半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

闇落ちレジリエンス、またはレジリエンスありすぎ症候群

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レジリエンス、という言葉は、今ではみなよく知っていると思う。

halfboileddoc.hatenablog.com

ストレス(歪み応力)に対して、「その歪みを跳ね返す力」、がレジリエンス。元々は物理用語。
「精神的回復力」「心の弾力性」などと訳される。
レジリエンスとは、「しぶとさ」みたいな言葉から、ややネガティブな印象をとったような感じのもの。

社会人にとっては、学業の優秀さとは別に「ストレスに対して柔軟に対応できるかどうか」が重要。
レジリエンスをきちんともっており、長期的な目標をもっていると、遠いゴールに向かって興味や情熱を失わずに長期間粘り強く努力し続けることができる。

すごい学業成績優秀な新人が、入ってくるけど、ちょっとしたことでメンタルを病んでしまう…みたいなことはままあって。
それは職場のブラック環境とかなんとかもあるけど、そもそもストレスに対する耐性をきちんと身につけているかどうか、ということになる。昔はレジリエンスを持っていない人のことは「線が細い」みたいな言葉で片付けていたけれど、掃いて捨てるほど人が沢山いた時代ならいざしらず、今は少子高齢化。今いる人に出来るだけ脱落しないように成長してもらわないといけないわけだ。
レジリエンスなど「しぶとさ」を学問的に追求するのはそのためだ。

したがって、このレジリエンス能力は、いろんなストレスに対して落ち込みやすい人、他の人の言うことに影響されやすい、言葉に対して敏感な人に対して、とても有効に働く。

問題は「レジリエンスありすぎ症候群」みたいな人が一定数存在することだ。

レジリエンスありすぎ症候群

結局のところ「過ぎたるはなお及ばざるが如し」ということわざの通りなのだ。
他の人の言葉に対して過敏な人に対しては、レジリエンス的なトレーニングをすれば、うまく緩衝材として働く。
ところが、他の人の言葉が全然響かない、逆に鈍感な人に対しては、レジリエンスは有効に作用しないどころか、むしろその態度を強化さえするかもしれない。

レジリエンスありすぎ」な人とは、どういう人か。
簡単にいうと「ひびかない人」。

批判や忠告などを「我が事」として受け止めることができない。
強く言われても、言い訳をする。
対話がなりたたない。
自分の中で話が完結していて、他の人との対話によってよりよいものになってゆくという体験ができない。
なので、会話は常に「自分が今考えていること」を伝達するだけ。
異なる意見については受け入れることもできない。
だから時として上から目線であるような印象をうける。
親密な友達関係を築くことができない。
それは他の人の感情に無頓着であり、また容喙することもできないから。
孤立している割に、いや孤立しているからこそ、学業などは良かったりもする。
ま、一言で言うと「いらっ」とするやつだ。

このジャルジャルのコントででてくる「角刈り」の前半面での振る舞いは、上述したレジリエンスありすぎ症候群っぽさを感じる(後半はそういう人にもえぐりこむような感じで話は終わる)


ジャルジャルコント『角刈りのくせにクラスのメインになろうとする奴』

じゃあどうしよう

君の周りにもいませんか?こんな人。
多分、きちんと掘り起こすと、発達障害に位置付けられてしまう思考のあり方なのかもしれない。
いや、脳の機能ではなく、やはり性格なのか… サイコパス?よくわからない。

こういう人は、その人に向かって言葉を投げかけても、やんわりと他人事のように受け流す。
強固なミサイルバリアーをもっている。
そういうことを繰り返していると、対等な友好関係は減ってゆく。
孤独となることが多い。

こういう人にも、きちんと届く言葉を発する術、というのがもしあるなら習得したいものだ。
今実際これで困っているし(単数でもなく)。

風邪の不思議

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近所の溝。2020年

コロナ・コロナ…(Covid-19, SARS-CoV-2)
もはや、なにがどうなっているのか、よくわからん。
僕らは状況を俯瞰できる参謀本部にいるわけじゃない。末端の医療機関は与えられたドクトリンにしたがって診療をしてゆくだけだ。
九月から10月にかけて、指定感染症の変更や、指定医療機関と保健所、地域の医療機関の関係性にも変化があった。PCRするかどうかの判断にも、保健所は一線をひこうとしている。戦局は冬にかけてまた違った様相を迎えるのかもしれない。

ただ、私はなんとなく最悪の事態の4割くらいに終わるような気がする。
もちろん、例えば自院の従業員に感染者がでたり、院内でクラスター感染がでる、なんて局地的な最悪な事態が起こる可能性は注意深く除外していかないといけない。
だが、マクロで見れば、コロナそのものよりもポストコロナ体制に必要な先行投資(人的・金銭的な)に注目する時期にきているのではないかと思う。

ところで風邪がはやりはじめた

十月に入り、ずいぶん寒くなってきた。
地域でコロナもインフルエンザもまだまだ流行しているという兆しはないようだ。
(コロナのPCRは数はそれほど多くはないが、コンスタントに件数はあるが、陽性率は低い)
ところが、十月に入ってから、細菌性でもない、上気道感染によると思われる患者がポツポツと見受けられる。
熱も 37.5℃だったり、38.5℃以上の高熱であったり、中には一般なウイルス感染ではそこまでお目にかからない 40℃以上の熱も、けっこういる。

いろいろ調べても「まあ、普通の風邪だよな…」と思われるような状態で、実際熱もインフルエンザほど長続きもせず、結構すぐ戻る。
(調べられる場合はコロナのPCRも調べているけど、やっぱり陽性はなかなかでない)

ただこれ、不思議に思いませんか?
新型コロナウイルスは、感染力とか伝播力でいうと、普通の風邪と変わらない、はずだ。
そして、コロナ流行して以来、ソーシャルディスタンスとか、三密を避ける行動様式を、みなある程度身につけている。

なのに、なんで、コロナは罹らないで、風邪にかかるの?
コロナが流行しないで、風邪だけが地域で流行する理由が、僕にはよくわからない。
感染の様式はそんなに変わらないはずなのに。

そもそも、風邪のウイルスって、どっから来るんだ?
オフシーズンには風邪はどこにいるんだ?

