半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

サンクコスト

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書棚の一部

サンクコスト:
埋没費用(まいぼつひよう、英: sunk cost 〈サンクコスト〉)とは、事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力のこと[1]。
Wikipediaより)

青年期から今までずっと音楽を趣味としてきているのである。
ジャズ、ボサノバ・ラテン、MPB。
ソウル・ファンク、R&B。
日本の音楽、時にクラシックも。…ジャンルは様々だけど、まあずっと演奏もし、リスナーとしても音楽をかなり楽しんできた自負はある。

ジャズ愛好家というとLPというイメージが強い。
が、保存に縦置きが出来ないのと、LPのプレイヤーがいろいろ面倒であること、それから、どうしても視聴の場所が限定されること、演奏者としては、トランスクライブのために巻き戻したりする必要があったので、LPには敢えて手をださなかった。
(もし手を出していたら、場所とる、手間とる、金とるの三重苦でえらいことになっていただろう…)
しかし比較的場所をとらないCDでも、積もり積もるとえらいもんで、家には数千枚(多分3000枚くらいだと概算)のCDがある。

* * *

正直に言えば、今現在CDをCDプレイヤーにかけて聴くようなことはほとんどない。
手持ちのPCでリッピングをして、iTunesで管理している。
自分のPCの中には3万曲くらいのデータがストックされている*1

ただ、現在の主流はストリーミングサービスである。
僕が青春の一時期を共にすごした音源たちも、SpotifyAmazon Prime Musicや Apple Musicで入手できるだろう。
現代は膨大なアーカイブを自分で持たなくても、自由にアクセスできる時代だ。
*2

* * *

自分の書斎に、さすがにプラケースから外してスリーブに入れて並べているけれども、
その乱雑に積み上がったCD/DVDなどのヤマをみると、つくづくため息がでる。
これは僕の頭の中の心象風景そのものだ。

ここで本題に戻るのだが、こうやって書棚の一角を占めている音楽関係の遺物は、
サンクコストに他ならない。このCDの残骸が日の目を見る日は、もうないのだから*3

とはいえ、まだこのCDを廃棄する気にはなれない。*4

もっというと、書斎そのものも、そうだ。
現在読んでいる本はほとんどがKIndle購入で、リアルな書籍はここ数年めっきり買うことが減った。
だから本棚の蔵書は一歳一歳古びてゆく。
蔵書は埃をかぶり新陳代謝がなくなった本棚は死んでいるのと同じだ。

家を建てた時には、こんな時代が来るとは思っていなかった。

* * *

戸建住宅の一室は、そのスペースを占有するコストを考えなくて済むから、
サンクコストに直面しないですむ。
毎年乱雑な部屋をほったらかしにしているコストを、今も僕は払い続けている。
経済合理性は全くない。
人は逸失費用に執着するという行動経済学の特性に、僕自身も踊らされている。

* * *

そう言えば、Twitterの医クラ界隈には、30代後半で童貞の医師がいる。
歯に衣着せぬ言動とナイーブなキャラクター、頻繁なコメントである種のカルトヒーロー化している彼は、厄介なことに、母校の後輩だったりもする。*5

最近ある本で、「童貞はある種のサンクコストである」という話を読んだ。

まず童貞の価値について、です。
童貞さんは童貞を大事にしすぎているきらいがあります。
せっかくだから好きな人と、せっかくだからホテルで、せっかくだから付き合って一年間経ってから。
童貞を捨てられる機会があったとしても、なぜか守るほうに動いてしまう。
このように「せっかくだから」と守り抜いた童貞を大切にすることをサンクコスト効果と呼びます。
人は自分がお金や時間を投資してきたものを簡単に止められない心理が働きます。
パチンコで5000円をすってしまったら、その5000円を取り返すまでパチンコを止められない心理になるのと同じです。
パチンコへ夢中になっている人からすれば「何がなんでも取り返したい「5000円」ですが、はたから見ればさらにお金をつっこむくらいなら、居酒屋バイトでもした方が早いんじゃないの?と思えるコスト。
童貞は他人から見ると、パチンコですった5000円と同じ。
だからそんな童貞を守らないで風俗行けば?というアドバイスが出てきてしまうのです。


サンクコストの損切り処分には痛みを伴う。
僕の数十年の音楽狂いの帰結としてのCDの処分と、童貞の処分。
囚われていない人から見ると、どちらも馬鹿馬鹿しい事態に違いない。

*1:もっとも、この前MacBookProが飛んだ時があったのだが、その時データとしてこのアーカイブは失われてしまった。幸いiPodClassicと同期した分から戻したわけだが、曲数を比べると、およそ1%の300曲くらいの数が合わないのである。ただ、それを付き合わせて確認する時間も熱意も、すでに今の僕にはない。

*2:現在は、ストリーミングサービス間のカバー率が十分でないため、目指す音楽を聴きたいと思った時に、サービスを切り替えてアクセスしなければいけない。これのユーザビリティが不満で、過去集めた音源を自由に閲覧できる現状から乗り換えようとは思わない。ただ年々状況は改善しているため、いずれストリーミングサービスに完全に屈服することになるだろう

*3:ありえない話だけれど、世界が滅亡してしまい、大規模なネットワークが消滅してしまったら意味を持つのかもしれない。もしくは米中のブロック化が極限まで推し進められ、日本が中国陣営に与し、アメリカのストリーミングサービスにアクセスできなくなるとか。

