半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

後期高齢者の2割負担は、診療環境をどう変えるか。

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まだ、もう少し先の話だが、これまた剣呑なニュースがやってきたぞ。
www.tokyo-np.co.jp

現在1割の後期高齢者の自己負担比率を、2割に上げてゆくらしい。

ちょっと前に財務省が「医療費を下げますよ!」みたいに名言していたニュースがあった。
(あ、これは我々が支払う自己負担を下げる、医療費そのものを切り下げてゆくということです)
www.m3.com
今(9月〜11月)は2020年度の診療報酬改定の詰めの段階。このタイミングで財務省のこのアナウンスメントには、いつも大きな意味が込められている。

ちょっと前に、僕のブログにしては珍しくバズった記事があった。
hanjukudoctor.hatenablog.com
ブックマークでは随分批判もいただりもしたが、一言でまとめると、

消費税増税は「景気がどうあろうが、とるものとってゆきますよ」という財務省の意思を感じるよなー

という話である。

これに対して、

  • 景気を冷え込ますようなことをしてどないすんねん、
  • 亡国の財務省官僚乙

みたいな感想も多く見られた。
 まあ、僕もそこはそうも思う。

でも、これから先に、とめどなく上がってゆく医療費・年金・介護保険費用のことを考えたら、多分なりふり構ってらんないのかなあ、なんて思う。
制度をクラッシュさせずに継続させるには、どうしたらいいか。ということを官僚は真剣に考えている。
どないしたって、すべての人が満足できるような政策はとれない。
痛みを分かち合いながら、妥協点をさぐるしかない。

病院の3割が赤字である、というのが発表されても、さらに医療費は下げる覚悟。
これは、総量が増えるので一人当たりの単価をどうしたって下げないと回らないから仕方がないのだ。
2030年くらいまで、医療機関は「生かさず殺さず」のていで取り扱うということだと思う*1

* * *

1割負担が2割負担に増える。
単純に「1割増えるのか」と思う阿呆はいないと思うけど、
もし医療費が同じであれば、窓口で払うお金は、倍に増える。
消費税の2%増なんて目じゃない。*2
倍だぜ、倍。

もちろん、ここにはからくりがある。
例えば生活保護世帯は自己負担がそもそもゼロで、関係がない。癌や重篤な内臓疾患があって入院、通院をしている人は、高額療養費制度で、倍にはならない*3

では、どうなるかというと。
かかりつけ医のところにゆるゆるとかかっている、生活習慣病の人、糖尿病なども1剤や2剤でコントロールできているような人。
比較的軽症で、予防医療的な内服治療を受けているような「元気中高年」の負担は純粋に増える。
年金の中で医療費のやりくりをしている人にとっては、相当な打撃になる。
Opじゃない整形とか、ペインクリニック、耳鼻科・皮膚科もおそらく打撃だ。

地域の診療所、いわゆる開業医に関して言えば、顧客の30-60%程度が、こういう「ライト・ユーザー」がターゲットだ。
こういう人たちがどういう受診行動にでるかというと、一部の生活に余裕がある層を除いて、自己負担分を維持する方向に動く。
つまり医療費の総量を切り下げてゆく。
なんとなく採血していたのが、採血は半年に一度でいいです、とか検査をしぶったり。
月一回の受診を守らせる医療機関から、2ヶ月・3ヶ月ごとの受診を許容する医療機関に流れる、ということもあるだろう。

開業医は、一人の患者さんの支払いを最大化しようと無意識に考えて診療計画を立てることが多い。
そこに患者サイドから抑制がかかる。

この辺り、ネゴシエーションを患者さんときちんとできるようにならないと、厳しい。
何も言わず検査をドチャクソ盛ってくるような先生は、敬遠される可能性はある。

その意味で医師〜患者の対話がきちんとできる若い先生が有利になるかもしれないが、損益分岐点がかなり上がるので、新規開業はかなり厳しくなりそうな気がする。今の開業医の勢力の中で「みんなで冷や飯食え」というのが基本方針なので、新規参入を許すかどうか…かなりタフな戦いになりそうな気がする。ま、そのあたりを見越して、一昨年くらいから、当地域でも新規開業が妙に増えていた。
多分ラストチャンス、という感じなんだろうね。

* * *
もっとも、ポリファーマシーについては解決に向かうのかもしれない。

今までは、ガイドラインにしたがって、高血圧・脂質・尿酸などについて治療目標に従い投薬していた。
高齢者は複数の疾患を抱えることも多く、気がつくと5種類、10種類と内服薬が増える、なんてことはざらにあった。
この状況(多剤服用=ポリファーマシー)を減薬しましょうね、という潮流は数年前から始まっている。
 が、色々あって、なかなか進んでいない現状がある。

しかし、自己負担が増えれば、より大胆な減薬が、患者さん側から要求される可能性が高くなると思う。
(それを容認しない開業医の元からは、おそらく患者さんは立ち去ってゆくだろう)

75歳以上の高齢者に関しては、降圧などによって得られる恩恵、予後延長効果というのは、明確なエビデンスが少ない。
(ナショナルスタディなどはあるが、大規模な介入研究は、交絡因子が多すぎて結構難しいのだ)
だから「75歳以上では、そもそもガイドラインに沿った治療目標に根拠はない」と強弁された時に、反論ができない。
だから、多分、後期高齢者に出す内服薬を減らしてゆく、という方向のもとで、多分この「75歳以上には予防の効果のエビデンスがない」という金科玉条は持ち出されるんだろうな、と思う。

