半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

ユニバーサル・マスク

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2020, 松江

コロナ・コロナ・コロナ(Covid-19, SARS-CoV-2)……
地元市での流行はまだまだ散発的だが、全国的にはじわりと第三波といっても過言ではない。
八月・九月は緩みも許容されたが、コロナ、きっちり戻ってきやがった。

流石にこの状況では東京大阪への出張も控えざるをえない。
それにしても東京大阪、そして北海道の医療の逼迫具合は、かなり気になるレベルではある。
押し込める病棟がなくなったら、多分相転移が生まれ、それまでのプロセスを知らない人には「地獄か?」と思える状況が生まれるだろう。そして現場の医療従事者は非難され、感情の波濤に翻弄された最前線の現場戦士達は消耗してゆくのだろう。

* * *

以前に書いたが、初期の段階で専門家会議はかなり巧妙に感染防御計画を立てていた。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「三密」という言葉、人混みではマスクをしましょうと、割と明確にメッセージを打ち出していた。

今や世界でも常識になっているけど、初期は感染しない人はマスク不要、が欧米では常識。
マスクにはエビデンスがない、と言われていたことを皆忘れてはいけない。
三密についても、欧米のロックダウンとは明らかに違う次元の提案だった。我々はもっと感謝してもいい。
専門家は、初期の段階で、感染防御について、かなり明確なドクトリンを打ち出していた。
そしてそれは今見ても妥当なのである。

日本では、もともとインフルエンザの流行期に、満員電車などでマスクは当たり前だったので、全員がマスクをすることについてはあまり抵抗感がなかった。
しかしエビデンス厨は、そういう海外の知見を引き合いにだして「マスクは不要です」というメッセージを打ち出していた。

* * *

結局のところマスクには、飛んでいる飛沫を防ぐ力はそれほど強くはない。が、飛沫を飛ばさない、という点では一定の効果がある。
そりゃ、手術の時に術者がマスクをしているのだから、それを延長して考えれば、わかりそうなものだ。
だから全員をマスクで覆えば、たしかに感染はかなり抑えられるだろう。

でも、欧米では、いまだかつて、インフルエンザや風邪の流行期のマスクは推奨されてはいなかった。
これ、欧米でコロナ以前にマスクが否定されていたのは、
「仮に全員がマスクをするような事態が作れるなら…」を仮定しても、
『その仮定絶対無理じゃん』と、そこで棄却されていたからだ。
それは社会的に無理だよなとマスクの効果の実証以前に門前払いだったわけです。
そうすっと、個人単位でつけているマスク防御には限界がある。だからマスクにはエビデンスがない、ということになっていた。

今回のコロナ禍で、全員が(しぶしぶにしろ)マスクを強制着用しうるという状況が生まれた。
そうすると、やはり感染防御効果が高いのではないかという事実が学術的に共有され『ユニバーサル・マスク』という言葉が生まれた。
そして新たなエビデンスが生まれつつある。

でもそれって、エビデンスがない時代から、日本では暗黙知でなんとなく取られていた戦略なんですよね。

* * *

しかしせっかく日本の感染防御は、エビデンスない状態でも先行して、まあまあの成果を上げていたのに、
エビデンスが揃って各国足並みをそろえる今、むしろ日本はエビデンスから遠ざかり、後退している。

ホリエモン尾道餃子店でのマスクとるとらないの話とか、飲食店での振る舞いとか。
メディアに出る人たちが、マスクなしのフェイスガード・マウスガードをつけて出ている様など。
むしろユニバーサルマスクに反する行動が、ここにきて目立つ。

せっかく自国がまずまずの戦略をとっていたのに、その戦略の価値をわからず、自己解体してしまう。

こういう状況って、何度か見るよな。
例えば、太平洋戦争初期の航空機の運用。緒戦では世界よりもはるかに先進的な用兵をして大勝していたのに、むしろ航空機へのリソースをまわせず、損耗するパイロットを保護しようともせずフル回転で稼働させ、いたずらに消耗させて、最終的には航空機戦において遅れをとり、敗北した。

例えば戦後レジームの中で未曾有の経済的成功をおさめたのに、バブル崩壊以降、世界の金融の潮流から完全に背をむけて、経済発展ではアジアの後塵を拝してしまう、とか。

サイエンス・リテラシーが低いのか…
ウサギとカメでいえば、どちらかといえばウサギ。最後には負けるやつ。

真実のかけらをつかみかけていたのに、その価値の見極めができないため失敗してしまうというね。
朱子学的な要素があって、理念先行した場合の現実との解離を修正できないのか。
日本人は目はいいが、頭が悪い。悲しいことだ。

「とりあえずビール」の謎

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2020, 庄原

全国の感染者数はそれなりに居るみたいだし、フランスをはじめとしてヨーロッパでは猛威をふるっているみたいだ。
でも、ここ地方都市にいる限り、コロナもインフルエンザも、遠き対岸の火事だ。
いつ我が事になるのか……背中に冷や汗を感じその日に備えつつ粛々と仕事するしかない。

