半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

診察での会話

診察室では、とりあえず会話の糸口となる、どうでもいい話をします。

まあ、よくあるのは天気とか、天候とか。

* *

ところで、1月には大寒波がきたりしましたが、その後、一進一退しつつだんだん暖かくなってきました。

このごろはさすがにあたたかくなってきました。先週の東京マラソンの日、僕も東京に出張だったけど、冬用のコートもウールの厚いスーツも、もう今シーズンは最後かなあと思いましたね。

そんなことを踏まえて、昨日の外来では

「いや〜なかなか暖かくなりませんけど、最近はさすがに暖かくなってきましたね〜」

みたいなことを言うていたわけです。まあそんなどうでもいい話ですから、そこから話は広がりゃしませんが。

そんな感じで午前中の外来を終え、午後になってもおんなじ調子で話をしていたら、

ある患者さんが「いやー先生、今日は陽は照ってるけど、風はけっこう冷たいよお」とおっしゃるじゃないですか。

窓から見えている陽光はぽかぽかしているけど、確かに外に出たら、結構肌寒い。部屋の中だったからわからなかった。

あれー?!えー?

じゃあ午前の外来の患者さんは

「あーあの先生トンチンカンなこというてるわ〜、まあええやろ」と許してくださっていたのか……

みんなごめん!

* *

 上述のごとく、私は外来の患者さんに恵まれているな、と思う。

 みんな優しいのよ。僕の患者さん。

 人生の含蓄を教えてくれる人、私の知らない世界のことを教えてくれる人。病気になったときの心のゆらぎ・不安から、症状も細かく教えてくれる。おかげで、医師になりたてでは教科書でしかわからないような病気の実のところを、患者さんからの聞き伝えで、だいぶ詳しくなることができた。

 簡単なことで、訊いてみりゃいいんだよ。

 患者さんは僕のこと「先生」なんて呼んでくれるけど、人生でも先輩だし、いろいろ本当に教えてくださるわけです。

 先生なんてとんでもない。

 もっとも、これは北風と太陽、みたいなもので、心を開くと、患者さんは心を開きかえしてくれる。

 心を閉ざした診療だと、やはり親密な交歓にはならない。

「患者はつまらない」という先生には患者さんはつまらない態度しかとらないです。

 そりゃそうでしょ。医者と患者を離れて、人同士でもそうでしょ。

* *

 勿論、そんなきれいごとだけでは済まなくて、すごく消耗するような外来もあるし、終わってから、カルテを壁に投げつけたくなるような(今は電子カルテだから、そういうことはできないけど)気持ちになるような診察もある。

 でも、自分に引きうつして考えると、多くの患者さんは腹も立てずに辛抱強く待っているし、辛いこと、痛いことにもよく耐えていると思う。

 「僕ならムリやなあ、偉いなあ…」と思う。

 そして、それを実際に患者さんに言っちゃう。

 多分、そこから、キャッチボールが始まるのかもしれない。

* *

 まあ、そんな超優等生なことばかり言ってないで、実利的なことを言います。

 例えば、まるで、相手の反対側からさかさ方向、つまり患者さんから見た方向に、すらすらっと完成度の高い絵を描く。

 かのごとくに、患者さんの知識に合わせて医学的な説明をする。そういう能力に関して言えば、僕はかなり得意な方です。医者になってその部分はかなりトレーニングしました。

 

 簡単な説明を望んでそうな人には簡単に。

 機序とか知りたい人には機序を詳しく。

 数字が欲しい人には数字を。

 そのあたりの当意即妙さ。このあたりの「合わせていく」能力はジャズの演奏の方法論に近いような気がしますね。

著作と講演

やれやれ。

この前にこのエントリーを書いたのが12月。気がつくと二ヶ月くらい、すぐ経っちゃっている。

やれやれ。

あんなこと書いたばっかりなのにね。

* *

 最近は、いろんな人の講演を聴くことが多いわけです。

 かつて勤務医として、狭い分野のスペシャリストとして診療してたころ、医師としてあちこちの研究会や学会に参加していました。そういう時に聴いていたのは、自分の診療している領域で確たる業績を上げた先生の発表だったり講演だったりします。もちろん、話のうまい先生、下手な先生いらっしゃいますが、まあそうは言うても学術発表のフォーマットの枠組みにそって発表するわけで、講演の多くはよきにしろあしきにしろ予想の範囲内です。