実は「『予後延長効果があった』というエビデンスがない」というだけで「『予後延長効果がない』というエビデンスがある」ではない。多分その辺は意図的にミスリードして、高齢者に脂質や血圧の薬は効かない!なんていう声が大大的に叫ばれてしまうのかしら。


* * *
「部屋を片付けて、素敵な生活を営むために断捨離しちゃいましょう♪」とか言っていた人が、生活が苦しくて、
「食費が足りないので、このタンスをセカンドストリートに売っちゃいます……」になるようなもので、


今は「ポリファーマシーによる、副作用や服薬コンプライアンスも悪化を食い止めるために減薬しましょう」というのが、
自己負担2倍時代には「もう薬代がかかってかなわんから減薬してくれ」というあけすけな理由になるんだろうね。

なんだか、現実世界が、藤子不二雄Fの『定年退食』じみてきた!
magazine.manba.co.jp

個人的には、この元気世代の自己負担はともかく、お金がかかるわりに意義が少ない医療にメスは入らないのか、と思う。
例えば、要介護4・5で、自己決定権の失われた人たちに対する、濃厚な医療ね。

経営者としてはここにメスが入るのは正直痛いところではあるのだが、地域全体・医療界全体を考えると、見直しが必要ではないかと思う。

追記(12/6)

長々と書いては来ましたが、今回のこの提案は早々につぶされたようですね。
まあ、日本医師会のコアである開業医の既得権益を狙う政策が、やすやすと実施されるはずもないとは思いました。

ただ、この今の来年度の診療報酬改定の時期に2022年の自己負担率の話をぶつけてきたのは、そもそも囮というか、「避雷針」なんではないか、という気もします。

この提案に注意を引きつけ、みんなの意を汲んでひっこめるという姿勢をみせておいて、
もうちょっと地味な提案をいくつか通させる。

 そんな目論見があるのかもしれません。

*1:もうちょっというと、2030年くらいになって医療法人の半分くらいがもうやってけませーん、となっても、人口が減るからいいんじゃないか、と思っているフシはあるね。また、その頃医療そのものが激変している可能性もあるし

*2:ま、あれも25%増税なわけだけれど

*3:もちろん、何らかの形で負担は増える覚悟は必要で、ギリギリの生活にとっては、結構重たい問題だ

「ACP=人生会議」なんて「死」の婉曲語そのものだっつーの。

吉本新喜劇の座長、小藪が参加したACPこと人生会議のポスターが猛批判にさらされているそうな。

www.yomiuri.co.jp

「死」を連想させるから…ということだそうだ。

え?
何を言っているの?

* * *

ACP Advance Care Planningという言葉が「人生会議」というふわっとした呼称に決まったのは一年ほど前。
まあ外来語よりはわかりやすいので、より一層の普及を、という方向性については別に反対はない。

「人生会議」って、一般語である「家族会議」に重ね合わせようという意図があるのかなあ。
家族会議というのは、構成員の就職・退職などの進路変更、結婚・離婚などの家族の諸問題に対して家庭で話し合うこと*1なのだが、この人生会議=ACPって、身も蓋もなくいっちゃうと「来るべき死」に対する対応そのものである。

ぶっちゃけ「ACP=人生会議」を「死」の言い換え語と考えて構わないくらいだ。

要するに、「うんこ」のことをお通じといったり、お手洗いと言ったり、おちんちんのことを「ムスコ」とか「アレ」とかいったり、セックスのことを「アレ」とか言ったりするのと同じ。
「アレ」って便利だなオイ!

「死」と直截的にいうのがはばかられるので、「ACP」と言い換えているだけだ。
それをさらにオブラートに包んだのが「人生会議」という言葉、と言っていいだろう。

もちろん「死」と「ACP」は根本的に概念が違う言葉だ。
けど、最近は学会のシンポジウムなどで「死」に関する議論をしたいときに、ACPという言葉を使うことが多い。
その「ACP」意味が通らないなあ、という文章で、「ACP」を「死」に置換するとすっきり理解できる、というパターン、実によく目にするんだよね。

その意味では医療関係者にとっては「死」と「ACP」という言葉はほぼ等価であったりする。Fuckの代わりの4 letter wordみたいなもんだ。
*2

だから、批判の気持ちもわかるけど、ああいうポスターが出て来ざるを得ないのは、
結局いま、死について考えるのを忌避している人たちへの対応で、まさに色々問題が起こっているからだ。

そういう人たちに対し、現状これではいかんですよ、と提案するために意図して作られたポスターなのに、それが批判される。そういう態度だから、こういう啓発をしなければいけないのに。全くこの世は救いがたい。

* * *

人は必ず最後には死ぬ。
みんな理屈では知っている。
だが、こんな当たり前のことも、体感しないと、理解はできない。

自分の家族や友人が死ぬというときに、この事実を受けいられられるか、というと、はなはだ疑問だ。


現代の日本で、都市生活を営む限り、死を目にすることは少ない。
身内・知人の死の経験も圧倒的にすくなくなった。

 私は2000年から2002年まで、島根県平田市というところに住み、研修医をしていた。*3。2000年の当時でさえ高齢化率が25%という、高齢先進地域だった。

そんな田舎では死はかなり身近だ。
町内は概ね知り合い同士であり、ご高齢の方は順番に死んでゆく。
各家庭に有線放送があり、「町内の誰々さんが死んだ」みたいなお悔やみ放送が毎日流れる。*4
亡くなったら、みんなお家に行って挨拶をする。暇な知り合いは葬式ももちろん出席する。