「とりあえずビールね」の意味

昔の世代と今の世代で、うけとめがかなり違うのは、この「とりあえずビール」だと思う。
今や、乾杯の飲み物だって、めいめいに好きなものを頼むのが普通。ノンアルコールを頼むのも別に問題がない。

20年くらい前、20世紀末に学生〜社会人だった自分の記憶はこうではなかった。
とりあえず、みなにビールのグラスがゆきわたり「乾杯!」の発声。
ノンアルコールという選択肢なかった。飲む飲まないはともかく手元にビールは振舞われたし、飲み干さないまでも、口をつけることは暗に求められていた。
全員が同じ飲み物を持ち「乾杯!」の発声で一斉に飲み干す。
これが昭和の「乾杯の儀」である。

* * *

「とりあえずビール」はWikipediaにも掲載されている。
ja.wikipedia.org

今でも「とりあえずビール」は是か非か?という議論はあるけど、
「用意がすぐ済む」「乾杯までの時間を短縮できる」という店側のオペレーションに関するメリット・デメリットの面、もしくはスタータードリンクとしてビールを飲むという健康的な効用の面で論じられることが多い。

でも僕は「とりあえずビール」のそもそもの民俗学的な起源を考えたいと思う。

共同体への参加

現代の社会は、新しい技術のもとで一から構築されたものではなく、古い社会(部族社会・村落共同体)に、新しい科学技術を付け加えて付け加えて、徐々に刷新していったものだ。
だから我々の生活様式に、驚くほど古い時代の因習が残っていたりするが「とりあえずビール」はその一つだ。

* * *

現代。グローバルな社会は、知らない人に会うことは珍しくない。
しかし古い世界では、共同体の中で生活している限り「知らない人」には出会わない。
「知らない人」は共同体の規範に従わない可能性がある異邦人である。
そういう人が許可なく単独で共同体の中を歩くことは許されない行為で、場合によっては殺されても文句は言えない。
自分がどの共同体に属しているかが生死をわける、ということが当たり前だったのである。*1

コミュニティへの所属は集団の同質性によって担保される。
わかりやすく言えば衣食住が共通であるか。
同じ服を着て、同じような住居に住み、同じようなものを食べる。
それで同じ共同体の成員であると見なされる。

それが転じて、異邦人がコミュニティに参加するイニシエーション(儀式)として、
飲食を共にする儀式は、世界のあちこちで普遍的にみられる。

インディアンの部族でも、友好の印にタバコ=煙管の回し飲みなどを行っていた。(聖なるパイプ)
村で作った酒をみんなで飲むことは、共同体への参加のイニシエーション。
若衆が大人になり飲酒をすることは、大人社会への参加のイニシエーションだった。
ムラの結束を高める効果があった。
「同じ釜の飯を食う」という言葉が、そのものずばり示している。

これが

  1. 「サラリーマンムラ社会」における「とりあえずビール」による乾杯の儀式
  2. 大学生の新歓コンパ(これも一つのムラ社会)で、とりあえず新入生に酒を飲ませて潰す儀式

のルーツ。
昔は村で仕込んだ樽酒をみんなで飲んだものだが、昭和期に都市部の大量消費材であるビールを同じ目的に使われたという経緯も記しておかなければいけない。

「とりあえずビール」の終焉は何を意味するか

現在「とりあえずビール」の風習は薄れつつある。
これは、社会のあり方が共同体社会から個人社会になっているからだ。
会社のあり方も変わった。
簡単に言えばゲマインシャフト(地縁・共同体社会)からゲゼルシャフト(契約によって成立した集団)にかわったのである。
会社は本来ゲゼルシャフトなのだが、高度経済成長期にはゲゼルシャフトゲマインシャフトに錯覚させ組織力を高めるという戦術をとっていた(その戦術の根幹は終身雇用・年功序列制度。要するに組織の外部との人材流動性を凍結させて、ムラ社会を形成したのである)。

バブル崩壊後、日本の会社組織は「会社というのはもともとゲゼルシャフトですよ」みたいな顔をして、終身雇用制度をくずし、会社内のムラ社会を解体してしまった(はっきりいって、ムラ社会はコスト高だからだ)。
 それにより集団の同質性・同調圧力は当然低下する。
 社内の理不尽なムラ社会の風習は21世紀に入り風化した。*2

 今、飲み会でも「とりあえずビール」じゃないことが当たり前なのは、僕はいいことだと思ってはいる。
 いい時代だな、と思う。
 僕は共同体社会苦手な、シラケ世代、SPA!世代だし。*3
でも「とりあえずビールであるべし」と今でも言いたがる御仁は、その意識の底流に共同体社会への回帰願望があることは自覚しておいた方がいいと思う。