 違いなんて、しれている。せいぜいMS 明朝体とヒラギノ明朝体くらいの違いしかないわけ。

 しかし最近は経営者のセミナーみたいなやつによく行きます。各界のいろんな方々に会います。

 本を出しているとか、すごく業績を伸ばした会社の方とか、そういうの。

 そういう人の講演って、型破りなやつはほんと型破りで、医者の講演の差異なんてかわいいもんだ。

 それはさておき。

 著書のある人の講演を聴いた印象では、やっぱり本って、よくできてる。本って、知りたい情報をすごく過不足なく伝えてくれるんだなあというのが、講演を聴くことで逆にわかりました。すごくよくまとまってる。

 当人による講演なんだから、本人の肉声ならわかりやすいに違いないと思うんだけど、本と同じ内容を喋っていても、また全然違った意味あいになる。というか、別のニュアンスを付与される感じだ。

 講演は、本とは違った臨場感があるし、その当人に会うのは、他の人に語れる経験でもある。その意味で、貴重な機会なんだけど、でもその人の伝えたいこと、をどれだけ正確に伝えるか、ということなら、本ってよくできてて、本にはかなわない。講演の方が本より正確であったり、理解しやすいことは今まで一度もなかった。

 ただ、演者の人となりとか、語り口調に特長があるような場合もあって、そういうのは講演の醍醐味だと思う。本を読むかぎり天使みたいな人だなあと思っていたけど、会うと、自分大好き人間という自意識と、香気を放つほどの俗物っぽさがあったり、逆に、仙人のようであったり、著作は淡々とした書きぶりなのに、茶目っ気があったりとか、皮肉屋であったりだとか、そういう性格や情意的な部分は、講演じゃないと伝わらない。

 その人のいいたいこと、ではなく、その人そのものを知るには講演のほうがいいんだろうと思う。

 多分、そういう存在だけで金がとれる人々、というのが、芸能人ってことになるんでしょうかね。

アウトプット量保存則

 以前にも書いたが、アウトプット量保存則、というのはあると思う。

* *

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 もう随分昔だがブログ*1をしげく書いていた頃があった。

 あの頃は、医師になり、研修医としての初任地で、ただただ田舎でもあり、自分の考えを開陳してディスカッションするという場もなかった。紙カルテに書ける量は知れていたし、自分のクリエイティビティを発揮する場はWebsiteにしかなかった。

 もしあの頃に、論文を書く習慣をきちんと身につけてそちらにアウトプットできていれば、僕の人生はかなり変わっていたに違いない。

 岡山に戻り、大学院へ入学し、電子カルテに診療録をかいたり、研究をまとめたり、学会発表の原稿を作ったりしていると、例えばブログ文章のようなものへの意欲がすこしずつ削がれて行くことを感じた。沢山カルテを書いた日なんかはそれに加えて文章を書く気になんて、とてもなれなかった。

 満腹になるとそれ以上は食べたくならないように、1日に何度も射精できないように、自分の中のクリエイティビティは、それがどのような形で発露されるにしろ一定量しかない。著述家は限界のラインがもっと高くて限界を感じないのかもしれないが、少なくとも自分には、それがリアルに実感できる程度のラインに限界があると思いしらされた。

 大学院を卒業*2し、基幹病院での診療の日々が始まり、BlogというかWebの世界からはさらに遠ざかった。なんだかんだいって一人前の消化器内科医として、もっとも仕事のボリュームが期待されるポジションであったから、診療だけでほとんどのアウトプット力を消費していたように思う。

* *

 そこからさらに数年。

現在僕は80床と小規模ながらも病院の院長で、医療法人の経営者もしている。プレイングマネージャー…といえばきこえはいいが、外来をして、入院を診て、その合間に会議に出席し、経営に関する方針決定を行ったり、面接をしたりしている。

 3年前から市の医師会の理事にもなった。

 プライベートでは、ジャズトロンボーンをやっているのだが、セッションに出たり、レギュラーバンドのマネジメント*3をしたり、新たな企画を立ち上げたり、他の人が立ち上げた企画に乗っかったりもしている。

 とにかく忙しい。

 最近は、診療録を書くことだけではなくて、病院の中のいろいろなしくみ、仕事のやり方や制度を変更したりするために「企画書」みたいなものも書いたりする。自分の考えをみなに伝えるために、ちょっとした文章を書いたりもする。院内の職員にむけて、また院外に関してもだ。よくも悪くも「自分の価値観を提示する」ことを求められる立場になったのかもしれない。

