半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

手段の目的化は、楽しい

2025, 山口

大阪から下関まで歩く

 最近、歩いている話を度々していたと思う。
hanjukudoctor.hatenablog.com
 実際のところ今でもずっと歩き続けている*1
 いろんなところを歩いているのだが、特に最近は西国街道という古い街道に取り組んでいた。これは大阪から山口県下関まで続く歴史ある道だ。西国街道は江戸時代に整備された主要街道の一つで、大阪の天満橋を起点として、兵庫、岡山、広島を経て山口県下関に至る約500キロメートルの道のり。
 参勤交代や商人たちが行き交った、まさに西日本の大動脈と言える道である。

 先日、厚東駅から下関まで歩き、これで歩いた軌跡としては大阪から下関までがついにつながった。

YAMAPで積算された軌跡

もちろん、一度に、ではなく、つなぎつなぎではあるのだが、大阪から下関までつながる道の全ての区間を実際に歩いたのは確かだ。*2

 そもそも歩くきっかけは、コロナ禍で体がなまったことだった。
外出自粛が続く中で運動不足を感じ、まずは近所を歩くことから始めた。
 それがいつしか歩くこと自体、そして歩いて軌跡を記すことが楽しくなって、今に至っている。
 
 歩く効用は確かに大きい。
 体力の向上はもちろん、季節の移ろいを肌で感じたり、普段は見ない風景にも出会える。旧跡や古い神社やお寺にも詳しくなった。
 また、「町と町の間」が僕にとっては結構楽しいのだ。町を外れて田舎道になり、曲がりくねった道を歩くと、だんだん次の町が見えてくる。
 この部分って、現代では車や電車で移動するのが当たり前になっているが、ここを歩くのが自分にとってはすごく面白いのである。

 だからこそ今後も続けていくつもりで、次はどこを歩こうか、石見銀山街道や山陰道萩往還道、東海道と夢は膨らむばかりなのだが、しかし少し冷静になってみると、これって「手段の目的化」じゃない?と思う。

手段の目的化

ビジネス本を読んでいると「手段の目的化」という言葉によく出会う。
往々にしてよくない文脈として。

「経営の問題のほとんどは突き詰めると手段の目的化に起因しているというのが僕の考えです。企業組織は目的と手段の連鎖でできています。上司の手段が部下の目的になる。そもそも組織には「手段を目的化するシステム」という面があります。放っておけば必ず手段の目的化に陥ります。
楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考)

ある部門がどうも暴走していたり、「こうあってほしい」と経営者が望まない状態に陥りつつある時に、この言葉が使われることが多い。
「局所最適と全体最適」という言葉もあるが、こういう言葉で事態を言語化し、打開策を検討するわけだ。

 私は2016年から医療法人の理事長を継承したわけだが*3、マネジメント的な本はずいぶん読んだ。
そうすると「手段の目的化」という言葉が往々にしてよくない文脈でしばしばでてくる。
 だから「手段の目的化」イコール「悪いもの」という先入観が刷り込まれていたわけだ。

 ただ、今回自分のありよう、を俯瞰すると、「手段の目的化」は、あながち悪いことではないのかもしれないと思った。
 西国街道ウォーキングを歩くのも「手段の目的化」にほかならない。僕が西国街道を最初から最後まで歩いたところで、何にもならないのだから。

 また、僕は歩行記録をYAMAPで記録しているのだけれど、月間歩行距離や月間獲得標高を「ノルマ」のように目標を決めていろいろ計画を立てる行為も、なんやかや色々楽しいが、これだって、別に大きな意味はないのではある。僕以外の人間には。

 そう、「遊び」の多くは「手段の目的化」で楽しさにレバレッジをかけているようなものだ。

「手段の目的化」のよい面

「手段の目的化」を経営視点を外して再考すると、プラスの側面も色々ある。

以下のようなものだろうか。

  1. ルーティン化・効率化が進む:手段が定着すると、繰り返しが効率化と技術向上に繋がる
  2. 文化や価値観として内面化される:継続した行動が組織文化や価値観となる
  3. 目的を補完・再発見する:繰り返すうちに、新しい目的や副次的な効果が見えることもある
  4. 不確実性の中での行動指針になる:目的が曖昧なとき、手段が判断の基準になることで動きやすくなる
  5. 創造性の源泉になることもある:一定の型を繰り返す中から、新たなアイデアや価値が生まれることも。

 「目的を見失わない」限り、手段の目的化は組織の優位性の源泉とさえいえるのかもしれない、と思う。


最近「ゲーミフィケーション」という言葉をよく聞く。
目的達成までのプロセスを「ゲーム」という形で興味をもってもらうことで忌避感を回避する。
これも、立派な「手段の目的化」の一つだ。
KPI=Key Performance Indicatorも、手段の目的化そのものだ。

まとめ

こう考えてみると、「手段の目的化」という言葉そのものは、別にネガティブなものではないことに気づく。

ただ、経営の現場では、意思決定者の意に反した状態を是正するために「手段の目的化」という言葉が使われる、ということなのだろう。

おそらく「手段の目的化」が問題になるのは、

  • ヒエラルキー構造の中で、下位の意思決定者が上位の意思決定者の意向から外れている時
  • リソース(時間・資金・工数など)が限られている時

だろう。
好景気の時は部門のある程度の裁量も許されていたけど、利益が出せなくなってきた時に、「手段の目的化」みたいな言葉でぎゅっと締め上げられることなんていうのも、そういうことだし、僕の遊びだって、仕事やプライベートに影響したり、可処分所得の域を超えたりしだすと多分問題にはなって来るはず。

無限に時間や資金があれば、そもそも優先順位を立てるという思考にはならない。「手段の目的化」みたいな形での見直しをする必要はないのかもしれない。

ともかく、「手段の目的化」イコール悪と決めつけていた自分の、反省文でした。

*1:平均15000歩を大体維持していて、これは月間300km以上にはなる

*2:厳密にいうと、大阪から下関まで完全に西国街道をコンプリートできているわけではなく、広島・岡山県では旧道を通っていない区間もあるので、じわりじわりと区間を潰していく作業が残っている

