 ま、確かに免疫関係のマーカーというのはあります。白血球分画、Ig分画、補体、各種炎症マーカー。

 これら保険適応のある臨床検査項目に加えて「免疫力」というものを多少なりとも評価する手段として、いわゆる「疑似健康科学」でよく使われるのが、ナチュラルキラー細胞の活性もある。

 ですが、これらで、現実の免疫「力」は判定できないと思う。
 これらの検査項目は、たとえば、選手の平均身長を調べるようなものです。高いチームは強いかもしれない。

 確かに極端な例、例えば平均身長が130cmのチームは、異常だわね。ミゼットサッカー?、もしくは小学生サッカーチームかもしれない。平均が180cmのチームに比べると、総合的な「サッカー力」は多分劣っていることは予想される。しかし、平均身長が175cmのチームと平均身長が180cmのチームを比べれば、180cmのチームが常に強い、とは言えない。

 もしくは、フォワード選手の50m走の速度。
 速いチームは強い可能性がありそうです。
 チームの強さを間接的に測る尺度として、例えば、選手の足が速いとか、身長が高いとか。キック力が優れているだとか可能なリフティング回数だとか。そういった一つ一つの要素は定量的に測ることはできましょうが、それらすべての要素を足しあわせても「チームとして」の強さ弱さを直接知ることはできない。

 「免疫力」の強さ弱さはチームとしての強さと同レベルの問題です。
 それは、最先端の免疫学でも完全にはわかっていない*3

 個々人の患者さんの免疫を調べる時に、要素還元的に一つ一つの検査項目から推測するしかない。
 これは選手のフィジカルだけでチームの優劣を決定しているようなものです。

 「免疫異常」の病気は、サッカーのたとえでいえば、選手の平均身長が130cmとか、選手が全員リフティングが全く出来ないとか、50m走が平均で20秒とか、明らかにサッカーが成立しないレベルの異常です。だから計測数値にも意味がある。
 でも、普通に生きている人の「免疫力」を調べることは、たいてい難しい。

* * *

 ではなぜ、ああいう「健康番組」では「免疫力」をことさら強調するのでしょうか?

 それは「免疫力」は数値化出来ないから。
 従って「免疫力があがる食品」とうたったとしても、実証するすべも反証するすべもないから。

 だからみんな「免疫力」を言いたがるわけ。
 証明出来ないんだから言いたい放題。
 嘘を言っているわけではない。

 それらの食品に「免疫力」が上がる効果がない、と言っているわけではありません。
 それも実証できない。
 しかし少なくとも「免疫力があがる」みたいな言い方で宣伝をしている、サプリメント、健康食品は、少なくとも根拠があってそういう言い方をしている訳ではないということは、みなさん知っておいていいでしょう。

その他のBlogの更新:

週末の出張の予定から、バンド練習など忙しいんですが、そろそろ中小病院のハイシーズンであることを忘れていました。
昼間はてんてこ舞いで走り回っています。
ジャズであれば、譜面を書かずにその場で合わせることも多いのです。
が、今回はかっちりしたバンド、3管のファンクバンドと、総勢22名出演するアニソンバンドのホーンセクション。
きっちりと譜面を作る必要があり、それに忙殺された2週間でした。
そのため、Blogはやや低調です。

*1:「詐欺」というと、幾分強い言い方ですが、情報の非対称性を悪用した商法、供給者側が効果を信じていない事実を考えれば「詐欺」という言葉がぴったりでしょう。まあ当人たちは否定するでしょうが。

*2:これは城壁のようなものです

*3:良い企業、悪い企業、というのと同じで、最後まで数値化できない領域かもしれない。

塩の効用 その2:

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前回の続きです。

現代では、高塩分食は、脳卒中・心臓病、腎臓病の原因になることが明らかです。
塩は健康障害の大きな問題であり、長期的には医療費の増大にもつながるはず。
これほど塩分は「よろしくない」わけです。
しかし、なぜ今までは高塩分食が淘汰されなかったのでしょうか?
我々はなぜ、高塩分の文化を維持したのでしょうか?