* *

 今の自分は、アウトプットとしてはめいいっぱい自分の力を使い切っていると思う。

 だから、Blogを書こうという心境にはなかなかなれない。このblogもなんども卒業しようと思ったのだが、最近はBlogを書くことは敢えて継続したいと思っている。

 理由はおおよそ3つある。

1つは、今までのブログ文章が、現在の仕事につながっているから。文章は才能ではなく習慣と経験で、くだらないこともくだることもブログで書き散らした過去が、今の自分につながっている。すらすらっと文章を書けると、いろいろ便利なのである。

もう1つ。文章は習慣と経験であるから、書き続けた方が文章の「燃費」とでもいいましょうか、量あたりのコストが少なく書けるし、水準を保ちやすい。

最後の1つは、リアルな世界での文筆はいろいろ気を遣うし大変だが、こういうBlog文は力を入れずに書ける。文章を書くことを嫌いにならないためには、こういうスペースって必要だと思うのだ。

 と思って、今後ともBlogを継続していきたいと思うのだが、気がつくと数ヶ月経っちゃったりするのも事実なのだ。

*1:正確にはホームページというべきだろう。Blogもない時代だから

*2:もう少し正確にいうと、年限が過ぎて退学、後に論文過程で医学博士を習得

*3:三管編成のオリジナルアレンジである

インスタおじさん

どうも。

気がつくと、Pokemon Goがリリースされて、僕も40代おじさんにしてそのお相伴にあずかったり、Rio オリンピック2016が開幕して盛り上がって閉幕したり、地元球団の広島カープが25年ぶりにリーグ優勝を決めてみんなでよろこんだり、いろんなことが起こってました。

あまりにも毎日が忙しすぎて、日記を書く意欲が削がれてたんですよ。

いろんなおいしい出来事をただただ見送ってしまってますね……本当、毎日Blog書ける人って尊敬するよ。

* *

ところで、若者もすなる Instagramといふものを、おじさんもしてみむとて、するなり。

んー。土佐日記調で続けようと思っても、アホがバレるのですぐ平文に戻るとして、前回の記事で、携帯をiPhoneに変えた話をしました。

思い起こせば、昔は自分でWebsiteをHTML手打ちで作っていたweb古参兵の端くれです。いまでもWeb上のインフラに興味があり、とりあえずアンテナはってるんですけれども、実際に参加して繁く更新するのって少ないですね。SNSは、FacebookTwitter程度。ささやかなもんです *1

 ただFacebookはおじさん中心で、若者はFacebookにアカウントはあってもアクティビティが低い。イマドキの若者はどうやらインスタとかそっちでヨロシクやってるらしいぞ、という噂は耳にしてたんですよね。興味はあったんですけど、ただ踏み込むきっかけが無かった。

 今回携帯をかえたんですけど、それまでの型落ちXperiaよりも写真がええぐあいにとれるようになった。そうすると、なんとなくどうでもいい日常の写真を撮ることが増え、その余波でInstagramを始めたわけです。

ふふん、おもしろいね、Instagram

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インスタ特有のハッシュタグ羅列文が、特徴的ですが、twitterとかよりも、むしろハッシュタグ経由で思いもよらないリンクが貼られる。エクササイズとかランニングとか、そういうタグが、特にリンクを呼びやすかったり、そういうのはTwitterとは違う感じ。何となく、リア充感がインスタにはありますね。ま、その分友達になれる感は全くありませんけど。

 面白いので、インスタ女子がやりそうなハッシュタグ羅列文をまねてました。こんな写真に #福山#イマソラ#仕事帰り#すごく暑い#けど雲は高くて少し秋の気配かも#でもまだこんなに暑いなんて…とか適当なこと書いてたわけです。*2

 それが、僕の8月の趣味活動でした。

イマソラ、とneversaynever。

インスタで覚えた言葉です。

みんなも日常会話で使って若者ぶってみればよろし。

*1:そういえばmixiはいいとして、Google+はどうなったんだろう?