*3:もう10年目になるのか...おそろしい

田舎の崩壊を見て思った「百姓2.0」の話

2025,岡山。由加山参道

昨年度、うちの病院は営業収支がかなり悪くて、ああいやだなあと思う。
これは当院に限った話ではなくて、全国的な傾向ではあるのだが。

先日、医療介護業界の未来についての講義を聞いた*1
将来推計による未来予想の話。
相変わらず「人手不足はDXで効率化しましょう」みたいな話だったり。
ま、建前上はこれくらいしか言えないのはしょうがないんですよね。

でも冷静に推計を見ると、働ける人の数によって決まる医療資源の供給量と、将来必要な医療・介護の需要量は、全然噛み合ってないんですよ。
受験生にたとえて言えば、今の段階では、ちょっとずつコツコツ勉強して実力を上げるしかないんだけど、しかし冷静に考えると志望校の偏差値には全くもって足りない、みたいな状態。絶望感しかないですね。
このままだと絶対どこかで破綻するのは誰の目にも明らかなわけですが、不思議なことにまだなんとかなっていたりもするのです。*2

田舎では既に始まっていた

個人的には「将来こうなります」はもうええねん。
「多分今のままでは立ち行かなくなります」は、わかってんねん。
もちろん一般にはまだ明らかにはされてないかもわからんけど、大枚はたいてこういうの聞きにきてる僕らにはそこは自明なこと。
問題はその困難な局面で何が起こるのか。
それに対して、どう防衛策をとればいいか。
それが知りたい。

ですけど、それに対して正面切って答えてくれる講演ってなかなかないですよね。
ま、崩壊は複雑系で、細部に至るまで予想することはできないですけどね。

「崩壊ってどんな風になるんだろうね?」って漠然と話していたら、人口の少ない地域で診療している先生と話してみると、「田舎はもう全然崩壊が始まってるよ!」って。

聞いてみると、本当にすごい状況でした。
医者のいない地域がどんどん増えてる。居るとて、地域の開業医も平均年齢が70歳超え。
介護も、たとえば訪問診療とかも、人口少な過ぎて、一日で回る人が少なくてペイしなくて困ってる。
夜8時以降はタクシーも呼んでも来ない。
タクシーもいないから。
だから飲み屋は困ってる。
しょうがないから飲み屋の方で車を出して客を送ってるとか。

そう。過疎化が進むと、都市部で当たり前だった「職業分化」自体が消滅してしまう、ってことだ。と気づきました。

なんでもやる人になる

人が減ると、専門職として成り立ってた仕事が成り立たなくなる。残った人たちは必然的に「なんでもやる人」になるしかない。
確かに医学の領域ではそうだった。プライマリはなんでも見れないといけないわけだし。
非医療の世界でも全く同じか。

でも、ふと思ったんです。
これって「百姓」の本来の意味に立ち戻ってるだけなのかも。
百姓って農民のことじゃなくて、もともとは「百の仕事をする人」つまりなんでもやる人って意味だったんですよね。

AIと組み合わせたら面白いかも

誰でもいないところでやったことない仕事をするというのは確かになかなか大変なことではある。
けど、AIが一つのヒントになるような気がする。一人でいろんな仕事をしなきゃいけない時に、AIが専門知識を教えてくれたり、判断を手伝ってくれたりする。AIと教育的なyoutube動画とかを組み合わせると、もしかしたら、かなり精度の高いレベルまでできるんじゃないでしょうか。

これって「百姓2.0」?
人口減少という課題は、最新技術が組み合わさって、意外と面白い未来が待ってるのかも。

都市部で高度に専門分化した文明の発展も、色々システムの不調や劣化で行き詰まってる中、地方は何もない分、新しいスタイルに活路を見出すことができるのかもしれない。

AIがあると一人で生きられるかも

映画「オデッセイ」で火星に一人残された主人公は創意工夫でなんとか生き延びることができた。ロビンソン・クルーソーも創意工夫で生き延びた。

普通の人は一人で生きていくことはできないが、しかし生成AIになんでも聞けるのであれば、現代のロビンソン・クルーソーは案外快適に一人の僻地生活を楽しめるかもしれない。

厳しい現実から見えてきたのは、案外希望のある話だったのかもしれませんね。
いや、そうでもないですか。
そうですか。

*1:ま、よく聞いてるんですけど

*2:ただ、先送りするとその分ツケが嵩むので、いよいよクラッシュした時の被害は甚大であろうと予想される。こわー

病院が消える日……なのかも


お久しぶりです。春の黄砂ってひどいですね。
黄砂なんだか花粉症なんだかわかりませんが。

さすがにやばいんじゃないか

報道ではあまりはっきりと直言しているところはないけれども、全国的に病院の経営がやばい。

もちろん、医療も介護も、原材料費の高騰・水道光熱費の高騰・人手不足などの悪材料がかさなり、うっすら全体的にイマイチなのだけれども、いわゆる入院施設のある「病院」が、きわだってやばいのだ。

もともと、病院は、たくさんの人員を動かして多大な資本投下によって運営するという、固定費変動費いずれもコスト高な業態ではある。
そして制度ビジネスである以上、価格も動かせない。
なおかつ、ここ10-20年、医療費の増大をできるだけ抑制すべく、儲かっている部分については2年ごとにさらにどんどん診療報酬を削るということを国はしている。21世紀に入ってからは、病院は利益率1-2%程度の生かさず殺さずになるように調整されているのが現状だ。
というのは、高度で高額な医療は大体病院でやっているからだ。だから国としては当然ここを抑えたいわけ。

そんな中、昨年6月の診療報酬改定では、一応医療全体で0.44%の増という形だが、支出は間違いなく増えてしまった。
3〜5%の物価上昇と、働き方改革による労働資源の制限を受けて、多くの病院が赤字になってしまった。