風邪の不思議

考えてみると「風邪」これはいろいろなウイルスの総称なわけだけど、これについて、僕たちはほとんど知らないわけだ。
「死なないからいいじゃん」ということで、この分野の研究は、今まであまりすすんでもいなかった。

以前にも書いたことがあるが、人間、この分野の勉強をしなさすぎだったんじゃないか?
hanjukudoctor.hatenablog.com

知的好奇心だけで研究を始めるなら、結果、風邪を解明しようという研究者もいるんじゃないかと思う。
けど、やはりそういう研究がすすまないのには、研究のもつ功利性が影響しているんだろうとは思う。
死なない病気には予算はつかない。予算がつかないと、研究はやっぱりすすまないものだ。

ここからは完全にエビデンスもない与太話であるが…
今年の前半は、現在よりも厳しいSocial Distance政策がとられていた。
七月以降には相変わらずマスク着用などのマナーは守られているものの、少しSocial Distanceが緩和された。
それゆえに、風邪にかかわるウイルスの伝播がはじまったんじゃないかと思う。
でも、数ヶ月ウイルスの伝播から遠ざけられていたせいで、今風邪にかかってる人の発熱が強めにでてはしないか…と思ったりする。*1

これは勝手な想像なのだが、風邪ウイルスとして出回っているウイルスは僕たちが思っているよりもずっとずっと多く、多くのウイルス株が、重複して地域に蔓延し、感冒患者も、同時に複数のウイルスに晒されているのではないか?一つ一つのウイルスの病原性は、それほど多くはないが、ウイルスの多様性で、風邪は伝播しているのではないか?とか思ったりする。多種類のウイルスが人間を薄い雲のように覆っている、状態というのは、僕たちがいままで思っていたよりも多様性が多い雲なのかもしれない。
ただ、そのウイルスの群が襲いかかってきても、ほとんどの人口は不顕性感染や軽症感染止まりで、発症する確率は意外に低いのではないかと思う。

インフルエンザなどは、追跡できるからわかりやすいが、それ以外の風邪のウイルスは、発症確率が低く、散発するように現れるのではないかと思う。
だとすれば、熱がでた人を休ませる、という戦略では、風邪はやっぱり防げない。
新型コロナウイルスのもつ性質を敷衍すれば、当然そうなる。

冬の風邪を引き起こすウイルスは、そもそも夏には、我々の体に住んでいてなんの症状も起こしていないんだろうか?
それともハトやカラス、猫や犬にもかかっていて、伝播の原因になっているんだろうか?

わからない。
風邪のことはわからないが、まあこれらのウイルスは、種族としての人類が克服したウイルスの総称ということなんだろうと思う。*2
その意味では、同じコロナウイルスにしても、旧型コロナウイルスの方が、新型コロナウイルスよりもずっとずっと人間に進化適応した存在ということになる。

*1:Facebookでこのブログをあげていると、「今年は受診抑制しているので、軽症が受診しないからでは?という意見もいただいた。確かにサンプリングバイアスの可能性も否定できない

*2:ウイルスにとっては悪目立ちせずに眷属を広げることができるようになった、ということになる。

C型肝炎の思い出

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2020, 島根(美保関)

www.asahi.com

2020年のノーベル医学賞は、C型肝炎に関連した3人に贈られたらしい。
残念ながら、日本人は入っていなかった。

C型肝炎では研究面では日本もかなり健闘したとは思う。ウイルス発見なども、今回のノーベル賞受賞をもらったカナダのマイケル・ホートンと競り合ってた大学もあった。

ただ、20年を振り返ると、日本は、実臨床では、アメリカよりアクセスや制度の優位性で優っていたが、基礎研究にしても創薬にしても、大事なところはすべて取れなかった。

昔話をしよう

C型肝炎の治療の進歩は、医師としての個人史に結構重なる。

私は2000年に消化器・肝臓・感染症内科に入局した。
当時、肝臓の病気の花形は、B型肝炎C型肝炎そしてそこから発生する肝硬変・肝癌。
肝臓内科は、国民病とも言われ大量に存在したB型肝炎C型肝炎の患者さんの治療を担当していた。

2000年になって初めてラミブジン(ゼフィックス)というB型肝炎に直接効く薬剤*1が発売された。
それまでは、B型肝炎C型肝炎も、ウイルスを撃退する薬はなかった。
ウイルスを攻撃する自分の防衛力=免疫力を強化する薬が治療の主体だった。
今は懐かしのインターフェロンである。

インターフェロンはしんどい薬だった

簡単にいうと、インフルエンザとかで悪寒・発熱しますよね。
あれは、自分の体の警報=サイトカインで外敵に対抗するモードになっているのである。
インターフェロンはその状態に導く薬だ。自然の免疫力をあげ、ウイルスを排除する。
理屈は簡単だがこれって「がんばれがんばれ、とにかくがんばれ」って言っているようなもんで、体の中ではある種の根性論なのである。
このインターフェロンを週3回もしくは週5回注射をし*2それを、半年とか、一年とか続けたりする。
一年間インフルエンザにかかったような状態を繰り返す。
どんなにしんどいことか。
注射を打つたびに40度の熱が出て食欲も減る。毛も抜ける副作用もあった。男性も女性も。
白血球減少や貧血を起こしたり、間質性肺炎などの重篤な合併症もあった。脳出血とかで死ぬ人もわずかながらいた。
うつ病にもしばしばなり、自殺企図だってしばしば起こった。
大変な薬だった。
しかしそれが唯一の治療だったのだ。

