半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

スカートとパンツ

前回のエントリー。たくさんブックマークもいただいたし、いっぱい批判もいただきました。

しっかしさあ、僕、別に財務省の人間じゃありませんぜ?
政策動かしているわけじゃないし、税の専門家でもないし。
インフルエンサーでもない。包括的に税を論じているつもりもないし。
消費税について是非を論じているわけでもない。それは政策決定や選挙の時にするべきことでしょ?

雑な理論だと。ウンウン。僕もそう思います。単純化って言葉知ってます?僕が「腹オチ」しただけです。
僕がいいたいことは税や会計の専門家にとって当たり前すぎることで。事実だとは思うんすよね。不愉快な事実なだけで。

そもそも、消費税賛成論者ではないんですけどねえ。
ま、「受け入れ力」は高いので現状肯定を消極的賛成ととられても仕方がないのかもしれない。

謝るとこはいっぱいあります。法人税、法人事業税(これは外形標準課税ですね)の用語のところ、輸出企業について、全く視点がない、などの批判はその通り。
詳しい方からみるとどうしても用語の誤用とか気になると思います。そのあたりはすいませんでした。

まあ、税金みたいな天下国家の話題はどうしても議論になるのは当たり前か。
論議を呼ぶ意味では有意義だったのかなと思います(ポジティブ!)
せいぜいはてなでよかった。飲み屋だったらビールのジョッキぶつけられてたわ。*1

なので、静かな僕のBlogにふさわしく、別の話をすることにします。

……えーと、じゃあ、パンツ(パンティ)の話していいですか?

パンツ

f:id:hanjukudoctor:20191003000347j:plain
Photo ACより(Cheetarさんの写真をお借りしています)
cheetahさんのプロフィール|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK


スカートとパンツ。女性の衣服。
スカートの下からパンツが見えることを「パンチラ」といいます。
一般的な話として*2、パンチラは、男性の性欲を掻き立てる。
女性はパンチラを恥ずかしがる。
一応、そういうことになっています。
まあ昭和の文脈では。

これ、ずっとなぜなんだろうと思っていた。

女性はパンツが見えるとなぜ恥ずかしいのだろうか?
もっというと、なぜ女性はパンツが見えることを恥ずかしがらなければいけないんでしょうか?

大事なことなので、もう一度いいます。

なぜ、女性はパンツが見えることを恥ずかしがらなければいけないんでしょうか?

* * *
f:id:hanjukudoctor:20191003000943j:plain
例えば、フィギュアスケートでは、大きく開脚し、股間を衆目にさらすようなポージングがある。
被覆がなければ相当大胆なポーズである(おっぴろげ)。
でも、あのポーズは、女性も恥ずかしいとは感じないし、男性も性欲を掻き立てられはしない。*3
我々はあのポーズを性的な興奮の文脈とは受け取らないことになっている。

では、水着はどうだろう。
水着は、耐水性の面で下着とは違うとはいえ、身体被覆のありようとしては下着と変わりがない。
でも、我々はその姿に羞恥心を感じたりはしない。*4

股間に薄い布一枚しかない状態は、確かに不安といえば不安である。
ただ、布で覆われてはいる。
生殖器を直視するわけではない。
昔の日本女性の和服の下に履く「腰巻」ではないのだ。

このことから、
薄い布に隠された女性の股間をみたからといって男は興奮するわけではないことがわかる。
では、なぜ「パンチラ」には羞恥心を感じたり興奮させられるのか。

スカートの中のパンツは「みてはいけないもの」「見せてはいけないもの」になっている。
女性はパンツをみられると羞恥心を感じる。
男性がパンチラで興奮するのは、本来「みてはいけない」パンツをみること、そして、女性が見られることに羞恥心を感じていることにも興奮しているのだと思われる。

アフリカの部族(だったと思う。ソース不明)の女性が、裸に腰に紐一本巻いて、前に紐を垂らしているだけの格好が衣装なんだけど、そのほとんど性器も隠せていない紐を外すとめちゃくちゃ恥ずかしいらしい。
それと同じようなもので、文化的なコードとして、スカート+パンツは羞恥心を感じるべきものとして埋め込まれている。

「スカートを履き、なおかつパンツを人に見せてはいけない」というルールを女性は幼少期から教え込まれている。
パンツは隠すべきものであるからであり、恥ずかしいものであるから。

では、なんのために?

* * *
実は随分昔から、僕はこのことが疑問だった。
スカートから垣間見えるパンツになぜ男性は興奮し、女性は羞恥心を感じなければいけないのか。
その文化的効用はなんのためにあるのか?

上野千鶴子女史のかつて一世を風靡した「スカートの下の劇場」という著作がある。

これは社会論というか、フェミニズム論ではあるのだが、以前にこれを読んでも、正直よくわからなかった。*5
パンティへのこだわりは何か?とサブタイトルに書いてあるが、女性のナルシシズムであるとか、身体性とかジェンダー論みたいなもので、パンツに羞恥心を抱くのはなぜか?という疑問については言及されなかった。*6パンティは秘匿すべき部位であると同時に、パンティの形や柄に対するなみなみならぬこだわりから、秘匿と誇示の二面性がありますよ、というのがメイン。スカートを履く女性からみた諸相であり、既存の性規範には関心はないようだった。

20年くらいずっとこのテーマが謎で、本読みの自分にして、いまだに納得のいく説明にであったことがない。
服飾系もしくは文系の、卒論のテーマくらいにはできると思うので誰か調べてくださいませんかね。

* * *
まず「Why」ではなく、「How」を考えよう。
膝丈くらいのスカートで、パンツが見えないように振る舞うためにはどうすればいいのか。

裾の部分が乱れないように、基本的には何事につけ両膝を揃える動作が必要だ。
立つときも、座るときも、しゃがんで物をとったりするときも、両膝はくっつけておく必要がある。
足が開いていてはパンツが見えてしまうからだ。
いきなり結論になってしまったが、逆にいうと、この所作を身につけさせるために、スカート+パンツの服装に対するコードが作られたと、僕は勝手に断定する。*7