*2:そういえばなんかのグループワークで、自己紹介に「最近ハマってること」を紹介するのがあって、『インスタグラムで、インスタ女子っぽいハッシュタグをつけることです』と言いました。なにそれ半分失笑半分でした。

2016-07-20:アップル帝国の軍門に下る

f:id:halfboileddoc:20160720061147j:image:w240:left自分のことなんてどうでもいいのですが、少し付き合ってください。

つい最近ですが、携帯を変えました。

Sony Xperiaから、iPhone seに。

* *

昔はパソコン少年、長じて、今はデジタルガジェット中年の私ですが、そういう古くからのパソコン少年にとってはマッキントッシュというのは燦然と輝く憧れの存在でした。当時100万とかしたと思います。雑誌とかに載っているだけで現物は見たこともなかった。

どうやら世の中にはマックというどえらいもんがあるらしいぞ……

 そういう意味ではスーパーカーとかと似たようなレベルの非日常的な存在でした。

大学生になり、個人のPCを持つようになるのですが、自分にとってのPCは、インターネット。ワード、エクセル、時にアクセス、みたいな主にビジネス用、実学用であり、大学生には、windows以外の選択肢は考えられませんでした。文系のふわっとしたカテゴリーの人にはiMacとか、ありえたと思いますが(あの昔なつかしのブラウン管のスケルトンタイプのやつね)、国立大理系は、そりゃWindowsだったんです。医学部生でMacとかは、若干私大の醸し出すリッチ感がありました。

医者になり、病棟での仕事、研究やなんやかや、学会活動とかでも、PC環境としてはWindowsですから、Windowsを使い続けてました*1

確かにMacはオシャレです。昔はWindowsとの間に超えられない川が流れていたMacも、その頃にはマイクロソフトのオフィス系のソフトもほぼ問題なく使えるようにはなっていました。

 しかし、その頃の自分には、オシャレなものを臆面もなく使う、というのに、変な抵抗がありました。「こじらせちゃん」だったですね。今となっては、幼少期の憧れのあまり、macに対してアンビバレンツな感情があったんだろうな、と思ってます。

転機

そんな自分にもアップル帝国の手は忍び寄ってきます。

端的に言うと、Windows/Android陣営に、魅力的なデバイスがなくなってきたんですよね。

前哨戦として、iPod classicを初めて入手したのが2009年。これはまあ、便利でした。ローカルに音楽を保存するタイプのデバイスとしては最後の世代ではありますが、CDコレクターということもあり、これは今も使っています。Appleについてはあえて避けていた態度も、ここでまず屈したわけです。

大きな転機はノートパソコンをMacBook Airに変えた時。購入履歴をみると、2012年6月。

それ以前にはパナソニックの名機Let’s Noteを使っていたのですが、自転車で事故を起こした際に壊れてしまい、代替として、割とどうでもいい(ちなみに富士通)ノートPCを買ったんですが、やっぱりそういう低いモチベーションで購入したデバイスは、あまり使い心地もよくないし、ギアとして愛着がもてず、つくづく後悔しました。

そこでMacBookを買ったわけです。これは自分にとってはかなり大きな変化でありましたが、音楽とかそういう関係の(録音とかビデオ編集とかYoutubeへの音源登録とか)作業がWindowsよりも圧倒的に簡単で「なんでもっと早く宗旨替えしなかったんだろう」と思った記憶があります。

タブレットは、最初Kindle Fireを購入しましたが*2、2014年2月にiPadを購入しました。これもMacBookと勝手に連動して、大変便利だなと感じていたように思います。

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というわけで、PC、タブレットと徐々にApple製品に置き換わっていたのですが、今回、最後の砦のAndroid携帯がApple製品となりました。そしてスマートウォッチとして Apple Watchを購入し、ここにモバイルデバイスApple一気通貫」となったわけです。

高校生でもiPhoneを当たり前のように使う日本においては「いまさら」感はあります。

ここ2年ばかり体活動計(Fitbit Flex)を使っていたのですが、常時身体に密着しているためか、半年くらいですぐ機械がダメになってました。あと、Fitbitは充電器の線がすぐダメになるので3,4回買い換えました。

単機能の体活動計であれば、Fitbitの後継機種に替える選択肢はありましたが、ヘルスケアデバイスの将来性には職業柄興味があったので、今回は系統をかえてApple Watchを購入してみたわけです。GPSウォッチ機能もあり、心拍数測定機能もありで、なかなか魅力的なデバイスだと思います。あまりにも保たないバッテリーはいかがなものかとは思いますが。