僕が学生だった20世紀には、B型肝炎C型肝炎で30代・40代の若さで肝硬変・肝がんになり、幼い子供を残して死んでしまう人もいた*3
B型肝炎C型肝炎はまあまあ悲惨な病気で、悲劇もたくさんあったのである。

どんなに副作用が強くても、そして初期のインターフェロンは効果も低く副作用も強かったが、一縷の望みをつなぐべく、意識の高いC型肝炎の患者さんは東大とか虎ノ門とか地域の大学病院に通い、この高価でつらい治療を受けたのである。

そうでない人たちも、次善の治療として、せめて肝臓が悪くなるのを遅らせるかも…ということで「強力ネオミノファーゲン」なる薬を週3回とか、5回とか、近所の開業医で打っていた。
これも、効果は高くはないが、何もしないよりはましだ。
何しろ他に治療法はないし、死んでしまうのである。
みんな医院に通って注射を受けていた。
患者さんの静脈は頻繁に注射するので、硬化して注射が難しかった。
大学病院で研修医の僕たちは、朝の注射当番などで回る時に難儀したのを覚えている。
(もっと難儀したのは患者さんなのだが)。
それが20世紀の治療だったのだ。

治療薬の進歩

B型肝炎は、2000年ラミブジン、そしてアデホビル、そしてエンテカビル(バラクルード)が2006年に発売され、耐性ウイルスの問題もある程度片がついた。結果、飲み薬を欠かさず飲んでいるだけで、昔は40歳で死ぬ人がちょいちょいいた病気が、肝癌さえなければほぼ死なない病気になった。

C型肝炎はそれよりも少し時間がかかった。
2015年までは治療の主軸は先ほどのインターフェロン
しかし新しいウイルス薬が次々と発売され、ウイルスの消失率は当初の5%とか10%とかしかなかったのが、70%以上にまで上がった。
しかし2015年から、ついにインターフェロン抜きの、飲み薬のウイルス薬だけで、C型肝炎は体内から除去できるようになった。
副作用は多少はあったけれども、インターフェロンとは比較にならない軽さだ。
2020年現在、肝臓が肝硬変だろうが、腎臓が悪かろうが、2-3ヶ月の内服薬で、ほぼ100%簡単に治ってしまうようになった。

* * *

僕は2002年から2007年くらいまで肝臓の教室で大学院生だった。
僕はB型肝炎の研究とかしていたのだが、C型肝炎の研究はなかなか難しそうだった。
そもそもC型肝炎ウイルスRNAウイルスで、安定しない。保存も複製も難しい。
C型肝炎は、肝臓の中に一旦入ったら、宿主の免疫力を欺くため、排除されにくい厄介な性質を持っているくせに、一旦細胞の外に出たウイルスは大変壊れやすく、長期生存ができない。
内弁慶なウイルスだ。
だからこそウイルスの発見が1989年と遅れたわけだし、針刺し事故などでの感染力も弱いのだ。
おまけに、マウスでは培養できないので、HCVウイルスを実験用に入手するのは、患者さんの血清を利用するか*4、ウイルスを感染させたチンパンジーのを利用するしかない。*5
チンパンジーはネズミとかに比べると大変すぎる。すぐはそだてらないし、高い。

レプリコン

僕が大学院のころちょうど話題になっていたのが「レプリコン」だった。
ウイルスの遺伝子構造に似せたプラスミド構造を細胞の中に持つ細胞システムで、これを培養していると、HCVのウイルスみたいな遺伝子をどんどん複製させることができるらしい…なんだかよくわからんが、すげえ!
擬似生命というのはまだ作れないけど、擬似ウイルスのようなもので、これによりHCVの薬剤感受性などを簡単に評価できるようになり、創薬が飛躍的に進んだらしい。
私はレプリコンは触っていなかったが、難しそうで、B型肝炎の研究でよかった…と思ったものだった。

地域の肝臓内科学の終焉

C型肝炎の治療薬はここ数年は飛躍的に進む一方、地方の病院での臨床研究がほとんど意味をなさないものになっていった。
何しろ、新しい薬が市販される。数十例使用して、その成果を学会で報告するころには、さらに新しい薬が発売され、その薬はいまや誰も使わない。
学会でも人気を博するのは、虎ノ門とか武蔵野赤十字とか、治験段階で多くの症例を経験している大きな病院に限られる。
みんなが欲しい情報は、今まだ出てなくて今度でる薬の情報なのだから。
そんな状態が数年続くと、誰だって自院の治療成績をまとめるモチベーションをなくす。
それ以前に、薬の飲み忘れを除けば、ほぼ100%成功する治療になってしまったのだ。これではもう学問を行う余地はない。

現在。高額な薬ではあるが*6、副作用の少ない内服薬でC型肝炎は完全に治るようになった。これは本当にすごいことで、21世紀の医学の勝利と言えるだろう。
しかしそれゆえに未治療のC型肝炎患者の転帰や発癌などの自然史のデータは、全く無用のものと化してしまった。
20年間、私も消化器肝臓内科に所属し、肝臓内科としてウイルス肝炎を治療した経験は、もはや無駄だ。
電気自動車が普及すると、ガソリンエンジンの整備士が職を失うのと同じだ。