* * *

ここからは個人的な考えです。ある種与太話と考えていただいても構いません。

個人レベルで考えると、塩は、健康被害が甚だしく、有害です。明らかに。
しかし前近代においては、塩分摂取過多は集団のレベルではそれほどネガティブに作用しなかったのではないでしょうか。

高塩分による健康被害は、なんだかんだいっても、勤労世代の後期から老年期に出てきます。
たとえば縄文時代の平均余命は20代でしたし、我が国の平均寿命が50歳を超えたのは1947のことでした。
ですから、たとえば江戸時代であっても平均寿命は30代とか40代というところだと思います。

昔は初産の年齢も早かったですから、40歳でも孫がいてもおかしくない歳頃となります。
だから、50代・60代の死亡は人口の再生産には影響がない。
 病気によって人口が抑制されることはないということになります。

高塩分食による疾病(多くは脳梗塞・出血、心疾患)は、昔の言葉でいう「廃疾」であり、前近代にはこのような疾患に対して有効な治療はなく、長くは生きられませんでした。今の脳卒中患者は胃瘻などの経管栄養などがあり、疾病後の余命が伸びましたが、そこに幸福な老後があるかといえば、疑問ではあります。病気が発生した時点で、集団から速やかに退場する*1
食料によって養える人口の総数は決まっています。病気の人が速やかに退場する結果総人口の中の勤労世代人口比率が高まります。

また、塩分過多状態は、個人レベルでみると、多くの場合攻撃性や積極性は高まります。
その結果、労働力の嵩上げにつながることが予想されます。

結果的には、

  1. 勤労世代の労働力率を高め
  2. 老年世代の退場を早めることで集団は若く保たれる

これ、集団レベルで見れば、よくない?
為政者からすると、都合いいんじゃない?

例えれば、エンジンにニトログリセリンを入れるようなもの。
エンジンの寿命は縮むが、出力はあがる。

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

最近の「ネトウヨ」に限らず夜郎自大的な「日本礼賛」記事は、昔からありました。
そんな中によくある「日本人は勤勉で」という文言に関しては、塩分過多で、やや発揚型性格にチューンナップされていたせいではないのかな、と思ったりします。日本人の攻撃性が、アジアでの様々な惨禍に加担していたのかもしれない……とか思うと、塩って怖いかも、とか思うのでした。

*1:はっきりいうと、死ぬということです。前近代は、平均寿命から健康寿命の差がほとんどありません

塩の効用 その1:

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いま私の所属している医療法人の基幹業務は透析、つまり慢性腎不全の患者さんが多いわけです。腎不全は、当然塩分のとりすぎに気をつけなければいけません。
加えて私は肝臓も専門なんですが、末期の肝硬変で腹水がたまる方にはやはり塩分制限が必要になります。

高血圧にも、心不全にも、塩分制限はとても重要。*1

* * *

ただ、塩分制限に関しては、日本人はちょっといい状況にあるとはいいがたいんです。
日本の伝統食ってばくぜんと「健康である」「欧米のセレブにも絶賛されている」というイメージが独り歩きしてますよね。
でも、致命的な欠点がいくつかある。
最大の問題がその塩分なんです。

日本食は塩分が多い

日本人の塩分摂取量は現代でも一日平均12-13gと、世界各国の中でも多い方。
ちなみにWHOの摂取目標値は一日5gです。
入院している人に「病院食」として出しているものが6gくらい。
多くのご老人が「味せえへん!こんなまずいもん食えるかい!」と怒鳴りつけるレベルです。

参考までに、世界の中で塩分摂取量について(ネットで拾ってきた画像です)。
日本の立ち位置はこんな感じです。
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これは現代の水準で、これでもかなり改善された状態。

高度経済成長時代の長野や東北諸県での塩分摂取量は推定20g前後という記録もありました。
漬物や、味の濃い味噌汁が諸悪の根源だったわけです。
その頃は日本も脳卒中が大変多かった。減塩政策でだいぶましにはなったんです。


塩分摂取過剰が健康に悪いという話は現在では明らかです。

しかし、前近代の日本では、なぜそのような塩分を多量に摂る文化が培われ続けられたんでしょうか?
我々の文化は、伝統は、なぜ「体に悪い」食習慣を守り続けたんでしょうか。

* * *

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))

(以下の知識の一部は「肉食の思想」を参考にしています。大学生の時に読みましたが、少しものの見方が変わるオススメ本です)