*4:多分僕の死後、家族は途方にくれるのだとは思うが…

*5:「これだから男子校は…」って言われちゃうよね

軍人皇帝と貴族皇帝の話

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「不自由さ」の心象風景。
いい車に乗りたい、と思う。

* * *

少し前のことだが、消費税もアップするということで、車を買うことにした。
ただ、納車は10月なんだって。

* * *

控えめにいっても、医者は平均収入が高い職業だ。*1
経営に携わらない専門職で年収1000万を超えることって、そうはない。*2
だからか、いい車に乗っている人も多い。

ただ医師の中での収入の多寡と、高級車・外車に乗っている比率は、意外に相関しない。
大きな病院の勤務医の先生の車は、研修医から部長、院長クラスまで過去見てきたが、研修医でもポルシェに乗っている人もいるし、部長以上でも普通の車の人もいる。

開業医になると原則として所得は上がる。*3
しかし、皆が皆、乗っている車をグレードアップさせるかというと、そうでもない。
もちろん「ハデな車」が好きな人は、グレードアップするみたいだ。*4

まあしかし、医師の車について言えば、現在の収入よりもその人の生活の「ハデさ」に起因するように思える。
車にこだわらない、自分の生活を華美にしない人は、収入が増えようとあまり変わらない。

* * *

これは車に限った話ではない。
基本的な生活レベル、つまり衣食住に関してもレベルが高い先生と低い先生がいる。

「医師たるものこれくらいは」と思っているのか、ブランドものに身をまとい、車・時計も高級車。
いざ旅行にいくときはいいホテルでないといけない、という先生もいる。
衣食住のレベルに関して、レベル以下を良しとはしない人もいる。
そうかといえば、全く頓着のない人もいる。

大学勤務で薄給でも、実家が太い場合は、高い生活レベルを維持している。
結局、その人の育ってきた環境とかなんやかやで、生活レベルは決まる。

* * *

僕は、というと、車に関しては、まず頓着がない。
正直にいうと僕はあんまり運転がうまくない。
運転も好きじゃない。
理事長とかだし、安全性を重視してそれなりの車には乗ってはいる。
それ以上のもの、例えばベンツ・BMWアウディという車は、今後も乗らないんじゃないのかなあと思う。
もちろん、フェラーリ・ポルシェなんぞ、もってのほかだ。

衣食住のレベルも、あまりこだわりがない。

もちろんそこそこの収入だから、全身ユニクロとかはさすがにいかがなものかと思う。
が、ファッションのテイストとしては、ユニクロ無印良品の上位互換のノームコアファッションである。
家は僕には過ぎた家に住んでいるけれど、床で寝ているくらいだからな。

* * *

多分、こういう違いって、生育環境に規定されるのだろうけど、もう一つは、自分が所属しているコミュニティが医師同士の中に限られているのか、それともコメディカルも含む一般人平均の中に開かれているか、で違うのではないかと思う。

医師は基本的に狭い世界で生きている。
医学部も、医学部医学科の中だけで完結しているし、部活も医学部限定の部活に所属している。
基本的に医師もしくは医学生以外と交わることが少ない。
そういう医者業界のコミュニティで、過ごそうと思えば過ごせる。
国立であろうが、私立であろうが、開業医の医師の子弟も多いから、生育環境の衣食住のレベルが高い人も多いし。

就職してからも、医師同士で飲みに行ったり、昼間も医局で同僚の医師としか接していないような状況は簡単に作り出すことができる。
コミュニケーションのほとんどを医師としか取らない場合、自分の生活レベルは同職種の医師としか比較しないことになるだろう。
奥様方も、子供を私立に入れていると、まあまあハイソなコミュニティに身を置くことになるだろうし。

そういう生活であれば、研修医になった時点でも、外車を買ったりすることに躊躇がないんじゃないのかなあと思うし、逆に知人との交流において、衣食住でも「これくらいじゃなきゃ」という上方圧力が働くのかもしれない。

* * *

私は開業医の子弟で、それなりに裕福な中で育った。

ただ、中学高校は親元を離れて神戸の進学校に下宿して通った。
木造4畳半がしっくり馴染む生活。
大学では、医学部の部活には属さず、全学部生向けの部活(ジャズ研)に所属したりしていた。

そういうわけなので、実は医師のコミュニティ、もしくは医師以外のハイソなコミュニティにどっぷり浸かった経験も乏しい。

だから、医師のコミュニティが、実は苦手でもあるのだ。*5

ただ、ハードな勤務医の生活は、QOLが著しく低いので、生活レベルの許容範囲の閾値が低いことは、暮らしやすかったと思う。
セレブ感がないことは、僕にとってはよかった。
基礎生活レベルが高い人は大変だと思う。僕なんて、炊きたてのごはんがあったら全然暮らしていけるもの。

* * *

話はいきなり歴史に飛ぶのだけれど、共和制から帝政ローマの時代、さまざまな執政官や皇帝がいた。
貴族階級出身も皇帝もいたし、特に五賢帝以降は軍人出身の皇帝も多数現れている。

ただ、本人の生活の豪勢さと出自の階級は別に相関しない。
貴族の出身であったとしても、軍隊で遠征し、一兵卒と同じ宿営地で露営するのも厭わない皇帝もいたし、
軍人出身の皇帝であるが、平民を寄せ付けない宮殿に住み、戦争には全く行かないか、行ったとしてもオリエント君主のように華美な帷幕で一兵卒と交わらない皇帝もいた。