昔泣き泣きインターフェロンを続け、やり遂げた患者さんとは手に手を取り合って喜んだものだが、治って当たり前の疾患になった現在、そういうカタルシスは、もうない。

間違いなくこれはいいことで、医学の進歩なのだ。
だけど、自分の医師人生と歩んだウイルス肝炎に関するドタバタは二度とないんだと思うと、やはり一抹の寂しさはある。

ノーベル賞は、C型肝炎研究の墓標のようなものだと思う。
もうC型肝炎は過去の病気となったのだなあ、と僕は2020年、しみじみしたのだった。

*1:この薬には耐性を招きやすいなど様々な問題もあった

*2:のちに週1回でいい薬が発売された

*3:今でもアルコール依存症の人でそういう人はいるが、そういう人は「まあしょうがないよね。自業自得だよね」と言われてしまう

*4:この場合患者ごとのウイルスの違いが結果を歪めてしまっていたということが今ではわかっている

*5:ノーベル賞受賞の三人目チャールズ・ライス氏はこの研究に貢献した

*6:公費助成制度で、患者の自己負担少ないが、薬剤は300-500万ほどする

コロナのゆくえ

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2020, 庄原

コロナ・コロナ・コロナ…
新型コロナウイルス(COVID-19, SARS-CoV-2)。
なんとトランプ大統領も陽性になったんだって。*1
全体の感染状況は、やはりGo Toキャンペーンとシルバーウィークからじわっと増えている印象ではあるが、私のいる地域でも時々陽性者はでるものの、爆発的感染も、蔓延化も起こってはいない。

秋から冬になる。
インフルエンザの重複・同時感染は怖い。
ただ、ここまで海外渡航が制限されている状況って、インフルエンザが流行するのはかなり難しいようには思う。
マスクと手洗いをきちんとしてコロナが防げるのであれば、インフルエンザも同様に防げるはずだ。
なんとなくだが、コロナウイルスも「感染流行は弱毒化とトレードオフである」という感染症学の大原則に沿うのではないか、なんて期待してしまう。

どうなんだろう。
答え合わせは来年だ。

ただ、振り返って考えると、日本の感染症チームの専門家会議のリードも、政権も、まずまずのバランスでマネジメントしたように思う。
もちろん被害は甚大で、経済的な被害も、感染症による人的被害も両面、相応にある。

しかし、より厳格に感染防御策をとれば、今以上に経済が死んだ。
より感染防御が甘ければ、もっと死者は増えていたはずだ。
その意味では、まずまずのバランスがとれたのではないか、とは思う。

それに、世界の流行動向などを見つつ、柔軟に軌道修正もしている。

野党の批判はわかるけど、これ以上のいいバランスの取りようはある?
いまだにPCRの検査の数の批判を鬼の首をとったようにしている人もいるけど、もうそれは争点ではない。
PCR検査はまあまあ数を増やせるようになっている)批判のための批判ではないかと思う。

* * *

医療機関の被害はまずまず甚大だ。
そもそも病院事業は制度ビジネスで単価も決められている。
経営戦略としては、経営効率をあげるには、稼働率と件数を増やすしかないのである。
でも、利益が上がる分野については、厚生労働省が目をつけて、不公平がでないように2年ごとに診療報酬の改定を行う。
「生かさず殺さず」の状態にしてきた。
だから、病院の利益率の平均は1-2%だし、10%〜20%の病院は常に赤字ということになる。

要するに、余剰が生まれないように政策によって調整されている。
コロナはここを直撃した。
大きな病院も、クリニックも、少なくても5%、多いところでは 15%程度の売り上げ減となっている。
となると、利益が確保できないのは当然のことだ。

病院については国はまずまずの財政出動を行なっているけれども、理由はそんなところにある。
そもそも年々企業努力によって生じた利益を削っている業界だからだ。
とはいえ、病院団体での報告書によれば、夏のボーナスは7割の医療機関が満額出したというからまだ絶対的な危機には至っていないのかもしれない。需要はまああるわけだし、イベント会社とは違う。

いずれにしろ、病院の整理統合・統廃合の流れは、コロナというブラックスワンによって、1〜2年止まるだろう。
もともと財務状態が悪いところも、いいところもコロナは直撃し、バラマキの財政援助を受けたからだ。
ただ、中長期的な財務状態の毀損を早めるので、そのあとの整理統合にむけて水面下では大きな動きがあるのかもしれない。

個人的には、病院経営そのものは今のフレームが続く限りは水平統合化が避けられれないと思っているんだけど、コロナがその趨勢にどれほど影響を与えるのかはわからない。Dxなどはスケールメリットがあるので、中小規模の劣位は避けられないのかもしれない。

ただ、他の業界と同じく、医療も、変革や再編を促すであろうという予想と、逆にコロナの火事場であるから革新の波から保護される領域と、両方があるのではないかと思う。どっちに転ぶのか。どちらの世界線が優勢になるのか。

まあ、そんなことを思う、秋の夜。
とりあえず半年はいい感じで終えたけど、この先はどうなるのかな…

*1:ステロイドのためか、やたらハイになっているようなTweetが目立つが、一体どうなるんだろうか…あっさり回復して勝利宣言してくれそうな気もするけど

誕生日

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誕生日を迎えまして、46歳になりました。
46歳ってね……ふー。
精神年齢って多分28歳くらいから変わってないですね。
先史時代の平均年齢は20代。だから生物の個体史を考えると30代以降は想定外。
我々は長い長い老後を生きている。

それでも45歳は節目感があった。
「アラフィフやん?」という言葉に結構なインパクトがあった。
ただ、46歳は節目感ないね。「……アラフィフやん…」って感じです。
長い老後。

* * *

2020年はみなさんと同じくコロナで激変でした。ただ、世間一般の動向よりは穏やかだったかも。

職員のみんなは頑張ってくれてます。業績は多少落ちたものの健闘してます*1。コロナ禍は医療従事者にとってはリスクと恐怖はありましたが、飲食関係・イベント関連関係、繊維・自動車関連の工場勤務の方々、業種ごと消滅の危機にさらされる恐怖に比べるとましです*2

いずれにしろ言えるのは、コロナは、今まで営々と続いてきたものが今後も続くとは変わらない…という根源的な不安に直面させられた、というのが本質なんだと思います。
先のことは、本当にわからない世の中。
来年はどうなっているんだろう?
戦争とか始まっていたらいやだな。

