この道を行けばどうなるものか。
危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足がみちとなり、その一足が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。
(アントニオ猪木の引退コメント。実は一休和尚の言葉)
以前にも書いたけれども、最近の僕はやたら歩いている。
低山に登ったり、ギリギリ登山と言えるような山にも行きつつある。
hanjukudoctor.hatenablog.com
面白いもので、最初は標高差200mの山でもヒイコラしてたのに、今は、1日3万歩、獲得標高差1000mくらい歩けるようになった。*1
不思議なことに、歩くことでひさしぶりに運動のスイッチが入り、ジョギングも10年ぶりくらいに再開した。もちろん私は運動が苦手なので、マラソンとかを目指しているわけではなく、キロ8分前後でのーろのろ走っている。でもこれも半年前はキロ10分くらいだったのが、だんだん走れる時間が増えて、LSD*2っぽくなってはきたのである。
自然歩道
そんな私はの最近の興味は「自然歩道」。
……みなさん知ってます?
www.env.go.jp
50年前くらいに環境省が制定したハイキングロード(ググってください)。
各地方ごとにあるのだが、私は広島県に住んでいるので「中国自然歩道」。
偶然家の近くの低山がこの中国自然歩道の一部で初めてこの道の存在を知ったのである。
そこをずーっと歩いてみたい。
もちろん忙しいのでスルーハイクは無理なので小分けにチャレンジになるのだが。
アメリカでは4000キロにも渡る長距離自然道があり「ロング・トレイル」なる、そこをハイキングするレジャーもある。
日本でもトレイリングは徐々に認知度が高まり、あちこちにトレイルが作られているらしい。
消えゆく道
ただ、問題としては、僻地の誰も通らない道はどんどん消えて通れなくなってるらしいんですね。
youtu.be
この方は岡山県在住のトレランの女性なのですが、あちこちの僻地の道にチャレンジしていて、参考にさせてもらっています。都市部から遠い部分の自然歩道は、あちこち埋もれていて要注意のようです。
トレイルズ
最近読んだ「トレイルズ」*3という本には、いろいろ面白いことが書いてあった。「道」というと、日本ではどうしても、茶道・武士道のように「Way of Life」みたいな意味が付与されてしまうのだが、そこはさすがにアメリカの本。
いきなり出てくるのは、先カンブリア紀の、動物が這ったあとの「化石」。
これが最古の「道の化石」だとか笑。
この本によると、アフリカの道を作ってるのは象であるらしい。(確かに、天然のローラー車みたいなもんである)
空間把握力と記憶力が抜群に良い彼らは何百キロ何千キロに渡る道を把握してコミュニケーションしてるだけでなく、たとえば好きなフルーツの種を空き地に撒いて、ある種のSAまがいの空間を作るなど、道のデザインまでしているんだとか。
こうなってくると道は単なるものではなく地形の神経回路じみた存在とも言える。
もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。
(魯迅『故郷』)
これはメタファーなのだが、僕が言っているのは、メタファーでもなんでもない話だ。
パワースポット
最近山に行きだして気づいたことだが、山の入り口や頂上にはお堂、神社、寺などの宗教施設(最近ではパワースポットと言います)が必ずある。
もちろんそれは山の上とか巨石巨木の自然の荘厳を感じる光景が宗教的な心性を引き起こすからなのだろうが、案外道作りという効用もあるのかなと思う。
中国自然歩道でも車での移動が当たり前になり、交通がとだえたところは消えてしまっている。
人が歩かないと道は荒れて無くなるから。未舗装の時代は特に。
けど、寺や神社の参道って、やはり残ってるんですよね。
道を維持するためには一定の頻度で人が通る、つまりそこに行く理由が必要なわけです。
山の上に神聖な場所がある。
だからといって、別にそこまで行く必然性があるわけではないのだ。
オーストラリアのエアーズ・ロックだって神聖な場所だけど逆に入ってはいけないゾーンになっている。
霊的な場所であり、なおかつそこまでの参道があるには、何らかの理由があるはずなのだ。
パワースポットありきで、そこにいくまでの道がある、と我々は思いがちだけど、
ひょっとしたら、そこまでの道が必要で、道ありきのパワースポット(寺や神社)だったのかもしれない、と
最近は感じている。