どちらがいいとも言えないが、統治能力が同じであるならば、マルクス・アウレリウス帝のように軍隊に随行して露営も辞さないタイプの方が人気は得やすいとは思う。*6

* * *

これを実践しているのが、もう解散が決まったが、京セラ稲盛和夫さんの経営哲学を実践する「盛和塾」だ。
盛和塾では、経営者というのは、自分の力でその地位に居るのではなく、「使命」を果たすために選ばれた存在である、と考える。
だから、華美な生活も、経営者としての本質を鈍らせるので、ご法度だ。

以前盛和塾にも参加されている介護シューズを作っている会社の社長が、
「でも、クラウンには乗りたかったぁ……」と絞り出すように言っていたのが印象的だった。
社員と一体の経営、盛和塾の理想とする経営では、経営陣も清廉であることが当たり前なのだ。

盛和塾には入らなかったが、盛和塾の教えは学生の頃から知っていたので、はやくから触れていた影響も大きいと思う。

* * *

僕はどちらかというと盛和塾ほどの純度はないけれど、
職員と同じ目線で「一緒に働く経営者」というスタイルでやってきている。
超然とした権威をもってみんなを動かすタイプでもないし、自分の部下にも、部下に偉そうに接するスタイルはとってほしくない。

盛和塾はどちらかというと古き良き日本の経営者の道であるが、これは、現代であるからこそさらに意味あいは重い。
「サーバント・リーダーシップ」という言葉もあるからだ。

だけど、もうちょっと小さい開業医のクリニックの先生が、経営者は経営者、雇い人は使用人、みたいな感じで、余剰利益を全部個人の所得*7にして、クリニックでは王様、衣食住の生活レベルもすげーハイレベル、みたいなのを見ると、やっぱり羨ましくも思うのだ。
いい車のりてーなー。マセラッティとか。

その他のBlogの更新:

半熟三昧:

『まどろみバーメイド』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『ハイパーミディ中島ハルコ』『最高のオバハン』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『あり金は全部使え』堀江貴文 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『読者ハ読ムナ(笑)』藤田和日郎 - 半熟三昧(本とか音楽とか)

漫画率高いな!笑。
ホリエモンの本は相変わらず刺激にはなる。扇情的なタイトルだが、書いてあることはまとも。
それから熱血漫画家藤田和日郎の『読者ハ読ムナ』。
 クリエイティブなことに関わる人は一読することをすすめる。思った以上にいいこと書いてあった。
僕アマチュアジャズマンだけど、それでもなるほどなーって思ったこと多かったもん。

*1:多分、今後落ちてくる可能性はある

*2:これに匹敵するものといえば、トレーダーとか金融関係くらいだろうか…

*3:さすがにこの辺は都市部ではないので、ツブクリ丸出しなのはみたことがない

*4:功なり名遂げた感があり、開業2〜3年でフェラーリを購入している人もいた。こういうわかりやすいのは嫌いではない。すがすがしいよね。

*5:そういえば女医、もしくは女子医学生とつきあったこともないな。

*6:だが、そういう平民感をだしつつも、統率能力や大局観が劣る場合は、やはり支持されることはない。どんなに皇帝然と振舞っていても施政そのものがよければ人はついてくる。

*7:税法上は法人にプールして経費枠が潤沢なのかもしれないが、意味は一緒だ

接遇と音痴

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ビッグサイト。2019/7 モダンホスピタルショウ。

ふー。ここ最近疲れが溜まっている。
最近ひょんなことからジャズのアドリブのワークショップを開くことになった*1
コレね→
jazz-zammai.hatenablog.jp
 さいわい無事終わりました。関係各位のみなさんありがとうございました。

このイベントの直接のきっかけは、バンドのライブが突如ポシャってしまったことだった。
ライブハウスに予約した穴を埋めないといけない。
…という、どちらかというとネガティブなことが出発点だった。

ただ、どうせやるならちゃんとやろうと思って、いろいろ調べ物をしたり、学会発表三連発の余勢で、スライドとか資料作りモードに入っていたので、ブログ10日分くらいの資料を作ったりもしたわけだ。
完全にオーバートリートメント。やりすぎ部だな。

ワークショップ開催にあたって、いろいろ調べ物もした*2
昔のジャズマンの生涯を振り返ってみたりもしたが、改めて見直すとびっくり、みんな驚くほど短命なのである。
Clliford BrownやBooker Littleが短命だったのは、まあまあ知られた事実だ。
だが、Charlie Parker、Jaco Pastorious、John Coltraneなど、多くのジャズの偉人でさえも、僕の今の年齢(44歳)にはもう死んでいる。
この人たちの濃密さに比べると、自分はなんとのうのうと生きていることか!

* * *

 働き方改革法案を踏まえて、うちの職場でも色々と業務改善の波がおしよせている。
 今年からの「有給休暇強制取得」これはまあ、被雇用者にとってはいいことだと思う*3。こっちは飴と鞭のアメの方。

 でも「同一賃金・同一労働」が次に控えているよね。
 これって、結局同じ仕事をコツコツとやっている人が、定期昇給するという、従来の年功序列・終身雇用制度を完全に打ち破るものだ。
 要するに同じ業務をしている新人と30年目で、新人の方が給料が安かったら、それは「差別」ということになるからだ。

 もちろん、現場で、新人と30年目が全く同じ仕事をしているわけではない。
 習熟度が違うから、ベテランは難しい仕事をまわされたり、周りをサポートをするような仕事が付帯したりする。
 そういった仕事の違いをきちんとラベリングして、違う業務をやっていると示して、その分給料に差をつける、ということだ。