*1:ユーゴスラビア紛争や、ルワンダ虐殺などの状況を想像してみればいい。前近代にはそれが平常だったのだ

*2:ただし、共同体社会としての組織のあり方ではない契約社会組織のあり方の完成形を僕たちは手に入れていない。日本社会の低迷はそのようなところにもあると思われる

*3:そもそも酒を飲む習慣もない

闇落ちレジリエンス、またはレジリエンスありすぎ症候群

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レジリエンス、という言葉は、今ではみなよく知っていると思う。

halfboileddoc.hatenablog.com

ストレス(歪み応力)に対して、「その歪みを跳ね返す力」、がレジリエンス。元々は物理用語。
「精神的回復力」「心の弾力性」などと訳される。
レジリエンスとは、「しぶとさ」みたいな言葉から、ややネガティブな印象をとったような感じのもの。

社会人にとっては、学業の優秀さとは別に「ストレスに対して柔軟に対応できるかどうか」が重要。
レジリエンスをきちんともっており、長期的な目標をもっていると、遠いゴールに向かって興味や情熱を失わずに長期間粘り強く努力し続けることができる。

すごい学業成績優秀な新人が、入ってくるけど、ちょっとしたことでメンタルを病んでしまう…みたいなことはままあって。
それは職場のブラック環境とかなんとかもあるけど、そもそもストレスに対する耐性をきちんと身につけているかどうか、ということになる。昔はレジリエンスを持っていない人のことは「線が細い」みたいな言葉で片付けていたけれど、掃いて捨てるほど人が沢山いた時代ならいざしらず、今は少子高齢化。今いる人に出来るだけ脱落しないように成長してもらわないといけないわけだ。
レジリエンスなど「しぶとさ」を学問的に追求するのはそのためだ。

したがって、このレジリエンス能力は、いろんなストレスに対して落ち込みやすい人、他の人の言うことに影響されやすい、言葉に対して敏感な人に対して、とても有効に働く。

問題は「レジリエンスありすぎ症候群」みたいな人が一定数存在することだ。

レジリエンスありすぎ症候群

結局のところ「過ぎたるはなお及ばざるが如し」ということわざの通りなのだ。
他の人の言葉に対して過敏な人に対しては、レジリエンス的なトレーニングをすれば、うまく緩衝材として働く。
ところが、他の人の言葉が全然響かない、逆に鈍感な人に対しては、レジリエンスは有効に作用しないどころか、むしろその態度を強化さえするかもしれない。

レジリエンスありすぎ」な人とは、どういう人か。
簡単にいうと「ひびかない人」。

批判や忠告などを「我が事」として受け止めることができない。
強く言われても、言い訳をする。
対話がなりたたない。
自分の中で話が完結していて、他の人との対話によってよりよいものになってゆくという体験ができない。
なので、会話は常に「自分が今考えていること」を伝達するだけ。
異なる意見については受け入れることもできない。
だから時として上から目線であるような印象をうける。
親密な友達関係を築くことができない。
それは他の人の感情に無頓着であり、また容喙することもできないから。
孤立している割に、いや孤立しているからこそ、学業などは良かったりもする。
ま、一言で言うと「いらっ」とするやつだ。

このジャルジャルのコントででてくる「角刈り」の前半面での振る舞いは、上述したレジリエンスありすぎ症候群っぽさを感じる(後半はそういう人にもえぐりこむような感じで話は終わる)


ジャルジャルコント『角刈りのくせにクラスのメインになろうとする奴』

じゃあどうしよう

君の周りにもいませんか?こんな人。
多分、きちんと掘り起こすと、発達障害に位置付けられてしまう思考のあり方なのかもしれない。
いや、脳の機能ではなく、やはり性格なのか… サイコパス?よくわからない。

こういう人は、その人に向かって言葉を投げかけても、やんわりと他人事のように受け流す。
強固なミサイルバリアーをもっている。
そういうことを繰り返していると、対等な友好関係は減ってゆく。
孤独となることが多い。

こういう人にも、きちんと届く言葉を発する術、というのがもしあるなら習得したいものだ。
今実際これで困っているし(単数でもなく)。

風邪の不思議

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近所の溝。2020年

コロナ・コロナ…(Covid-19, SARS-CoV-2)
もはや、なにがどうなっているのか、よくわからん。
僕らは状況を俯瞰できる参謀本部にいるわけじゃない。末端の医療機関は与えられたドクトリンにしたがって診療をしてゆくだけだ。
九月から10月にかけて、指定感染症の変更や、指定医療機関と保健所、地域の医療機関の関係性にも変化があった。PCRするかどうかの判断にも、保健所は一線をひこうとしている。戦局は冬にかけてまた違った様相を迎えるのかもしれない。

ただ、私はなんとなく最悪の事態の4割くらいに終わるような気がする。
もちろん、例えば自院の従業員に感染者がでたり、院内でクラスター感染がでる、なんて局地的な最悪な事態が起こる可能性は注意深く除外していかないといけない。
だが、マクロで見れば、コロナそのものよりもポストコロナ体制に必要な先行投資(人的・金銭的な)に注目する時期にきているのではないかと思う。