動物だって死ぬ。
国道にはしばしば跳ね飛ばされたイノシシや鹿が死骸をさらしている。
もちろん犬や猫も。
農地も多いのだから草も一年経ったら枯れる。
枯れ草は燃やされるし、肥やしにしたりもする。
我々も、草木も動物も生命であり、生きとし生けるものは循環している。
 田舎にいると、そのことを日常に体感しやすい。

ところが都市生活はそうではない。
まず、多様性が少ない。
大規模で効率的な交通輸送システムに適合した人でなければ都市生活を続けることは許されない。
幼児も老人も満員電車には向いていない。
効率が優先される世界では、死にちかづいた人、高齢者や障害者は表舞台からそっと退場し、目に触れなくなる。

そういう世界で生活していると、死どころか「老い」に触れる機会さえ少ない。
おまけに最近は「家族葬」が増えている。
 葬式に出席する機会は確実にこれから減るってことで、自分の近親者が死ぬときまで、葬式さえも出たことがない人が増えるということだ。ますます、勤労世代の都市生活は死から遠ざけられる。

そういう生活においては「人は死ぬ」という当然の事実を体感しにくい。
身内が亡くなりそうだ、といって、駆けつけてきて、医師の説明を聞いても、「そもそも人は死ぬ」という大前提の事実を受け止められない。だから超高齢者や、認知症も末期になって、本人も生きているのか死んでいるのかわからなくなっている様な方に対して「機会損失は許されない」みたいな考えで、濃厚な医療を望んだりする。

20年ばかり医者をやっているが、都会からやってきて、ビジネスにおける商取引のマインドそのままに、高度な医療を要求する子供の、現実からかけ離れた要望、みたいなパターンには数限りなく出くわした。*5

* * *

もっとも勤労世代だけではなく、高齢者である当人も似たり寄ったりではある。

hanjukudoctor.hatenablog.com
(これは10年前に書いた記事ですが、団塊の世代は、日本が右肩上がりの時代に人格形成されたために、滅び・死というものの受け入れが悪く、努力で回避できるんじゃないか、と思っているフシがある)

基本的には「死」に関することを先送りにすることはかなり多い。
私の外来でも人生会議という名称が決まる前から、ACPのパンフレットと記入用紙を結構配っている。
のだが、3割くらいは「それについて考えるのが怖いから書かない」といって持ってこない。

喫煙者で、禁煙をすすめても「いや先生オレはピンピンコロリで死ぬからいいんだよ」とかうそぶく御仁には、ちょっと前からそのタイミングでACPの用紙を渡すようにしている。そういうシチュエーションでさえ、ちゃんと書いてこないよ、みんな。
 基本的には、周りがぽろぽろ死にだす年齢になっても、自分のことをきちんと考えよう…とはならない。
 皆、自分の見たい現実しか見ようとはしないのだ。


 そういう毎日を過ごしているので、今回のニュースは「さもありなん」。
 一石を投じる意味はあればいいと思うけど、きれいごとで、隠蔽して終わりだったら意味がないなあと思う。

 医療現場にいる我々は、事前に意志決定ができていない人の臨死に際しての方針決定にうんざりしている。

hanjukudoctor.hatenablog.com
ただ、以前にも書いたが「ACP=人生会議」が普及して実を結び、我々現場の人間の役に立つには多分5年10年以上かかるだろう。

人生会議を普及させて、「死」のあり方についてみなが議論することはいいことだとは思うが、多少ネーミングの時点で死を意識させた方が、余計な幻想を抱かずに済むのかもしれない。

その意味では『人生会議』ではなくて『終活会議』の方がよかったかもしれないな。

*1:これも家長制度がなくなり、家族主義から個人主義へ変遷し、個人に関することは家族で議論してもしょうがないと、なってくるようにも思う。

*2:実は厚生労働省には「死」の婉曲語がもう一つある。曰く、「人生の最終段階」。これはあんまり人気がないね。

*3:ちなみに今はもう平田市平成の大合併で、もうない。出雲市編入されてしまった

*4:私の官舎にも有線放送があり、誰々さんが亡くなりました…というのが流れ、自分が主治医だったりすると、なんかスイマセン…という気になった

*5:もっともこれはアメリカも同じだそうで、「カリフォルニアの親戚」みたいな言葉もあるそうだ。

病院のバトルロワイヤルが始まった。

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9月26日、全国の医療機関を震撼させるニュースが走った。

www.nikkei.com

全国の公的病院の中で、近くに同等の科があるけど、症例の集積が悪い病院、救急やガン医療などの実績がやや悪い病院をスコアリングし、悪い方から424の病院がリストアップされ、厚生労働省によって公表されたのだ。

ま、はっきりいうと「お宅の病院、近隣の医療機関と整理統合した方がいいんとちゃいますのん?」
リストラ候補ということを、中央官庁が公表してしまったわけだ。

当然、該当する病院長は激怒。市・県の首長なども「これどうなっているの?」と病院に問い合わせをしたり、国会議員に陳情にに行ったり、裏ではたいそう愉快なドタバタ騒ぎが起こっているそうな。

* * *

事実、僕の知っている医療圏を見る限り、今現在において、即閉院・統廃合という必要性までは感じない。
ただ、事実として、リストアップされた病院の多くは、地域に燦然と輝く地域一番店ではない。*1

そして、これから日本の人口構造は急展開をむかえてゆく。
今まだ事業継続性があるように見えても、ここから急速に市場は冷え込んでゆく。
人口が減っていくのだから、当然のことだ。
 3-4年も経ては、今回のリストアップされた病院が、統廃合をしなければ立ち行かなくなる可能性は、かなり高い。
あのリストはかなり正確に未来予知をしていることは、多分誰の目にも明らかになると思う。