 そういうことを年度方針説明では皆に伝え「だから勉強してくださいね」ということを強調した。
 うちの職員は素直でいい人が多いから、そんなこんなで当院では珍しく勉強熱が高まってはいる。
 院外研修の要望も例年より多くなっている。

 ただ、院外研修で学んだことを、個人で消化して終わりというのは効率が悪い。
 職場全体に敷衍するためのシステムがうちでは未整備なのだ。ここをもうちょっと変えたい。
 なので研修委員会のようなものを立ち上げて、院外研修→院内研修という流れを計画しているわけだが、ここで、皆がどんな研修を望んでいるか、という全体アンケートをとってみた。

 コミュニケーションとかプレゼンテーションとかそういう内容の比率が多かったが、接遇研修の要望は驚くほど低かったのが目を引いた。

* * *

 我が社の職員は中小病院の医療職としてはごく平均的なものだ*4
 研修希望が多かった、コミュニケーション能力が、では際立って低いわけでもない。
 それに、要望の低かった接遇能力は、とりたてて高いわけでもない。

 では、なぜこれほどまでに接遇の要望が低いのか。

 一つには、昨年度当院では某有名な講師の接遇コンサル会社に入ってもらい、まあまあ濃厚な接遇研修を行なった経緯がある。
 別に悪い接遇研修でもなかったし、コンサルとして「診断」、つまり当院の職員の部署ごとの接遇能力とかの調査結果も僕の認識とだいたい同じだった。
ただ、肝心の「治療」、つまり研修内容そのものは「型にはめる」式の、やや昭和感ただようもので、職員の受け入れはかなり悪かったように思う。
 結果的に、接遇研修の効果は、私が見る限り、あまり上がっていない。
 どちらかというと、接遇研修に関する忌避感を高めただけだった。

* * *

 職員ごとに見れば、接遇能力の巧拙は間違いなくある。
だが、ごく一部の新人職員などを除けば、ほとんどの職員は自分の接遇能力が「悪い」という自覚を持っていない。
僕などからみて、「ちょっとなっちゃいないな…」と思うような人でもそうだ。
 これは、結局その人が考える接遇の要求水準が低いからだ。
 その人の接遇は、その人にとっては「あり」な状態だから、問題意識を抱けないのだろう。
 要するに人は、その人の持っている接遇の感度以上の接遇はできない、ということだ。
 すごく接遇の意識や接遇のことをすみずみまでわかっている人が、敢えて粗野な振る舞いをしている、なんてことはないのである。*5

* * *

 この図式は、音痴とか、楽器の音程が悪い人に似ている。*6
 音痴は、のどが悪いのではなく、耳が悪いからだ。

 耳を養い、自分の音程の悪さが、認識できるようになることが、音痴の解決法としてはてっとりばやい。
 人は自分の音程の悪さを自覚するようになったらその状態を許容できないのだ。

 楽器の場合はその後ピッチを一定に保つためのロングトーンなどの基礎練習も必要だが、ボーカルの場合、自分の音程の悪さを自覚した瞬間、音痴はある程度治っている。

* * *

 話を接遇に戻す。
 同様に考えると、接遇に関する感度をあげないと、接遇能力は上がらないのではないかと思う。

 多くの旧来型の接遇研修では、例えばお辞儀の型を繰り返させたりする。
 けど、自分のお辞儀を録画して、それを見させて、みたいなフィードバックを繰り返した方が、学習効果は高いかもしれない。
 VRとか使って、いい接遇、わるい接遇を体験させるとか。

 ホテルなどのかなり型にはまった接遇所作の場合は、型にはまったフォームを身につけることも必要かもしれない。
 ただ、医療機関での接遇は、カジュアルななかに滲み出るホスピタリティという「ナチュラルメイク」のようなことが要求される。
 やはり言葉遣いやお辞儀の角度のような枝葉末節から攻めてもうまくいかないかもしれない。
 あとは、ユマニチュードだよな。あれは認知症の人のケア技法としてとらえられているけど、言ってしまえば「感じのよさ」をみにつける技法でもある。あれが、医療機関の接遇にはしっくりくるような気がする。

 まあしかし、今日の話をまとめると、

 接遇と音痴は自分のダメさを悟らないと治らん

 ということです。

その他のBlogの更新:

半熟三昧:

「とてつもない失敗の世界史」 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『まどろみバーメイド』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
「とてつもない失敗の世界史」はオススメでした。はは、あかんわコレ。って気分になる。

ジャズブログ:

ジャズ検定クイズ! - 半熟ドクターのジャズブログ
冒頭触れた、ジャズのワークショップで、ジャズ中級者〜廃人向けのクイズを出してみたわけです。
それにしてもGoogle Formって便利ですね。何がやりたいか明確なら、そんなに悩まずとも一時間くらいでこんなの作れちゃう。

*1:とりあえず単発。続けるかはわからない

*2:人に教えるというのが、やっぱり一番勉強になると思う。

*3:ちなみに昨年度の当グループの有給休暇取得率は59%だった。介護職も含めて。中小企業としては結構がんばっているほうだと思う。

*4:僕が戻ってくるまでの風土としては、辛抱強い反面、問題点の言語化は苦手である、という感じだった。

*5:もしそんな人がいるなら、何らかの事情があるか、サイコパスなのであろう

*6:私も、昔音程が悪い人で、大人になってからちょっとましになったクチなので、余計にそう思う。自分の体験談でもある。

ボーナスの不満

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ボーナスの査定が終わって、夏のボーナスの支給も終わった。
うちの医療法人と社会福祉法人、職員500人くらいいるので、全員のボーナスをチェックしないといけない。