またスカートを履いた状態でパンツを見えないように立ち振る舞うには、背後にも気を使う必要がある。
男は、服装で自分の所作振る舞いを制限される、という経験はあまりない。
男性の多くは女装すると服装による動作の制限に新鮮な感覚を覚える、というのはよく聴く話。
私は女装経験はないのだが、ちょくちょくズボンの尻の部分がデブきぬ擦れで破れてしまうのだが、一度、ズボンの破れ目を他の人の目に止めないように背後に気をつけながら帰宅したことがあったが、背後に目を光らせて、ほとほと疲れた。
「見られないようにする」という行為は、自然に周囲への警戒心を喚起する。

「膝をそろえる」ことと、「見られないようにする」こと。
パンツを見せないように立ち居振舞うことで、所作や立ち居振る舞いに緊張感をもたらすことができる。
もともとの西洋文化と、和服文化の奇妙な習合が生じ、明治大正期の女子学童教育に用いられたのではないか、というのが僕の勝手な妄想だ。*8
(18世紀〜19世紀の西洋では、大人の女性はロングスカートがむしろ普通だ。女子に貞淑さを求めるならばその方がふさわしいだろう。女子学生のスカートが、膝丈であることは、大きな意味があるのではないかと思う。ま、昔の道路事情だと雨の日ぬかるんでしまうからかもしれないけど)

スカートの本質は日常では女性に股関節を開脚させないこと。
その目的は女性の非活動化だろう(フェミニズムでよくでてくる議論)。
また開脚する時は非日常=性交の時だけ、ということで、性交時の非日常性を際立たせる目的もあるのかもしれない。
19世紀、活動的な女性がズボンを履くことには相当な抵抗があったらしい。
 女性が膝を閉じずにいられる服装にかなりの忌避感があったということだ。

* * *

かつて(今もだが)女性は第二次性徴期から学童期にかけて、この手の所作振る舞いを服装を通じて教えこまされていたのではないか。
そのために「パンツを見せたらアウト」のルールができた。
パンツを見せる=アウトのペナルティとして羞恥心を持ってくる必要があったのではないか、と思っている。
知らんけど。

ただ、90年代以降、女子高生のスカートは短くなりすぎ、所作や振る舞いとしての道具としては形骸化してしまった。
「見せパン」という言葉は、彼女らなりのモードの転換(「下着」から「アンダースコート」や「水着」などと同じモードに)だったのだろうと思う。
例えば、電車で着席するときなどに、むしろ足を開いて股間のところは手で上からおさえて閉じ込み、パンツが見えない姿勢なども散見されたが、あれは「パンツを見せたらアウト」のルールの本来の意図から外れたものだったのではないか、と思っている。

* * *

前回の消費税のエントリーでいろんなブックマークもらいましたが、
「こんな税のことわかってなくてこいつ経営者なん?大丈夫?」
みたいなブクマもらいました。

今回のやつの方がより大丈夫じゃないっぽいな。

*1:MMT全然わかっていないというコメントが一番馬鹿馬鹿しいね。僕は財務省の金融政策決定者ではないし、理解したところで、それを実務に援用することができるわけでもない。MMTはジャズの理論でいうリディアン・クロマチック・コンセプトと同じようなもんだと思っている。

*2:LGBTとかそういう話は除いて

*3:もちろん中には強く興奮する人もいるだろうけど

*4:まあ、水着は多少なりと性欲を掻き立てる部分はあることは否定しない。でも下着とは違う。

*5:これ、80年代の悪い見本のような本で、論理構成の堅牢さがないニューアカっぽさが横溢している

*6:そもそもこの本には「羞恥」という言葉が一つしかでてこないし、それは、夫が妻の下着を干すのに羞恥心を感じる、という文脈だけ

*7:和服の、すり足文化、裾が乱れないように足を揃える所作とも、一部重なる。

*8:パンチラに対する執着は、日本では際立って大きいように思われる。これも実証する必要はあるけど。

やっと消費税の意味がわかった

f:id:hanjukudoctor:20190917191010j:plain:w300
広島駅の少し北のところでオクトーバーフェストみたいなことやってた。
2019年10月1日、消費税が8%から10%にあげられることになった。
数年越しで、紆余曲折あったが、やっとやっとの増税ということにはなる。
もちろん、ここに来るまでには、さまざまな異論反論もあるわけだ。

高橋洋一氏を代表とする、リフレ派*1からすれば、現在そこまで日本は赤字財政に悩んでいるわけではないし、消費税を導入することによって生じる経済の冷え込みは致命的だと主張する。
消費税10%は、オリンピックの前年、日本経済の「終わりの始まり」ではないか、という警鐘もかまびすしい。

* * *
そんな議論を、「そうはいってもなー」と、なんとなーく、消費税について、一消費者として僕は生ぬるく見守っていた。
きっかけはちょっと前に話題になったこの記事だった。
www.yutorism.jp

この記事の結論はともかく、これを読んで、やっと消費税の意味、というものに納得がいったのだ。

消費税は消費者が払うという格好にはなっているが、基本的には事業者が納めるべき税金である。
(ただし対手である顧客の方に転化することが許されているし、またそうなければならない)。
でも、基本的には事業税であり、法人税と意味合いは変わらない。

法人税との違いは何か。
要するに、法人税は利益(売上からコストを引いたもの)にかけられるものであるのに対し、
消費税は売上そのものにかけられる。
ということだ。

景気が良ければ、企業も利益を得られ、法人税収入は問題ない。
ただ、景気が悪く、企業の業績が悪ければ、法人税収は極端に落ちる。
だが、そういう局面でも、消費税は、それなりに確保できる。

要するに、法人税は「もうかったら納める」ものであるのに対し、
消費税は「儲かろうが儲からなかろうが、売上げがあれば納める」ということになる。

なーるほどなあ。
口さがなく言ってしまえば、財務省は、今後経済がどうあろうが財源を確保するために、消費税を導入した、ということになる。
逆に言うと、日本経済の隆盛、というものを信じていない極めてクールな意思決定のもとにこの税形態を選択した、とさえ言える。