理由の一つは、おそらく気候。
日本は高温多湿ので、温帯というよりむしろ亜熱帯の気候です。
さらに、そこで、農作業をする。
上表の上位にある国はタイ・韓国なども含め、みな労働集約的な農業国なんです。
昔は日本も例外ではなかった。

高温多湿の亜熱帯気候では、もっとも暑い時期に雑草が繁茂する。
そのため日本の農業では丹精込めて草取りをする必要があります。
対してたとえば地中海では、夏は乾季で日本ほどは植物の成長はないため、日本ほどは暑い時期の農作業の必要が乏しい。
もう少し高緯度の麦作だってそうです。
牧畜業の人たちも草取りなどはしません。
そもそも日本の雑草が牧草です。動物達にとって理想的な餌が、勝手に生えるわけです。
ヨーロッパでは農業はどちらかというと「怠けていてもできる職業」「勝手に育つものを収穫する」
職業だそうです。

対して、日本含むアジア諸国では、高温多湿のもっとも暑い時期に、肉体労働は避けられない。
発汗による塩類喪失。
下手したら死んじゃいます。
それを補うため塩分を多く摂取する習慣が培われたのは想像にかたくない。
もちろん、塩蔵による食物の保存方法、海が近く塩分の入手が容易であることも理由でしょう。
同じく暑い地域であるケニアのマサイ族の塩分摂取量は3g程度らしいですし。

* * *

ちなみに日本食には特徴はもう一つあります。
それはエネルギーベースでみると炭水化物の比率が異常に高いこと。
これは牧畜に向かない地形気候のためです。
キリストの宣教師は日本に滞在する時には肉がなくて閉口したという文献もあります。

基本的に日本食というのはエネルギーベースでいうと「貧乏食」らしい。*2

炭水化物の比率が極端に高い状態で、飽きずに食事をこなすためにどうするか。
そのためには多分味付けが必要になってくる。
塩分は単調なでんぷん質を押し込み、カロリーを補給するために味付けとして重要な役割を果たしたと思われます。

ある種、塩は文明そのものです。

マサイ族には高い文明はなく、食文化の欠如ゆえ塩の摂取の必要はありませんでした。
ただ、単位面積あたりに養う人口も少ない。狩猟・採集文化によって様々な食物を食べていた彼らは、自然のものだけでも
相当なバリエーションの食物を食べ、味付けなどを必要としませんでした。
土地のエネルギー収量限界まで耕作をし、単調な食材に変化をつけるため、味を追求する必要もなかったともいえます。

日本食では「ご飯」が主食。
「おかず」はご飯を食べるためにある。
この「ごはん」「おかず」概念のため、塩分摂取が構造的に多くなっています。

最近は糖質制限ダイエットがはやっていますけど、あれを実践し「ご飯ぬき」にしますね。
おかずだけを食べると、やたら塩辛くないですか?
逆に「ごはん」という存在が、いかに塩分を必要としているか、ということでもあります。

つづく。

その他のBlogの更新:

私は現在自分で主催するバンドはすべて休止しているのですが、11月は3つイベントが重なってしまって、ややてんてこまい。
特に一つはホーンセクションのアレンジとかもあるので、時間をくうんだなあ(私はNotionというソフトを使ってます。iPadで、
出張の出先などでも譜面が組めるのが便利ですね)。

しかし、たまにやるポップスは楽しいですね、やっぱり。

*1:そういやピロリ菌による胃がん発がんがはっきりデータで出る前には、胃がんは高塩分食が引き起こすなんてのもありました。あれは結局交絡因子だったのではないかと思いますが、実際のところどうなんでしょうね。

*2:蛋白不足は大豆および漁業で補っていた

メメント・モリ

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ACP(アドバンスド・ケア・プランニング)に関する講習会を聴いてきた。

高齢であり、多死社会である。*1
仕事として死に立ち会う機会も、個人的にずっと増えたと体感する。

いま僕のいる街を見渡してみても、団塊ジュニア世代を当て込んでつくられた結婚式場などが、気がつくとどんどん葬祭会館に変わっているのである。街は全体的に静謐になっている。
でも、この葬祭会館も、人口がさらに減ってしまったら、どうなってしまうだろう?