人事給与システム、定期昇給などはある程度自動化しているが、ボーナスについては、新しいシステムもなかなか入れられなくて、結局10年前くらいから同じようなやり方のままだ*1
前年度の業績と、算定基準*2をたたき台に、あとは幾分かの上下を、施してゆく。完全にアナログだ。

情意の部分でも「この人よく頑張っている」「この人はちょっと…」というのは見える。
ただこれも、自分が日常的に接していない部門の場合は、よくわからない。
所属部門長と相談して決めたりもする。

* * *

自慢するのもなんだが、うちの病院の職員、平均すると、結構モチベーションも高く、よく働いてくれる。
いい人も多い*3

だから、ボーナスとかの考査の時には「みな、頑張ってるよなー」と思うし、ボーナス、たくさんつけてあげたいな、と心情的には思う。
だけど、結果的にそんなに前年度から変わらない、いまいちぱっとしない表になる。
正直、申し訳ないな…という気持ちにもなる。

* * *

ボーナスだって給与。人件費だ。
全体で考えると、まず総額。そしてその配分ということになる。

病院って、めっちゃ頑張ったって、めっちゃ新たな取り組みをしたって、売り上げが爆発的に上がるわけでもないのだ。

大手企業とか、一人一人の仕事のレバレッジが効きやすい業種であれば、一人のスマートな問題解決が、何億という売り上げ増加に繋がり、もしくは何億ものコスト削減につながったりする。

そういう会社では、報奨金としてのボーナスの意味が大きいと思う。
任天堂ファミコンがバカ売れした時にボーナス28ヶ月分でた、という伝説があるよね。

対して、病院、医療系というのは、一人一人の地道な取り組みを積み上げ、医業収入をチリツモで積み重ねる。
それで、やっと利益率1〜2%の世界である。*4
各人、それなりに頑張っているし、営業職のように、個人の売り上げが10倍違う、なんてことはなかなかない。
そういうところでは、ボーナスを年ごとに、乱高下させることは、なかなかできない。

* * *

次に、分配の問題である。
職員間で、どうやってボーナスを按分するか。


以前にもボーナスについてちょっと書いたことがある。

hanjukudoctor.hatenablog.com

下げられることを容認しないと、ボーナスって上げられないのである。
「頑張っている人にはボーナスたくさん出してあげたい」ということは、裏返すと、
「頑張っていない人、頑張っていない…ように見える人のボーナスを下げる」ということだから。

ではその「頑張り」をどうやって評価するか?
評価方法が公平でないと、厳しい上下動に人は納得しない。
その評価方法には客観性と公平性が求められる。
だが、それはなかなか難しいのだ。*5

「新たな取り組み」は病院の組織を改革するために必要なことだが、マネタイズには程遠い。
仮にローンチしても、病院の売り上げがめちゃくちゃ上がるわけではない*6

* * *

でもまあ、私もボーナスをもらっていた時期もあるので、もらう側の気持ちもよくわかる。
「俺めっちゃ頑張ったやん!」と思っていて*7、全然ボーナスの額に変化がなかったら、むしろ下がったりしたら、がっかりするのもわかる。

だけど、人は、自分の頑張りと、ボーナスの額の増減の額の乖離を、生理的に理解できないと思う。
例えば、指数関数的な増大を体感できないのと同じように。

あ、補足しておきますけど、うちの職場でボーナスに対する不満が渦巻いているわけではないですよ。
むしろ僕が不満なんですよ。

*1:現行制度のUpdateがなかなか進まない属人的な理由がある

*2:基本給に職種別の掛け率をかけたものを下敷にして、あとは労働勤怠。遅刻欠勤。有給休暇をとることは評価には影響しないが、例えば病欠などの際に、当日有給発令というのは当院では認められているが、それについては若干のマイナス評価を行っている

*3:全員いい人だったらいいのに…とは思うけどね。

*4:これは一般論であり、うちはもうちょっといいですよ

*5:だから、当グループでは、そこのところで恣意的にならないように、勤怠の評価が評価の大勢で、それ以外の評価は微々たるものだ。

*6:日本のしみったれた、失礼、医療制度では、新たな取り組みはむしろ関連コストを押し上げ、収益性の低下につながりさえする。質と集客には繋がるのは確かだが、単価は上がらないのだ

*7:そして大体8割くらいの人間が、がんばった、と思っている

選挙

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参議院選挙が近い。

結局、今回の選挙の争点はなんなんだろうか、というのが、今ひとつわからない。
今ひとつ盛り上がってもいない。*1

争点が「年金」と言われると、違和感がある。
そりゃ確かに、このまま「人生100年時代」が当たり前、そこまででなくても80歳までが当たり前であれば、社会保障費は当然枯渇する。
2000万の貯蓄が必要…と具体的な数字を挙げられると、確かに絶望感は増すだろう。
ただ、年金の構造的な問題は10年前から明らかだったし、何一つ新しい話ではないと思っている。

でも、ない袖はふれない。
勤労世代が親世代に捻出できる社会保障費は、誰がどうみても限界だ。
積み立てている年金費用も取り崩しながら今後も運用してゆくのだろうが、我々が年金受給世代になった時に、年金積立が空っぽになっていることは想像にかたくない。