消費税っていうのは、今後日本経済が体力を失って、法人利益が確保できない時でもコンスタントに税が確保できる。
この先高齢化で労働人口が減っていく局面において、日本企業が成長して行く目算がないのであれば、
法人税に頼っていては、多分どうにもならない。
昔みたいに国債を乱発するのも、自国内での引き受け先がなくなったら、おそらくデフォルト一直線だ。*2
だから財務省は消費税に転換し、最低限必要な財源を確保したいのだろう。

ameblo.jp
西野亮廣のBlogでは「税金の使い方こそしっかり吟味して考えましょうよ」と主張している。
 それは全くいい提案だし、大賛成ではある。
 ただ、歳出の多くは、生活保護費であったり、高齢者の年金、医療費・介護保険であったりする。
 ここはうまく使うといっても限界がある。どんなにうまくやっても歳出を絞るたびに何人か余分に死ぬのだ。

* * *

ちなみに、会社は、再投資などを行うことで、黒字を減らすことができる。
どんどん再投資を行い、フランチャイズを拡大していゆくことで、事業黒字は減り、結果的には法人税は減る。
古くはダイエーがその商法であったし、今でもソフトバンクなどはそうだ。
グループ全体で10兆円の売り上げがあっても、法人税は実質ゼロだ。
headlines.yahoo.co.jp

しかしAmazon法人税としてはアメリカが本拠地なので日本にお金は落とさないし。*3

その意味では、法人税は上手いことやる企業は節税できる可能性があるが、消費税はそういう操作で税金を減らすことはできない。

消費税が「公平な」税であるという言葉には、多分そういう意味もあるのかなと思う。

* * *

まあ、好況であろうが、不況であろうが一定の割合で税金を徴収されるわけだから、
消費税のない時代昭和の時代、不況時には税金を納めず、その財源をもとに設備投資を行い企業の競争力を取り戻し、好況への活力源にしていたやり方は、確かに使えない。消費税が導入されて、上向きの好況のベクトルが作りにくくなったのはそういう構造的背景もあるのだとは思う。

ただ、私は医療畑で、そうやって徴収された税を原資にして営まれる業態なわけだ。
消費税という存在を頭ごなしに否定することもできない。

ただまあ、医療に関しては、消費税導入時に医師会のおろかな先達が「医療に消費税なんて許せない」なんて言ってしまったために、医療では消費税を課せられず、コスト面で最終消費者という格好になってしまったために、消費税増税を消費者に転嫁できない。

病院の利益率の全国平均は1%である。2%の税率アップはもろに赤字転落。
 ま、そんなまぬけな業種で、仕事をしているわけなのだ。*4

* * *

(追記)

わー、なんかやっぱり時事ネタってすごいんですね。
たくさんの人に読んでいただきました。
いくつかブックマークで指摘いただきましたが、国債のくだりの部分は、多分僕の書いてること、間違ってるんだと思います。

ただ、以前のような赤字国債で歳出補填を、なんぼでもしていいか…というところは、
え?なんぼでもしていいんですかね?
MMT理論だとそうですけど(知ってますよ)
あれが本当に正しいかどうかは、今後歴史で証明されるしかないわけです。
準じても誰も責任とってくれないし(物価上昇が抑えられる限り…の付帯条件が崩れた時にはどうなる?)
あの理論に準じてアクセル踏む施策は僕は賛成しません。
確かに今プライマリーバランスもよくなったし、今国の財政は結構いいです。はっきりいって。
でも、超高齢社会の社会保障費は、正直これからが正念場ですからね。
国債で埋めるというシナリオはさすがにどっかで破綻すると思うので、国債をあてにするのは僕は反対です。
なんとなくですけど。

あと、大事なことですが、僕は消費税に賛成しているわけでもないです。
「あー、そういうことか」と得心がいっただけ。理解と納得はまた別ですよ。

あと「消費税は消費者が払っているんだろ」という批判は、そりゃそうです。いわゆる税負担論からいうと全くその通り。
ただ、企業会計の面でみると、こういう見え方をするという話。
税務署にお金として納める手続きは、企業がしている。
無印良品がやっている「内税方式」だと、その辺わかりやすいですよね。

あと、軽減税率のくそシステムははっきり反対。なんだよこれ。

*1:僕も心情的にはこの人の考え方には共鳴するのだけれど

*2:国内の引き受け先がなくなった状態で、海外の機関投資家が、じゃあ日本の国債どんどん引受けるヨ!となるというのは、ちょっと考えが甘すぎるとは思う。少なくとも利率は跳ね上がり、キャピタルフライトにつながるだろう。

*3:まあ、Amazonも再投資戦略で黒字にしないので、仮に国内法人であったとしても法人税は多分微々たるものだとは思う

*4:厳密に言うと、消費税改定の際に様々な診療報酬はポロポロ修正(かさあげ、もしくは原価低下)されて、赤字にならないように調整はしてくれる。まあしかし、この辺は結構微妙なところなんですよ。すべて一律に変わるわけではないので…

臨床研修指導医講習会

f:id:hanjukudoctor:20190918182215j:plain:w300
先週末、東京の某所にて、臨床研修指導医の講習を受けてきました。
(あ、これは、研修医を指導する医師のための講習会ということになります。具体的にいうと、研修医を指導する場合に、
 指導も俺流じゃいかんわけだし、評価の方法もきちんと評価表というものがあるので、国の方向性というものを知ってもらわんといかんわけです。
 それで、こういう講習会があります。)

* * *

とにかくスケジュールがすごかった。

朝8:30集合、8:50分を超えたらぶっ殺すてな勢いで、土曜日は8:50から21:30まで、自由時間はほぼなし。
そんなわけで前泊したわけですけれども、東京とか近くに住んでいる人も一日目の夜は全員宿泊。
二日目も朝8:15分集合で、17:30までというスケジュール。これでもかこれでもかというワークショップの数々。
座る椅子も、数が決まっているので、全員が着席しないと次の講義が始まらないという恐怖の連帯責任仕様。
トイレ休憩もないので、合間に行ってきてねーマッハで!というスタイル。

