半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

DNAR(蘇生処置希望せず)について。

80床くらいの病院で、普通の内科一般診療をやっていますと、すごく若い人が難病に苦しんでいる…なんていう、ドラマになりそうな診療に出くわすことは少なくて。「病」なのか「老」なのかよくわからない全身状態の下降しつつある高齢者の方を診ることが多いわけです。

例えば高齢の方の肺炎。60歳の元気な方は肺炎で亡くなるなんてほとんどなくて、あればイマドキの医療水準では問題になりかねないくらいなんですが*1、90歳の方が肺炎にかかったら、これは生き延びることは難しいし、もし元気で歩いていた方であれば、元通りの生活レベルを維持することも難しい。

たかが肺炎だけれども、高齢者の方は肺炎で亡くなってしまう。亡くならないにしてもすぐ弱る。

そうした延長線上に「死」というものがあるわけですけれども。

* *

例えば、治療にも関わらず、病状が好転しない…という膠着状態が続けば、いずれ体力の限界をむかえ、亡くなります*2。もちろんそういった徐々に迎える死もあるし、急激な状態の変化で突発的に亡くなるのもあります(心筋梗塞とかね)。

で、「亡くなりそう」な状態。そのままだと亡くなりますよ…という状態。

死のとば口に立っているのがいわゆる心肺停止状態ですが、医学的にはそこで「心肺蘇生術」をやるかどうか、という選択肢があるわけです。



シンプルに聞くと「『死にそうな状態』の時に『死にそうじゃなくする』ことをする…わけですよね?そんなのに選択肢とかつけるの?するのが当然なんじゃないの?」という風に思われるかもしれません。

ただ、医療従事者があえて選択肢を聞くっつーのは聞くだけの理由があるんで。

そういう時、はっきり言っちゃうと「心肺蘇生術にはあまり意味がないでっせ」ということなんですよね。

* *

そもそも心肺蘇生「術」という言葉が、期待感を含みすぎなようにも思う。

「心肺蘇生術」というと、すんごい万能な「術」に思われますけども(そう、ドラクエでいうザオリクのようなね)心配蘇生術、全然万能ではないです。

おまけに体にもダメージは大きい。

心肺蘇生「術」というものは、具体的にいうと「気道確保」「胸骨圧迫マッサージ(いわゆる心臓マッサージ、めんどくさいので以下「心マ」)」「除細動」です。*3これらの一連の手技を心肺蘇生術と総称しているわけなんですけれども。

* *

しかし、最近改めて考えると、「気道確保」と「心マ」ってテクノロジーのレベル的には全然ちゃう。

「気道確保」はバルブバックマスクで酸素を送り込みつつ、喉頭鏡を挿入し気管挿管を行い、人工呼吸器につないで100%酸素で強制換気を行います。

これは、かなりのテクノロジーを要する治療行為で、現代医療の結晶の一つともいえるものです。例えば100年前には今の気道確保は世界で一番進んでいた病院でさえも受けることはできなかった。

また生体はせいぜい大気圧の20%の酸素しか使えないが、人工呼吸で代替した場合は100%の酸素が供給出来る。5倍界王拳という事になります。

対して、心マ。

一般的な心マのやり方はこのようなものなんですが→(http://www.hokkaido.med.or.jp/firstaid/sosei/t007kyokotsu.html)基本的な技術は固い背板と手。知識がないから行われていませんでしたが、別に2000年前でも、やろうと思えばできる手技です。ちょうローテク。*4

しかも本来ある心臓の拍動の力を100とすれば、心マで得られる心拍動力はせいぜい20程度です。当然ですよね、外から押すんですもん。シューマイ弁当を蓋の上から押して中の醤油入れ押せますか?いう話です。

* *

内科で高齢の方、亡くなりそうな方を入院で診療していますと、やがて死を迎えることが予想される場合なんてよくあります。

その時にこの「蘇生術を行うかどうかどうしますか?」という説明をご家族にするわけなんですけれども。

口頭でインフォームド・コンセント用紙に書きながら説明している時にはあまり気にしなかったんですが、最近、「心肺蘇生術」ってどうやるの?というパワーポイントのスライドを使って家族の方に説明させていただいているんですけれども、そうすると、この2つの手技って、全然ちゃうよなーと改めて思ったわけです。

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というわけで、高齢の方で、いろいろ治療を尽くしたあとに体が限界を迎えて治りそうにない…という局面で起こる心肺停止は、基本的には心臓が限界をむかえてるんで、心マも効かへんし、つまりは心肺蘇生術も効かへん、ということなんだと思っています。

* *

んで、心マってやつはローテクな上に、めっちゃ疲れるんですわ。

全力でポンピングすると、本気でやれば5分保たない。

基本的に心臓を外表面から押すっていうのは無理筋なので、肋骨のポキポキ折れる音が、何十分もやっていると手のひらのしたから感じられます。

10分やってダメなら、無理なんですけどね。*5

だけど、患者さんの家族で「家族が揃うまでは蘇生をしてほしい」みたいなこと言う人結構いるんです。

これ、うーん…っていつも思います。

蘇生術を行うかどうかは家族の希望を聞くべきかと、僕は思っていますが、蘇生がもはや有効でない場合に、中止するかどうかは、医療者側に決定権があるとは思いますけれど。

まあ、気ぃ悪くされるとアレなんで、最近の僕は、今書いたようなことをインフォームド・コンセントの時に言っちゃってます。いやぁ、心マはホント効果ない上にお体も痛めますんでね~、と。

あと、よくいうのが、

「心肺蘇生術は、将棋を指している時に、『待った』をかけるようなもんです。

 例えばバイクで事故った少年、これは、将棋で言えば序盤戦でごっつうしょぼい手を指して王手をかけられたようなもんで、この局面さえ『待った』でなしにできれば、また長い人生に戻ることができます。

 だけどね、癌の末期とか、ご高齢の老人とかは、将棋で言えば、王さん以外ほとんど敵にとられたような状態です。こんなところで『待った』かけたって、どうせすぐ詰んでしまうんですよ」

 とか。これはICの相手が男の人の時にしか使いませんけれども。

んー。女性に説明するときには、

「この末期の状態で、最後の最後の心肺蘇生術するってのはね、…例えば。

旦那が飲む打つ買うの三拍子でどうしようもない、今までなんどもそういうのやめるように言ったけど聞いちゃくれない。

ついにもう心が折れて、離婚届を持ち出したら、ちょっとそれは困る待ってくれ、みたいなこと言い出すみたいなもんです。そういう段階の前で最大限の努力をすべきであって、もういよいよやっとれん、みたいな状態であがいたって、どうしようもないわけですよ」

とか言ったこともあるなあ。しかしこの例えだと、「じゃあ心肺蘇生術してください」って言う人いるかもしれない。

*1:もちろん患者さんが難しい病気をもともと持っているとか、そういう場合は別ね

*2:その期間にはかなり個人差があります

*3:もちろん救急救命センターでの心肺蘇生術は、循環動態の安定化他もろもろの手技を含みますが、病棟ですでに点滴などが入っている方に関して、それまでの治療に新たに付け加わるのはこの3つでしょうか

*4:もちろん生体に対する理解が乏しい時代にはたとえ手技として可能であったとしても技術として定着はしていない。これは心肺蘇生術は、その後の医療行為のための時間稼ぎであり、単独ではあまり意味がないということの間接的な証左ともいえます。

*5:低温環境下で溺水の方とかはまた話は別ですけど