半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

2011-07-30

 最近は、自転車も乗らないことにしたし、さすがに左側の肋骨が6本折れている状態で、楽器(トロンボーン)をもつわけにもいかぬ。車の運転も7月中は控えており、現在は、家人の送り迎えで通勤しているような状態です。

 我が家の保育園児二人に混じって、3人目の園児、という役割におさまっています。で、朝のカンファレンスが早いような時は病院→保育園、という順番。まあそうでもないときは保育園→病院という順番。帰りは保育園→病院という順番になっています。さすがにそんな状態なので、残業はできず、5時ダッシュおじさんと化している現在です。

 先月までの自分の生活とあまりに違っていて、愕然とします。自分が自分でないようである。まあ、この不全感も滅多にあじわえることでもない。生活がガラっとかわる、というのは、例えば結婚したとき、子どもが生まれたとき、のような人生節目節目のイベントであったりすることが多いわけですが、怪我でそうなるというのは、誰しもが味わうことではないにしろ、それなりの頻度で生じることではあるでしょう。多くの人は、人生の後半から晩年、病気で倒れた時にそれを味わう。例えば、解離性大動脈瘤になったうちの前教授や、例えば多田富雄先生(『寡黙なる巨人』参照)のように。

 でも、残念ながら、そういう大きな病気の場合、不全感を抱えたまま、一生を終えることになる。

 いつかは僕もそうなるかもしれない。

 心構えとして、こうした不全感、喪失感を経験しておくのは、悪いことではないのでしょう。

 たとえば、今いるところの上司は、割とイケイケでぶっきらぼうな人なのに、不思議なやさしさがあったりするのですが、18か9の時に肺病(今で言うところの肺結核ですね)で片方の肺をとられて、若者にしては長い病床期をおくっていたりするわけですよ。そういう人生経験って、結構大事なのかなと思ったりもします。

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 しかし、家人の運転で助手席から街を眺めていると、ロードレーサ-が通ると、前そうしていたように、ブランドロゴとか確かめたり、装備品を無意識にチェックしてしまうのです。そして、頭の中で苦笑いしてしまう。別れた女に未練たらたら、といった感じです。きっとこれは、今後ずっとつづくんでしょうね。