結構面白かったんですけれども、ヘトヘトになりました。
この会に参加した理由は、また機会があれば書きます。

講師(タスクフォース)の人たちは、みなフランクかつ意欲的で、アメリケーンテイストなポジティブさが若干気になるくらいで、講習そのものはダレることなく無事に最後までつつがなく終わりました。
全体にためになることの多い講習でした。
しかしまあ疲れました。

勉強になったこととしては、今回のほとんどのカリキュラムが座学ではなくワークショップの形式で、なおかつそのパターンが多彩だったこと。
4-5人で即席のチームを作るバズ・セッション、隣席の人と相談するアイスブレイキング、K-J法も変法を取り入れてよりブレインストーミングしやすい形だったり。
ワークショップのバリエーションにいちいち感心しました。
私は2000年に卒業した旧世代なので、教育手法のこうした進歩は在学中はあまりなかったように思います。
実際、今回教育に関する講習だったので、現代の教育手法を身をもって味わうことができて、大変有意義でした。まあ、疲れましたけど。

また、班ごとの成果物のクオリティも高いなと思いました。
セミナーでのおもな作業は、研修指導プログラムを実際に作るというものでした。
過去いろんなセミナーでワークショップに参加しましたが、さすが臨床研修指導医の講習に行く(もしくは行かされる)人たち、現在の基幹病院で中核業務に携わっているようなバリバリの先生方なので、理解が異常に速く、問題解決能力も高い。非常にスムースに共同作業ができました。
医師のポテンシャルの高さを再確認しましたよ。ま、疲れましたけど。

ただ、やはりめちゃくちゃ疲れた。
次の週はなんか余力で仕事をしていたような感じだった。

* * *

よりよき研修医を育てるためにどうしたらいいか、というのがこの指導講習会の目的ですが、
学習指導要領、みたいな「研修医に必要とされる能力・資質」の評価表をみていると、
「俺、大丈夫?」という気になった。
研修プログラム上の、必要な資質・能力、技能をすべて身に付けることができれば、めっちゃ優秀な医者やん、と思う。
社会人、知的技術職としてものすごいバランスのとれた社会人である。
そんなやつ、自分の年代だったら、2割もいるだろうか……

昔のカリキュラムよりも今の方が、全人的に医師を育てようという、意思も方法論も充実していて、素直にこのカリキュラムの到達目標を考えながら成長していけば、確かにいい医者になれるんじゃないか、と素直に思った。

* * *

しかし、どうして現実はそんなによくならないんだろう?

すべての研修医がこの崇高なる目標のカリキュラムにのっとって教育されているのに、どうして、中小病院経営者の我々は、医師の確保に難渋し、およそ利他的精神とは程遠いアルバイトの先生の引き起こすトラブルに悩まされないといけないんでしょうか?おお神よ!

と、中世のヨーロッパの農奴がつぶやくのと同じような気分にもなるのだ。
なぜこんなに我々の暮らしは辛苦に満ちているのでしょうか?
審判の時が来て、我々が救済される日は来るのだろうか?

臨床研修指導制度、今のスーパーローテート制度が始まって、もう随分経つ。
でも、その間、医局の地域医師分配機能は失われ、市場原理に委ねられた結果、中小病院での医師確保は難しくなった。
医局に所属せず市場化された医師=ドロッポ医なる存在もでてきた。
場末の医療現場で出会うのは利他精神のかけらもないようなロクでもない医師ばかり。*1

研修指導評価表に、基本的な資質として「利他的精神」っつーのも書いてあるのだ。
でも、利他的精神なんていうものがあったら、ドロッポ医なるものは生まれないはずだ。

* * *

それに、研修指導のスケジュールと、「働き方改革」における労務管理が、真っ向矛盾しているのも気になるところではある。

まあこのあたりは、極めて微妙なバランス感覚であって、顧客である国民が望む医師像は、古典的な「聖職者としての医師」を期待するものだからなのだろう。
「医師の働き方改革」というのは、医師も市民社会における一職業にすぎない、という考え方に立脚している。
 どちらの方を我々は目指してゆくのか、ということになるのだろう。

* * *

講習会の理念や、ゴールについて、会の進め方なども含めて、大変いい会であったし、いい経験になったと思う。しかし、
・普段の環境から隔絶する
・集団行動をとらせて、帰属意識を高める
・肯定と賞賛による強化付け
・スケジュールをタイトにして熟考する時間を与えない
など講習会のプロセスそのものに、
はっきり意図的に洗脳の技法を用いているのが気になった。

ま、まあそれはいいでしょう。いい理念に洗脳されるのは僕は嫌いじゃない。
洗脳されてもいい、とさえ思っている。

でも、会が終わった直後に「よし!いい指導をやろう!」と高揚した気持ちは、帰路につき、自院に帰り数週するとだんだん薄れてきている。
これって、やはり一種の洗脳なんだなあ。洗脳の効果が溶けている過程を見ているんだなあ…と自分で気づきました。

ただね、というかね、利他的精神とかそういうものは、洗脳で植え付けるしかないのではないかと思う。
だからこの我々に使った「悪いテクニック」をきちんと我々にも伝授して、研修医に利他的精神を洗脳する方法を教えてくれたらいいのに、と思った。

*1:あ、ちなみに今うちの病院の常勤の先生方は、弟子入りしたくなるようないい先生が多数です。自慢です。

終わりの始まりなのか、新しい日本の門出をみているのか。

f:id:hanjukudoctor:20190914061413j:plain:w300
台風の被害、
千葉県であれほどひどい被害だったとは。
停電している地域の方、本当にお疲れ様です。

狭い地域の強い災害というのは、どうしても全国的な共感が薄くなってしまうところはある。
現在も停電地域の当事者の方々は、受けた災害のひどさのわりに報道のテンションが高くないことを腹立たしく思っておられるのではないかと思う。
というのは、去年の広島県の水害の時、僕らもそうだったから。

一番ひどいところには報道機関もSNSの投稿も難しかったりするので、速報にのらないのだよな…

* * *

電力の復旧には二週間くらいかかるということだ。

数々の災害で繰り返し言われていることだが、高度経済成長期に敷設されたインフラの老朽化が進んでおり、災害が来るたびに老朽化したインフラは壊れやすくなってゆく。そういう場合、応急処置では済まなくて、本格的なリプレースをやらなきゃいけない。お金も時間も結構かかる。

まあ千葉県だし、いずれ高架電線も復旧されるだろうとは思う。
でも、もし夕張市だったら、どうだろう?