どうせ、団塊Jr.世代は割を食うことがわかっている。
でも、それにしても、割を食うにも限度があるとは思う。

野党は、年金政策について『給付増やします』なんて簡単にいいますけど、結局『床屋政談』のようなもので、財政事情とか、基礎知識がない素人が、適当な事を言っているようにしかみえない。
内情を知っている人間は、そんな大言はできないのだけれど、選挙期間中は、国民に苦言を呈するようなことを言ってもメリットもないから黙っている。
そういうからくりも、民主党政権の時に露呈してしまったから、野党のビジョンに対して、有権者は醒めている。

多分、年金給付を月に5000円上げて、年金を10%〜20%上げたら、その分インフレで物価が10〜20%上昇すると思う。それはそれでフェアなのかもしれないが、多分給料はそれほどは増えない。じゃあ若者が死ぬな。
僕が年金給付世代の頃は、年金は給付はされてるかもしれないが、例えば、映画館 5000円、パン一斤1000円とかになっているかもしれないと、諦めている。*2

自民党の釈明会見とか政治家決定のプロセスについて、法的手続きの不備など、私も、思うところはたくさんある。
ただ、内閣府によってグランドデザインを示し、経済政策を決定していくという現在の流れは、複雑すぎて意思決定のスピードが落ちた日本社会システムにとって、ある種のうまい解決策だと思っている。
スピードのかわりに民主主義のプロセスを省いているのは、事実だ。

コンピュータでいえば、今の日本社会はスパゲッティのようなコードで作られたプログラム、モジュールが肥大化したために、システムダウンが頻発しているような状態なのだから、軽いパッチを当てないと、稼働しないのだ。

どうも日本人は、制度の断捨離ができない。
平安時代摂関政治から院政になったように、もしくは江戸時代の老中合議制から側用人制度のように、肥大化して意思決定が膠着した状態になると、そのシステムクリーンナップではなく、法律外のシステムをひょいっと作ってしまうのは、歴史的なお家芸ではある。

今の「内閣府」もそんな感じの制度だ。
省庁の上位構造の意思決定機関を作ったことで、戦術レベルの意思決定が迅速になった。

安倍首相は、国民に対するアピールとか、説明能力というのは優れていないが、政策集団としての内閣府システム作りと、国連の常任理事国以外のアジア諸国へ地道に外遊していることは、もっと称揚されていいと思う。*3
こういうのをきちんと報道されないのは、日本のマスコミが悪いと思う。

内閣府の意思決定は、きちんと外部に示されている。
www.kantei.go.jp
本来、政策論議を行うのであれば、現政府のこのアジェンダを読み込んだ上で議論するのが筋だが、政見放送を見る限り、これすらみていない政党が多いと思われる。
それでいいのか?と思うけど、「未来投資会議」という言葉でピンと来る人は、一部の人間に限られているのだからしょうがない。
有権者に伝わらない言葉を言っても、選挙には勝てないのだろう。
政党政治は投票する側も、される側も、単なるポピュリズムに堕してしまった。
政党政治というシステム自体が、上述したように、もはや制度疲労を起こしていて、うまく機能していない。

では、どういうシステム作りが必要か、ということを議論する必要があるのだろうが、
そういう議論は、日本では難しいんだろう。
革命も起こりそうにないし。

* * *

社会保障費については、やはり額の上げ下げではなく、分配だと思う。
要介護4・5の人たちの介入制限(胃瘻・経管栄養、TPN、透析、ある程度の高度医療)は、そろそろだれかが
手を下さないといけないと思う。
それはそれで、不幸や涙も生むだろう。
大ナタをふるった政治家は、おそらく政治生命を賭する覚悟が必要になる。
(だから、誰もやらない)

だが、このままほっておくと、
藤子不二雄の『定年退食』という作品というところまで行き着くかもしれない。
それよりはましだと思うが。
nakamorikzs.net

ただ、選挙期間中にこれを語る正直な人たちはいないだろうな。
ついでにいうと、病院に入院している人たちにも「不在者投票」が行えるように、今はなっている。
もちろんそれは必要なことだ。
だが、本当に本人に意思決定能力があるのかどうか。それをチェックする制度はないのである。
集計もされていない(されているのかな?)
これも、誰かが得をしているのだけれども、これを変えようとすると普通選挙の大原則を侵すことになる。
誰も触りたがらないから、今後もそのままなんだろうな。

*1:ですよね?

*2:医者にあるまじき発言であるが、僕は自分が60歳以上生きられると、あまり思っていない。iDecoに力が入らないのは多分そのためだ

*3:対米盲従は、しょうがない。だって実質属国なんだもの。

99%のn乗は…

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これは2019年6月の横浜。
気がつくと7月。
今年は梅雨も梅雨らしくないなあと思っていたが、
もうすぐあけるころかな、という段になって、最後の最後で梅雨らしい。
日がな雨が降っていて、少し冷たい雨も、もやった風景も、ぬるりとした空気もそれなりに心地よい。

よいお湿りではないかとは思ったが、とばっちりを食って、野外演奏の予定がなくなってしまった。
それにピアノの弦が影響を受けて、ピッチが結構くるう。*1
まあいいや。

* * *

今年に入って、意図的にBlogを書く量を増やしていた。
hanjukudoctor.hatenablog.com

具体的には本とか音楽とかの紹介ページについては、一日一エントリ。を堅持するようにしていた。
予約投稿で一週間分くらいを貯め、しかし意外にストックもすぐ使い果たしてしまう。
本を読む、書く。
この繰り返し。