そうこうしているうちに、日本の人口はどんどん減って、街は空き家だらけになる。
一世代も経つと小学校もどんどん統廃合されてゆくだろう*2

* * *

この講習は、そもそも地位包括ケア病棟協会が主体となって開催されたものだった。

ACP(アドバンスド・ケア・プランニング)という言葉は日本においてまだまだ知名度が低い。
その認知度に比例し多死社会の到来に対して、十分な準備もできていない。

「地域包括ケアシステム」の中核をになうべき地域包括ケア病床の加算要件に、今年度「人生の最終段階における治療指針」が加わったところから話は始まる。人生の最終段階、というオブラートにくるんだ言い方だが、要するに、死に際してどのような体制をとっているかどうか、ということだ。

地域包括ケア病棟入院料(入院医療管理料)1
適切な看取りに対する指針を保険医療機関として定めていること。

ガイドラインのひな型自体は厚生労働省から出ているものがある。
これをそのまま院内用にしてもいいわけだが、実際ガイドラインを適用するにしても、具体的な方法がわからない…という声が多かった。
ガイドラインという言葉を使っていはいるが、この「看取り指針」のテキストは割とふわりとしている。
具体的に「明日からこれこれを始めてみよう」という文章ではない。*3

看取りについての指針…について「うちは完璧ですよ!」と自信をもって言える病院は、多分多くない。
要介護4・5の患者さんを診ている療養病床のある病院や、特養など介護施設を持っている病院では、こういう看取りを以前から実践しており、看取りの達意のようなものはおそらく組織内に継承されている*4が、どちらかというと急性期寄りの病院では、看取りには直面していなかった。
今までやっていなかったことに直面する場合は、自分達のやっていることが間違っていないか、と不安にもなる。
*5

そこでACPの講習会となったわけだ。
ACPの知識を深めることは大事だし、地域ぐるみで死について考える時代にきているのは確かだ。

* * *

6時間くらいみっちりとした講習会であったが、いい講習会だった。
いいお話が多く、自分の中のACPの知識をアップデートさせることもできた。
私もそうなのだが、看取りを積極的にしている先生の熱いスピリットに感動したり、ナラティブ・メディスンが大事だよ、という話も、普段の診療の疑問に答えてくれるものではあった。

* * *

ただ、ACPの話には表と裏がある。
地域包括ケア「システム」のなかで、どうACPを考えるか、という大命題に対しては適切な講演だった。
しかし、地域住民を啓蒙し、職員を啓蒙して、種をまいても、それが社会で当然のものとされるまで花開くまでには随分時間がかかる。

今我々が病棟で困っているケースのほとんどは、すでに意思表示ができなくなった状態(看取りであったり、臨死期であったり)でACPなどの死に対するコンセンサスが取れていない時だ。
こういう事態に切迫している病棟関係者からすると、ACPの話は確かに「いい話」でとても大事なんだけど、
ちょっともどかしくもある。

残念ながら地域包括ケア「病棟」において、どう行動するべきか?という限定された条件
に対する、明確な答えにはまだ出会ったことがない。

死は人生の集大成である。
いろんな人生がある以上いろんな死の形がある。
家族が積極的に関わってくれないとか、DNARとるとらないみたいな話。
トラブルケースとか、そういう話は、ACPの大きな命題の中では「ちっせえ話」であることは確かだ。

しかし、そういう「ちっさい話」「しょっぱい話」のFAQとでも言える、いわば「ダークサイドスキル」の講演ってないんだろうか。

* * *

というのは「看取り」の話が診療報酬要件にでてくる意味も考えなければいけない。

診療報酬要件というものは、基本的に「標準化」「均てん化」したい事象に対して付けられるものであると僕は理解している。
その観点からすれば、ACPの話は、QOD(Quolity of death)に対して意識の高い医療従事者にはすごく訴求力があるが、病棟の、そういう意識の乏しい医療従事者には、多分響かない。(そもそも講習に行かない)
そういう医療スタッフも、マインドのある医療スタッフと、表面上は同じ行動をとれないか、というのが管理者として望むことだ。

「病棟で最低限こうした方がいいですよ」みたいな講義を聴いてみたいなあと思う。
あるいは、そういうルール作りをしないといけない。


その他のBlogの更新:

だんだん忙しくなってきたので、微妙に更新が減っていますね。
9月に移転してからBlogosphereの一角で何かを物申しているわけですが、正直にいって、レスポンスがあるようなないような状態です。
まあ、自分の考えをまとめるために、書き続けることにしましょう。