2023年は、まだコロナの補助金があったので、なんとなく帳簿上は傷が可視化しにくかったのだが、2024年はコロナ関係の加算や補助金が消えてしまったので、すとんと業績が落ちて赤字があらわになった、というのが2024年度ではないかと思う。

「生かさず殺さず」と思ってたら、思いのほか外部条件が悪くなりすぎて「あら死にそう?!」となっている、ということなのだ。

明日のお米もないんです

当院も当然ながら業績はよくない。
病床稼働率も限界近く上がっていて(つまり病院として仕事はきちんとしているわけなのである)、収入自体は去年よりもよかったりもする。
が、それでも黒字には届かず堂々の赤字。
めっちゃ頑張ってても黒字にならない。*1
うちは原則として赤字体質ではないので「うちでここまで業績悪いか…」とため息をついて周りを見渡すと、総じて状況は厳しく、資金繰りに窮する医療機関もあるようだ。

ちなみに、コロナの時にも、病棟閉鎖や外来閉鎖などで資金繰りが厳しくなった医療機関にはWAM(医療福祉機構)から、実質無利子・無担保の融資(ゼロゼロ融資)という制度があった。
無利子無担保で総額二兆円。
資金繰り困っている所は結構お世話になったみたいだけど、無利子とはいえ、返さなきゃいけない。返済は去年くらいから始まってるけど、こんなに業績が悪かったら、借金を返すどころじゃないわけで、シャレにならんらしい。

最近は運転資金が枯渇した医療法人に対する有担保・無担保の貸付みたいな新制度もあるらしいが、
これって一言でいえば「ごめんなさい、もう明日炊くお米もないんです」状態なのよ。
貸し付けたところで焦げ付く可能性も高そうだけれども、政策的にこうした融資を設けざるをえないようだ。

日本にとって30年続いたデフレ局面がインフレ局面に反転するのは久しぶりなもんだから、制度の変更にワンテンポ遅れて、このような実態が出来したんだと思う。おまけに政権基盤が弱いし、医師会などのロビィ活動もあまりうまくいってない。

僕の予想では、誰もが知ってる有名病院が、倒産、みたいなことが今年起きるんじゃないか。
まるで昔の山一證券の時みたいに。
そしてみんなが騒ぎ出す。
逆にいうとそこまで起こって、地域住民だけじゃなく日本のインフラの問題だぞ、みたいに世論のコンセンサスが得られないと、この事態は変わらないのかもしれない。

救済した、とて

ただ、中長期のトレンドを考えると、ここで赤字病院に巨額の資金をつぎこんで救済したところで、例えば5年後、10年後は人口動態が激変(基本的には人口減)するから、いまあるすべての病院が存続できる需要はない。

地域医療構想などの「合法的談合」によって病床を削減して緩やかに減少する医療需要に対応してゆくという「ソフトランディング」が本来は国の描いたプランだった。しかしコロナ禍とスタグフレーション寄りのインフレ、政権基盤が脆弱な現政権は舵取りができず、操艦不良により、ある程度ハードランディングを覚悟せざるを得ない事態になりそうだ。

「潰れてゴメン!でも10年後には君んとこどうせ潰れるしね!」って感じが、国の本音じゃないか。

ただ、いい病院が残るとも限らない

病院経営者にとってこのような環境は全くたまったもんじゃなくて、ゲロ吐きそうな気さえするけれども、国民に、特に勤労世帯とっては、悪いことばかりではない。
手取りが増える可能性がある。病院が減ると、医療費総額は減り、社会保障費は減少するからだ*2
その意味では健全な淘汰は業界のためにも必要でもあるとは言えるが、今回のような激変の場合、いい病院、必要な病院が潰れてしまう可能性もある。
残る病院がいい病院とも限らないのだ。

例えば、経営効率も悪くて現在あまり医療として貢献できていない地方の赤字公立病院は、財政補填されれば生き残る可能性もある。
逆に民間病院で世代交代した若手経営者の手により積極的な経営で急成長している素晴らしい病院は内部留保少なく資本回転しているのが裏目にでて、今回の改訂がかなり逆風になって、ショック死してしまう可能性だってありうる。

地球の歴史においては何度か大量絶滅というのは起こっているが、その時、環境適応性の高い種が生き残るとは限らなくて、絶滅するかしないかは結構運次第、という現象に似ているかもしれない。

だから、病院の淘汰を今回のような短期的な環境激変にゆだねるのは良くないンジャナイカナ……なんて思うが、しかし合理的に淘汰される病院と残すべき病院を分別する方が、救いがないような気もする。

要するに、ロシアンルーレットで殺されるよりも、「色々熟慮の結果、君は存続に値しないようです」と丁寧に説明されて殺される方がきつい。真実って時に残酷なもんだから。

*1:病院単体では赤字なのだが、他の業態すべて含めると黒字だし、内部留保もちゃんとあるので大丈夫ですよ。

*2:過疎地に住んでいる人、高齢者にとってはこの状況はマイナスに作用する可能性が高い

手段と目的。では人生は?

2025年, 岐阜

ビジネス書や経営の本を読んでいると、よく目にする言葉があります。「手段と目的の取り違え」。

多くの経営者は、利益を目的と考えている。しかし、利益は事業の目的ではなく、事業活動の妥当性を測る尺度である。(ドラッカー『マネジメント』)

とか古典的な経営の本にも書いてある。松下幸之助も同じようなことを言ってる。
最近のビジネス本にもよく書かれている。

経営の問題のほとんどは突き詰めると手段の目的化に起因しているというのが僕の考えです。企業組織は目的と手段の連鎖でできています。上司の手段が部下の目的になる。そもそも組織には「手段を目的化するシステム」という面があります。放っておけば必ず手段の目的化に陥ります。(楠木建の頭の中 戦略と経営について)

なるほど、そうだよなーって思います。
私も仕事してて「なんでこれやってるんだっけ?」って立ち止まって考えることがある。形だけ残った業務プロセスとか、本来の目的を見失った会議とか。
そういう会社の課題を洗い出した時の解決法として、「手段が目的になってないか」という観点でスクリーニングすると、2,3割の問題は片付くように思う。*1

ビジネスの世界では、この思考回路はなかなかうまく機能するツールだと思うんだけど、もっと視野を広げて(もしくは狭めて)、人生っていう文脈で「手段と目的」を考えてみたら、どうなるんだろう?って。

「会社」ではなくて「俺」の手段と目的ってそもそもなんだ?

