半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

死後の世界 その2

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いかんいかん。8月が終わり、9月になってしまった。
二週間も空いてしまった。その間に、安倍総理も退任を決め、台風の到来も近く、コロナウイルスは自然弱毒化のフェイズに入ったかのように感染者数を減らしている。
最近は、けっこう仕事が忙しい。
余暇の精神活動がほとんど止まっている。本は読んでいるけど、少し頭がバテています。

* * *

前回の続きである。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「死後の世界」?
こいつヤベエ奴だな…と医療者の読者は思ったに違いない。

少なくとも、自然科学の体系の一つとしての現代医学をつきつめても「死後の世界」にはいかない。
論理体系の延長線上に死後の世界を構築することはできない。

死ぬと人は物体にすぎない。おそらく死ぬと意識はそこで途切れるのだろうと想像できる。
現代の生理学や脳科学などからは、脳の生命活動が止まり、肉体が滅びて意識が残留するとは考えられない。
そうでなければ脳死移植などできるわけないではないか。*1

現代医学の担い手は、当然死後の世界はないものとして振る舞う。

もちろん現役バリバリの脳外科医が、臨死を体験し死後の世界はあると宗旨替えしたような話はある。
ただ、今の所、主観的なものであり、死後の世界を実証するほどのエビデンスはないので、医学の論理体系では依然死後の世界は証明されていない。

人類史の中での「死後の世界」

ただ、自然科学を離れ、歴史を遡ると、現在まで残るすべての文明・文化は「死後の世界」を前提として存在している。
フィリップ・アリエスを引用するまでもなく「人間は死者を埋葬する唯一の動物」である。
そしてその逆で、死者を葬送しない文化は、ない。

ネアンデルタール人にも葬送の痕跡が残っているが、古代文明の随所に葬儀・葬式、埋葬など、死者に対する畏敬の念は感じとれる。鳥葬や風葬などの変わった葬礼はあるものの、ほとんどすべての文明において死者は他の無生物や動物とは同列には扱われない。

もちろん、花などで飾り立てたり、生前の持ち物を携えて埋葬をすることは、直ちに死後の世界を想定しているとは意味しない。が、現存する多くの社会において、死後の魂(明確に概念化されることはないこともあるが)という考えはあまねく認められ、そのような考えのもとに、死者は着飾られ、埋葬されている。


我々の文明の発展は「死後の世界」という概念なしではなしえなかったのではないか。
つまり「死後の世界」の概念は文明を推し進めるエンジンとして作用したのではないかと思う。
このことは死後の世界を否定する文明が存在していないことによって、間接的に証明される。
この辺りは、宗教学や死生学の領分ではあり、そこまで私も詳しくはないのではあるが、もう少し拙論に付き合っていただきたい。

文化装置としての「死後の世界」

発端がどうあれ、死後の世界は、社会を継続する装置として文明に必須なものとなった。
少し前に「自分が死んだら所蔵する『ゴッホの絵』を棺にいれて、一緒に燃やして欲しい」なんていう人がいた。
自分の意識は生きている間だけであり、自分が死ねば、無になりはてる世界では、死後世界がどうなろうが関係ない。
そういう世界では、自分の所有財産も、利己的に、生きている間に蕩尽しようと考えても不思議ではない。自分の行動として、長期的なスパンで責任をとる必要もない。後世が困ろうが、今がよければいい、という無責任な態度もとれる。
2〜3年で会社を移り変わる職業経営者が、中長期的なビジョンはともかく短期的な視点で業績をあげることを考えてみるとわかるだろう。

動物の場合は、遺伝子の保存のためだと思うが、本能で子や眷属のために利他的に振る舞う。
だが人間の場合は、本能による利他的行動は希薄だ。
ゆえになんらかの社会的規範がないと利他的な行動を促せないのではないかと思う。

概念としての「死後の世界」というものを設定し、我々の「個」が独りで生まれ、独りで死んでゆくという生物的な事実から、死んでも世界は終わらないのだ、と考えることができるようになった。

