
久しぶりの更新。この前久しぶりに屋外用のサングラス作った時に検眼したら、視力がめっちゃ落ちていて愕然としました。
自民党総裁選
広島県出身の岸田総理は次の総裁には不出馬ということで、自民党総裁戦が激戦・混戦であるようだ。
それにしても候補が九人ということ。
これは、いいことなんだろうか、悪いことなんだろうか。
そもそも、派閥の解消は昭和から令和に向けての「進化」と考えるべき?
今の時代の僕らは、正直、昭和の「派閥」的な政治形態が苦手だ。
集合し、オルグし、仲間内で合意を形成することに時間をかけることは、氷河期世代以降の我々はどうも苦手。
今どこの会社組織でも、そのような強固な組織のあり方というのは、やんわりと敬遠される。
僕も、そういう時代精神を受けてか、もともとの性質かはわからないが、集い・群れて、帰属意識を高める集団行動がとても苦手だ。
これは世代を問わず全国的な傾向で、そのためPTAとか町内会とかそういう全国の組織という組織は加入率不足で組織戦術が取れなくなっている。
現代は個人の独立性が称揚される時代であると言える。というか、僕たちの世代は「個人」にフォーカスをあてたやり方しかできない。
だから、今の時代に合わせると、派閥のあり方は早晩立ち行かなくなる。
派閥ではないありように、ほっとしている自分というのもいるのだけれども、本当に派閥の政治っていけないことなのか?
今の僕らのあり方って僕も「ラク」だとは思っているよ。でも楽なものはいい、っていうのが正しいわけではないだろう。
だからだめなんじゃないの?と思うこともある。
もう少しいうと、個人が表にでてくる業種や働き方には今の時代があっているとは思うけど、やはり重厚長大な産業とかがそうだけど、堅牢な組織構造の中で重厚な意思決定を行うスタイルには、過度な個人尊重主義がいいかはわからない。
今の世代の我々には明らかに向いていないし、それが日本の産業競争力を削いでいる可能性もあるかもしれない。
年功序列は確かに今や無意味なのかもしれない。
けど、有象無象のやりたい人がどんどん湧いてくる状況って、本当にいいことなんだろうか?
派閥による政治は、能力よりもその派閥に所属していた経歴が重要視されるから、どうしても年功序列的な要素は強くなる。団体の中で「兄貴」的な振る舞いができる人は有利だが、問題はその人が必ずしもリーダーシップを持っているとは限らないのが派閥政治の欠点かもしれない。
ただ、それでも、派閥という中で、最低限のセレクションはされているはず。
派閥がなかったら、派閥でフィルタリングされていた人物が候補者に名乗りを上げ、たまたま大衆訴求力を持っていたら選ばれちゃったりもする。
今回のような総裁戦のありかたは、組織人としての振る舞いができない人、スタンドプレーしがちな人、政治家としての実力よりもメディアでのコメントであるとかメディア上での虚像を作る人が、選ばれやすく有利かもしれない*1。
スタンドプレーが上手い人、ポピュリズム的な政治家に任せて、政治はうまくいくんだろうか?
会社組織においてもそうだったりする。誰がみても上司・部下に信頼されている人間と、言うことはもっともだけど直接接している上司・部下からは信頼されていない人ってよくいる。
その区別は選挙という形では限りなかなか難しいよな、と思う。
自民党としては、今回の総裁戦ではあえて「透明性」を重視し、今の時代の我々のありように合わせて派閥の中での意思決定をやめた。
それは内閣の支持率が低く、国民のコンセンサスがなんとなく得られていない今の状況の中での最善手であるんだろうなとは理解できる。
選挙は、有権者が選ぶもの。
だから有権者にすりよる姿勢はまちがっていない。
おそらく問題は有権者である僕らのありようかもしれない。
ま、現代人として当たり前ではある僕らの心性。これって本当にいい状態なのかな、ということ。
共同体への帰属意識も低く、権利意識は高いが共同体に対する貢献も強制されない我々。
寄付なども諸外国に比べて低く、社会人になってからの研鑽・勉強も諸外国に比べて圧倒的に低い。
そのくせ他責思考。
政治がよくならないのは、本当に政治家のせいなんだろうか。
割れ鍋に綴じ蓋なんじゃなかろうか、と思う。
ま、総裁戦の場合は有権者は自民党員に限られるから一般の選挙とは違う。
けど、自民党員を批判したいわけではなく、むしろ病根の本質は「浮動層」においてなお深い。
「政治」となると自動的に他責思考をとって恥じない有権者のありようが、政治を本質的に腐らせているのじゃないか。
ま、それを至極簡単にいうと、「宮沢賢治の『どんぐりとやまねこ』だね」ということになる。
いや、ならんか。