人生の目的

古典的な哲学からいうと、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人生の目的は「幸福(エウダイモニア)」にあると考えている。
ただの快楽や富じゃなくて、徳のある生き方を通じて達成される最高の善だって。
ま、これはなんとなくうなずけるような気もする。

でも実存主義の哲学者サルトルは違う考えで、人生には最初から決められた目的なんてないって。「人間は自由の刑に処せられている」っていう有名な言葉が示す通り、私たちは自分で目的を見つけて、選んでいかなきゃいけないんだって。
うんうん、これもなんとなくわかるよね。

あれ、でもこの二つは真逆のこと言うてる。

もし、サルトルの言うように人生に決められた目的がないとしたら「手段と目的の取り違え」っていう考え方は、いったいどういう意味を持つんでしょうね。

そもそも人生に目的はあるのか?
つまり人生に意味はあるのか?
それなら、死に意味はあるのか?

どの時代においても、人類は、恐怖、病気、苦悩、死に直面してきた。そして、文明を定義するのはいつも死との関係に他ならない。
死に意味を付与することに成功すると、その文明は繁栄する。逆に死に意味を見出すことができないと、その文明は消滅する。(ジャック・アタリパンデミック後、あたらしい世界が始まる)

死に意味を付与する。
ほとんどの文明では死後の世界、というものが(真偽の実証をさしおいて)省察されており、我々が死という現象の無意味性に耐えられないことを暗に示している。

そして死に意味を付与することは、生、すなわち人生にも意味を付与することともつながるはずだ。

死がないと仮定したら?

ここでちょっと想像しよう。
もし私たちが不死の存在だったとしたら?

無限の時間があるなら、全部のことを順番にすればいいわけで優先順位をつける必要はなくなる。
「手段と目的」っていうのは、有限の指し手の中で物事に優先順位をつけて行動するからこそそういう思考回路になるわけで、もし指し手が無限だったら、そこではあんまり意味がなくなるかもしれない。


つまり「手段と目的の取り違え」っていう問題は、「人間あるある」、つまり定命の存在である私たち人間ならではの課題なのかも。
決められた時間の中で、何を優先するのか。
何を大切にして生きるのか。
その選択を迫られているからこそ、手段と目的を取り違えることが問題になるのかもしれない。

たとえば「葬送のフリーレン」ではそのあたりに少し踏み込んでいるように思われた。不老のフリーレンと老いてゆくかつての仲間。
その考え方の懸隔などが丁寧に描かれている。

いま生成AIの成長が目覚ましいが、彼らもまた不死の存在なわけである。
シンギュラリティを超えてAIが人間から独立した知性を持ち得たら、それは不死の叡智ということになる。
そういうAIは「人間って不思議な思考をしますよね」と人間の思考を非合理なものに思うのかもしれない。
AIの生理学的条件で思索を重ねると全く別の思考になってしまうのではないだろうか、とも思った。

自分のこと

私、今年50になりました。
時々半世紀もの自分の人生を振り返ることもある。
誇るべき目的や意味が僕の人生にはあるのか。
正直よくわからない。
わかりたくないだけかもしれない。
うっすら無意識下に追いやっている。

幸福や不幸は心の絶対値ではなく微分的な差異にある。だから毎日淡々と生き、大きな浮き沈みもない今は、すごい幸せでも不幸でもなさそうだ。

しかし外部条件の大きな変化に耐えうる堅牢さがある、と言うことは、たぶん幸せといってもいいのだろうな。

*1:もう一つ便利なモジュールとして、「局所最適を全体最適より優先していないか?」という言葉ね。

100kmウォーク 考察編

初めて参加する人に向けて

前回は旅程をダラダラ書き連ねてみた。
読むだけでも長々しく恐縮だが、読むことで100kmウォークの冗長さを追体験していただきたかったからである(強弁)。

今回は100kmウォーク体験を総括してみようと思う。
とはいえ私など、参加も二回目、今回初めてウルトラウォーキングに成功した程度のウルトラウォーク界のひよっこである。

ウルトラウォーク勢は全国に数千人いると思われるが、その廃ウォーク勢の人たちは、日々スタイルの洗練に余念がないはずだ。
ただ、そういうベテランのアドバイスは、「ちょっとやってみたい」勢には響かないかもしれない。
だから初心者の私の体験とふりかえりを書いておく。
初めてエントリーする人向けには参考にしてみてください。

前回も書いたが、大きな休憩もとらず100キロを一気に歩くウルトラウォークスタイルは、生理的でもない。
かなり特殊なスタイルであり、だからこその危険な魅力に満ち満ちているのだとは思う。

靴:

100kmウォークの要諦は、半分以上靴にあるといっても過言ではない。
20-30kmを歩いても足の皮膚へのトラブルはあまり起きない。(むしろその時点でトラブルが起きるなら靴が根本的に合っていない可能性が高い)
しかし50kmを超えると皮膚へのトラブルが生じ始める。つまり靴内のトラブルはウルトラウォークならではの現象であると言えるわけだ。
対策の基本原則は、

  • 足をドライに保つ。蒸れた部分は水膨れやマメになりやすいから
  • 靴と足の接触圧の強い部分は皮膚が痛み、水膨れになる
  • 反対に隙間がありあそびの強い部分では皮膚が繰り返し摩擦され水膨れの原因になる。
  • 靴底は柔らかいものをおすすめする

