
大阪から下関まで歩く
最近、歩いている話を度々していたと思う。
hanjukudoctor.hatenablog.com
実際のところ今でもずっと歩き続けている*1。
いろんなところを歩いているのだが、特に最近は西国街道という古い街道に取り組んでいた。これは大阪から山口県下関まで続く歴史ある道だ。西国街道は江戸時代に整備された主要街道の一つで、大阪の天満橋を起点として、兵庫、岡山、広島を経て山口県下関に至る約500キロメートルの道のり。
参勤交代や商人たちが行き交った、まさに西日本の大動脈と言える道である。
先日、厚東駅から下関まで歩き、これで歩いた軌跡としては大阪から下関までがついにつながった。

もちろん、一度に、ではなく、つなぎつなぎではあるのだが、大阪から下関までつながる道の全ての区間を実際に歩いたのは確かだ。*2
そもそも歩くきっかけは、コロナ禍で体がなまったことだった。
外出自粛が続く中で運動不足を感じ、まずは近所を歩くことから始めた。
それがいつしか歩くこと自体、そして歩いて軌跡を記すことが楽しくなって、今に至っている。
歩く効用は確かに大きい。
体力の向上はもちろん、季節の移ろいを肌で感じたり、普段は見ない風景にも出会える。旧跡や古い神社やお寺にも詳しくなった。
また、「町と町の間」が僕にとっては結構楽しいのだ。町を外れて田舎道になり、曲がりくねった道を歩くと、だんだん次の町が見えてくる。
この部分って、現代では車や電車で移動するのが当たり前になっているが、ここを歩くのが自分にとってはすごく面白いのである。
だからこそ今後も続けていくつもりで、次はどこを歩こうか、石見銀山街道や山陰道、萩往還道、東海道と夢は膨らむばかりなのだが、しかし少し冷静になってみると、これって「手段の目的化」じゃない?と思う。
手段の目的化
ビジネス本を読んでいると「手段の目的化」という言葉によく出会う。
往々にしてよくない文脈として。
「経営の問題のほとんどは突き詰めると手段の目的化に起因しているというのが僕の考えです。企業組織は目的と手段の連鎖でできています。上司の手段が部下の目的になる。そもそも組織には「手段を目的化するシステム」という面があります。放っておけば必ず手段の目的化に陥ります。
(楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考)
ある部門がどうも暴走していたり、「こうあってほしい」と経営者が望まない状態に陥りつつある時に、この言葉が使われることが多い。
「局所最適と全体最適」という言葉もあるが、こういう言葉で事態を言語化し、打開策を検討するわけだ。
私は2016年から医療法人の理事長を継承したわけだが*3、マネジメント的な本はずいぶん読んだ。
そうすると「手段の目的化」という言葉が往々にしてよくない文脈でしばしばでてくる。
だから「手段の目的化」イコール「悪いもの」という先入観が刷り込まれていたわけだ。
ただ、今回自分のありよう、を俯瞰すると、「手段の目的化」は、あながち悪いことではないのかもしれないと思った。
西国街道ウォーキングを歩くのも「手段の目的化」にほかならない。僕が西国街道を最初から最後まで歩いたところで、何にもならないのだから。
また、僕は歩行記録をYAMAPで記録しているのだけれど、月間歩行距離や月間獲得標高を「ノルマ」のように目標を決めていろいろ計画を立てる行為も、なんやかや色々楽しいが、これだって、別に大きな意味はないのではある。僕以外の人間には。
そう、「遊び」の多くは「手段の目的化」で楽しさにレバレッジをかけているようなものだ。
「手段の目的化」のよい面
「手段の目的化」を経営視点を外して再考すると、プラスの側面も色々ある。
以下のようなものだろうか。
- ルーティン化・効率化が進む:手段が定着すると、繰り返しが効率化と技術向上に繋がる
- 文化や価値観として内面化される:継続した行動が組織文化や価値観となる
- 目的を補完・再発見する:繰り返すうちに、新しい目的や副次的な効果が見えることもある
- 不確実性の中での行動指針になる:目的が曖昧なとき、手段が判断の基準になることで動きやすくなる
- 創造性の源泉になることもある:一定の型を繰り返す中から、新たなアイデアや価値が生まれることも。
「目的を見失わない」限り、手段の目的化は組織の優位性の源泉とさえいえるのかもしれない、と思う。
最近「ゲーミフィケーション」という言葉をよく聞く。
目的達成までのプロセスを「ゲーム」という形で興味をもってもらうことで忌避感を回避する。
これも、立派な「手段の目的化」の一つだ。
KPI=Key Performance Indicatorも、手段の目的化そのものだ。
まとめ
こう考えてみると、「手段の目的化」という言葉そのものは、別にネガティブなものではないことに気づく。
ただ、経営の現場では、意思決定者の意に反した状態を是正するために「手段の目的化」という言葉が使われる、ということなのだろう。
おそらく「手段の目的化」が問題になるのは、
だろう。
好景気の時は部門のある程度の裁量も許されていたけど、利益が出せなくなってきた時に、「手段の目的化」みたいな言葉でぎゅっと締め上げられることなんていうのも、そういうことだし、僕の遊びだって、仕事やプライベートに影響したり、可処分所得の域を超えたりしだすと多分問題にはなって来るはず。
無限に時間や資金があれば、そもそも優先順位を立てるという思考にはならない。「手段の目的化」みたいな形での見直しをする必要はないのかもしれない。
ともかく、「手段の目的化」イコール悪と決めつけていた自分の、反省文でした。