自分の死後も世界が続くのであれば、無責任な行動は取れない。
そして自分の死後も自分の意識が続くのであれば、自分の不行跡は、少なくとも自己反省を強いられるであろうし、その意識が、他者も交えた「社会」に置かれるのであれば、利己的な行動は、制限される。
なんなら自分の生前の善行の多寡で死後の世界の階位が決まる「天国」「地獄」概念まで後には作られた。
人はますます生きている間に利他的行動を取り続けることを求められるようになった。

アリの社会における働きアリと同じく、農奴のような人達は死ぬまで収奪され続ける。
が、それを本能なしで、死後の世界のためのポイント稼ぎという能動的行動に転換させたのは、死後の世界という文化的装置のなせる技である。


「死後の世界」という発明で我々人類は本能以上の利他的行動をとらせられるようになった。
その結果、余剰な物資を必要以上に蓄えることもでき、世代を超えた中長期的なスパンでの連帯・協力ができるようになった。
その結果、高度な文明を築くことができるようになったのではないかと思っている。

「あの世」がないと、どうなるのか

ここまで「死後の世界」というのを説明してきたが、実は「死後の世界」の二つの意味を敢えて曖昧にして述べてきた。

(A)自分が死んだあとの、現実の今いる世界。(そこでは自分は存在しない)
(B)そして、自分が死に肉体が滅びたあと、自分の意識がゆくとされる「死後の世界」。

現代では(A)はあるが(B)はないものとして取り扱われる。
文明が発展し、歴史も記録されるようになり、死んだあとの「あの世」(B)はともかく、我々の死んだあとも、我々の生きた証は、記録され、後世に語り継がれるようになった。(A)の世界は過去みられたどんな文明よりも精緻になっている。

その意味では、我々は死んでも、死後、世界(A)が続くことはあまねく共有されている。
我々が死んでも、我々が生きた痕跡は、いたるところに残るであろう。

ただし、その反面、直接体感できない世界(B)は、語られることはなくなってしまった。*2

ようするに昔は(A)(B)二つの世界で、自分の死後を保証していたのが、今は(A)世界の一本足打法になってしまった。

(B)は現代社会では否定されてしまった。
本当に(A)だけで大丈夫なんだろうか?
自然科学は完全に「あの世」を否定してしまったが、それは我々の意識をやはり変えてしまったのではないだろうか?


我々は現世主義になりすぎていないか?
自分が死んだあとの世界に対して、我々現代人はきちんと責任をとっているのだろうか?
もしそうなら、なぜここまで環境を破壊し、後世の子孫が困るような状況を作ることができるだろう?

(A)の世界でも、優れた業績などは記録に残され、栄誉は後世まで語り継がれる。
 だが、語られない部分については、記録に残らない一般人の行動に対してはあまり影響しないのである。
(B)の「あの世」は、記録にも残らない大衆に利他的な行動をとらしめる力があった。
 それは今はもうない。
それでも家庭を持ち、自分の子供がいる場合は、死後の世界(B)がなくても、自分の子や孫の住む社会がよりよいものであるように、と、素朴に考えて、利他的な行動をとることができる。
だが、それも、子供のない人口が一定の割合を超えてしまうと、おそらくうまく働かなくなるだろう。*3

今までの伝統社会で培われていた死後の世界(B)を殺してしまった我々は、
おそらく、文明の継続性のために必須な要素の一つを、葬り去ってしまったのかもしれない。

かといって、ないはずの「死後の世界」があるというわけにもいかないし、難しいものである。

*1:主観的な時間が無限に引き伸ばされることはあるかもしれない。要するに心臓が止まり、脳が止まるまでの数秒・数分が、主観の脳内では無限に感じられる。この場合も、主観的な自分は死後永遠の時間を生きることになる。もしそうだとするといやだな…

*2:物語の世界では今も脈々と息づいている。ファンタジー小説などもそうだし、例えば村上春樹の小説などは、そうした非(A)的な世界の存在が人間の活動に必須であるという本能的な直感で書かれているのかもしれない

*3:「無敵の人」は往往にしてそういう状態から作られる。