半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

「ACP=人生会議」なんて「死」の婉曲語そのものだっつーの。

吉本新喜劇の座長、小藪が参加したACPこと人生会議のポスターが猛批判にさらされているそうな。

www.yomiuri.co.jp

「死」を連想させるから…ということだそうだ。

え?
何を言っているの?

* * *

ACP Advance Care Planningという言葉が「人生会議」というふわっとした呼称に決まったのは一年ほど前。
まあ外来語よりはわかりやすいので、より一層の普及を、という方向性については別に反対はない。

「人生会議」って、一般語である「家族会議」に重ね合わせようという意図があるのかなあ。
家族会議というのは、構成員の就職・退職などの進路変更、結婚・離婚などの家族の諸問題に対して家庭で話し合うこと*1なのだが、この人生会議=ACPって、身も蓋もなくいっちゃうと「来るべき死」に対する対応そのものである。

ぶっちゃけ「ACP=人生会議」を「死」の言い換え語と考えて構わないくらいだ。

要するに、「うんこ」のことをお通じといったり、お手洗いと言ったり、おちんちんのことを「ムスコ」とか「アレ」とかいったり、セックスのことを「アレ」とか言ったりするのと同じ。
「アレ」って便利だなオイ!

「死」と直截的にいうのがはばかられるので、「ACP」と言い換えているだけだ。
それをさらにオブラートに包んだのが「人生会議」という言葉、と言っていいだろう。

もちろん「死」と「ACP」は根本的に概念が違う言葉だ。
けど、最近は学会のシンポジウムなどで「死」に関する議論をしたいときに、ACPという言葉を使うことが多い。
その「ACP」意味が通らないなあ、という文章で、「ACP」を「死」に置換するとすっきり理解できる、というパターン、実によく目にするんだよね。

その意味では医療関係者にとっては「死」と「ACP」という言葉はほぼ等価であったりする。Fuckの代わりの4 letter wordみたいなもんだ。
*2

だから、批判の気持ちもわかるけど、ああいうポスターが出て来ざるを得ないのは、
結局いま、死について考えるのを忌避している人たちへの対応で、まさに色々問題が起こっているからだ。

そういう人たちに対し、現状これではいかんですよ、と提案するために意図して作られたポスターなのに、それが批判される。そういう態度だから、こういう啓発をしなければいけないのに。全くこの世は救いがたい。

* * *

人は必ず最後には死ぬ。
みんな理屈では知っている。
だが、こんな当たり前のことも、体感しないと、理解はできない。

自分の家族や友人が死ぬというときに、この事実を受けいられられるか、というと、はなはだ疑問だ。


現代の日本で、都市生活を営む限り、死を目にすることは少ない。
身内・知人の死の経験も圧倒的にすくなくなった。

 私は2000年から2002年まで、島根県平田市というところに住み、研修医をしていた。*3。2000年の当時でさえ高齢化率が25%という、高齢先進地域だった。

そんな田舎では死はかなり身近だ。
町内は概ね知り合い同士であり、ご高齢の方は順番に死んでゆく。
各家庭に有線放送があり、「町内の誰々さんが死んだ」みたいなお悔やみ放送が毎日流れる。*4
亡くなったら、みんなお家に行って挨拶をする。暇な知り合いは葬式ももちろん出席する。

動物だって死ぬ。
国道にはしばしば跳ね飛ばされたイノシシや鹿が死骸をさらしている。
もちろん犬や猫も。
農地も多いのだから草も一年経ったら枯れる。
枯れ草は燃やされるし、肥やしにしたりもする。
我々も、草木も動物も生命であり、生きとし生けるものは循環している。
 田舎にいると、そのことを日常に体感しやすい。

ところが都市生活はそうではない。
まず、多様性が少ない。
大規模で効率的な交通輸送システムに適合した人でなければ都市生活を続けることは許されない。
幼児も老人も満員電車には向いていない。
効率が優先される世界では、死にちかづいた人、高齢者や障害者は表舞台からそっと退場し、目に触れなくなる。

そういう世界で生活していると、死どころか「老い」に触れる機会さえ少ない。
おまけに最近は「家族葬」が増えている。
 葬式に出席する機会は確実にこれから減るってことで、自分の近親者が死ぬときまで、葬式さえも出たことがない人が増えるということだ。ますます、勤労世代の都市生活は死から遠ざけられる。

そういう生活においては「人は死ぬ」という当然の事実を体感しにくい。
身内が亡くなりそうだ、といって、駆けつけてきて、医師の説明を聞いても、「そもそも人は死ぬ」という大前提の事実を受け止められない。だから超高齢者や、認知症も末期になって、本人も生きているのか死んでいるのかわからなくなっている様な方に対して「機会損失は許されない」みたいな考えで、濃厚な医療を望んだりする。

20年ばかり医者をやっているが、都会からやってきて、ビジネスにおける商取引のマインドそのままに、高度な医療を要求する子供の、現実からかけ離れた要望、みたいなパターンには数限りなく出くわした。*5

* * *

もっとも勤労世代だけではなく、高齢者である当人も似たり寄ったりではある。

hanjukudoctor.hatenablog.com
(これは10年前に書いた記事ですが、団塊の世代は、日本が右肩上がりの時代に人格形成されたために、滅び・死というものの受け入れが悪く、努力で回避できるんじゃないか、と思っているフシがある)

基本的には「死」に関することを先送りにすることはかなり多い。
私の外来でも人生会議という名称が決まる前から、ACPのパンフレットと記入用紙を結構配っている。
のだが、3割くらいは「それについて考えるのが怖いから書かない」といって持ってこない。

喫煙者で、禁煙をすすめても「いや先生オレはピンピンコロリで死ぬからいいんだよ」とかうそぶく御仁には、ちょっと前からそのタイミングでACPの用紙を渡すようにしている。そういうシチュエーションでさえ、ちゃんと書いてこないよ、みんな。
 基本的には、周りがぽろぽろ死にだす年齢になっても、自分のことをきちんと考えよう…とはならない。
 皆、自分の見たい現実しか見ようとはしないのだ。


 そういう毎日を過ごしているので、今回のニュースは「さもありなん」。
 一石を投じる意味はあればいいと思うけど、きれいごとで、隠蔽して終わりだったら意味がないなあと思う。

 医療現場にいる我々は、事前に意志決定ができていない人の臨死に際しての方針決定にうんざりしている。

hanjukudoctor.hatenablog.com
ただ、以前にも書いたが「ACP=人生会議」が普及して実を結び、我々現場の人間の役に立つには多分5年10年以上かかるだろう。

人生会議を普及させて、「死」のあり方についてみなが議論することはいいことだとは思うが、多少ネーミングの時点で死を意識させた方が、余計な幻想を抱かずに済むのかもしれない。

その意味では『人生会議』ではなくて『終活会議』の方がよかったかもしれないな。

*1:これも家長制度がなくなり、家族主義から個人主義へ変遷し、個人に関することは家族で議論してもしょうがないと、なってくるようにも思う。

*2:実は厚生労働省には「死」の婉曲語がもう一つある。曰く、「人生の最終段階」。これはあんまり人気がないね。

*3:ちなみに今はもう平田市平成の大合併で、もうない。出雲市編入されてしまった

*4:私の官舎にも有線放送があり、誰々さんが亡くなりました…というのが流れ、自分が主治医だったりすると、なんかスイマセン…という気になった

*5:もっともこれはアメリカも同じだそうで、「カリフォルニアの親戚」みたいな言葉もあるそうだ。