ところで風邪がはやりはじめた

十月に入り、ずいぶん寒くなってきた。
地域でコロナもインフルエンザもまだまだ流行しているという兆しはないようだ。
(コロナのPCRは数はそれほど多くはないが、コンスタントに件数はあるが、陽性率は低い)
ところが、十月に入ってから、細菌性でもない、上気道感染によると思われる患者がポツポツと見受けられる。
熱も 37.5℃だったり、38.5℃以上の高熱であったり、中には一般なウイルス感染ではそこまでお目にかからない 40℃以上の熱も、けっこういる。

いろいろ調べても「まあ、普通の風邪だよな…」と思われるような状態で、実際熱もインフルエンザほど長続きもせず、結構すぐ戻る。
(調べられる場合はコロナのPCRも調べているけど、やっぱり陽性はなかなかでない)

ただこれ、不思議に思いませんか?
新型コロナウイルスは、感染力とか伝播力でいうと、普通の風邪と変わらない、はずだ。
そして、コロナ流行して以来、ソーシャルディスタンスとか、三密を避ける行動様式を、みなある程度身につけている。

なのに、なんで、コロナは罹らないで、風邪にかかるの?
コロナが流行しないで、風邪だけが地域で流行する理由が、僕にはよくわからない。
感染の様式はそんなに変わらないはずなのに。

そもそも、風邪のウイルスって、どっから来るんだ?
オフシーズンには風邪はどこにいるんだ?

風邪の不思議

考えてみると「風邪」これはいろいろなウイルスの総称なわけだけど、これについて、僕たちはほとんど知らないわけだ。
「死なないからいいじゃん」ということで、この分野の研究は、今まであまりすすんでもいなかった。

以前にも書いたことがあるが、人間、この分野の勉強をしなさすぎだったんじゃないか?
hanjukudoctor.hatenablog.com

知的好奇心だけで研究を始めるなら、結果、風邪を解明しようという研究者もいるんじゃないかと思う。
けど、やはりそういう研究がすすまないのには、研究のもつ功利性が影響しているんだろうとは思う。
死なない病気には予算はつかない。予算がつかないと、研究はやっぱりすすまないものだ。

ここからは完全にエビデンスもない与太話であるが…
今年の前半は、現在よりも厳しいSocial Distance政策がとられていた。
七月以降には相変わらずマスク着用などのマナーは守られているものの、少しSocial Distanceが緩和された。
それゆえに、風邪にかかわるウイルスの伝播がはじまったんじゃないかと思う。
でも、数ヶ月ウイルスの伝播から遠ざけられていたせいで、今風邪にかかってる人の発熱が強めにでてはしないか…と思ったりする。*1

これは勝手な想像なのだが、風邪ウイルスとして出回っているウイルスは僕たちが思っているよりもずっとずっと多く、多くのウイルス株が、重複して地域に蔓延し、感冒患者も、同時に複数のウイルスに晒されているのではないか?一つ一つのウイルスの病原性は、それほど多くはないが、ウイルスの多様性で、風邪は伝播しているのではないか?とか思ったりする。多種類のウイルスが人間を薄い雲のように覆っている、状態というのは、僕たちがいままで思っていたよりも多様性が多い雲なのかもしれない。
ただ、そのウイルスの群が襲いかかってきても、ほとんどの人口は不顕性感染や軽症感染止まりで、発症する確率は意外に低いのではないかと思う。

インフルエンザなどは、追跡できるからわかりやすいが、それ以外の風邪のウイルスは、発症確率が低く、散発するように現れるのではないかと思う。
だとすれば、熱がでた人を休ませる、という戦略では、風邪はやっぱり防げない。
新型コロナウイルスのもつ性質を敷衍すれば、当然そうなる。

冬の風邪を引き起こすウイルスは、そもそも夏には、我々の体に住んでいてなんの症状も起こしていないんだろうか?
それともハトやカラス、猫や犬にもかかっていて、伝播の原因になっているんだろうか?

わからない。
風邪のことはわからないが、まあこれらのウイルスは、種族としての人類が克服したウイルスの総称ということなんだろうと思う。*2
その意味では、同じコロナウイルスにしても、旧型コロナウイルスの方が、新型コロナウイルスよりもずっとずっと人間に進化適応した存在ということになる。

*1:Facebookでこのブログをあげていると、「今年は受診抑制しているので、軽症が受診しないからでは?という意見もいただいた。確かにサンプリングバイアスの可能性も否定できない