アップル製品にかえてよかったこと

しかし、いったん、Apple製品で統一してみると、デバイスの操作などに共通な部分が多く、ストレスが少ないですね。またApple製品の思想である「しちめんどくさいところは機械がだいたいなんとかしてくれる」というのは、やはり日常生活においてかなり便利なんだと思います。

「すべての設定をカスタマイズできる」ということと、操作体系が共通であることによるSynergy効果はあなどれないなあと思いました。

あと、Wi-Fiなども、一つのデバイスにWPAパスワード入れると、同じApple IDを使っているデバイスは、パスワードを入れなおしたりする必要はないんですね。

バイスごとの障壁がない。室町時代から安土桃山の楽市楽座になったかのような衝撃がありました。っても安土桃山時代に生きてはいませんけれども。

 

自分の「こだわり」は何から来ているのか

今回も携帯をかえる前にずいぶん逡巡したのですが、替えて「なんでもっと早く変えなかったんだろう」と思ったんですが、これMacBookを買った時に思ったこととおんなじなんですよね。少し反省しました。

今でもそうなんですが、流行っているものに飛びつく、ということに対して、僕は過剰に構えるきらいがあります。

おそらく、自分のなかの「こだわり」というものを大事にしたい、ということなんだと思いますが「こだわり」というのはある種の偏屈さを内包しているわけで、そういう偏屈さを偏愛しているところに自分のアイデンティティのよりどころがあった。

 そういった自分の「こだわり」から半ば開放された今にしておもえば、一風変わった選択で「俺は一味変わったところがあるぜ」とか主張したかったんだと思います。いまは多分、どうでもよくなってきた感はある。

いい物はいい。

こりゃもうヴィトンのバッグをもってロレックスをつけてベンツに乗る日も近いね。そしてボーズのノイズキャンセリングヘッドホンでモーツアルトを聴くわけだ。

* *

あ、そうそう。携帯の機種変をした直接の動機なんですが、使っていた携帯、個体差なのか、ひどく電波の入りが悪くて、通話がとにかくできなかったんですよね。病院医師をしているものですから、随時呼び出しがあるわけですが、電話通じないと話にならない。

新しい電話は、とりあえず通じるので快適ではあります。

*1:あ、そうそう。このサイト 半熟ドクターも、もちろんWindowsで書いていますよ。

*2:家を建てた2012年10月、妻が自宅で使うパソコンがなかったので、新築と同時にiPadを購入しましたが、これは妻が使っています

2016-06-12 「艶楽」

2016年6月10日

落語家三遊亭円楽(66)が10日発売の写真週刊誌「フライデー」に、40代女性とラブホテルに入る姿を撮られ、10日午後、東京都内で記者会見を開き、事実と認めた上で謝罪。「軽々しく考えていた」と反省の言葉を口にした。

ここ最近、ベッキー、ファンモン加藤の不倫騒動があり、円楽師匠も不倫報道に対する世間の風当たりを重大に鑑みて、謝罪報道を行ったんだと思いますけど、僕はこれどうかなあと思ったわけです。


と、まあ、tweetしたこと以上の話はないのですが、

現在の日本の少子化および人口減少に歯止めをかけたいのであればいまの婚姻のシステム(もちろんそこには婚姻に関する倫理観も内包される)ではうまく解決できないことは明白です。

先進国の中で出生率が維持されている国、フランスなどを見習って、婚外子の差別(少なくとも法律上の区別)をやめよう、という提言は数年前からなされているんですが、結局のところ、この面に関する法令面での大ナタはふるわれず、今に至っているのは皆さんご存知のとおり。

ただ、一時期、ミヤネ屋の宮根さんの隠し子騒動があったりしましたけど、倫理面にて最も狭量であるとされる「お茶の間」への暴露が多いタレントの割に世間の反応は寛容でした。意外にキャリアにも傷がつかなかった。

 あれをみて、婚外子に関する倫理的バッシングが弱まった?世論的に「見えない力」でも働いたのかしらん、とか思っていたんです。が、どうやらベッキー以後ここ最近の不倫バッシング報道は、バックラッシュが働いているようにも思います。

社会全体のフラストレーションが溜まっていて、倫理的なバッシングで容易にスケープゴートを作る。これは中世魔女狩りのメンタリティそのものだと思う。

それだけ、いま、世の中の変化が激しすぎて社会の構成員たる我々が不安定な状態に置かれていることの証左なのかもしれない。

* *

ともあれ、少子化に抗する社会的処方箋を是とするならば、円楽師匠の行動はさほど責めるに値しない。

いやむしろ、妊娠能力の期待できない40代女性と遊ぶとは何事だ、もっとリスクをとって20代女性と遊びなさい、とさえ言わなければいけないのかもしれない。

* *

え?お前本当にそう思っているのかって?