*1:特に田舎ほど、この傾向は強い。

*2:この時の選択肢は二つある。一つは小学校同士を統廃合させる水平統合。もう一つは垂直統合で、ガラガラの小学校の敷地内にこども園や老人/障害福祉施設が混在する、地域のハブに転用するシナリオ。このへんは今は縦割りである省庁間の利害調整ができれば、現実味があるかもしれない。

*3:逆に慎重に多種多様なシチュエーションでも論理的な破綻がないように、よく練られた文章ではある。

*4:うちもそうで、私は特養での担当医も兼ねており、そこでは看取りの説明を結構させてもらっている

*5:だからこそ看取りに対して皆に考えるきっかけを与えてくれた今回の診療報酬要件は、悪くないと僕は思った

生活保護について、僕が思うこと

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そういえば「健康で文化的な最低限度の生活」という漫画がドラマ化され、すくなからず膨れ上がった吉岡里帆の女優価値を少し毀損して終わったことは記憶に新しい*1
生活保護」は本来、社会制度でいうセイフティーネットに過ぎない。が、「生活保護」という言葉について回るもろもろには、偏見を始めとする様々なスティグマが付け加わっており、制度を直視することが難しくなっていると思う。

また我々一般の勤労生活者は、生活保護については、別の世界の出来事であり、正視することなく毎日を暮らしているのが実情である。
死がタブー視される以上に、生活保護はタブー視されている。

だから生活保護に関してなにかを書くと、炎上しかねないのですが、まあこんな裏路地みたいなブログ、大丈夫か。

* * *

町医者なんてやっていると、生活保護とは無縁ではいられない。
医療適否意見書を書いたり、薬を出せ出さないの押し問答、いろいろ枚挙にいとまがない。
退院支援も難易度があがる。

勤労世代で大きな病気を負うと働けなくなる。
結果、生活保護に転落せざるを得ない場合もある。
十分な資産なしに大病を患ったリタイヤ世代も、生活保護にならざるを得ないことはよくある。

* * *

生活保護、略して生保、ネットスラングでいうところの「ナマポ」の人は、ほんといろいろである。
一般的な通念通りのイメージの方もいる。
クソ野郎としか思えない人間も当然いるが、仙人か仏様のような悟りをもった人もいるのだ。

人徳における最低値と最大値は、生活保護の人も、生活保護ではない普通の勤労者も大きくはかわらない、と僕は思う。

もちろん、その平均値、重心などは違うかもしれない。
でも生活保護イコール怠惰で破綻者というステレオタイプの捉え方は、必ずしもあてはまらないことは言っておきたい。*2

* * *

僕は普通に働いてお金をもらっていて生活をしている。税金もいっぱい納めている。
だけど、想像力を働かせると、全く働けなくなる事態だって、今後ありえないことはない。僕は今の人生はたまたま初期スロットがよくてハイスペで、なおかつラッキーな要素もあって今があると思っている。そりゃ努力もしたよ。だけど、自分の力で勝ち取った能力がすべてじゃない。

自分が生活保護を受けている世界線を想像したことはないだろうか?
生活保護に関しては、そういう想像力を働かせて、寛容に考えるべきだと思う*3

生まれてから死ぬまで誰の世話にもならずに生きていく、ということは、人間不可能なんだから。

* * *

ところで、これは橘玲氏の著作の受け売りであるが、幸福の3条件として
「自由」「自己実現」「共同体〜絆」の3つがある*4

3つを実現するために、財産には3つのインフラがある。

  • 金融資産 =自由
  • 人的資産 =自己実現
  • 社会資産 =共同体〜絆

金融資産は、わかりやすくいうと、持っている財産のこと。
人的資産は、仕事などにおける自分の能力。たとえば医者であれば、換金可能性が高い人的資本をもっていることになる。
社会資産というのは、たとえば友達関係とか、そういう紐帯に関する関係。必ずしも換金性が高いわけではないが、人は共同体の中でのポジションによって幸福度が大きくことなることが研究でも示されている。


たとえば、孤独な引退した金持ち、は金融資産が多いが、人的資産・社会資産がゼロの状態。
少し前に話題になった「マイルドヤンキー」というライフスタイル、大都市圏に出ず、地元で、そこそこの仕事につきつつ学生時代の先輩後輩同級生の関係を尊重する生き方は、金融資産・人的資産よりも社会資産を志向していると要素分解すれば、理解しやすい。