* * *

外来での患者さんに、インフラ関係の土木やっている人がいるのだけれど、本当にあちこち駆けずり回っていて忙しそうだ。
そのせいで、よく外来をすっぽかすのだけれども、仕方がないなあとは思う。
(でもこっちとしては薬切らしたらいけない類の病気なので、悩ましくもある)
その人がいうには、来年・再来年先まで仕事はびっしり埋まっていて、やりくりのつきようがない。
しかも、去年の水害で、あちこち土砂崩れもさらに増えた。
マンパワーは有限なので(そして多分予算も有限なので)、過疎地はどうしても後回しになる。

実際、我が地域をカーナビで見渡してみても、山間部においては県道レベルでさえも、通行止めの部分がちらほら。
谷にある集落に入るメインの道はさすがに治っている。
でも、そこから山越えで隣の集落にいくような山道は、治っていない。
水害から一年以上経つけれどそうだ。

 そして、多分、集落の「限界集落」の程度にもよるだろうが、車が通れないままこのまま永久に放置される道はありそうな気がする。

 多分、5年後、10年後には、そういう状況はさらに進み、交通網は、交通「網」じゃなくなっていく。
 点と点は結ばれ、全く孤立した点はないだろうが、隣り合うすべての点同士を結び格子状に移動する自由性は担保されないだろう。
 すでに、地方はそうなりつつある。
 関与する人口が少ないし、その人たちも「しゃあない」と思っているから問題にもならない。

* * *

 電力についても同じことは言えるだろう。
 工業地帯や住宅密集地に電力を供給しないということはあり得ないから、鉄塔は復旧するだろう。

 でも、例えば、20km先に20戸くらいしかない孤立した集落があったとして、そこに電線を引いて電力を供給することはどうだろうか?
 余った土地に太陽光発電パネルを置いて自前で供給する方が、かかるコストは少ないだろう。
 もしくは中規模の天然ガスのジェネレーターを置いてもいい。
 そもそも製造業そのものが、垂直統合スケールメリットの時代から、水平分業の時代に移行しつつある。
halfboileddoc.hatenablog.com

 交通「網」は孤立した点があることは許されないだろうが、電力については、小規模の発電ユニットさえあれば、点は孤立していてもいい。
 その方がコストはかからない可能性は十分にある。
 千葉県であれば、たとえ突端の館山であったとしても、送電のメリットが上回るとは思うが、では島根県鳥取県だったらどうか。
 あそこまで人口密度が減ってきたら、過疎地に電線を引く損益分岐点は、かなりつり上がってくると思う。

 10年後は「スマートグリッド」どころか、グリッドの中に入らない地域が2〜3割あってもおかしくない。

 だが、別にそれでいいと思う。
「すべての地域に電力が普及しなければいけない」というのはその通りかもしれないが、すべてを中央から供給する必要もないのだから。
 過疎地は自然エネルギーがふんだんにあるだろうし、むしろそこから他所に売れるくらいになったら、電線が敷設されるのかもしれない。

* * *

 高度経済成長の時代には、すべての地域はアスファルト舗装された交通網で整備されてしかるべきであるし、すべての地域が送電網でカバーされ、すべての河川は大雨の際に河川災害が起こらないようにケアされる必要があった。

 だが、これらの命題は所詮ドグマにすぎない。
 田中角栄がどんなに頑張ったって、国土改造計画をやったって、結局は田舎の経済発展はできなかった。
 日本の人口動態には勝てなかった。

 だが、ドグマから解放されて柔軟に考えると随分風通しもよくなる。
 交通は辿りつきゃいいし、電気も形はなんであれ使えりゃいい。河川は、本当は洪水がおこらないようにしたいところだが、洪水で死ぬ人、流される家がなければいいだけのことだ。その代償として当然危険な地域に住む自由は失われるけれど。

 でもそうやって荒れ果ててゆく日本の山河は、案外美しい。
 里山から、原生林化してゆくのは、一抹の寂しさはあるけど、30-40年後は、アジアの他の国々は環境消耗が激しいだろうから、美しい山河を持つ我々の国は他国から羨望を持って見られる可能性だってあると思う。
 山河が復活すれば、近海漁業だって復活する可能性もあるしな。

メガネの話していいですか?

マニアックな話をしていいですか?

これは密かな僕の趣味。メガネの話。

私は小学4年生からメガネ。
ちなみに、両親も、兄弟姉妹も、配偶者も、子供もみな近眼。
由緒正しい近眼の家系だ。*1
コンタクトレンズは、一度試してみたがしっくりいかず。
そもそも自分の容姿に自信のない人間は世界と自分の間に、メガネという隔壁が少しでもあった方が都合がよい。
……というわけで、コンタクトデビューは、思春期の自分にとっていささかハードルが高かったと言えよう。
そんなわけでメガネだ。
医者になってからは、感染防御の観点からもメガネの方が便利だと思っている。

* * *

そんな「眼鏡が顔の一部」の私の密やかな贅沢は、メガネ集め。
Jins眼鏡市場では買わず、きちんとしたメガネをTPOに合わせてかける。

メガネのいいところは、服は太ったりすると着れなくなるが、メガネはおおよそ体型の問題がない*2ことだ。

最後に買ったメガネは、去年買ったGernot Lindnerというやつ。
メタルフレーム、というか、このメガネフレームが92.5%のシルバー。なんと銀フレームなのだ。

f:id:hanjukudoctor:20190911113722j:plain:w400
Gernot Lindner.

