こんな書生じみたブログを続けてますけど(いや、続けてないだろお前、と独りツッコミを入れてみる)気がつくと40超えてるわけですよ。
さすがに肉体的な老いを日々の生活の端々に感じることが増えました。
一度に処理できる事柄が減ったり、とっさに単語をど忘れしたり。
当直明けて睡眠リズムの乱れが立て直せなかったり、疲れている時にめまいや耳鳴り、腰痛などが起こったり。
この先、50、60と歳を経るとこういうことはもっともっとはなはだしくなっていくわけで、すこしうんざりします。その延長線上には、加齢による認知機能の低下や死亡が待っているわけで、自分の人生の有限性、というものをある程度自覚せざるをえないっていうか。
とはいえ、僕はまだ働き盛りだし、それなりの要職で積極的に仕事をしているので、いろいろ情報を仕入れたり、研鑽もしたり、気が若い方だと思ってます。自分ではね。
「成長しなくちゃいけない」と思う立場にいさせてもらってるから、新たな知識や技術をとりいれたりしてますし、40にして不「不惑」ですね。日々勉強の毎日です。その点ではまだ老いという寒風にさらされて立ち尽くして途方に暮れているわけではない。
ただ、年々その可塑性は減っているというのは抗えない事実です。かなしいかな「やわらか頭」じゃなくなってんだなあ。
加齢によるこの可塑性の低下(というか固陋化とでもいいましょうか…)は、同年代でも、個人差がかなりあります。若くてもガッチガチの人もいるし、歳とっても新しいことにいかにも楽しそうにチャレンジされる方もおられます。
いつになってもこの柔軟さというのを失わないようにしたいものですけど。
昨日出来てたことが、今日はできなくなるかもしれない、というのは普遍的な恐怖です。*1
そして、できることが少なくなった人生の晩期に、環境の大きな変化が起こって、乏しくなった適応力で対処しなければいけない、ということはしばしば起こりうる。
これはもう純然たる悲劇で(少なくとも本人にとっては)。
自分の患者さんの中にも、対応能力を超えた変化が起こって、なすすべもなく呆然として立ちすくむ、という状況をしばしばみるわけです。若かったらなんとかなることも、若くなかったらどうにもならない。そして医療従事者達は、その「どうにもならない」ことが今ひとつピンと来ていない。なぜなら、若いから。
自分と同年代、そして、より年上の人たちは、皆、この恐怖とたたかってきているのだ、ということに、お恥ずかしながら僕は最近気づきました。
*1:『(アルジャーノンに花束を』という名作SFがありますが、これが人々の共感を読んだのは、特殊な境遇でありながら主人公の苦悩はこの普遍的な恐怖を描いているからです