ただ、上手に近隣の医療機関と科の整理統合をし、整理統合をすれば、生き延びるチャンスは十分にある。
民間病院の僕らからしてみれば、こうやって名指しで「平均以下ですよ、今のままではだめですよ」という指摘をされることは、親切極まりないな厚生労働省、とさえ思う。ある種の叱咤激励だからね。

 だから今回の開示を受けて、とりうる行動は、
この客観的データをもとに、生き残りをかけてありとあらゆる知恵を総動員し、経営改善をすることだ。
激怒する時点で、その病院は、多分存続する資格はないと思う。
 そんなやつらは、どのみち閉院に追い込まれる。

どんなに頑張っても、今後3割くらいの病院がなくなることは折り込み済みだ。
どうせ無くなったって、患者もどんどん減ってゆくのだ。あんまり困らない。
(むしろ地域の医療機関を下手に残すと、市町村は財政のリスクを負うことになる)

* * *

 ただ、病院は、名指しで「君ダメだかんね」といわれたような風に受け取られてしまうわけで、風評被害レベルでは、結構大変なようだ。
 そういう病院の事務方と話す機会があったが、新人の採用活動は、軒並み向こうから断ってきたらしい。
 きっつー。
 生き残りをかけて人集めを頑張っている矢先に…とがっくりうなだれていた。

* * *

 実際に、病院同士がお互いに殺しあうバトルロワイヤルは起こるんだろうか?
 当地域でも、病床は2025年に向けて数百床レベルで過剰だと見積もられている。
 ただ、実際に公称のベッド数と、稼働していないベッド数は結構乖離がある。
 古い敷地の病院であれば、一病棟まるまる凍結している、なんていうのはザラにある。
 それに古い建屋で、既存耐震不適格建物も結構ある。
 こういうベッドを減らせば、数百床は、割と無理なくダウンできそうにも思うのだ。
 実際、最近は予想される収益と建築費との折り合いがつかないので、今病棟の建て替えを行うのは、かなり厳しい。特養も今建てても、大都市圏の周辺でなければ、ペイしない。


* * *

数字を鵜呑みにすると、とてつもなくつらい未来が待っているように思うけれども、
少し冷静になれば、マクロではそんな悲惨なことにはならないかもしれない。

 例えば、これから不動産が過剰となり、大空家時代が始まり、不動産の暴落が始まる…なんて言われているけれど、今回の台風でハザードマップ上にある建物は、今後もかなり災害リスクに晒されていることが明らかになった。そこの建物に住むことに対して、税制上不利な政策などをもうければ、ハザードリスクの低い建物のみが流通してゆく。
 結果それほど物件の持ち主が空家で困ることはなくなる、なんて事態もありうる。*2

 また、人口減少でえらいこっちゃえらいこっちゃって騒いでいる反面、別の方向からは、AIとかで仕事が無くなる、なんていうことも盛んに言われる。じゃあ、人は足りなくなるのか、余るのか、どっちなんだ。
 実は減少と不足でちょうどとんとん、そんなに悲観的になることもなかったよな。
みたいなこともあるだろう。
hanjukudoctor.hatenablog.com
以前にも書いたけど、人口減少社会で、荒れ果てた山河が、逆に中国や韓国からバイオエネルギー源として羨望の目で見られることだってあるかもしれないし。*3

まあどうせ、なるようにしかならん。

* * *

ちなみに、今回のリストアップには、実は、財務というか経営状態は加味されていない。
そこまでリスト化したらぐうの音もでないからなのかもしれないが、ヤバイ赤字公的病院の多くは補助金という形で地方自治体から資金が流れているので、B/S P/Lからは一見見分けがつかないからだと思われる。

*1:多くは地域一番病院があり、それに追いつこうと頑張っていたりする病院だったりする。でもまあ、時勢が悪くすごく努力して現状維持、とか。だからこそ腹立たしいのかもしれない

*2:もちろん、ハザードマップにある不動産の所有者は、建物の価値が著しく毀損され、物件所有者が激しく明暗をわけるのは事実だ。

*3:とはいえ、中国もインドも植林などの緑化事業で、緑はよみがえっているらしい。彼らは僕たちの失敗を他山の石にしているせいで、割と起こりうる事態を回避している。かしこいし、意思決定力がある。

オリンピックのマラソン、いっそのこと夕張でやれば?

www.nikkansports.com
オリンピックのマラソンは酷暑でどないすんねんという指摘は前からあった。

どう決着するのか興味があったけど、結局IOCの意向で札幌になったらしいね。

 「選手ファースト」としてはまっとうな結論だとは思う。

hochi.news
景色が…とか言ったキャスターがいたらしいが、たしかに彼は、いわゆるその、外見を、人から見える印象をことの外気にする人だし、ほっほら、自然よりも、あの人工物に親和性が高いみたいだから、ほらご自身の体も、アーバナイズされてるみたいだから、ありのままの自然、よりは都会の方がいいのかなあ。

 * * *

それはさておき、
結論から言えば、

夕張市を東京都が買い取って、東京都夕張市にして夕張でオリンピックやれば?
と思う。

メリット

  • 東京都で開催ということにできる
  • 夕張の財政難も解決する。
  • 夕張の圧倒的な人手不足が、少し改善するかもしれない。もっともこれは、東京都の職員としては、夕張出向の可能性があることになる。ちょっとやり方としてはなんだが、左遷ポストとしては使えるかもしれない。異動は悪いことばかりではない。都内でくすぶるよりは、そこまで環境変わると、人生も変わると思うしな。
  • 東京都の保養所とか研修所とか、地元振興のために建ててもいいだろう。ちょっと楽しくない?都立高校畜産科とか。
  • 現在夕張市はインフラ整備もままならないほど財政難だが、市の中心部をマラソンコースにしてしまえば、少なくとも50kmくらいはガッチガチに良い舗装ができる。
  • 今後もマラソンなどのロード競技のインバウンドを見込める