とにかく、靴はフィットしていればトラブルのリスクを間違いなく下げると思う。
私は9月は普段履いているHOKA Bondai 8で参加した。
これはやや母趾球のあたりがゆったりしてて靴内にあそびがあるために皮膚が水膨れでベロリと剥がれてしまった。
それを反省しHOKA Skyflowを試してちょっと良さそうだったので11月はそれで参加。
これは割に足の形にあっており、テーピングも併用し、水膨れは最小限で済んだ。

既成のスニーカーが足と完璧にフィットすることはあまり期待できない*1
圧が高い場所、低い場所の濃淡はどうしても存在するはずだ。

50kmを超えると皮膚のトラブルが出現すると先ほど述べたが、20-30kmでも、前兆というか、圧が強い部分の軽い痛みや発赤は生じる。その場所は要注意な箇所。
その部位をマークしてテーピングを行うべき。
テーピングの方法はWeb上にたくさん載っているのでぜひ調べてみてほしい。
とにかく、自分の足の皮膚に関する解像度を上げることだ。

私は厚底で有名なHOKAを通常も愛用しており、これはウルトラに向いていると思う。*2
100km歩くのは足底のアーチに相当の負荷をかけるので、底の硬いシューズはアーチの痛みでギブアップする可能性もあるかもしれない。

これもウォーカー勢の常識だが、足をむらさないためには、5本指ソックスがよいらしい。
私は9月はイトイエックスの和紙製5本指ソックスを用いた。確かにドライに保てるメリットを感じたが、繊維がやや硬く、摩擦が生じるとむしろデメリットが大きい(私は足裏の水膨れにつながった)。11月はInjinjiのウールの5本指ソックスにした。
これはインナーソックスでその上に普通の薄手のソックスを履いて二重ソックスにするスタイルになる。
今回雨が降ったが、二重ソックスなのが良かった。表は濡れつつも奥のソックスは少しましな状態であったから。ただ、蒸れやすい夏場は逆の結果になる可能性はある。

Gore-Texの靴は意外におすすめできないと思う。雨濡れは避けられるが、靴中の足の蒸れが問題となる。
Gore-Texは確かに透湿性はあるが、そうはいっても水が外に排出するまではどうしても蒸れる。
そのほんのりした蒸れは足の皮膚を柔らかくするのには十分で、水膨れの元凶になると思う。
レインカバーも同様の理由でおすすめできなさそうだ(蒸れはゴアよりもさらにひどいはず)

雨降り対策は、1: 替えの靴下はしっかりもっておくこと、2: とにかく内部をドライに保つことが必要。
だが、僕にはまだ定見がない。できれば雨の日は棄権したい、とさえ思っている*3

服:

9月は酷暑だった。反対に11月は秋で冷えが予想された。

9月は、昼間は熱中症対策で、短パン・半ズボン、夜はコンプレッションタイツと上には薄手のウィンドブレーカーだった。
暑さ対策としては成功したとは思うが短パンの時に股擦れを起こしてしまった。ので短パンの下に短いタイツを仕込むべきだったと思う。あとは氷水をコンビニで購入しては飲む/ぶっかけるの繰り返しが奏功したように思う。

11月は、反対に寒さ対策。
アクティブインサレーション+ベースレイヤー。
に加えてGore-Texのレインウェア(Arc'teryx Norvan)とサーマルウェア(Arc'teryx Atom Hoody)を用意した。
雨が降った時はレインウェアで防ぎ、エイドで寒い時はAtomを羽織る。また夜の一番寒い時期はレインウェアの下にAtom Hoodyを着て対応した。
下半身は North Faceのパンツと、下はCX-Wのコンプレッションタイツ。

服に関しては登山とかのレイヤリングの技法を応用できる。
暑い時は夏山登山、寒い時期は秋山登山に準じて用意すればいい。
ただ、トレランや登山に比べると自分の身体からの発熱はやや少なく、岩稜帯にくらべると風は強くない。ビバークする可能性もない。
だから思い切って一段階弱めて荷物を減らすのも有効なはずだ(山と同程度に万全にすると、装備は少し重くなる)。

ザック:

山歩きとかウォーキングでUL思想に触れていたので、携行品についてはある程度迷いなく準備できた。
9月にはあれもこれもと不安を打ち消すべく準備しすぎて、荷物が重くなりすぎて自滅した。
Arc'teryx Norvanで準備したのだが、荷物が入りきらなかったので、押し入れに眠っていたホグロフスの15Literを引っ張り出して使ったのだが、これはボトルの取り回しが悪く失敗だった。
その反省を生かし秋はPaagoWorksのRush 20literを用意して、これはとてもよかった。
ウェストポーチは用いないがKAMPARAのサコッシュを、カラビナでウェスト側に吊るして使用した。

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唯一失敗したのは、トレッキングポール。
ヘリテージのめちゃ軽いポールを持って行ったんだけど、正直一本でよかったと思う。
しかしおまけにゴールで忘れて帰る始末。
ポールは一本でいい。

食べ物:

コンビニが多い街中では、食べ物をたくさん持ち歩く必要はない。
とはいえ、ハンガーノックは時に出現しうる。
塩味系と甘み系の補給は最低限持っていけばいい。
トレラン用のジェルもマグネシウム補給(こむらがえりにいい)に持っておこう。
あと、キレートレモンのむくみは、長時間歩行の時の手のむくみにかなり効く感じである。
コンビニで入手できる行動食としては、グミがいい。
まあコンビニには炭水化物は豊富に売っている。

筋力とマインド:

百里の道は九十九里を半ばとすべし」という言葉がある。
これは極端だが、全行程を100kmとすると、75kmを半分、くらいに思っておいた方がいいかもしれない。
後半は前半にくらべてやはりきついと感じた。