コロナ前は、毎週末に東京などに出張に出かけていたのが、Stayhome月間からぱったり。
生活リズムは大幅に変わりましたけど、これも珍しい話じゃない。

今ひとつな自分を受け入れる。

今の医療法人の理事長という立場になって5年目。
最近は節目がなく、平凡な日常が続くのが悩みでしょうか。
自分の読みが大当たりして業績が飛躍的に伸びるなんてクリティカルヒットもないし、逆に致命的な失点もありません。
すごく優秀な職員もいるし、普通な職員もいるし、残念な職員もいる。優秀な職員も、組織内部の問題で辞めてしまう、なんて残念なこともある。
そういうことが続くときは続く。そうすると、だれしも自分が優秀なプレイヤーであると思いたいものですが、とてもそうは思えなくなってきた。
バッターでいうと、2割6分くらい。
レギュラー落ちはしないかもしれないけど、4番バッターのように衆目を集める存在ではない。

リアルワールドは、治験のようにはいかない…って感じでしょうか。

自分にはまだまだできないことがたくさんあります。
医療についても、素晴らしいとは程遠いし、英語でうまくコミュニケーションもとれないし*3、旅慣れてもいません*4
勉強したいことがたくさんあるのですが、時間と体力は有限かつ尻すぼみ。
このまま行けば着地点はよくてもこの辺だしなあ…となると、モチベーションも削がれる。
しかし、しなければ、この超流動的な情勢に対応できない。
やれやれ、でありますよ。
……ていねいな村上春樹出てきたね。

隣の芝は青い

 去年からTwitter閲覧と書き込みが増えました。
いわゆるツイッタランドの医クラ。*5
Twitterの怖いところは行動範囲が広くなったわけではないのに、精神世界が広くなったように錯覚するところ。
すごい人たちのすごいTweetはためになることもあるし心乱されることもある。

心乱されるのは、自分の心が弱いせいです*6
SNSとの距離感の保ち方に気をつけて心を穏やかに生きていきたいと思います。

職場の話

最近は組織の内部の話に悩んでいます。

医療法人・社会福祉法人全体のスローガンは簡単です。
「10年後の普通を目指す」これです。

アンテナをはって新しい情報を仕入れる。
ICT、働き方改革などをうまく取り入れて、早めに対処してゆく。
これをきちんと行えば、周囲に比べて相対的に3-5年進歩した優位性を保つことができる*7
うちは中小病院。職員もどちらかというと「リスク回避型」のキャラクターが多い。
スペシャリストとして大成したいという野望を持つ人の職場ではない。その意味では優秀でやる気のある人がどしどし入ってはこないところ。*8
でも常日頃からこう公言しているので、新しいものに対して抵抗感がないし、比較的おもしろがって受け入れてくれる土壌になっています。

最近悩んでいるのは、組織の中の話。
職員同士や部門同士の軋轢・さや当てのようなものです。
これってアクアリウムの維持に似ていて、常に注意を払って適切な介入をし続けていないと、あっというまに濁って快適な環境が損なわれてしまう、ということが数年でわかりました。普遍的で、そして終わらない問題だとは思います。
ある瞬間「この職場最高〜!」と思う瞬間があっても、物語はそこで終わりではない。
新たな章に進むと、かなりしょっぱいことが起こったりもする。
そういうことが繰り返されると、マネジメントに全幅の自信なんて持てないですね。

ややセクショナリズムが目立ってきたので、チーム(部門)を超えて職員交流をしようという目標を今年はたてました。
しかしこれにはミドル層のマネジメント能力と、職員同士のコミュニケーションスキル。それから、部門同士の業務の責任の所在、外集団・内集団の定義の明確化など、全方位的に組織文化を変えなければいけないし、うまく行くためには数年間はかかるのではないかとは思っています。

* * *

プライベートでは、去年の秋にはトロンボーンをやめる、と宣言しました。
歯を治すためです。

しかし実際に歯科に通い、まずまずの「工事」を続けていますが、抜歯やインプラントまで覚悟したけど、そこまでのものはなかった。ので、トロンボーンも続けています。
同時にピアノもそれなりに注力し、だいぶ弾けるようになりましたが*9、ピアノってプロの領域がとんでもなく高く、やればやるほど懸隔を実感して凹む、という風になりがち。
しかし、やったらやっただけ、自分の演奏能力はそれなりに上がる…ということでぼちぼちとやっているわけです。

* * *

VUCAの時代、新たなことにチャレンジできるバイタリティと能力こそが武器なのは明らかです。が、体力と、精神的な気力は年々逓減してゆくもので、そのバランスがこの「長い老後」を生きる我々にとっては重要なんだと思う。

自分の凡人性をよくよく理解し、受け止める。
しかしすべてをあきらめずに、淡々と、しなければいけないことと、したいことを行う。

人生のほろ苦さを受け止めていこうと思っています。
ま、引き続きよろしくお願いします。

*1:ので夏のボーナスもほぼ例年並みに出せたし、国からの医療関係者・介護への慰労金も含めて職員の持ち帰りは増えたはず。

*2:患者さんでそういう業種の話をきくと、かなり大変そう

*3:日本語では大丈夫なのか?と言われると、難しいところですけどね。

*4:コロナがまだ騒がれていなかった1月年初には「今年は久しぶりに海外旅行に行く!」と誓ったものですが笑

*5:エスカレーションしないように実名でやっています。実名だとやはり不穏当なことをいうのにブレーキがかかる

*6:正直に言うと、裏付けは不要であるから、ツイッタランドのすごい人のうちの幾人かは盛り盛りに盛っている可能性もある

*7:もちろん早すぎることで先行投資の失敗例も増えますが、これはこれで仕方がない

*8:もちろん、ポテンシャルが低いわけでもないのが面白い。歯車が噛み合って、成長する人もいる

*9:コロナ禍が幸いして家にいる時間も増えたし

一つの区切り

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コロナウイルス(Covid-19, SARS-CoV-2)。
地元では、第二波はおさまった。一旦は感染症の拠点病院での入院者がゼロになったのだから、終息したといってもあながち大げさではあるまい。
しかし、間髪を入れず、散発的な感染報告はあるようなので、まあ第三波というのは間違いなくあるのだろう。
あるいは、この先はもう「第何波」という形ではとらえきれないのかもしれない。指定2類感染症からもはずれるようだし。