デメリット

  • 余分に金がかかる。
  • ギリギリの変更なので、オリンピック担当の都庁職員と北海道公務員の何人かが過労で死ぬ。
  • これから同意を得るのは多分無理。


ま、僕が考えるくらいのことはきっと誰かが考えてるとは思う。
しがらみもありすぎて、こうはいかない。
なかなか実現は難しいよね。

最期の末梢点滴、どうしてますか?(その2)

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これも息子撮影

前回の続きです。
hanjukudoctor.hatenablog.com

  • 胃瘻・経鼻チューブは減りつつあり、自然な看取りは増えた。
  • この場合末梢点滴をどこまで行うかには、現在定見はない。
  • 病院では多くの場合末梢点滴を中断することは少ない。
  • 一方介護施設・在宅での看取りでは最初から点滴を行わない「平穏死スタイル」が増えている。

病院においては、末梢点滴を外し、最期の数日間を点滴なしで過ごすは、正直なかなか難しい部分もあります。
うちでも何度か取り組んでいますが、数例に止まっています。

  1. レベルの低い話ですけど。「点滴を外し、何もしない」という事態を異常事態としておかないと、例えば末梢点滴の指示がきれている患者さんの指示を、そのまま点滴終了と判断して拾ってくれなくなったらどうしよう…と思ったりします。これを防ぐために、点滴中止は、病棟の詰所内でスタッフを揃え「点滴の持続は以後中止します」と宣言しないと、中止ととらない、決まりが必要です。
  2. 倫理的な利益相反性。特に急性期病棟においてそうですが、在院日数には下方圧力がかかっています。点滴を切ることは、患者さんのため、と言っているけど、自分たちのためにやっているんじゃないか?という疑念が払拭できない。急性期病棟の「早回し」の中に点滴中止を組み入れると、誤解を招かないだろうか、と少なくとも2019年時点では思う。

点滴「する」「しない」二分法からの脱却

これは、前回にも出したスライドです。


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前回述べたように、
点滴を「する」「しない」という単純な二分法ではそれぞれに長所・短所がある。
というわけで、当グループでは、その間の段階を説明させていただいてます。
あ、特養の話ですよ。


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まずは、つなぎ融資型。
食事摂取の程度は、波状に悪くなることが多いわけですが、食事摂取が一定のレベルを割り込むと(300Kcal/日、水分は500ml以下を目安としています)、500ml程度の補液を行います。
3〜5日点滴している間に食事摂取が元に戻れば点滴を中止しますが、点滴を追加しても、食事摂取が増えそうにない場合は、この時点でご家族にお話をさせていただき、点滴の中止を提案します。

ちなみに「つなぎ融資」とは、倒産しそうな会社の資金繰り難に対して行う融資のことです。業績が改善すればキャッシュフローもよくなるけど、好転が期待できない場合、銀行は掌を返して資金回収に走ったりしますね。それににていて、基本的には点滴はしないけれど、当座これで頑張れる?みたいな点滴です。

平穏死スタイルにもうワンチャンス、という感じですね。

「つなぎ融資型」は平穏死スタイルに共感を示すけれども、親族の合意がまとまらず平穏死ほど思い切った判断ができないご家族に向いています。
「平穏死」は本人の意思表示が明確にあれば選択しやすいですが、意思表示がすでに失われ、親族が忖度して方針を決定する場合、あまりラディカルな選択肢はとりにくいものですから。

もう一つは「直前中止型」です。
この場合、比較的長く点滴は続けます。
が、例えば浮腫が出てきたり、点滴穿刺ルートに難がでたり*1、家族がきてもほとんど反応がなくなったような状況(僕はよく「ご本人はベッドに横になっているけど、ご本人の魂は、50cmくらい上にフワフワ浮いている状態」と表現してます)になれば、点滴を続ける理由よりやめる理由がうわまわる。その時は中止を勧める、というもの。

比較的コンサバティブなご家族はこちらを選択される印象です。

* * *

もちろん、現実には、我々の目論見通りにすべてことが運ぶわけではありません。
「直前中止型」で点滴を続けていても、あっさり心停止が起こってしまうこともあるし、家族の思惑を裏切ってしまうこともある。そんなに人の生き死にはコントロールできるものではない。

ただ、点滴については「正解」がないゆえに、できるだけこういうことを丁寧に説明しています。
そうすると、患者の家族は最期の段階を想像してもらいやすくなる。
また、これくらい踏み込んだ選択を家族さんと相談している過程で、自然にご本人に関しての共有する情報も増えます。そういう関わりこそが、死の選択には重要なのだと思っています。

今年に入って20件ほど看取りをしていますが、大きなトラブルは起こっていません。

基本的には平穏死を勧めています。
しかし平穏死を積極的に選ばれる方はやはり2019年の広島県地方都市ではまだまだ少数派です。
ただ、丁寧に説明すると、最期までとことん点滴、を望む人はそんなにはいませんでした。
「つなぎ融資型」「直前中止形」のどちらかに落ち着くことが多いように思います。

* * *

ちなみに、僕がこういう選択肢を提示するのには、個人的な反省もあります。
基幹病院から実家の中小病院に戻ってきた僕は、当初「看取り」になる患者さんは当然のごとく点滴をしていました。しかしどの点滴をどのくらい行うか、には多少の試行錯誤も必要でした。