Lunorというドイツの有名なブランド*3のデザイナー、ゲルノット・リンドナー*4が総銀フレームの新しいブランドを立ち上げた…という記事を物欲雑誌で見て、いてもたってもいられずわざわざ東京渋谷のGlobe Specsまで買いにいった。
メガネを買う店は基本岡山の某店と決めているので、わざわざ東京でメガネを買うという不効率を冒してまでも行くということでよほどの覚悟示したわけである。*5

確かにかっこいいメガネで、リュクスな一本として気に入っているのだが、長くはかけられない(後述)。

嫁の眼鏡の話。

こんな感じで、私は色々なメガネを持っていて色々かけわけるタイプ。
ところが、メガネについては我が妻の方がより一途なメガネ愛を持っていると思う。

結婚すると、夫婦の生活習慣は夫・妻両方からもたらされるものだが、我が家の共通の習慣文化のほとんどは妻から私にもたらされた。
逆に、私から妻の習慣を変えた事例はほとんどないが、唯一あるのが、メガネの習慣である。

昔は妻はコンタクトレンズ一辺倒であったが、結婚してから私のメガネ道楽に付き合わされ、そして今では特別な事情がないかぎりほとんどメガネを掛けている。

そんな妻は、基本的に一つのメガネを使い続けるタイプ。
何度かメガネを新調したあと、10年くらい前にOrgreenというデンマークのブランドのメガネがいたく気に入り、それを今もかけ続けている(確かに、よく似合っている)。

f:id:hanjukudoctor:20190911060358j:plain:w400
Orgreen フレームのおもてはブラウンで裏地はピンク。
Orgreenのメガネは結構タフだった。
子育ての時期、乳児・新生児を抱き上げてばっしんばっしん手で叩かれても、そう酷くは歪まない。
ヘビーデューティーにも関わらず劣化も少ない。

とはいえ、ずっと同じメガネをかけていると、エッジのところの塗装もはげてくるし、どうしても劣化はする。
新しいメガネはどうか?という提案をしていても「でもこれ気に入っているしなあ…」という感じで、実際にメガネ店に連れて行ってもあまり心動かされる様子もない。

仕方がないので、買った某店で相談。
Orgeenは定番のラインとして今もこのメガネを売っているので、在庫を確認すると、色違いのがあったので、相談した挙句にそれを注文し購入。
それを入れ替わりに、10年かけ続けたメガネを、工場に持ち込んで再塗装した。
見事なもんで、新品同様になった。

というわけで、今妻は色違いの同じデザインのメガネを二つ持っている。多分今後もこれを掛け続けるのだろう。
こういう執着を見ると、私よりも妻の方がメガネ好きなのではないのか?
と思うときはよくあります。
私は色々なメガネをかけわけるけど、それは単に『究極の一本』に出会っていないだけなのかもしれない。

メガネの硬さ・柔らかさ

ところで、妻にはぴったりはまったOrgreen、自分も二本ほど試したのだが、今ひとつ日常使いにはならなかった。

メガネには柔らかくしなるタイプと硬いタイプがある。
特にテンプル(メガネの角から側面にかけて)の部分のしなりがあるものは、身体にフィットしやすくかけやすい。
反対に硬いタイプは、硬さによるフィット感、かっちり感がいいんだろうと思う。うちの妻は多分後者だ。

前者の代表は、今は日本の代表的なブランドとなった999.9フォーナインズ)であったり、軽さ優先のLindbergやiC!BerlinやMykita
とにかく柔らかく、バネのように力を加えても元に戻る。

色々なメガネをかけてわかったことは、僕は前者のかけ心地しか許容できない、ということ。
後者のメガネ、例えば、Oliver Peoples、Oliver Goldsmith、Robert Marc、Theo、Orgreenなどのブランドはいくらデザインを好もうとも、一週間かけ続けようとは思えない。
残念ながら Gernot Lindnerもその類で、ほとんどしなりがない。
だから、例えば学会や講演会で壇上に上がる時とかにつける「よそ行きメガネ」にしているけど、普段長時間つけるメガネではない。

メガネ好き20年、メガネ装着歴30年にしてたどり着いた真理は、そういうことだった。

*1:ちなみに由緒正しいB型で左利きの家系でもあるし、ハゲの家系でもあるし、食道がんの家系でもある

*2:もっとも程度問題はあって、痩せてる人がかけたらサマになるけど太ってしまったらぷぷっ……というものはある

*3:僕は2002年に一本買ったことがある

*4:ゲルノット・リンドナーといわれても多分普通の人は全然しらない。ジャズでいったら、Toots Thielmansくらいの知名度だと思う。その名前を聴いて、めちゃ有名やん!と思うか、それとも知らん!と思うか…

*5:なお、残念なことにいつもいく岡山の某店も、Gernot Lindnerの委託販売をすることになった。タッチの差であった。

時給ベース

f:id:hanjukudoctor:20190727125321j:plain:w300
働き方改革」の話は、大企業にとっても、我々末端の中小企業経営者にとっても重要な話だ。
今年度は有給休暇取得5日が義務化された。
こんなのは、まだまだ前哨戦で、基本的にはそのあとに控えている「同一労働同一賃金」の部分が大問題。
間違いなくこれまでの制度の大幅な変更を迫られる。
人事評価制度そのものを変えないと対応できない。

なぜならば、日本のお家芸的な制度である「定期昇給年功序列」は、この新しいコンセプトに真っ向から抵触するからだ。
おんなじ仕事をしていて、進歩もなく、職務権限も限られた高年齢者と、同じ仕事をする新卒は、給与に差をつける根拠がない。許されない。
逆にいうと、給与が高い人は、給与が高い業務をしていますよ、ということを明示しないといけない。
進歩のないやつに、給与が上がる資格はないのだ。