*2:ウイルスにとっては悪目立ちせずに眷属を広げることができるようになった、ということになる。

C型肝炎の思い出

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2020, 島根(美保関)

www.asahi.com

2020年のノーベル医学賞は、C型肝炎に関連した3人に贈られたらしい。
残念ながら、日本人は入っていなかった。

C型肝炎では研究面では日本もかなり健闘したとは思う。ウイルス発見なども、今回のノーベル賞受賞をもらったカナダのマイケル・ホートンと競り合ってた大学もあった。

ただ、20年を振り返ると、日本は、実臨床では、アメリカよりアクセスや制度の優位性で優っていたが、基礎研究にしても創薬にしても、大事なところはすべて取れなかった。

昔話をしよう

C型肝炎の治療の進歩は、医師としての個人史に結構重なる。

私は2000年に消化器・肝臓・感染症内科に入局した。
当時、肝臓の病気の花形は、B型肝炎C型肝炎そしてそこから発生する肝硬変・肝癌。
肝臓内科は、国民病とも言われ大量に存在したB型肝炎C型肝炎の患者さんの治療を担当していた。

2000年になって初めてラミブジン(ゼフィックス)というB型肝炎に直接効く薬剤*1が発売された。
それまでは、B型肝炎C型肝炎も、ウイルスを撃退する薬はなかった。
ウイルスを攻撃する自分の防衛力=免疫力を強化する薬が治療の主体だった。
今は懐かしのインターフェロンである。

インターフェロンはしんどい薬だった

簡単にいうと、インフルエンザとかで悪寒・発熱しますよね。
あれは、自分の体の警報=サイトカインで外敵に対抗するモードになっているのである。
インターフェロンはその状態に導く薬だ。自然の免疫力をあげ、ウイルスを排除する。
理屈は簡単だがこれって「がんばれがんばれ、とにかくがんばれ」って言っているようなもんで、体の中ではある種の根性論なのである。
このインターフェロンを週3回もしくは週5回注射をし*2それを、半年とか、一年とか続けたりする。
一年間インフルエンザにかかったような状態を繰り返す。
どんなにしんどいことか。
注射を打つたびに40度の熱が出て食欲も減る。毛も抜ける副作用もあった。男性も女性も。
白血球減少や貧血を起こしたり、間質性肺炎などの重篤な合併症もあった。脳出血とかで死ぬ人もわずかながらいた。
うつ病にもしばしばなり、自殺企図だってしばしば起こった。
大変な薬だった。
しかしそれが唯一の治療だったのだ。

僕が学生だった20世紀には、B型肝炎C型肝炎で30代・40代の若さで肝硬変・肝がんになり、幼い子供を残して死んでしまう人もいた*3
B型肝炎C型肝炎はまあまあ悲惨な病気で、悲劇もたくさんあったのである。

どんなに副作用が強くても、そして初期のインターフェロンは効果も低く副作用も強かったが、一縷の望みをつなぐべく、意識の高いC型肝炎の患者さんは東大とか虎ノ門とか地域の大学病院に通い、この高価でつらい治療を受けたのである。

そうでない人たちも、次善の治療として、せめて肝臓が悪くなるのを遅らせるかも…ということで「強力ネオミノファーゲン」なる薬を週3回とか、5回とか、近所の開業医で打っていた。
これも、効果は高くはないが、何もしないよりはましだ。
何しろ他に治療法はないし、死んでしまうのである。
みんな医院に通って注射を受けていた。
患者さんの静脈は頻繁に注射するので、硬化して注射が難しかった。
大学病院で研修医の僕たちは、朝の注射当番などで回る時に難儀したのを覚えている。
(もっと難儀したのは患者さんなのだが)。
それが20世紀の治療だったのだ。

治療薬の進歩

B型肝炎は、2000年ラミブジン、そしてアデホビル、そしてエンテカビル(バラクルード)が2006年に発売され、耐性ウイルスの問題もある程度片がついた。結果、飲み薬を欠かさず飲んでいるだけで、昔は40歳で死ぬ人がちょいちょいいた病気が、肝癌さえなければほぼ死なない病気になった。

C型肝炎はそれよりも少し時間がかかった。
2015年までは治療の主軸は先ほどのインターフェロン
しかし新しいウイルス薬が次々と発売され、ウイルスの消失率は当初の5%とか10%とかしかなかったのが、70%以上にまで上がった。
しかし2015年から、ついにインターフェロン抜きの、飲み薬のウイルス薬だけで、C型肝炎は体内から除去できるようになった。
副作用は多少はあったけれども、インターフェロンとは比較にならない軽さだ。
2020年現在、肝臓が肝硬変だろうが、腎臓が悪かろうが、2-3ヶ月の内服薬で、ほぼ100%簡単に治ってしまうようになった。

* * *

僕は2002年から2007年くらいまで肝臓の教室で大学院生だった。
僕はB型肝炎の研究とかしていたのだが、C型肝炎の研究はなかなか難しそうだった。
そもそもC型肝炎ウイルスRNAウイルスで、安定しない。保存も複製も難しい。
C型肝炎は、肝臓の中に一旦入ったら、宿主の免疫力を欺くため、排除されにくい厄介な性質を持っているくせに、一旦細胞の外に出たウイルスは大変壊れやすく、長期生存ができない。
内弁慶なウイルスだ。
だからこそウイルスの発見が1989年と遅れたわけだし、針刺し事故などでの感染力も弱いのだ。
おまけに、マウスでは培養できないので、HCVウイルスを実験用に入手するのは、患者さんの血清を利用するか*4、ウイルスを感染させたチンパンジーのを利用するしかない。*5
チンパンジーはネズミとかに比べると大変すぎる。すぐはそだてらないし、高い。