結論からいえば、維持輸液を500ml、なんなら末期は200mlくらいに絞るのが一番保ちます(3号輸液か4号かは、永遠のテーマではあります)
これは、若い人に対する維持輸液1500ml/日などとは全く異なるアプローチです。
が、浮腫などもでないし、ルートトラブルも少ない。高齢者はドライ気味の方がいいというのは鉄則です。

ある日、看取り体制に入ってから3ヶ月以上存命していた人の死亡報告を受けて内心してやったりと思って病室におもむき、死亡宣告のため、患者さんの顔をみて、気づいたんです。

 これ、全然患者さんのためになっていないやん。

身体に残った脂肪や筋肉を最後の一片まで絞り尽くしたそのお姿は、皮膚の上から頭蓋骨の形がはっきりわかるような状態。骨と皮ですけれども、まるで即身成仏のようでした。

存命時間の最大化を図る、という医学技術上では満足の行くものでしたが、そもそもこれは誰のニーズも満たしていないんじゃ…と気づいたのはこの時です。

それからは色々看取りの体制について考え、現在のやり方に至った次第です。

僕の今回のアプローチはあくまで過渡期のもので、いずれ、5年後、10年後には「平穏死」スタイルが当たり前になっていくんじゃないかなと思ってはいますけどね。また、そうあって欲しい。

* * *

今回のエントリをきっかけに、色々な人と話をする機会がありましたが、割と一般の世界では、いまだに、胃瘻や経鼻チューブを望む人は少なくはないようですね。

我々はどちらかというと特養とか、重度介護の現場でやっているものですから、こうした考えは議論尽くされている、と思っていました。
看取りの前段階、経管栄養のところでの議論もまだまだ必要なようです…

*1:もちろん持続皮下注という選択肢はあります

最期の末梢点滴、どうしてますか?(その1)

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写真のクオリティがいきなり上がりましたが、この写真は昆虫&写真マニアの息子が撮ったもの

今回のブログの内容は、今年の9月28日に名古屋で行われた全日病(全日本病院学会)で発表した内容です。*1

* * *

「ご飯が食べられない時」に、どうしますか?
というのは、家族が医者から告げられたくない言葉のベスト5に入るものだと思う。

認知症であったり、脳血管イベントで嚥下困難になったり、フレイル・サルコペニア(いわゆる全身の衰弱。老衰やね)の方。
もう寿命を迎えようとしている方は、口から自分で食事がとれなくなる。
とれたとしてもむせてしまって、誤嚥し、誤嚥性肺炎をおこしてしまう。

多くの人は似たような経過をたどるので、もう寿命に近づいているよな…というのは、ある程度経験した医療者にはわりに明確に判断できるものだ。
ただ、家族の方々にとっては経験がないこと。
そのコンセンサスがなかなか取れない……なんてのもこれまた医療の現場ではよくある。
が、今回はその話は割愛させていただく。

こういう状況になった時に、医者は多くの場合、三択を提示する。*2

  1. 胃瘻
  2. 経鼻チューブ
  3. ものが食べられないことは寿命です。そのまま寿命を迎えましょう(要するにそのまま亡くなる方向)

みなさんご存知かもしれないが、1.2.の胃瘻・経鼻チューブはここ近年だいぶ減少傾向にある。*3。2012年から特に理由なく、胃瘻の件数は減少しつつあり、現在はピークの半分くらいになっている。
経鼻チューブは、本質的には胃瘻と同じものだ。*4

というわけで、3.を選択し、お看取りをさせていただくことは正直増えている。
僕はそれはいいことだと思っている。欧米とかそうだし。

では、その最期の段階において、点滴ってどうするのが正解なのか、みなさんご存知でしょうか?

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「看取り期」における意思表示

* * *

先に言っておきます。
この件に関して、2019年の時点では正解はありません。

末梢からの点滴は、糖質などの栄養分は、たくさんは入れられない。
血液の浸透圧よりも高い糖分の濃度であれば、血管の壁が痛んでしまい、静脈炎を起こすから。コーラと同じく 5%程度のブドウ糖と考えてもらえばいい。カロリーにすれば100カロリーそこら。
末梢からの点滴は、栄養分を入れるのではなく、水分と塩分の補給であると考えていい。
水分がないと人は速やかに死に至る(一週間以内)が、水分塩分を供給すれば、それなりに生きられます。

この場合、自分の体にある栄養分、脂肪とか筋肉とかを取り崩して生きながらえることになります。
落命されるまでどれくらい時間がかかるかは、看取りを始めてから、どれだけ貯蓄があるかに依存するわけですが、
多くの場合、この段階に至るまでにある程度痩せているので、適切な点滴をしていれば0〜2ヶ月くらいは存命することになります。

* * *
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例えば、病院において、「点滴をしない」という選択肢はなかなか行いづらいところではあります。
高度急性期、急性期の病院においては、患者さんはさまざまな理由で運び込まれます。その患者さんに対して診断を行いつつ治療を行なっているわけで、その間、食事が取れない場合には、点滴などの補液で生命を維持するのは、ある種当たり前のこと。
*5
そのプロセスの中で、ある種の除外診断ですが、これは「病」じゃなくて「老い」やな、看取り期だな、という判断に至った場合、点滴はやめてもいいのだが、なかなか選択しにくいものではある。

一方、特養などの介護施設では、「点滴をしない」という選択はしばしば認められる。
どころか、どちらかというとスタンダードにもなりつつあるぐらいだ。

「平穏死の勧め」という本がある。
著者の石飛先生は、この考え方の代表ともいえる立場でいらっしゃる。
経口摂取ができないイコール寿命ととらえ一切点滴をしません。
詳しくは本も読んでいただきたいと思います。
苦痛が少なく眠るように息を引き取ると言うのは本当で、確かに理想的です。
私も何例かこのスタイルで看取った経験があります。