この見方でいえば、生活保護というのは、金融資産がゼロになり、なおかつ短期的に人的資本による給与所得がなくなった時に支給されるものである。逆にいうと、社会資本については全く勘案されない*5

であるので、結論からいってしまう。
社会資本の多寡が、生活保護の人たちの幸福度に大きく影響する、ということになる。

社会資産の多い生活保護の方というと、なんとなく地域に根を下ろし、友達も多くて屈託なく笑う明るいおばちゃん、というステレオタイプが想像できる。彼女たちはそれなりに幸福そうに見える。
僕が関わるのは入院とか、外来などであるが、僕が居るところはほどほどの田舎なので、調子が悪く、受診する時にアパートの近所の人が連れてきてくれる。一緒に付き添ってくれたりする、なんて事例はそれなりにあるのだ。救急車に近所の人が同乗してくれる、なんてのもある。
入院になっても近所の人やお友達のお見舞いが絶えない人に対し、お金には不自由ない老後を送っているけど、近所付き合いがなく、家族親戚も遠方で、独り、の人もいる。どちらの幸福度が高いか、と考えると、結構微妙だ。

ただ、世間は「楽しそうにしている生活保護」の人に対し厳しい。
生活保護は人様の税金で生きているのだから「生活保護でスミマセン」という風にひっそりと身を潜めて生きていかなければいけない。という意見。ネットでの意見もそんな感じだ。

* * *

金がないのはしょうがないけど、それ以外のところでは幸福に暮らしてはいけないのかな、と思う。
我々に足りないのは想像力だ。

* * *

前述の「友達の多いおばちゃん」に対し、独居・独身の男性の生活保護者の多くは孤独で、幸福度も極めて低い。
たいていは喫煙や飲酒の依存があり、それは多くの場合改められることはない。
自尊心が傷つけられている人間は、自己を、自分の健康を尊重しないからだ。

どこかに明記されているわけではないが、一般的な通念として
生活保護は社会のクズ」「生活保護になったら人生終わり」という意見がある。
そういう日本的な固定概念(倫理的んブレーキ)が、生活保護が過度に利用されることを抑えてきたという歴史的経緯は事実だ*6

ただ、現実的に生活保護者は200万人を超えるし、「所得倍増計画」的な社会政策で解決することもできそうもない。
200万もの人間がこの制度で生きている以上、この生活保護に対する社会通念、概念もアップデートすべきではないかと思う。
この人数、ひっそりと生きることなどできはしないし、過度に溜まったルサンチマンは社会を不穏にする。
もちろん国民所得がじりじりと逓減している現在、バラマキもできないわけだけれども。

外国人に対して生活保護の適用を厳格化していく昨今の風潮や、反社会的勢力に対する厳格化は、一般的な層に対しては快哉かもしれない。しかし生活保護がなかったら死ぬしかない人が何をして生き延びるか、と考えると、窃盗・犯罪率の増加につながるわけで、生活保護の厳格化は政情不安とのトレードオフであることを念頭におく必要がある。

ベーシックインカムという制度は、この「生活保護制度」に対するスティグマに対する一定の回答ではないかと思うが、今の現状では実現は難しいだろう。はてさて。 

*1:私は漫画はみているが、ドラマはみていない

*2:もちろん、通常の仕事を営めないような面倒くさい性格の人も生活保護には含まれているので、過度にいいイメージを抱くと裏切られ感も半端ない。きっつー。

*3:ハリーポッターの作者J.K.ローリングも一時期シングルマザーで生活保護を受給していた事実は若干生活保護者を勇気づけるエピソードだ。

*4:この辺の「幸福学」とでもいうべき学問も最近はかなり進んで来ていて、幸福の条件については諸説あるが、この稿ではファイナンシャルな話でもありこの3条件を上げておく

*5:社会資本というのは可視化が難しいという面もある

*6:あとは担当部署による水際阻止作戦。ただ、これは一定の軋轢も非生産的な衝突や心理的なトラウマを残す。子供の頃に生活保護であることを役場の人間に馬鹿にされれたことで、今では就職して正業に就いているけど、権威に対する過度な反感を持っている人に出会ったことはあった。