レプリコン

僕が大学院のころちょうど話題になっていたのが「レプリコン」だった。
ウイルスの遺伝子構造に似せたプラスミド構造を細胞の中に持つ細胞システムで、これを培養していると、HCVのウイルスみたいな遺伝子をどんどん複製させることができるらしい…なんだかよくわからんが、すげえ!
擬似生命というのはまだ作れないけど、擬似ウイルスのようなもので、これによりHCVの薬剤感受性などを簡単に評価できるようになり、創薬が飛躍的に進んだらしい。
私はレプリコンは触っていなかったが、難しそうで、B型肝炎の研究でよかった…と思ったものだった。

地域の肝臓内科学の終焉

C型肝炎の治療薬はここ数年は飛躍的に進む一方、地方の病院での臨床研究がほとんど意味をなさないものになっていった。
何しろ、新しい薬が市販される。数十例使用して、その成果を学会で報告するころには、さらに新しい薬が発売され、その薬はいまや誰も使わない。
学会でも人気を博するのは、虎ノ門とか武蔵野赤十字とか、治験段階で多くの症例を経験している大きな病院に限られる。
みんなが欲しい情報は、今まだ出てなくて今度でる薬の情報なのだから。
そんな状態が数年続くと、誰だって自院の治療成績をまとめるモチベーションをなくす。
それ以前に、薬の飲み忘れを除けば、ほぼ100%成功する治療になってしまったのだ。これではもう学問を行う余地はない。

現在。高額な薬ではあるが*6、副作用の少ない内服薬でC型肝炎は完全に治るようになった。これは本当にすごいことで、21世紀の医学の勝利と言えるだろう。
しかしそれゆえに未治療のC型肝炎患者の転帰や発癌などの自然史のデータは、全く無用のものと化してしまった。
20年間、私も消化器肝臓内科に所属し、肝臓内科としてウイルス肝炎を治療した経験は、もはや無駄だ。
電気自動車が普及すると、ガソリンエンジンの整備士が職を失うのと同じだ。

昔泣き泣きインターフェロンを続け、やり遂げた患者さんとは手に手を取り合って喜んだものだが、治って当たり前の疾患になった現在、そういうカタルシスは、もうない。

間違いなくこれはいいことで、医学の進歩なのだ。
だけど、自分の医師人生と歩んだウイルス肝炎に関するドタバタは二度とないんだと思うと、やはり一抹の寂しさはある。

ノーベル賞は、C型肝炎研究の墓標のようなものだと思う。
もうC型肝炎は過去の病気となったのだなあ、と僕は2020年、しみじみしたのだった。

*1:この薬には耐性を招きやすいなど様々な問題もあった

*2:のちに週1回でいい薬が発売された

*3:今でもアルコール依存症の人でそういう人はいるが、そういう人は「まあしょうがないよね。自業自得だよね」と言われてしまう

*4:この場合患者ごとのウイルスの違いが結果を歪めてしまっていたということが今ではわかっている

*5:ノーベル賞受賞の三人目チャールズ・ライス氏はこの研究に貢献した

*6:公費助成制度で、患者の自己負担少ないが、薬剤は300-500万ほどする

コロナのゆくえ

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2020, 庄原

コロナ・コロナ・コロナ…
新型コロナウイルス(COVID-19, SARS-CoV-2)。
なんとトランプ大統領も陽性になったんだって。*1
全体の感染状況は、やはりGo Toキャンペーンとシルバーウィークからじわっと増えている印象ではあるが、私のいる地域でも時々陽性者はでるものの、爆発的感染も、蔓延化も起こってはいない。

秋から冬になる。
インフルエンザの重複・同時感染は怖い。
ただ、ここまで海外渡航が制限されている状況って、インフルエンザが流行するのはかなり難しいようには思う。
マスクと手洗いをきちんとしてコロナが防げるのであれば、インフルエンザも同様に防げるはずだ。
なんとなくだが、コロナウイルスも「感染流行は弱毒化とトレードオフである」という感染症学の大原則に沿うのではないか、なんて期待してしまう。

どうなんだろう。
答え合わせは来年だ。

ただ、振り返って考えると、日本の感染症チームの専門家会議のリードも、政権も、まずまずのバランスでマネジメントしたように思う。
もちろん被害は甚大で、経済的な被害も、感染症による人的被害も両面、相応にある。

しかし、より厳格に感染防御策をとれば、今以上に経済が死んだ。
より感染防御が甘ければ、もっと死者は増えていたはずだ。
その意味では、まずまずのバランスがとれたのではないか、とは思う。