安倍内閣総辞職

安倍総理大臣が辞任、安倍内閣総辞職した。*1
歴代の首相連続在任記録で最長だったらしい。
このVUCAの時代にこれだけ長く在任できた首相がいるというのは、不思議にさえ感じられる。

中小企業経営者のポジショントークといえばそうだが、僕は安倍政権はよくやったと思っている。
長い間お疲れ様でした、とも思う。
こういう風に書くと、ミュージシャン仲間にもいるアベガー、安倍憎しの友人たちを敵にまわしてしまうのだけれど。

安倍政権は、長く続いただけあって、なかなか巧妙な政権だった。
そもそも国会議員の安倍晋三は「歴史修正主義タカ派改憲主義」というゴリゴリの右派イメージだった。
第一次政権では「美しい国、ニッポン」というイメージそのままの路線はうまくいかず最終的には健康問題で尻すぼみに退陣してしまった。
第二次政権はその反省を受けて「顧客目線」の政権に終始した。それが政権が長続きした理由だ。
安倍政権の提案した数々の政策は、世界標準でいえばややリベラルよりな政策提言が多く、サイレントマジョリティの賛同を得られるような政策と外交が、第二次安倍政権の前半の強みであったような気がする。

* * *

マスマディアをはじめ、日本のリベラルを自認する層には、この事実は面白くなかった。

安倍政権は政権からの手厚い利益を得ているとは言えない若年層と貧困層からもかなり広範な支持を得ている。
それは若者が愚かだからでも政治のことを考えていないからでもない。
僕の世代より上のリベラル、日本の良識であると自認している層が、若者・貧困層をとりこめていないからだ。
これは世界共通の潮流でもある。
かつてのリベラルがリベラルとしてのテーゼを失って迷走している。
だからトランプ大統領であったりマクロン大統領が台頭するのだ。
安倍政権はそういう世界の潮流にきちんと対応している結果長期政権になった。*2

アベノミクス

アベノミクスは失敗だったのか。
安倍政権は置かれた状況の中で比較的健闘した方だと思っているが、日本の経済優位性はずいぶん凋落してしまった。
だが、これは、安倍政権の舵取り「だけ」が悪かったせいではないと思う。

僕たちは「優秀な経済界や本来優れたポテンシャルを持つ日本国民を、愚かな安倍政権がバカな方向に導いて国を滅ぼした」と思いがちだ。
為政者のせいにすれば、自分たちの責任を感じずにすむし、自分たちが凋落の原因だと思いたくないから。

でも「世界のルールの変化を察知しそこねた日本経済界や日本のホワイトカラー・ブルーカラー全員が、世界の進歩にとりのこされて凋落した」というのが本質だと思う。
いまだにファックスが幅をきかせ、テレワークをしつつも判子がなければ書類決裁ができないので判子のために出社する社会。
稟議書の判子をもらうためのスタンプラリー。
一から説明しても理解しない経営陣への繰り返しの会議。
冗長な意思決定システム。
属人的な業務体制を解消せず、果てしなく続く残業。

戦後はよかった。植民地から脱したばかりの発展途上国の中では日本は良質なホワイトカラーを大量に擁した国家として明らかに優位性があった。だから焼け野原になっても驚くほど短時間で経済復興できた。
しかし、今やどこの国でも勉強する意思のあるものは必死に勉強をする。皆優秀だ。
昔とった杵柄とやらなのか、日本では、そこまで真剣に勉強する人は少ない。働きアリ=長時間労働も封じられ、かといって、効率よく働くやり方も見出せず、ICTの進歩にも取り残された。
そもそも、教養主義の伝統は80年代バブル経済にとどめをさされ、知的教養の伝統は大きく損なわれている。
頭が腐っているのではなく、俺たちも、身も尾も劣化していることを自覚しないといけない。

* * *

要するに、アベノミクスは成功しなかったが、それは安倍の采配に問題があるわけではなく、そもそも負けるべくして負けている。
アベノミクスの失敗を非難し、安倍政治の愚を説く人たちは、一体、では誰が適任だったと言うのだろうか?
他の優秀な首相の采配であったら、今よりももっと日本経済が回復していたのだろうか?

かつてないほど面倒な時代に、敵失も相当あったとはいえ、強固な政権基盤を作り出し、制度疲労した日本の旧世代の法体系を彌縫しようとした。
そして、細心の注意をもって対米外交を盤石なものにして、同時にインド洋沿岸諸国と親密な外交を行って、中国に楯突かないギリギリの形で牽制を行っていた。

報道されない部分で、素人にはわかりにくい将棋の「利き筋」を随分たくさん作ってくれているのは、安倍政権の功績であると思う。

安倍政権がとりわけ優れていたとは思わないが、まだ海外に目が向いていた。
その安倍の功罪を批評しようとするマスメディアは内向きすぎるように思う。

世界の進歩から目をそむけている主犯は、マスメディアの近辺にある。
すなわち、マスコミのお気に入りの人材が首相になっても、日本は回復しない。
彼らが、政権の闇をあばく、といって愚にもつかない攻撃をしているさまは、滑稽を通り過ぎて醜悪ですらあると思う。