もしかしたら、経験を積めばだんだん、疲労の点での中間地点がだんだん補正されるのかもしれない。
最初は75kmが半分、くらいの疲労感が、60km地点を半分と感じるようになる。
 実測と同じく50kmを半分と感じて淡々と歩けるようになったら上級者なのかもしれない。

練習の必要性:

前述の靴のフィット具合をみるためにまずは30km程度歩いてみることをお勧めする。
30km歩けたら100km歩ける、と廃ウォーク勢にアドバイスいただいた。
確かにそうかもしれないから、30kmくらいは事前に歩くことをすすめる。
もちろん40-50km歩いてもいいし、ファストウォークで10km歩くとか、練習はするにこしたことはない。

眠気。

ゾンビ問題である。
どうしても夜半から明け方に眠気は訪れうる。
カフェイン飲料やカフェインタブレットなども推奨されるが、ダメな時はだめだ。
ゾンビのように速度を落として朦朧と歩き続けるか、それとも路傍で仮眠をとるかは個人のスタイルだと思う。
どっちにしろ「身体に悪い」と思える瞬間。
 いずれにしろ眠気をどういなすかも、この競技の独自のポイントだとは思う。

ペース

11月の完歩の時は基本的には巡航速度5kmと漠然と見積もり、多くの区間では時速5km弱を維持できたが、
結果的には25時間22分。平均時速としてはならして4km程度。

休憩の時間や、疲れや眠気で速度が落ちる区間はかならずある。
ので時速4kmで休みなし、という雑なシミュレーションだと結構厳しいと思う。練習をするなら時速4.5km、5km、可能であれば6kmで歩いて巡航速度を慣らすのがよいかもしれない。

意義

結局のところ、ウルトラウォークはどうなんだろう。
身体にいいか悪いかでいうと、多分ちょっと悪い。
夜を徹して歩くというのは正気の沙汰ではない。それにこれだけの長時間運動を続けていると、筋肉の自己消化が始まるらしく、筋肉量も減ってしまうそうだ*4
また、多くの人が痛みを和らげるために解熱鎮痛剤を使うらしい。それもだいぶ身体に悪い気がする。*5

一方、ゴールした時の達成感、脳内麻薬、自己肯定感などは、多分他にはかえがたいもの。
なかなか普通の生活では味わえない体験ではある。興味があれば、軽い気持ちで応募してみるといかがでしょうか。

ウォーキングのイベントは案外多い。
まずは地元のイベントや、普段何でもなく車で移動する道を歩いてみるのはいかがでしょうか。

*1:もし完璧に合えば、それは文字通りシンデレラフィットと言うべきだろう

*2:実際に使用者は多かった

*3:今回は棄権のタイミングを逃した

*4:ただ、遅筋は鍛えられるようで、体幹のねばりみたいなものはおそらくロングウォークで磨かれる可能性がある

*5:筋障害などの腎機能障害に加えてNSAIDsは、内科的にはかなりいけない感じがする

100kmウォーキング。

11/23-24は第三回京都ウルトラウォーク103kmに参加していました。

ウルトラウォークは、異常なイベントです。
健脚の昔の人も、基本的には一日に40kmくらいで宿に泊まるわけです。そして翌朝また歩く。ロングトレイルとかもそうです。
しかしウルトラウォーキングは一気に歩くスタイルなんです。制限時間24時間とか28時間とかで。いやー、すごいですね…
でも恐ろしいことにまあまあ流行ってるんですよ。

今回私は二回目の参加。
9/14-15はしまなみ海道ウルトラウォーキングに参加したんですが酷暑や股ずれや靴擦れもろもろで75km地点で無念リタイヤ。
今回はリベンジマッチの気持ちで参加したわけです。
一応103kmの旅程を紹介してみます。
まず、コースはこれ。

ウルトラウォーキングのコース

すごいよね。でもこれ前回よりも10km弱縮めたらしいよ。

スタートから第一エイドまで。

スタート地点にて。

長岡京細川氏明智光秀ゆかりの勝龍寺城集合。
とりあえず私は初心者なので、参加者がみんなすごい人に見えます。受付をして開会式を待つ。

スタート。
最初はダマというかダンゴというか、集団の中をゆっくり進む。長岡天満宮前を右折し北上。
前後に参加者がたくさんいる状態で、なんとなくグループ参加の人たちのおしゃべりを聞きながら歩く。
少し上りになり竹の小径をぬける。京都らしいいい雰囲気。
そこを抜け東進すると再開発されたイオンモール併設の桂川駅。そこから少しいくと第一エイド。
ここまではまだまだ元気。

第二エイドまで:

第一エイドではおにぎり二個。まだまだ混雑している。コンビニのトイレも行列していたので、出発して、そこから少し離れたスーパーのトイレを使用させてもらった。

そのあとは淡々と桂川街道を独り北上する。
ここらへんはあまり記憶にない。podcastのコテンラジオをお供に黙々と。
桂川の南岸に至ると、京奈和自転車道
ひろびろとした河川敷を車の心配なく歩けるのはありがたい。河川敷を遡上し、嵐山に到着。
渡月橋は行列。すごい混雑。
一年を通して最も人出が多い季節。

店もたくさんある。けど、なんとなく心理的な余裕がなく、スルー、スルー。
うろうろする余裕はまだ僕にはない。
橋を渡って今度は北岸をしばし歩く。少し登りになり、亀山頂上展望台。

展望台

疲れに登りはしんどい…と思いつつ、雨が降りだした。
徐々に雨足が強くなり、Gore-Texのレインウェアを着込む。
折り返し地点の愛宕念仏寺まではとにかく人が多く、まごまごしながらもなんとなく到着。
この辺りは携帯の接続なのか、google mapが反応せず難儀した。
そこからはひたすら東進。広沢池をこえると、第二エイドのコンビニ。この時点で16時。

第三エイドまで:

