半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

DNARの難しさ

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2019年京都。琵琶湖疏水インクライン跡、だと思う。
最近DNARというのを、もう一度考え直している。
とてもとても難しい。


* * *

DNARというのは、Do Not Attempt Resuscitation (蘇生術を試みない)の略だ。
いよいよ状態が悪くなり、急変(心肺停止)した時に、心肺蘇生術をするかどうか。
以前に、書いたこともある。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「死にそうな時に蘇生術をするかどうか……?するに決まってんじゃん!」と考えるのも無理はない。
医者がこれを持ち出す時は、蘇生術があんまり効果がないような状況の時だからなのだ。

結局最後には人は死ぬ。
それを止めることはできない。
どうみても死にそうな病気の死にそうな時期に、蘇生処置をするのは、
例えば、倒産が確実な会社に融資をするようなものだ。

それを「生きようとする努力」ととらえるのも一つの考え方だ。
ただ、蘇生術はそれなりに体を傷つける。
「安らかに旅立つ」という言葉とは真逆なものだ。
もはや死にかけているのでどうでもいいのかもしれないが、めっちゃ痛そう。

DNARというのは、そういう終末期で回復の見込みがない時には心肺蘇生術を行わないという意思表示なのである。

* * *

初期研修医からだんだん経験年数を積んでいくにつれ、もともと私は超急性期に興味がないこともあり、
診ている患者さんは、徐々に高齢者が中心となった。

基幹病院での肝臓内科時代 DNARの提案は比較的簡単に受け入れられた。
肝癌だろうが肝硬変だろうが、臨死の状態は肝不全。
この状況で心肺停止が起こるとしても、心臓を動かそうが、人工呼吸器を入れようが、肝臓が治るわけではないので、蘇生術は無意味だ。
そしてそれは一目瞭然だったので、理解しやすく、受け入れられやすかった。

今では中小病院の一般内科が主戦場だ。
高齢者の重症患者は、肺炎だったり、他の感染症だったり、そういうのもないけど看取りの状態だったり。
基本的には高齢の方で重度の介護保険の判定が付いている半分老衰のような方については、蘇生処置を希望せずということになる。
つまりDNARだ。

ただし、DNARというのは、積極的な治療をしない、というわけではない。
点滴や、抗生剤、時にはアルブミンや輸血などの血液製剤も含めて、積極的治療を行うこととDNARの意思表示は矛盾しない。
(それぞれの治療行為についてはケースバイケースで、家族や本人と話し合って決める)。
ただ、最後の最後で心肺停止状態になった時には、苦痛を伴う心肺蘇生術だけはしない……というのが基本的な考えだ。

時々、バイトで来られるような医キリドクターには、そういうのを勘違いしておられて、抗生剤治療などですら「DNAR患者だろ?」とかいってまともに診療してくれない人もいる。大所からの視点で治療を選択しないというなら理解できるが、DNARがあると「死んでもいい」御朱印みたいに考えている人が結構いるのだ。
またそういう医師の診療を受けたことがあるのか、「蘇生希望せず」の患者には碌な治療をされない、と思っている家族もいて、ちゃんとした治療をうけさせたいから蘇生希望する、という人にも会ったことがある。
要するにDNARをトリアージの黒タグのようにみなしている人間は、意外に多い。

ところで、このDNAR、Do Not Attempt Resuscitationの ”Attempt” が、意外に難しい。
DNARはいついかなる場合でも蘇生を行わない、というわけではない。
蘇生の成功確率が厳しいとわかっている時には、蘇生を「試み」ない、ということだ。つまり、蘇生できないのがわかっている時に、「フリ」だけの蘇生術はしない、ということ。

だから、例えば、死線にある患者で DNARの意思表示がされている患者さんであったとしても、明らかに食べ物を喉に詰まらせた(窒息)事例に関しては、心肺蘇生術をしなければならない。この場合は「心肺蘇生術」を行うことによる救命可能性が高いからだ。

まあ、これはそれほど難しくはない。
それでは、60歳の肝不全の患者。食事もとれていなくて、Albは2.2g/dl。
腹水に加えて右胸水(肝性胸水)がたっぷり溜まっている。
DNARは取得済みだが、胸水による呼吸苦が強く、胸腔ドレナージをした。
ドレナージ開始後1時間で、突然、呼吸が止まった。

家族もだいぶ悪いということは知りつつ、ドレナージは状態を改善するものと思っていたので寝耳に水。
外来にいる主治医が病棟に上がってくるまでの間、蘇生処置を開始するかどうか?*1


結構難しい問題だと思う。

* * *

高齢者の診療において、医療現場の人間は、基本的に急変時に蘇生処置は行いたくない。
救命救急処置は、分の猶予もないし、診療密度もマンパワーも必要とするため、通常の病棟業務は全く麻痺してしまう。
まあ実際無駄でもあるし、むしろ身体を毀損するのだが、マンパワーが少ない日本の病棟では、心肺蘇生術にかかりきりになることもあまり望ましくない、という事実もある。なので、リビング・ウィルを確認し、意向を聞いた上で、DNARという結論になることが多い。

看護現場では、正直、「蘇生処置を望む」という回答は望まれていない。
だから、DNARを勝ち取った権利のように考え「蘇生処置しちゃいけない」と考えている人は意外に多い。

2〜3年前から、院内で「死の最終段階における意思決定のガイドライン」を策定したり、市の医師会で、施設入所者高齢者に対して、ACP的な延命治療希望の有無を前もって決めておき、それによって急変時の対応を忖度するシステムの整備などに携わっているため、ACPについて、最近勉強しなおしている。
そうすると、医療従事者の間でも、かなり理解と認識が異なることに気が付いた。

* * *

医者を20年もやっていると、DNARが適切かどうか、家族にどのように説明するか、というのは、自分の診療の範囲では、まずマトを外すこともないし、DNARがどんなものか、よく把握しているつもりだった。

だが、職場内で、誰もが同じように動けるためのコンセンサスを作り、みなが同じ共通認識で動くことは、思っている以上に難しい。
我が職場のような、診療科も限られた、そう大きくはない病院でさえ。

(つづく)

*1:これは自院で議論を呼んだ症例を、少し改変してのせています