塞翁が馬

「アベガー」の人たちのイメージとは違って、安倍さんは優しすぎたのだと思う。
もうちょっと正確にいうと「嫌われたくない人」だった。
「嫌われる」か「適当にごまかす」かでいうと、誤魔化す方を選ぶ人で、だから、後半はその揚げ足をとられてにっちもさっちもいかなくなった。

安倍政権は、強い支持基盤の割に*3嫌われがちな経済政策は打ち出さなかった。
その点は安倍総理の性格上の限界だったのかもしれない。
既得権益層にも配慮し、スクラップ&ビルドができなかった。
(その点では小泉首相の方がKYであったし、菅首相は安倍さんよりも甘くないような気はする)。

ただ、皮肉なもので、安倍政権がもうちょっと辣腕で、将来性のない業種の温存をばしばし断ち切って、例えば外国人向けのインバウンドなど、現在のグローバル経済によりフィットした分野をもっと優遇していたら、アベノミクスはもっと成功していたとは思うが、その場合はコロナによるショックは今よりも深刻だったかもしれない。
投資マインドがあった人が、リーマンショックや今回のコロナショックで退場を強いられたように。
塞翁が馬だ。

今後

いずれにしろ、今度の政権がどうあろうと、日本はしばらく凋落を続けるだろう。
よくなる要素がないもの。
人口オーナスだけでなくグローバル人材が少なすぎる。*4
グローバリズムのなかで、英語が世界標準言語となった世界秩序の中で、もっとも米国に近い属国の立場を十分に利用できなかったのが、日本の失敗。つまり、相変わらず英語が苦手で日本の国内にとどまっている団塊ジュニア世代である我々が、A級戦犯かもしれない。

10年後から今を振り返って「安倍さんはなんだかんだいってすごかったなあ」とか言わなくて済む世の中でありたいものだ。
まあいずれにしろ、なるようにしかならない。
国に頼れない時代は、いずれ来る。

10年20年のスパンでみて、自分自身が10年後、20年後に、価値を持つ人材か?と問い直してみよう。
もっとも必要なのは、おそらく変化に対する適応力。
あらたな分野が眼前に現れた時に、平然と勉強して飲み込もうとする姿勢だろうと思う。
一体、僕らの前に何が現れるのか、予想もつかないけれど。

唐突だけれど、個人的には、記述式の医学教科書が、読者によって見解の相違を生み出さない厳密性をもったプログラム言語のような形式に少なくとも20年後は変わっているように思う。
要するに、人間だけでなくコンピュータも読む文書。人間とコンピューター統一言語が作られるのではないか(もしくは、完全に診断の部分はコンピューターが行い、ネゴシエーションと方針決定のふんわりした部分だけが人間が受け取るような形になるか)。
法律、法体系も、AIが処理しやすい文言に変わると思っているが、これも意外にすすまないね。
おそらく法律家が、自分で自分の墓穴を掘るような行為には加担しないからなのかな。だと思うが。

*1:ちなみに、「総辞職」じゃない辞職というのはあるのだろうか?

*2:もちろん加計学園問題・森友問題など不透明な部分はある程度ある。ただ、政策の根幹に関わる話でもないし、長期政権で懸案事項を多く処理した政権ゆえに多くの人が関わっている場合に、一定の割合で不透明な部分、ダーティな部分はでてくるのだと思う。

*3:いや、だからこそ、かもしれない

*4:私だって、ドメスティック人材で、グローバルでは価値がないわけで、国際収支を黒字に変える力のある国にとって有為な人材ではない。それなのにこんな知ったげなことを書いている恥知らず野郎なんです

死後の世界 その2

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いかんいかん。8月が終わり、9月になってしまった。
二週間も空いてしまった。その間に、安倍総理も退任を決め、台風の到来も近く、コロナウイルスは自然弱毒化のフェイズに入ったかのように感染者数を減らしている。
最近は、けっこう仕事が忙しい。
余暇の精神活動がほとんど止まっている。本は読んでいるけど、少し頭がバテています。

* * *

前回の続きである。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「死後の世界」?
こいつヤベエ奴だな…と医療者の読者は思ったに違いない。

少なくとも、自然科学の体系の一つとしての現代医学をつきつめても「死後の世界」にはいかない。
論理体系の延長線上に死後の世界を構築することはできない。

死ぬと人は物体にすぎない。おそらく死ぬと意識はそこで途切れるのだろうと想像できる。
現代の生理学や脳科学などからは、脳の生命活動が止まり、肉体が滅びて意識が残留するとは考えられない。
そうでなければ脳死移植などできるわけないではないか。*1

現代医学の担い手は、当然死後の世界はないものとして振る舞う。

もちろん現役バリバリの脳外科医が、臨死を体験し死後の世界はあると宗旨替えしたような話はある。
ただ、今の所、主観的なものであり、死後の世界を実証するほどのエビデンスはないので、医学の論理体系では依然死後の世界は証明されていない。

人類史の中での「死後の世界」

ただ、自然科学を離れ、歴史を遡ると、現在まで残るすべての文明・文化は「死後の世界」を前提として存在している。
フィリップ・アリエスを引用するまでもなく「人間は死者を埋葬する唯一の動物」である。
そしてその逆で、死者を葬送しない文化は、ない。

ネアンデルタール人にも葬送の痕跡が残っているが、古代文明の随所に葬儀・葬式、埋葬など、死者に対する畏敬の念は感じとれる。鳥葬や風葬などの変わった葬礼はあるものの、ほとんどすべての文明において死者は他の無生物や動物とは同列には扱われない。

もちろん、花などで飾り立てたり、生前の持ち物を携えて埋葬をすることは、直ちに死後の世界を想定しているとは意味しない。が、現存する多くの社会において、死後の魂(明確に概念化されることはないこともあるが)という考えはあまねく認められ、そのような考えのもとに、死者は着飾られ、埋葬されている。