半年これを頑張ってみた。
同時に、この「半熟ドクターのブログ」を一週間に一度の目安に書いていた。

あとジャズに関するブログを、これは不定期に書いていた。
800字x30+3000字x 4くらいで、最低でも3~4万字くらいを書き、Blogに費やしていたことになる。

* * *

7月に入って、Blogを書くのをぱたりとやめた。
halfboileddoc.hatenablog.com

* * *

Blog連続更新をしてから、頭で考えたことを淀みなく文章にする能力は、一定のラインに達したように思っている。
10以上前、独身の頃さかんにウェブに文章を書いていた往年の勘はとりもどせた。
4000字くらいの文章も、一時間でかけないこともない*2
その意味で、書評ブログの効用は大きかった。

それでも、一旦足をとめたのには色々理由がある。

  • 7月はお互いに関連のないライブが3本(ジャズ(しかもピアノで!)、歌謡曲バンド、ファンク)および、お互いに関連のない学会発表とか講演が三題あった(いずれも小ネタだけど)。こういう時、僕は逃避行動としてBlogを書く方に逃げがちなのである。*3
  • 「アウトプット保存則」なのか、仕事での文書を書くときに「めんどくさいな」と思う瞬間が何度か訪れた。あんだけ個人の趣味でブログ書いてるのに!優先順位の再確認。
  • 「書かなきゃいけない」という強迫観念がQOLをおかしはじめたから。180日連続更新、という負荷は、精神衛生上よくなかった。僕は本来もっとテケトーなやつなのだ。「頑張る自分」みたいな自己陶酔は、多分他人に対する優しさとか寛容さを目減りさせる。
  • 最大の理由は、今のスタイルで一日一本の本の紹介を続けても、進歩がないように思われたことだ。この前読んだ佐藤優氏の本で気付かされたことだが、すぐ読めて、すぐ紹介できる本は、所詮その程度なのである。今年に入って本の紹介を180記事くらい書いたなかで、本当に時間を費やして精読した本は10もない。あまつさえ、深い印象を残した本は、ブログ記事さえ書けないものである。去年の今頃読んだ『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』は巷間の評判もさることながら自分にも大きな意味をもつ本であったが、いまだに下書きのままである。読書が「紹介ありき」になっていて、紹介しやすい歯ごたえのない本読もうとしていないか。意義のある本をじっくり読み込んだ方が、人生にとっては有用なのではないか、と思ったりもしたためだ。

hanjukudoctor.hatenablog.com
halfboileddoc.hatenablog.com
(これはいい本でしたよ。佐藤優氏は、基本的には「厳しい」ことを書くのだけれど、やはりそれだけ研鑽を重ねて今に至った静かな自負心がそうさせている。ある種誠実な厳しさなのである)



* * *

ということで、毎日の鍛錬、という気分と名目でBlogに浸淫していたのだが、やめた。
バランスをとりながら続けていきたいと思う。

* * *

よく、ビジネス本とか教育本で

日々の継続が大切です。
100から初めて、
毎日1%の成長を一年続けたとすると、
100 x (1.01)*365乗=3741
反対に1%ずつ能力がおちていくとすると
100 x (0.99)*365乗=2.58
こんなに差がついてしまうんですよ!

みたいなことを書いてあるじゃないですか。
ま、指数関数的な上昇は生物学的な上限の中では起こりえないものですが。

Blogを書くというのにしても、確かに往年の勘はとりもどせたけれど、それ以上にすごい執筆能力がついたとは思わない。
RPGであるような経験値集め、レベル上げ、的な要素はあるけど、これを続けても、レベルは上がらない。
「転生チートもの」で、スライムだけを倒してレベル99になっていた、みたいな話あるけどあれは現実社会では幻想だ。

ただ、筋肉とかトレーニングに関するやつは、 「0.99のn乗…」みたいな話がわりとしっくりくる。
5-6年前は、ジョギングとかをきちんとしてて月100kmくらいは走るようにしていた。
そういう頃は結構走れてた。
出張旅先ランで、皇居ランも時間があれば二周できていた。

ところが、最近はジムには合間をみつけて行くが、家からランニングに行くことがなくなってしまいました。
そうすると、心肺機能も脚の筋肉も落ちる。
久しぶりに走ると、5kmはおろか、1kmをかつてのペースで走ることさえできなくなっている。
まあ、筋力ってじわじわじわじわ落ちるんだなあと反省。
このへんの感覚は、確かに 0.99のn乗がしっくりくるかもしれない。

ともあれ、成長・怠惰の教訓としての 99%n乗の話は、
いたずらに行動を縛る呪いの言葉になりかねない、と思った。

*1:そういうことはピアノを自宅に購入してはじめて知った

*2:むしろ手直しに時間をかけた方がいい文章になる

*3:残念なことに、演奏の本番のうち一本は雨天で中止、もう一本は諸事情で流れてしまいそうではある

DNARの難しさ

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2019年京都。琵琶湖疏水インクライン跡、だと思う。
最近DNARというのを、もう一度考え直している。
とてもとても難しい。


* * *

DNARというのは、Do Not Attempt Resuscitation (蘇生術を試みない)の略だ。
いよいよ状態が悪くなり、急変(心肺停止)した時に、心肺蘇生術をするかどうか。
以前に、書いたこともある。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「死にそうな時に蘇生術をするかどうか……?するに決まってんじゃん!」と考えるのも無理はない。
医者がこれを持ち出す時は、蘇生術があんまり効果がないような状況の時だからなのだ。