実は私は人口減少そのものに対しては比較的肯定的に思っているのですよ。

だから「少子化に抗する社会的処方箋を是とするならば」の前提条件がそもそも成立しないわけです。

長期的にみた日本の最適人口ってどれくらいなんだろう?

明治初期が人口4000万…江戸初期が2000万くらいだったと思いますけど、それくらいがちょうどいいんじゃないですかね。

問題は、今の世代の社会保障は次世代に付け回されるという構造の中での急激な人口減でハードランディングが起こっていること。

ただ、では円楽師匠が、こういう謝罪会見をすればよかった、とも思いません。

不倫は家庭内の問題であり、罪は家庭内で断罪されるものであり、謝罪も家庭内でされるものだと思う。円楽師匠が「公人」にあたるかどうか、というのは僕には判断できない。

建て替えばなし― 番外編

おっきい話ばっかりしていたんですが、今日はちっちゃい話です。

病院が新しくなって、PHSも新しくなった。

* *

病院内部の内線電話については、未だにPHSがはばを効かせている。

PHSというのは枯れたテクノロジーであるが、ローカルで使うには安価で安定していることもあり病院内の情報伝達としては事実上デファクト・スタンダードになっている。

イマドキ、Skypeみたいなので、すべての通話を録音する、みたいなのがあるんじゃないんか、と探してみたが、現時点ではドンズバなシステムはなかった。

スマートフォンを使うというソリューションはあるようだが(この場合、ナースコールとも、電子カルテとも連動するらしい)安定性が少し落ちるし、当院の職員のITスキルにみあわない気もする。あと、コスト的に不安定な割に相当高そうだったので、現段階では見合わせとなった。

ただ、建て替えたので院内のPHS基地局を更新し、機種変更、番号変更があり、

私にも新たなPHSが貸与された。それまで使っていたのは、アンテナのところがびよよ~んと壊れていたので、助かった。

* *

ところで、当直で、入浴中にPHSが鳴ったら…というのは「当直あるある」として普遍的なものと思う。

めちゃめちゃ忙しい病院で当直していた時分には、風呂に入れないのが当たり前だったし、研修医の頃僕はクソまじめだったので、よう入らんかった。多分あんまり問題ないのだが、「PHS鳴ったらどうしよう」とか思いながら風呂にはいるのがストレスだったのである。

ただもう40台のおっさんとなった今では、風呂入っていなかったら、当直明けに外来などをしていると接客業として致命的なスメルが漂う。これは困る。

加齢って残酷だ。

いっその事嗅覚から鈍くなったらいいのに。

* *

ということで「当直中にPHSを気にせず風呂にはいる方法はないか?」ということを考えた。

実はネットで検索してみると「ジップロックにしまってシャワー室に入ったらいいじゃん」という解答があり、ま、個人的な解決としてはこれでええんかなーとも思いましたが、なんとなく院内で公式のソリューションが欲しい、と思ったのである。うちは、そういうことも気つかってますよー、と。

で、ジャズマン海人(うみんちゅ)部の高瀬裕さんに「携帯を海辺で濡れなくする防水ケースはどう?」というアドバイスをいただき、防水ケースを買ってみたわけです。

こんなの。

届いた。

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入らなかった。

いや。高さ、幅はOKだったんですよ。ただ、奥行きがほんのわずかに足りないので、中に入らない…

なんでしょうか、この無力感は。

お気に入りのズボン、履こうと思ったらウエストがきつかった時くらいの屈辱感です。

もう、ほんのちょっと! 1mmくらいなんです。

しょうがない。削ろう。

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カッターナイフでどんどん削る。

削る削る。プラスチッククズが出てくる出てくる。

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……

もうすこし…

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入った。

というわけで、当直中に入浴していても「PHS鳴ってないかな?」とびくびくせずともよくなりました。

うちの病院こんな工夫もしていますよ~~


ただ、今の病院、これが役立つほどは、コール鳴らないんですよね………