それに、世界の流行動向などを見つつ、柔軟に軌道修正もしている。

野党の批判はわかるけど、これ以上のいいバランスの取りようはある?
いまだにPCRの検査の数の批判を鬼の首をとったようにしている人もいるけど、もうそれは争点ではない。
PCR検査はまあまあ数を増やせるようになっている)批判のための批判ではないかと思う。

* * *

医療機関の被害はまずまず甚大だ。
そもそも病院事業は制度ビジネスで単価も決められている。
経営戦略としては、経営効率をあげるには、稼働率と件数を増やすしかないのである。
でも、利益が上がる分野については、厚生労働省が目をつけて、不公平がでないように2年ごとに診療報酬の改定を行う。
「生かさず殺さず」の状態にしてきた。
だから、病院の利益率の平均は1-2%だし、10%〜20%の病院は常に赤字ということになる。

要するに、余剰が生まれないように政策によって調整されている。
コロナはここを直撃した。
大きな病院も、クリニックも、少なくても5%、多いところでは 15%程度の売り上げ減となっている。
となると、利益が確保できないのは当然のことだ。

病院については国はまずまずの財政出動を行なっているけれども、理由はそんなところにある。
そもそも年々企業努力によって生じた利益を削っている業界だからだ。
とはいえ、病院団体での報告書によれば、夏のボーナスは7割の医療機関が満額出したというからまだ絶対的な危機には至っていないのかもしれない。需要はまああるわけだし、イベント会社とは違う。

いずれにしろ、病院の整理統合・統廃合の流れは、コロナというブラックスワンによって、1〜2年止まるだろう。
もともと財務状態が悪いところも、いいところもコロナは直撃し、バラマキの財政援助を受けたからだ。
ただ、中長期的な財務状態の毀損を早めるので、そのあとの整理統合にむけて水面下では大きな動きがあるのかもしれない。

個人的には、病院経営そのものは今のフレームが続く限りは水平統合化が避けられれないと思っているんだけど、コロナがその趨勢にどれほど影響を与えるのかはわからない。Dxなどはスケールメリットがあるので、中小規模の劣位は避けられないのかもしれない。

ただ、他の業界と同じく、医療も、変革や再編を促すであろうという予想と、逆にコロナの火事場であるから革新の波から保護される領域と、両方があるのではないかと思う。どっちに転ぶのか。どちらの世界線が優勢になるのか。

まあ、そんなことを思う、秋の夜。
とりあえず半年はいい感じで終えたけど、この先はどうなるのかな…

*1:ステロイドのためか、やたらハイになっているようなTweetが目立つが、一体どうなるんだろうか…あっさり回復して勝利宣言してくれそうな気もするけど

誕生日

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誕生日を迎えまして、46歳になりました。
46歳ってね……ふー。
精神年齢って多分28歳くらいから変わってないですね。
先史時代の平均年齢は20代。だから生物の個体史を考えると30代以降は想定外。
我々は長い長い老後を生きている。

それでも45歳は節目感があった。
「アラフィフやん?」という言葉に結構なインパクトがあった。
ただ、46歳は節目感ないね。「……アラフィフやん…」って感じです。
長い老後。

* * *

2020年はみなさんと同じくコロナで激変でした。ただ、世間一般の動向よりは穏やかだったかも。

職員のみんなは頑張ってくれてます。業績は多少落ちたものの健闘してます*1。コロナ禍は医療従事者にとってはリスクと恐怖はありましたが、飲食関係・イベント関連関係、繊維・自動車関連の工場勤務の方々、業種ごと消滅の危機にさらされる恐怖に比べるとましです*2

いずれにしろ言えるのは、コロナは、今まで営々と続いてきたものが今後も続くとは変わらない…という根源的な不安に直面させられた、というのが本質なんだと思います。
先のことは、本当にわからない世の中。
来年はどうなっているんだろう?
戦争とか始まっていたらいやだな。

コロナ前は、毎週末に東京などに出張に出かけていたのが、Stayhome月間からぱったり。
生活リズムは大幅に変わりましたけど、これも珍しい話じゃない。

今ひとつな自分を受け入れる。

今の医療法人の理事長という立場になって5年目。
最近は節目がなく、平凡な日常が続くのが悩みでしょうか。
自分の読みが大当たりして業績が飛躍的に伸びるなんてクリティカルヒットもないし、逆に致命的な失点もありません。
すごく優秀な職員もいるし、普通な職員もいるし、残念な職員もいる。優秀な職員も、組織内部の問題で辞めてしまう、なんて残念なこともある。
そういうことが続くときは続く。そうすると、だれしも自分が優秀なプレイヤーであると思いたいものですが、とてもそうは思えなくなってきた。
バッターでいうと、2割6分くらい。
レギュラー落ちはしないかもしれないけど、4番バッターのように衆目を集める存在ではない。