結局最後には人は死ぬ。
それを止めることはできない。
どうみても死にそうな病気の死にそうな時期に、蘇生処置をするのは、
例えば、倒産が確実な会社に融資をするようなものだ。

それを「生きようとする努力」ととらえるのも一つの考え方だ。
ただ、蘇生術はそれなりに体を傷つける。
「安らかに旅立つ」という言葉とは真逆なものだ。
もはや死にかけているのでどうでもいいのかもしれないが、めっちゃ痛そう。

DNARというのは、そういう終末期で回復の見込みがない時には心肺蘇生術を行わないという意思表示なのである。

* * *

初期研修医からだんだん経験年数を積んでいくにつれ、もともと私は超急性期に興味がないこともあり、
診ている患者さんは、徐々に高齢者が中心となった。

基幹病院での肝臓内科時代 DNARの提案は比較的簡単に受け入れられた。
肝癌だろうが肝硬変だろうが、臨死の状態は肝不全。
この状況で心肺停止が起こるとしても、心臓を動かそうが、人工呼吸器を入れようが、肝臓が治るわけではないので、蘇生術は無意味だ。
そしてそれは一目瞭然だったので、理解しやすく、受け入れられやすかった。

今では中小病院の一般内科が主戦場だ。
高齢者の重症患者は、肺炎だったり、他の感染症だったり、そういうのもないけど看取りの状態だったり。
基本的には高齢の方で重度の介護保険の判定が付いている半分老衰のような方については、蘇生処置を希望せずということになる。
つまりDNARだ。

ただし、DNARというのは、積極的な治療をしない、というわけではない。
点滴や、抗生剤、時にはアルブミンや輸血などの血液製剤も含めて、積極的治療を行うこととDNARの意思表示は矛盾しない。
(それぞれの治療行為についてはケースバイケースで、家族や本人と話し合って決める)。
ただ、最後の最後で心肺停止状態になった時には、苦痛を伴う心肺蘇生術だけはしない……というのが基本的な考えだ。

時々、バイトで来られるような医キリドクターには、そういうのを勘違いしておられて、抗生剤治療などですら「DNAR患者だろ?」とかいってまともに診療してくれない人もいる。大所からの視点で治療を選択しないというなら理解できるが、DNARがあると「死んでもいい」御朱印みたいに考えている人が結構いるのだ。
またそういう医師の診療を受けたことがあるのか、「蘇生希望せず」の患者には碌な治療をされない、と思っている家族もいて、ちゃんとした治療をうけさせたいから蘇生希望する、という人にも会ったことがある。
要するにDNARをトリアージの黒タグのようにみなしている人間は、意外に多い。

ところで、このDNAR、Do Not Attempt Resuscitationの ”Attempt” が、意外に難しい。
DNARはいついかなる場合でも蘇生を行わない、というわけではない。
蘇生の成功確率が厳しいとわかっている時には、蘇生を「試み」ない、ということだ。つまり、蘇生できないのがわかっている時に、「フリ」だけの蘇生術はしない、ということ。

だから、例えば、死線にある患者で DNARの意思表示がされている患者さんであったとしても、明らかに食べ物を喉に詰まらせた(窒息)事例に関しては、心肺蘇生術をしなければならない。この場合は「心肺蘇生術」を行うことによる救命可能性が高いからだ。

まあ、これはそれほど難しくはない。
それでは、60歳の肝不全の患者。食事もとれていなくて、Albは2.2g/dl。
腹水に加えて右胸水(肝性胸水)がたっぷり溜まっている。
DNARは取得済みだが、胸水による呼吸苦が強く、胸腔ドレナージをした。
ドレナージ開始後1時間で、突然、呼吸が止まった。

家族もだいぶ悪いということは知りつつ、ドレナージは状態を改善するものと思っていたので寝耳に水。
外来にいる主治医が病棟に上がってくるまでの間、蘇生処置を開始するかどうか?*1


結構難しい問題だと思う。

* * *

高齢者の診療において、医療現場の人間は、基本的に急変時に蘇生処置は行いたくない。
救命救急処置は、分の猶予もないし、診療密度もマンパワーも必要とするため、通常の病棟業務は全く麻痺してしまう。
まあ実際無駄でもあるし、むしろ身体を毀損するのだが、マンパワーが少ない日本の病棟では、心肺蘇生術にかかりきりになることもあまり望ましくない、という事実もある。なので、リビング・ウィルを確認し、意向を聞いた上で、DNARという結論になることが多い。

看護現場では、正直、「蘇生処置を望む」という回答は望まれていない。
だから、DNARを勝ち取った権利のように考え「蘇生処置しちゃいけない」と考えている人は意外に多い。

2〜3年前から、院内で「死の最終段階における意思決定のガイドライン」を策定したり、市の医師会で、施設入所者高齢者に対して、ACP的な延命治療希望の有無を前もって決めておき、それによって急変時の対応を忖度するシステムの整備などに携わっているため、ACPについて、最近勉強しなおしている。
そうすると、医療従事者の間でも、かなり理解と認識が異なることに気が付いた。

* * *

医者を20年もやっていると、DNARが適切かどうか、家族にどのように説明するか、というのは、自分の診療の範囲では、まずマトを外すこともないし、DNARがどんなものか、よく把握しているつもりだった。

だが、職場内で、誰もが同じように動けるためのコンセンサスを作り、みなが同じ共通認識で動くことは、思っている以上に難しい。
我が職場のような、診療科も限られた、そう大きくはない病院でさえ。

(つづく)

*1:これは自院で議論を呼んだ症例を、少し改変してのせています