第二エイドは手で食べられる串なしみたらし団子。雨が降っていて休むところがない…テントの隅っこを使う。
エイドを過ぎて雨がさらに強くなる。
この辺から本格的に集団がばらけ始める。雨は止みそうもない。
仁和寺二王門、龍安寺立命館金閣寺北山通り。
鞍馬街道を北上する。もう日もとっぷり暮れて寒い。

ここから鞍馬までは四〜五人の集団に加わる。
レインポンチョを着た慣れた様子の女性が、ロスの少なそうな歩行で淡々と時速5km弱で巡航しており、
その方についていく格好となった。
無言で数人が同じ速度で歩く。自然発生した隊列で淡々と歩く。暗黙の了解で時々引っ張る人が交代する。
山間部の暗い自動車道。市原からさらに道の斜度が上がる。しかし雨はやまない。

第三エイドに着くと19:30。雨はやまない。カップラーメンをすする。塩味と暖かさがありがたい。

第四エイドまで:

第三エイドで確認するとソックスはやや濡れている状況。
だが、鞍馬の薬王峠。不整地の坂で、おまけに雨。どれだけ濡れるかわからないので、靴下を替えるのはその後にする。
とはいえ僕は山には慣れているので、まずまず楽しい息抜きだった。
単独でナイトハイクには躊躇う程度の道だが、何人も通り過ぎるので、なんとなくライトで道が示せるので迷いにくい。
先ほどの集団とは離れてしまい、単独行に。

むしろそのあとの舗装路で雨の方が身体に沁みてつらかった。
静原から市原、二軒茶屋、宝が池から白川通りを南下する。
指定コンビニにて一息つくと流石に雨は小雨になった。
ここら辺は一人で淡々と歩くことになった。
そしてアップルウォッチのバッテリーがついに切れてしまう。
アダプターでこまめに充電するが、あまり回復しない。

雨の道はつらい

ウルトラウオーキングは、マラソンのような駆け引きやデッドヒートは乏しい。
ぼくより早いペースの人はアクシデントがない限り落ちてくることもない。逆に遅い人が盛り返すこともない。
したがってビッグバンの膨張宇宙論のように、お互いの距離はどんどん離れてしまう。

指定コンビニから西進。京大、同志社の前を抜けて、京都御苑にいたる。
真夜中の御苑。だだっ広い都大路には誰もいない。それにしても先が遠い…
蛤御門を抜けてちょっと北に進み、西進し一条戻り橋。今度は南下して二条城の前を通る。
ここから御池通りを東進。二条通から平安神宮岡崎公園の前を通り、第四エイド。午前2時の丑三つどきである。

第五エイドまで:

第四エイドではお茶漬け。暖かい食べ物は冷えた身体にはありがたい。
雨足が弱まったせいか、足の濡れはマシになっていた。
今回は靴のあたりも少なく、靴擦れも水脹れによる痛みもない。
 しばらくはこの靴下でこのままいっちゃおうと思う。

永観堂南禅寺の近くは表示が少なく戸惑った。同道していた人の導きで迷わずすんだ。
真夜中の寺社地区をうろうろする属性もバラバラな一行。GANTZみたいだと思う。

華頂道を通り、八坂神社の前を通り過ぎ、ひたすらに東大路通りを南下する。
丑三つ時。勝林寺、東福寺あたりで便意が襲ってくるが、しばらくコンビニのないゾーン。
脂汗を流しつつセブンイレブンまで辿り着くもその店はトイレは夜間不能
幸いも500m先のセブンイレブンはトイレあいており危機一髪であった。
セブンイレブン伏見稲荷木橋店さん、本当にありがとう。

この辺のくだりはうんこのおかげで流石に眠気ゼロ。
しかし伏見稲荷を抜け墨染駅から東進するダラダラ坂の墨染通りで眠気が襲ってくる。
あちこちの路傍で座ったまま仮眠をとるウォーカー達。
眠気は足取りを重くする。ゾンビタイムである。
坂を登り切り伏見桃山城の構内で、犬を散歩していたおじさんに話しかけられて目が覚めた。
「なんかやってるの?」「どこまでいくの?」「ひぇー大変だねえ…」
「僕の後も疲れ切ってゾンビみたいな人が次々きますよ(笑)」目が覚めた。会話って大事。
この辺で夜が開け始める。
3-4回参加しているウルトラに魅せられし単独行のおじさんと同道しさせてもらう。
色々話しながら、伏見桃山の街中、酒どころ、三十石船乗り場、商店街を抜け、京都外環状線をひたすら東へ。
天気は良くなったが、ここから第五エイドまでがひたすら遠く感じた。
気ばかり焦って前に進んでいる気がしない。もうすぐエイド?醍醐寺
高速を潜って?その先?新幹線?と地図を見ながらまだかまだかと焦れて消耗してしまった。
もちろんこれはいい加減疲れている自分の心の弱さからで、淡々と歩いていればこんな気持ちにもならないはずなのに。
第五エイドにようやく着いて心底ホッとする。

ゴールまで:

第五エイドではあんぱんとコーンスープ。この時点で9時半。
ここからはあと少し。山道を越え大津に至る9km。
古道の峠というからどんな道かと思ったが、単に斜度の多い普通の道だった。100mほど登るが、こういう道は慣れている。
小関越えから三井寺の近くを通り琵琶湖疏水の横を通り過ぎて琵琶湖畔をすすみ、大津なぎさ公園のゴールへ。
最後あろうことかまた雨が降ってきた。
とことん雨に祟られた大会だったが、無事に完歩できてよかったと思う。
ゴールは11時半。25時間22分でした。

おじさんと喜びを分かち合うが、最後らへんで判明したのは、おじさんはほぼ同い年でした。
だいぶ人生の先輩だと思ってた。

完歩の写真。ほぼ無表情。

半世紀。

2024年, 向島

自民党総裁選、苦節5回目の石破茂氏が決選投票で総裁に選出された。
前回のエントリではまとまりのない私観を書いたが、今回の自民党総裁戦については、我々には見えないさまざまなベクトルが渦巻いた複雑系であるように思われた。結果は完全に僕の予想外。書いたことも芯を食ってないなと思う。
恥ずかしいぜ。