だから、まあ厳密にいうと問題なのは定期昇給
年功序列はそれはそれで不可能ではない。
年功にしたがって重要なポジションを与えれば、そこには高い給与が付いて回るのだから。
だがその状態では競争力やモチベーションも失われてしまう(若い人、くさっちゃいますよね…)


昔はそうではなかった。
かつて、農業や漁業などでは、一通りの天候の変化を経験していないと意思決定に取り返しのつかない誤りが生じる可能性があった。何十年に一度の日照りとか、洪水とか、そういう災害に対して、知っていると知らないではリスクヘッジのかけかたが異なる。
だから10年以上のキャリアの人間に一日の長があったかもしれない。*1
でも、今の仕事というのは、毎日の業務が目まぐるしく変化し・そして技術も進歩してゆく。
洞察力や問題解決能力が問われる時代に、年齢だけから積み上げられる経験は、あまり役に立たない。

生産性の差

ところで、全国企業ならともかく、医療や介護の現場というのは、言うなれば美容師と同じだ。
一人ずつ顧客に向き合って仕事をする。

専門職としての対人の仕事っていうのは、できる人とできない人の生産性の差って、どんだけあっても3、4倍だと思う。
プログラマーのように、千倍とかにはならない。
一人一人の職員の生産性にレバレッジは効かない。

まあ、その分業務量によるインセンティブを出しやすいのかもしれない、とも思う。
でも、チーム医療だから、個人で業績を切り分けるのにも、問題はあるんだよな。
結局、ほとんどの組織は、一兵卒の給与は横並びになってしまう。*2

問題は、その支払い方だ。

時給ベース

ここ1〜2年、先進的な取り組みをしている社会福祉法人や医療法人の話をいくつか聴いてきたが、給与を時給ベースにするのがはやっている。
法定労働時間で割った給与を「時給」として管理し、その分、働いただけ人件費を勘定し、医業、もしくは介護収入と比較する。

月給だと、働いた勤務時間と稼いだ収入などが、月によって細かく変わるので、結構計算がめんどうくさいけど、この方式だと、計算は容易になる。
計算は週ベースだ。
アメリカは昔から週給ベースですよね。それと同じ。

これの利点は、時給ベースで労働量を考えることにより、部門収益と人的コストの計算が容易で、部門ごとの生産性を可視化できることだ。
投入労働量(に各人の給与を掛ければ人件費になる)と、収益を比較しやすい。
また、この規則で動かす場合、シフト調整ができるのなら、法定労働の週40時間を、フレキシブルに配分することも可能で、多様な働き方にも対応できることだ。たとえば、1日に10時間で4日勤務。週休3日制で働いて、常勤職員ということも可能だ。

このような手法は、特に水平展開し、多数の小事業所を持っているような組織において有効だ。
事業所どうしの効率性を比較しやすい。
病院内とかでは、それぞれの病棟ごとの性格が違いすぎるので、同一条件での比較は難しいかもしれないけれど。

多分、今後こういう方式が、徐々に当たり前になっていくだろう。

* * *

僕自身は「働き方改革」自体にあまり不満はない。
簡単にいうとグローバル・スタンダードなやり方だからだ。
そんなに違和感はない。
ただ結局、問題なのは「変わらなければいけない」という事実に対して、どう反応できるかだ。
多くの組織では、システムや意思決定の方法に時間がかかる。

ま、だからこそ、「黒船」的な制度改革によって、無理やり日本の企業文化を変えようとしているのかもしれない。

* * *

「働き方を改善する」というと、90年代、ゼロ年代に、派遣社員正規雇用と非正規雇用みたいな話があった。
これは現代の身分制度ではないか?
みたいなことも言われた。
正規雇用の人々が、正規雇用の人々と同じ待遇になることを夢見たりだとか、そういう時代もあったわけだ。

同一労働同一賃金」はその当時の問題意識から発せられたものではないかと思うのだが、
少し皮肉に思えるのは、正規雇用の人が、時給ベース、週給ベースになる、という変化は、正規の人たちと非正規の人たちの差が、まるで正規の人たちが非正規に下りてきた形で解消されたように見えることだ。
差は解消されたかもしれないが、これは本当に進歩なのだろうか?

* * *

「月じめ」は変えられないのか

ちなみに給与の問題と同じく、収益とか事業実績の取りまとめとしての「月次報告」というのも、月ごとである弊害って結構多い。
「今月は営業日が1日多かったので、売り上げが4%おおくなっております…」とか、前月比の比較とかをするのも、スッキリしないので僕はキライだ。

武蔵野という会社の小山昇氏は、一年=52週を12ヶ月にわけるのではなく、4週x13期にわけているらしい、と本で読んだことがある。
これ、実は曜日と月のブレをなくせるので、かなりうまいやり方だと思う。

というか、これ診療報酬体系に取り入れて欲しい。
例えば、糖尿病のHbA1cとか、月に一度しか算定できない検査って結構多い。
例えば、8/1受診、次回4週後だと 8/29。
同一月で検査項目の出し入れをしなきゃなんない。
五週間後とかにすりゃいいけれども、30日処方制限のついている睡眠導入剤を飲んでいる人だとそうもいかない。
こういうことが、意外に外来の業務を複雑化し、オートメーション化を阻むのだ。

これも月ごとではなく4週ごとの区切りの制度で「4週に一度しか算定できない」とすれば難しく考えずに済む。
医療事務の人たちも、必ず月末月初に残業が増えるという生活パターンも、もう少し変わるだろう。

でも、まあ、そんな英断だれもしてくれないだろうけど。

その他のBlogの更新:

半熟三昧:

『心理学的経営』大沢武志 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『夜の歌』なかにし礼 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『アルコール依存の人はなぜ大事なときに飲んでしまうのか』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『繁栄と衰退と』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『封印されたアダルトビデオ』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)

7月を少し休み、8月に入ってから基本的にペースを半分に落としています。
そうすると、まあまあ紹介したい本だけ紹介するようになって、精神衛生上もいいですね。
ただ、一記事一記事が重たくなっているのも事実。だいたい2000字超えてしまう。

