半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

死後の世界はあるのか その1

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スウェーデントーチって言うんですってね

コロナ、コロナ、コロナ……(COVID-19, SARS-CoV-2)。
私は広島県福山市に住んでいる。先月クラスタ感染が発生した*1が、結局数百人規模のPCR検査を行い幾人かのPCR陽性者は発見されたものの、さらなる流行拡大の目を摘むことができたのか今のところ爆発的流行は回避できたようだ。よかった。
それなりに人口流動もあるし*2、散発例はでており、地域にコロナウイルスは少なからず存在するのだろう。これ以上は、封鎖でもしない限り抑え込むことはできない。大都市圏に比べるとだいぶましだ。

* * *

お盆だから、死後の話でもしてみよう。

hanjukudoctor.hatenablog.com

人生会議ことACP(アドバンス・ケア・プランニング)は、高齢社会の中でますます重要になっている。
高齢者を診察する機会が多いので、私もACPについてはかなり踏み込んで関わっている。
介護施設も含め、当法人の管轄では胃瘻や経鼻胃管で延命する患者さんと、しない患者さん(口から食べられるギリギリまで粘り、あとは従容と看取る)では、正確な数字はだしてないが20%:80%くらいだと思う。10年前は胃瘻の方が多いことから、隔世の感がある。

病い(やまい)は医療で治せる。
老い(おい)は治せない。
老いによって命の終焉を迎える場合、出来るだけ自然に、苦痛を少なく幕を引く方がいい。
多くの先人達もそう提唱してきたし、自分でも携わっていてやはりそう思う。

しかし老いの坂を降りる人に、自然の摂理に反して坂を登らせる場合は時にある。
例えば家族が強く望んでいる場合とか。
本人も、家族に求められている…とがんばるのだが、実際はなかなか大変だ。
不顕性誤嚥で肺炎を繰り返す、拘縮しかかった関節をリハビリでほぐして動かして、萎縮しきった筋肉に負荷をかけたりする。
どれも、かなり苦痛に満ちた作業である。エントロピーに逆らうのは大変なのだ。

うまくいく場合はいい(そういう時もある)。
しかし、家族の意向はともかく、できないものはできないじゃないですか。
たとえば、どうしても医者になってほしくて子供に医学部受験を強要する親。
 結局子の学力が伴わず、多浪の挙句人生の前半を棒に振った人、なんて話、医学部界隈にはゴロゴロしている。
老いに勝てないリハビリも、そんな感じだ。
(でも中にはADLが戻る人もごく稀にいたりもするから、人の体というのはおもしろいのだけれど)

* * *

そういうわけで、看取りの機会はかなりあるから、ACPにお世話になることはよくある。
学会や研究会主催のACPがらみのセッションにもかなり参加した。

そういう学会で、いつもモヤモヤしている。
ACPは「病い」よりも「老い」、もっと言えばその先の「死」への意思決定だ。
しかし、ACPにまつわる議論では死そのもの、もっといえば「死後」の話は、慎重に議題から外されている。
ACPに再しては個人の死生観に直面する必要があるのだから、本当は、ここの部分は結構大事で、もっとしっかり議論しなければいけないのではないのか?

* * *

ただ、死後の話は、とても難しい。
特に日本においては。

現代医学は自然科学を元に構築されているが、自然科学はもともとヨーロッパ文明を出自としているので、その精神的なバックボーンであるキリストと医学は親和性が高い。*3
日本の場合は、神道・仏教なども入り混じっており、またその混交の程度も個人差が大きい上に、我々にその自覚もない。*4
自分の死生観が、いかなる思想(西洋のキリスト教か、神道なのか、仏教なのか、儒教なのか)をベースにしているのか、その混合比はどうなっているのか、明示できますか?*5

現代に生きる我々は普段あまり宗教的な心性に至ることはない。
そういうものを考えなくても毎日の生活はただ流れてゆく。
しかし、死がちらついてきたような人生の晩年に、自然科学的な考えーー死後の世界を積極的に裏付ける証拠は全くない。現時点では死は生命の終わりであり、個人の意識は終了するはずだーーは受け入れがたいものに思われる。*6
幾分かは宗教的な、あるいは哲学的な思惟を、その段階になって遅ればせながら考えることになる。(そしてスピリチュアルと称する訳の分からない混沌より出しものたちに身ぐるみ捧げることになるのだ)

終末期の議論をより良く行うのは、多分医療者だけでは無理だ。ではそれは誰に相談すればいいのか?牧師を呼べばいいのか、僧侶を呼べばいいのか。
その辺りも機微は難しい。
今のところ明確な受け皿はない。
(まあ、西洋だって、神父(カソリック)を呼ぶのか牧師(プロテスタント)を呼ぶのか、はたまたラビを呼ぶのかで、戦争だって起こりかねないのだから、いずれにしろデリケートな話だとは思う)

ちなみに、これ読んでいる皆さんは、死後の世界って、どう考えてます?

医師である私も、多分他の医師と同じように、死後の世界や「あの世」のような考えを持ち出されても*7
議論にはならない。
ただ、でも墓参りにもいかない、というほど唯物論的、無神論的なわけでもない。そこは整合性がない。
でも、みんなどうやってこの辺りの矛盾を合理化しているのだろうか。

続きは次週。

ジャズブログ:

セッションのロードマップーその4(離) - 半熟ドクターのジャズブログ
ジャムセッションのマナーというか、心構えみたいなものを、自分なりに書いたもの。完結するまで半年かかってしまった。
「セッション初級者に必要なのは、勇気!中級者に必要なのは、引き算!上級者に必要なのは、熱意!」
はい、大事なことなのでもう一度書きましたよ!。

*1:クラブイベントのような密な集会が発端

*2:実は私も他所の都市のジャズのジャムセッションに行っている。感染防御がかなりしっかりしているので、危険は感じない。ただ外食はほとんどやめている。以前こういう遠征の時にはその土地で飯食って帰るのが通例だったが、コンビニで食料を買い込み車中で食べて済ませる。ストイックだよね笑

*3:ヨーロッパ中世のキリスト教史観は現代の自然科学とは似ても似つかないものであるけれども…ただ死生観はキリスト教がベースにあるのは間違いない。そういう観点では医療倫理学は西洋の方がシンプルだとは思う

*4:ちなみにマルクス唯物史観を経た中国という国では死生観というのはどうなっているのだろうか?

*5:個人的には、自然科学をベースにした無宗教とみせかけて、古代神道の素朴な精霊信仰=アニミズム、つまり土着宗教だわね、の変形版の人が一番多いのではないかと思う。ただ、地獄極楽の思想もインドの仏教にはなかったわけだし、この辺りを掘り下げてゆくとさらに難しい

*6:これは自然科学そのものが死、そして死後の話への思索・研究を意図的に避けてきた、という所為もあるだろう

*7:そういえば、患者さんでも、医師に言ってくる人は、ほとんどいなくなったな。