リアルワールドは、治験のようにはいかない…って感じでしょうか。

自分にはまだまだできないことがたくさんあります。
医療についても、素晴らしいとは程遠いし、英語でうまくコミュニケーションもとれないし*3、旅慣れてもいません*4
勉強したいことがたくさんあるのですが、時間と体力は有限かつ尻すぼみ。
このまま行けば着地点はよくてもこの辺だしなあ…となると、モチベーションも削がれる。
しかし、しなければ、この超流動的な情勢に対応できない。
やれやれ、でありますよ。
……ていねいな村上春樹出てきたね。

隣の芝は青い

 去年からTwitter閲覧と書き込みが増えました。
いわゆるツイッタランドの医クラ。*5
Twitterの怖いところは行動範囲が広くなったわけではないのに、精神世界が広くなったように錯覚するところ。
すごい人たちのすごいTweetはためになることもあるし心乱されることもある。

心乱されるのは、自分の心が弱いせいです*6
SNSとの距離感の保ち方に気をつけて心を穏やかに生きていきたいと思います。

職場の話

最近は組織の内部の話に悩んでいます。

医療法人・社会福祉法人全体のスローガンは簡単です。
「10年後の普通を目指す」これです。

アンテナをはって新しい情報を仕入れる。
ICT、働き方改革などをうまく取り入れて、早めに対処してゆく。
これをきちんと行えば、周囲に比べて相対的に3-5年進歩した優位性を保つことができる*7
うちは中小病院。職員もどちらかというと「リスク回避型」のキャラクターが多い。
スペシャリストとして大成したいという野望を持つ人の職場ではない。その意味では優秀でやる気のある人がどしどし入ってはこないところ。*8
でも常日頃からこう公言しているので、新しいものに対して抵抗感がないし、比較的おもしろがって受け入れてくれる土壌になっています。

最近悩んでいるのは、組織の中の話。
職員同士や部門同士の軋轢・さや当てのようなものです。
これってアクアリウムの維持に似ていて、常に注意を払って適切な介入をし続けていないと、あっというまに濁って快適な環境が損なわれてしまう、ということが数年でわかりました。普遍的で、そして終わらない問題だとは思います。
ある瞬間「この職場最高〜!」と思う瞬間があっても、物語はそこで終わりではない。
新たな章に進むと、かなりしょっぱいことが起こったりもする。
そういうことが繰り返されると、マネジメントに全幅の自信なんて持てないですね。

ややセクショナリズムが目立ってきたので、チーム(部門)を超えて職員交流をしようという目標を今年はたてました。
しかしこれにはミドル層のマネジメント能力と、職員同士のコミュニケーションスキル。それから、部門同士の業務の責任の所在、外集団・内集団の定義の明確化など、全方位的に組織文化を変えなければいけないし、うまく行くためには数年間はかかるのではないかとは思っています。

* * *

プライベートでは、去年の秋にはトロンボーンをやめる、と宣言しました。
歯を治すためです。

しかし実際に歯科に通い、まずまずの「工事」を続けていますが、抜歯やインプラントまで覚悟したけど、そこまでのものはなかった。ので、トロンボーンも続けています。
同時にピアノもそれなりに注力し、だいぶ弾けるようになりましたが*9、ピアノってプロの領域がとんでもなく高く、やればやるほど懸隔を実感して凹む、という風になりがち。
しかし、やったらやっただけ、自分の演奏能力はそれなりに上がる…ということでぼちぼちとやっているわけです。

* * *

VUCAの時代、新たなことにチャレンジできるバイタリティと能力こそが武器なのは明らかです。が、体力と、精神的な気力は年々逓減してゆくもので、そのバランスがこの「長い老後」を生きる我々にとっては重要なんだと思う。

自分の凡人性をよくよく理解し、受け止める。
しかしすべてをあきらめずに、淡々と、しなければいけないことと、したいことを行う。

人生のほろ苦さを受け止めていこうと思っています。
ま、引き続きよろしくお願いします。

*1:ので夏のボーナスもほぼ例年並みに出せたし、国からの医療関係者・介護への慰労金も含めて職員の持ち帰りは増えたはず。

*2:患者さんでそういう業種の話をきくと、かなり大変そう

*3:日本語では大丈夫なのか?と言われると、難しいところですけどね。

*4:コロナがまだ騒がれていなかった1月年初には「今年は久しぶりに海外旅行に行く!」と誓ったものですが笑

*5:エスカレーションしないように実名でやっています。実名だとやはり不穏当なことをいうのにブレーキがかかる

*6:正直に言うと、裏付けは不要であるから、ツイッタランドのすごい人のうちの幾人かは盛り盛りに盛っている可能性もある

*7:もちろん早すぎることで先行投資の失敗例も増えますが、これはこれで仕方がない

*8:もちろん、ポテンシャルが低いわけでもないのが面白い。歯車が噛み合って、成長する人もいる

*9:コロナ禍が幸いして家にいる時間も増えたし