一人の高齢者の最期の姿としては、むしろ明治以前の原点に戻ったこのスタイルですが、確かに「本人らしい死」という意味ではかなり魅力的であるのは間違いない。現在死について深く考えている団体・個人において、このスタイルを選択するのはリーズナブルではあります。

ただ、問題がいくつかあるのも確か。
一つの問題は、やはり家族の心の準備が追いつかないこと。
私が嘱託している特養でも、この話は事前にしっかりしている。けれども、いざそうなると、泰然と平穏死を選ぶ人(どちらかというと本人より家族。本人はすでに意思決定能力を失っているから)はやはりまだ多くはないのが現状である。
家族といっても複数いるし、遠方の家族とも連絡したりする段で、「やっぱり点滴ぐらいは…」という言葉でひっくり返されたりするのだ。

もう一つの問題は経口摂取、食事量にはムラがあること。
たべれたり、たべられなくなったり、そうかと思ったらたべれたり。
だんだん波状に食べれなくなる。
平穏死スタイル、つまり絶対点滴しないスタイルであれば、最初にたべれなくなる谷間で、亡くなってしまう。

高齢の医療をしていると食べれなくなって点滴してその後もち直して年単位で存命することはしばしば経験する。
だいたい10%くらいは、数日点滴を追い風を待っているとまたたべられる、ことがあるように思う。
「平穏死」方式ではここの部分が機会損失になってしまう。
(どうせその状態は死んでいるのと同じだから、寿命が伸びたってむだだ、という論法は、こういうデリケートな話のなかでは、いささか乱暴すぎる、と思う。もう看取りですーと宣告するけど、でも数日の点滴で復活し、1年半以上点滴なしで看取り体制を続けている方も、施設には複数生存していらっしゃる。別に引き伸ばされた悲惨な生、とは思わない)

つづきます。

*1:ポスター発表でしたけどね、フン。

*2:IVHを入れてTPNというのは、基本的には僕は積極的にすすめてはいない。栄養学会などでも推奨されていない。東京から大阪までどうやって行きますか?という問いに対し、飛行機?新幹線?というのが胃瘻や経鼻チューブだとすると、TPNは「タクシーでいく」という回答に近いと思っている

*3:胃瘻は、やっぱり自分では入れられたくないけど…という部分が大きいのだと思う

*4:胃瘻はあんまりなので、経鼻チューブで、という家族の要望をたまに聞くけど、はっきりいって、経鼻チューブの方がつらい

*5:要するに、認知症の最末期や、老衰の最末期で食事が取れないことが明白な場合には、そもそも急性期で加療すべきではないのである。

文春「砲」は、結局何を攻撃していたのか

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この写真に悪意はないからな。2019年、息子撮影。
日本の出生数が過去最低を記録した。
www.nikkei.com

私は1974年生まれの団塊ジュニア世代だ。
今年45になる(なった)。
人口動態でいえることは、団塊ジュニア世代はその人口規模にもかかわらず再生産のピークを作れなかったということだ。
ボリュームゾーンは40代に突入してしまい、私と同世代の女性たちはもはや出産することはできない。

ここ10年で、大きなチャンスは失われてしまった。
少子高齢化に悩む日本は、あろうことか見逃し三振をしてしまった。

ここから、妊娠可能な女性はぐっと少なくなる。
もし人口減少に一定の歯止めを作りたいのであれば、今までのような政策ではうまくいかないだろう。
社会常識そのものが変わる必要がある。三人、四人産むのが当たり前の世の中に変われば、チャンスはあるかもしれない。

……多分、変わらないと思う。

* * *

以前にこんなこと書きました。
hanjukudoctor.hatenablog.com

政策の世界では、少子高齢化対策は、わりに明確である。
カギは「婚外子」だ。
フランスは婚外子で成功している。
婚外子」に対する社会保障を手厚くし結婚による出産との差をなくする。
結婚という高い高いハードルを超えて出産、ではなく、ハードルを下げて、産みやすくする。
同時に婚外子を政策的にも社会規範的にも当たり前のものとしないといけない。

現代日本では、その辺はなかなかうまくいっていない。
シングル・マザーの貧困率は高いし、養育費の未納に対する罰則がゆるゆるなせいで、逃げ得になっている。
そして、シングル・マザーに対する風当たりもまだまだ厳しい。

医療の世界では、女性の専門職が結構多いので、シングルマザーの比率は結構高い。
腹の据わった彼女たちは、よく働く。「母は強し」である。

* * *

婚外子が当たり前の世界がこないと、多分少子化は改善しない。
そのためには、世の中の「常識」が変わることが必要だった。
しかし、この10年、世の中の常識は変わらないどころか、「少子化」という点で言えば、ますます悪くなっていないだろうか?