石破内閣をどう受け止めるのかは難しいところ。
石破氏はポピュリズム政治家とも言えないし*1、かといって主義主張が明確でもない。打ち出しているメッセージが明快なわけでもない。
支持を失いつつある自民党の大いなる焦りが消去法で彼を選択した印象がある。

いずれにしろ、自民党が安倍さん没後、裏金問題で、安倍政治の継承を断たれメッセージとして弱化した中で、今まで政権の継続性をリセットする感、つまりが自民党支持基盤の脆弱さゆえに選出された割には、解散前に組閣したメンバーは、「お仲間感」の強い選出のように思われ、それは強い権力基盤を持ちえない中で矛盾してはしないか、とモヤモヤはする。
そして解散。どうなりますかね。

誕生日御礼

9/28日に誕生日をむかえ50歳になった。
50歳…クラクラしますね。
四捨五入したら100ですやんか。

ここ最近の自分のキーワードは「パッとしない」。

ウォーキング:

去年特筆すべきは、山歩き、ウォーキングだろう。
ふとしたきっかけで登山に触れ色々試行錯誤の結果、やたらめったら歩くマンと化している。
1日平均歩数は15000-16000歩くらい。だいたい月300kmを超える程度である。

ただ、何度か登山をしてはみたが、どうやら、私はクライミングに躊躇するタイプ。
多分プチ高所恐怖症だと思う。
なので低山のハイキングが楽しく*2低山縦走が面白さを見出している。
そしてロングウォークが楽しいことに気づいた。
 色々自分でプロジェクトを作っている。

  • 中国自然歩道というトレイルを歩く。広島県岡山県は半分くらいはクリアした。
  • 一駅ジョギング。仕事が終わって電車で1駅から3駅分くらいをジョギング。ある程度の遠くになると夜ちょろっととはいかず昼間にがっつりウォーキング&ジョギングになっている。今のところ、西は岩国駅、東は姫路駅まで。
  • 西国街道ウォーキング。旧山陽道西国街道の旧道を歩く、上述の駅ジョグとも一部重複している。今のところ京都〜下関までの全行程の2割程度。

そんなウォーキング熱の中、9月にはしまなみ海道ウルトラウォーキング102kmに参加した。残念ながら75km地点でリタイヤしましたが*3楽しかったので、11月には京都ウルトラウォーキングに参加してみようかなと思っている。

GPS歩行記録はYAMAPで管理しています。
歩いた軌跡はこんな感じ。

2024年9月時点での軌跡

ただ耐久力とかそういうのを含めると自分の人生の中でもっとも身体はキレている。
生きてきた中で最もたくさん水を飲み、最も汗をかいた一年だった。
そして最も公共交通機関(バス・ローカル線)に乗った一年だった。

音楽:

(自分はジャズトロンボーンと、ちょろっとピアノ演奏を趣味としているのだが)この一年は淡々としている気がする。
定期的なバンドはすこし。
あとはポロポロとふってわいた話を受けたりセッションに参加したりが中心だった。
とても積極的に活動しているとは言えない。
これは、自分の興味の主が「歩くこと」になったから仕方ない。
ただ、淡々と練習は続けていて、トロンボーンも、ピアノも自由に弾ける程度が拡大した。
トロンボニストとしては、楽器の吹奏能力自体は年々劣化しているが「自分の頭の中で鳴っている音」をクリアにアウトプットすることを目的にアクを掬っているような感じ。
ただ一段階上のプレイヤーになるには、アクを掬うだけではだめで雑味が増えるのを厭わず「旨味」を増やす必要がありそう。
最近はコンテンポラリーの音源を聴くことが増えてきたので、そういうフレージングに取り組んでみようと思う。

仕事:

医療法人の理事長を継承して、気がつくと8年も経ってしまった。
医師会とかの仕事やその他の団体の仕事もちょろちょろと続けている。
が、自分的な評価では、ぱっとしないなあ、と思う。

自院について言えば医師の平均年齢は下がった。が、そのため自分自身の臨床への関与が少し減りました。
院内の全部門について、知悉しているとは言えない状況になっているし、自分自身が斬り込んでいくことが少し減った。
一昨年〜昨年のバーンアウトからまだ完調とはいえないと思う。
流れる日々をぼんやりと追いかけていることが多い日々です。
これではいかんよなあ……と思う。

あとコロナ禍の中でぼんやり過ごしていると、学会の専門医単位とかヤバくなってたので、学会単位取得でバタバタしました。
そんな中で、医師としての自分、知識のアップデートを怠ってるかも!と思いました。
コンスタントに勉強する仕組みをビルトインしたいと思う。

まとめ:

50歳のリアルとして、あまりパッとしないなと自分でも思う。
二人の子供も高校生。
「家族」というくくりでみると、もはや私は主人公ではなく、インフラ設定係に過ぎない。
そりゃパッとしないわな。

これがミッドライフクライシスを超えた茫漠の人生行路なのかしらん。
ぼんやりとそこら辺をウロウロして、それで楽しい自分。
変な奴だよな。

少し気になるのは、独りの行動が有意に増えたこと。
赤レンジャー感が、ますます無くなった。
経営者って、多くの人と交流して関わってなんぼじゃないかと思うのだけれども、
向いてないわ…と思うし、行動面でもそれを隠さなくなってしまった。

ただ、老年期って孤独がデフォだって言うし、まあそんなものかもしれない。
なんか初老らしくブツブツ一人で言うてますわ。

*1:ポピュリズム政治家としてはルックスの点で大衆受けが悪すぎる。まあ、口さがなくいえばシルバー民主主義・農村尊重主義ポピュリズムかもしれない

*2:ただし夏は虫や蜘蛛の巣がひどいので夏は高山へも行った

*3:リタイヤの理由は靴擦れと股ずれ