我々の文明の発展は「死後の世界」という概念なしではなしえなかったのではないか。
つまり「死後の世界」の概念は文明を推し進めるエンジンとして作用したのではないかと思う。
このことは死後の世界を否定する文明が存在していないことによって、間接的に証明される。
この辺りは、宗教学や死生学の領分ではあり、そこまで私も詳しくはないのではあるが、もう少し拙論に付き合っていただきたい。

文化装置としての「死後の世界」

発端がどうあれ、死後の世界は、社会を継続する装置として文明に必須なものとなった。
少し前に「自分が死んだら所蔵する『ゴッホの絵』を棺にいれて、一緒に燃やして欲しい」なんていう人がいた。
自分の意識は生きている間だけであり、自分が死ねば、無になりはてる世界では、死後世界がどうなろうが関係ない。
そういう世界では、自分の所有財産も、利己的に、生きている間に蕩尽しようと考えても不思議ではない。自分の行動として、長期的なスパンで責任をとる必要もない。後世が困ろうが、今がよければいい、という無責任な態度もとれる。
2〜3年で会社を移り変わる職業経営者が、中長期的なビジョンはともかく短期的な視点で業績をあげることを考えてみるとわかるだろう。

動物の場合は、遺伝子の保存のためだと思うが、本能で子や眷属のために利他的に振る舞う。
だが人間の場合は、本能による利他的行動は希薄だ。
ゆえになんらかの社会的規範がないと利他的な行動を促せないのではないかと思う。

概念としての「死後の世界」というものを設定し、我々の「個」が独りで生まれ、独りで死んでゆくという生物的な事実から、死んでも世界は終わらないのだ、と考えることができるようになった。

自分の死後も世界が続くのであれば、無責任な行動は取れない。
そして自分の死後も自分の意識が続くのであれば、自分の不行跡は、少なくとも自己反省を強いられるであろうし、その意識が、他者も交えた「社会」に置かれるのであれば、利己的な行動は、制限される。
なんなら自分の生前の善行の多寡で死後の世界の階位が決まる「天国」「地獄」概念まで後には作られた。
人はますます生きている間に利他的行動を取り続けることを求められるようになった。

アリの社会における働きアリと同じく、農奴のような人達は死ぬまで収奪され続ける。
が、それを本能なしで、死後の世界のためのポイント稼ぎという能動的行動に転換させたのは、死後の世界という文化的装置のなせる技である。


「死後の世界」という発明で我々人類は本能以上の利他的行動をとらせられるようになった。
その結果、余剰な物資を必要以上に蓄えることもでき、世代を超えた中長期的なスパンでの連帯・協力ができるようになった。
その結果、高度な文明を築くことができるようになったのではないかと思っている。

「あの世」がないと、どうなるのか

ここまで「死後の世界」というのを説明してきたが、実は「死後の世界」の二つの意味を敢えて曖昧にして述べてきた。

(A)自分が死んだあとの、現実の今いる世界。(そこでは自分は存在しない)
(B)そして、自分が死に肉体が滅びたあと、自分の意識がゆくとされる「死後の世界」。

現代では(A)はあるが(B)はないものとして取り扱われる。
文明が発展し、歴史も記録されるようになり、死んだあとの「あの世」(B)はともかく、我々の死んだあとも、我々の生きた証は、記録され、後世に語り継がれるようになった。(A)の世界は過去みられたどんな文明よりも精緻になっている。

その意味では、我々は死んでも、死後、世界(A)が続くことはあまねく共有されている。
我々が死んでも、我々が生きた痕跡は、いたるところに残るであろう。

ただし、その反面、直接体感できない世界(B)は、語られることはなくなってしまった。*2

ようするに昔は(A)(B)二つの世界で、自分の死後を保証していたのが、今は(A)世界の一本足打法になってしまった。

(B)は現代社会では否定されてしまった。
本当に(A)だけで大丈夫なんだろうか?
自然科学は完全に「あの世」を否定してしまったが、それは我々の意識をやはり変えてしまったのではないだろうか?


我々は現世主義になりすぎていないか?
自分が死んだあとの世界に対して、我々現代人はきちんと責任をとっているのだろうか?
もしそうなら、なぜここまで環境を破壊し、後世の子孫が困るような状況を作ることができるだろう?

(A)の世界でも、優れた業績などは記録に残され、栄誉は後世まで語り継がれる。
 だが、語られない部分については、記録に残らない一般人の行動に対してはあまり影響しないのである。
(B)の「あの世」は、記録にも残らない大衆に利他的な行動をとらしめる力があった。
 それは今はもうない。
それでも家庭を持ち、自分の子供がいる場合は、死後の世界(B)がなくても、自分の子や孫の住む社会がよりよいものであるように、と、素朴に考えて、利他的な行動をとることができる。
だが、それも、子供のない人口が一定の割合を超えてしまうと、おそらくうまく働かなくなるだろう。*3

今までの伝統社会で培われていた死後の世界(B)を殺してしまった我々は、
おそらく、文明の継続性のために必須な要素の一つを、葬り去ってしまったのかもしれない。

かといって、ないはずの「死後の世界」があるというわけにもいかないし、難しいものである。

*1:主観的な時間が無限に引き伸ばされることはあるかもしれない。要するに心臓が止まり、脳が止まるまでの数秒・数分が、主観の脳内では無限に感じられる。この場合も、主観的な自分は死後永遠の時間を生きることになる。もしそうだとするといやだな…

*2:物語の世界では今も脈々と息づいている。ファンタジー小説などもそうだし、例えば村上春樹の小説などは、そうした非(A)的な世界の存在が人間の活動に必須であるという本能的な直感で書かれているのかもしれない

*3:「無敵の人」は往往にしてそういう状態から作られる。