そう『文春砲』である。
週刊文春がもっとも代表的であるが、マスコミによる過剰な不倫・女性問題のバッシング報道。

特にここ数年はその傾向がますます盛んであると思う。

不倫はいね〜が〜、悪い子いね〜が〜

と、まるで「スキャンダルなまはげ」だ。

閉塞した日本のストレスを反映してか、ここ10年ほどは、どちらかというと不倫などにおいて、より非寛容な文脈で報道がなされることが多い。
妬み・嫉みがベースになっているから、不倫などの、結婚以外の恋愛活動が過剰にバッシングされる。

マスコミ報道は、市井の道徳規範を反映して行われる。
さらに報道が市井の道徳規範の再強化にもつながっている。
これが悪循環を生んでいる。

結果、市井の人たちも「いい子」でいることが求められる。
不倫はなんとか隠せるかもしれない。しかし婚外子はバレるよな。
倫理警察が芸能人を血祭りにあげているなか、婚外子を作るなんていうのはもってのほか、という判断になる。

だから、婚外子は増えない。結果、出生数も増えない。

もし文春砲が吹き荒れなかったら、そして政府が婚外子優遇制度みたいなものを作っていたら、
例えば年間の出生数をもう数万人単位で押し上げることはできたかもしれないと思っている。

ただ、もう遅い。
最良のタイミングを、日本は失ってしまった。

* * *

『ミヤネ屋』こと宮根誠司の隠し子騒動が報道されたのが、2012年。
この時僕も含めて団塊ジュニアは30代後半だった。宮根氏は、あまり手ひどいバッシングを受けなかった。
僕はこの時、「あ?潮目がかわったのかな…?」なんて思っていたのだ。
 この後、婚外子を政策面でも倫理面でも称揚していれば、もう少し自由な家族形態が許容され、子供が増えた、という世界線もありえたんじゃないかと、僕は思っている。
 実際、ドラマや文学などでは、多様な家族形態を模索するような作品もいくつか見られた。
 世間のコンセンサスが変わる可能性はゼロではなかったかと思う。

しかし、現実は全く逆に作用した。
ベッキー『ゲス不倫』が2016年。その後も大物のスキャンダルが文春によって暴かれ「文春砲」なんて言われていたのがここ数年。
この時団塊ジュニアは40代前半。
妊娠・出産の最後のチャンスだった最後の数年は、倫理的に逸脱を許さない雰囲気が横溢している(今もそうだ)。

こんな中では、普通の雇用者は、婚外子を作るという選択はなかなかできないだろう。

シングル・マザーが、貧困に陥る原因は、養育費の未払いや不十分な保障制度というのもあるけれど、そもそも婚外子を作るような男性が、どちらかというと社会の低層、もしくはアウトサイドにいるという現実もあると思う。
要するに養育費を払わないし、払おうと思っても払えない。
払えるような人は養育費を支払う以上のデメリットが大きいのでそもそも婚外子を作ろうとはしない。*1

* * *

「文春砲」は、文春「砲」というからには、何かを攻撃していたわけだ。

ではいったい何を攻撃していたのか。

日本の未来、ではなかったのだろうか、と僕は思う。

文春砲は亡国の引き金。
始まりの終わり。

もちろん、週刊文春だけが悪いわけではなくて、週刊文春のあり方に快哉を叫んだ、旧世代の倫理規範をもった旧世代の人たちすべてが、よってたかってそういう方向に手を貸した、ということになる。
そこには日本国の繁栄が失われつつあることへの苛立ちが反映されていたことは多分にあるだろう。

でもその倫理意識そのものが、日本を滅ぼす方向に作用している。
その事実は、僕たちは、忘れてはいけない。
僕たちは自ら明るい老後の可能性をせばめてしまったことを。*2

* * *

ちなみに、今調べて初めて知ったことなんですが、婚外子に対して支払う養育費は所得税の控除が認められるんですね。
知りませんでした。
高収入の男性は婚外子を作ることに対して、経済的にはそれなりに損はしないようになっているみたいです。

しかし、今の養育費の仕組みは、自由意思で払い、払ったら所得税控除があるという方式。
払わなかったら家裁とかから文書が行くけど、そこまでの強制力はない。
もう、税務署が監督して強制的に徴収するようにできないかと思う。
要するに払わない場合は重加算税を支払せる、くらいの勢いが必要だ。
養育費は逃げ得を許さない制度がいいと思う。

で、さらにちょっと進めて、ふるさと納税みたいに、俺の子じゃないけど、養育費の不足分を納税したら税控除受けられる、みたいな制度はどうか。
養育費が払えない親なんて結構いる。そういう人が本来支払うべき養育費の財源にするのだ。
払った記録は残してもらって、少子高齢化に貢献しました、みたいなんで、老後にちょっとだけインセンティブがほしい。それなら僕は払ってもいいと思う。

その他のBlogの更新:

半熟三昧:

『武器になる哲学』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『騎士団長殺し』村上春樹 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
[『スマホメモ』須藤亮 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『僕は僕の書いた小説を知らない』喜友名トト - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『悪魔が教える願いが叶う毒と薬』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)

「武器になる哲学」はい。年間ベスト入りでしょうね。
今更「騎士団長殺し」とか読んでしまいましたが、残念ながら今年もノーベル賞はならず。
詳しくはエントリを読んでほしいですが、今後、村上春樹が話題にでてきたら、「ノルウェイの森の」とかいわずに、
「えっあのジャングル通信の村上春樹が?」みたいに言おうと思います。

ジャズブログ:

第3回福山ジャズ検定 - 半熟ドクターのジャズブログ
ひっそりと、めっちゃマニアックなジャズ検定クイズやってみます。
意外に、正答率がジャスト60%をキープしているんですよ。
僕問題作る才能あると思う!

*1:純化しているので、個々の事例のすべてをあらわしているわけではありませんよ。またこんなことかいたら炎上してしまうわな。

*2:ついでにいうと、バブル崩壊のあと流行った「清貧の思想」ってやつも、僕は亡国に手を貸したと思っている。世界の富がインフレーションを起こしているちょうどいい潮目で財布しぼってどないすんねんな。映画「バブルでGo」のラストシーンはある種痛快であったな。