うちの職場の病院の中にはローソンがくっついていて、24時間あいております。
当直の時とかはとっても便利なんです。
昔は、患者さんが重症で病院を離れられないような非常時に、ストックとして『かわきもん』(カップラーメンなどの長期保存可能な食品)を机に備蓄しておくというのが、鬼畜系内科のたしなみだった*1んですけれども、今の病院の初期研修医とかは、そういう苦労を感じたことがなさそう。
これは、一つの進歩の形で、今更カップラーメンを必要とする生活に戻れ、なんて思いませんけれど、そういうしょうもない「しょっぱい体験」が共有できないのは、おじさんとしてはちょっとさみしい。
さておき、そのローソンは完全に「職場のホットステーション」と化しておりまして、職員の多くはそこで昼食を調達するわけですが、気がついたらさ、結構な比率の人が、お財布ケータイとか、Pontaカードとか、そういうので支払っているんですよ。
僕、どうもあれが苦手で敬遠していましたが、しみじみ考えると、どう考えてもあっちのほうが便利だわなあと思ったわけ。ポイントもつくし。
で、このローソンでお金を使わなくなると、リアルなお金を使う機会って激減することになるよなあと思ったりもしました(ライフラインをかなりこのローソンに依存しているので)。最近、本買ったり、CD買ったりもアマゾンで済ませることが多いし、硬貨やお札を使う比率は、気がつくとかなり減っている気がします。
気がつくと、世の中のありようって、少しずつではあるけれども、確実に変化している。
いや、なんか気がつくと21世紀だなーって思うの。
CDにしたって、今はCDそのものを触るのって、最初にパソコンにリッピングする時くらいで、あとはiPodのアーカイブをいれたやつを再生とかしているわけですから、媒体としての実体に触れる機会がどんどん少なくなっている。実体としてのCDを買う僕のやり方はむしろ古くて、iTunesで、オンラインダウンロードする場合、実体のCDなんてどこにもないわけですし。
もちろん、1980年代初頭でも、本気でクレジットカードを使ったら、リアルマネーを使わずに生活することは可能だったわけです。だから、質的な面では、それほど大きな変化が出たわけではないのですが、やはりそれは一般的な心性ではなかった。でも、今は、全く普通の人が、Suicaを使ったり、お財布ケータイで買い物をしたりするパスウェイがじわじわっと浸透している。
色々な分野で、そういうハードが無くなる現象が同時進行で起こっている。
いつの間にか相転移とでもいえる様相を呈しているように思える。だからこそ一般的な人も、こうした現象に対する抵抗がなくなり、そして一層この傾向は進むのでしょうね。あと2-3年したら、本当にハードマネーの立場が変わっていそうです。
でも、実は自分の心情は、まだそういうものに対して、鋭敏に動けていない、というか、むしろ一般的な傾向より遅いよなあと、思うのです。
僕は新しいものに対しては、アンテナは貼って、知識としては早期に取り入れるけれど、自分のスタイルを変えることには、どうやらかなり頑固に抵抗するタイプのようです。
自分には、無媒体というものを受け入れる心性が、あまり高くない。
まだ僕は、古式ゆかしい20世紀人の僕は、兌換可能な媒体としてのCDがないと納得できない。
おうちにはCDが数千枚あるわけですし、本は本で持っておきたいタイプです。
家に書庫とかあるスタイルが、正調のインテリゲンチアだという固定観念が取れない。
でもこれは時代遅れであることははっきりわかっている。例えば、昔はワスプのインテリなどは壁面の書棚に蔵書がないと舐められる、なんてスノビズムが当たり前だったわけですが、最近のワスプは、キンドルとかiPadとかで本を読むから、蔵書棚の必要がない。だから、一フィートいくらで、それっぽい古書を見繕って陳列するサービスとかがあるんだって。それって、蔵書の無意味性をはっきり示しているってことですよね。
きょうびの若い人は、割りきってiTunesで購入とかにも違和感がないんだと思うし、電子書籍を買う人だって今後ずっと増えると思う。物流エネルギーコストとかを考えても、実体をやりとりすることは、推奨されないだろうというのも、当然の潮流だとは思うのです。
でも、自分の考えがそれに慣れるにはまだ時間がかかるなあと思っているんですけれども。
現代を幸福に生きるためには、変化を受け入れ、楽しめないといけないと思う。
とりあえず、2012年は、コンビニの支払いを、硬貨ベースではないようにしまそかいね。
*1:他のたしなみとして、5分でシャワーするとか