ジャズブログ:

使っていい音について その2 - 半熟ドクターのジャズブログ
これもこっそりアップしたやつ。その3を書きあぐねています。

*1:今のように天候も非可逆的にに変化してゆくようなご時世では、農業でさえ、過去の経験が頼りにならないのかもしれないけれど

*2:この辺りやはり有名どころのブランド病院では、人事評価制度がうまくワークしていて頑張っている人とそうでない人をきちんと峻別しているようだ。もちろん、新卒で大量に入ってきて、適応する人は残り適応できない人はやめていくという環境下の中でなら許されるのかもしれないけれど。

グルメであることにいいことなんてなにもない〜病院食の立場から

f:id:hanjukudoctor:20190705191110j:plain:w300
お盆がすぎて、急に涼しくなりました。

* * *
このまえ、衣・食・住のレベルが高い医者とそうではない医者がいる、ということを書きました。
hanjukudoctor.hatenablog.com

医者に限らず、衣食住のハードルが高い人、低い人いますね。
お金がなければハードルは下げざるを得ないわけですが、あってもハードルが高い人低い人はいます。

病院に勤務し、老衰や病死を多く診ている自分の視点では、衣食住のレベルが高すぎていいことなんか一つもないと思う。

基本的に、好き嫌いや、食の嗜好が偏っている人。
うまいまずいの好みにうるさい人。
こういう人は、可能な限り病院の入院は避けたいところだと思う。

* * *

病院食は、基本、まずい。
かかわってくれている調理師さんや管理栄養士さんには悪いけど、うまい、とは言えない。

貧乏舌で、なんでも食べ、ほとんどの飲食店でまずいという印象を抱かない僕でさえ、現在の病院の食事で、すごいうまいな、と思ったことはない。肉魚は控えめにいってもCrispではないし、ぼんやりした味付けで、Dipが浸み出しているような調理だし、時間も経っている。

これはうちの病院がとりわけ悪いのではなく*1、8割がたの病院がそんな感じだ。
治療食は、塩分が少ないので、エッジの効いた味付けにはなりにくいというのも一つの理由。

それ以外の理由は、主に二つある。

一つは業務委託の形態。
セントラルキッチンで作られたものをそれぞれの病院に配分しているパターンの病院は結構ある。
この場合、セントラルキッチンでの調理、そこから病院の調理場で適温調理してからも時間が経っている。
時間が経つと、やはり食事は作り置きっぽい味になってしまう。*2

もう一つは、単純にコストの問題だ。
食材費がかけられない。
2018年から一食460円となったが、以前は280円とかなり安かった。
280円となると食材原価としては100円代であり、どないしたってグルメには厳しい食事だ。

ちなみに現場感覚でいえば、2018年の値上げを境に食事が改善した印象はない。
病院食の委託業者は人手不足と食材費の高騰で赤字や廃業が相次いでいるのが現状である。
値上げに伴い質をあげる、という余裕はなく、これまで赤字カツカツでやっていたのが一息つけた…という雰囲気だった。
2018年の値上げで「これでやっと廃業せずにすむ…」みたいな業者も多かったのではないか。
当院でも、何度かネゴシエーションの果てに委託業者を変えたりもしているが、今現在、私が住んでいるエリアで、病院食委託業者の選択肢はかなり少ないのが実情だと思う。
(大都市圏などプレーヤーが多数いる圏域では、もう少し事情も違うのではないかと思うが)

* * *

ま、そんなこんなで、提供する側の病院経営者としては言い訳ばかりで申し訳ないのだが、
病院食は構造的にまずい。
これをもう少しよいものに改善してゆくことは医療側のつとめだとは思っている。
一部の病院は、飯がうまい。これも事実だ。*3

病を癒す場所での食事がまずい。
それは間違った世界だ。僕もそう思う。
でも、間違った世界は、すぐには直らない。変わる保証もない。
間違った世界に住んでいるぼくらは、今病気や怪我をすると、かつがれた病院の食事がまずい、ことは、確率的に大いにありうることなのである。

そんな時に、飯が喉をとおらなければ、大変につらい思いをする。
グルメでも、なんでも食べられる人ならいい。
だが、食のハードルが高い人は……
許容範囲が狭い人が入院していることは、本人にとっても医療側にとっても不幸だ。

* * *

離島に住んでいて、新鮮な魚を食べることが当たり前だった人が
「こんな魚が食えるか!」と吠えたときは、そりゃあ無理もないやな……とも思った。
ただ、そのクオリティに、病院食は持ってはいけないのだよ。

家ではいい食材でいいもの食べてた人が、病院で食べられなくて弱っていくのは他にも何例か経験がある。
これがご主人が入院したのだと、奥様が家で作った持ち込み食の黙認、とかでなんとかなるんだけど、
調理者本人が入院している場合は、不幸だ。

* * *

うまいものを食うことは人生の喜びではあるが、
まずいものを受け付けなくなると、後でえらい目に遭う。

これは何事についてもそうなのだが、食についてもカスタマイズしすぎていると、後で困るかもしれない。

人生、一度くらい貧乏旅行をして、まずい食いもんでも空腹を満たす、みたいな経験をした方がいいのかもしれない。

*1:残念ながらよくはないですが

*2:大規模フランチャイズでもセントラルキッチンによる食の分配は普通に行われているが、病院向けのフランチャイズはそのあたりの設備投資が甘い、という側面はあると思う。やはり顧客が自由に選べる外食産業に比べると、クオリティの淘汰圧は低い。

*3:差別化のため委託ではなく自前調理に回帰する医療機関もあるが、当院ではそれはだいぶ難しそうだ。スケールメリットも必要なので、小規模なところでは難しい。あとは、ハイエンドの食事だけ別系統・別料金で仕立てるという選択肢はあろうし、それは将来的にビジネスになりうると思う。ただし、皆保険のもと建前でも平等感がつよかった病院での療養環境にそういった差別化をとりいれる弊害は大きくなるかもしれない。