半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

『スポーツの中に人生を見る』ことの錯誤

2021, 広島県, というか自分とこの庭。

コロナ、コロナ、コロナ……(Covid-19, SARS-CoV-2)
各地方で最高患者数を更新している。
もちろんワクチン接種は折り返しを迎えた点でゲームチェンジはあるが猖獗はなはだしい。
δ株はワクチン接種患者でも、重症化しないが感染する特徴が事態をややこしくしている。
ここにきて、スーパースプレッダーが生じうるという現状……。*1
さて、どうなるか。

『スポーツの中に人生を見る』という言葉

オリンピック。みな頑張っていますね。
例年と比べての盛り上がりとかそういうものを言い出すのは野暮だと思う。
今年行われているグローバルで総合的なスポーツの祭典。じゅうぶん盛り上がっていますよ。

ところでオリンピックのアスリートの記事に、「スポーツの中に人生を見る」みたいなのがよくある。
実はこの「スポーツと人生」という命題には2通りのパターンがあるのだが、みなそれを意識的にか無意識的にか混同しているって話。

「スポーツと人生」に関して言えば
山際淳司氏の「江夏の21球」がわかりやすいと思う。

1979年日本シリーズの第7戦。広島対近鉄
7回の裏リリーフに上がった江夏が勝つまでの21球を丹念に追いかけたルポである。
細かい配球ややり取りの中に見える江夏の心理、敵方の考え、そうしたものを丹念に丹念に解き明かしてゆく。
野球の経験者は詳しいものでしかわからないレベルの心理の綾を、過去の江夏の経験や、関係者のインタビューを踏まえて、この9回の21球を濃密に描ききり、野球観戦の素人にも玄人にこそわかる視点を垣間見せてくれるこの作品は、スポーツドキュメントのある種の金字塔といってもいいだろう。
まさしく、ゲーム運びに、それぞれの選手の経験や人格が投影される。

そういう意味で「スポーツ」の中に、その選手の「人生」というものが投影されているのである。
神は細部に宿る。

例が古くて申し訳ないが、もう一つ上げておこう。
アメリカの洒脱で都会的な作風でしられる「アーウィン・ショウ」の「ニューヨーク恋模様」から
「混合ダブルス」という一話。
長年の付き合いのある二組の夫婦が、テニスのダブルスをやる。
そのやり取りの中で、主人公である女性が、伴侶であるパートナーの男性のプレーを通じて、ああこの人は粘りの無い人だ、そしてとれなかったセットをあくまで人のせいにしたりする。そういうことの繰り返しで、そういえばこんなところが嫌いだった。だからこの人は反省することもできないし、だから出世できないのだ、どうして私はこの人を伴侶に選んだんだろう……と自問自答する…という、わりと救いのないシリアスな話だったような気がする。
一度読んでみてください。『春にして君を離れ』に近い苦い読み味。

一つのゲームのありように、まさにその人との人格と経験が投影されてしまうのである。

こういったことは、スポーツに限らない。
例えば私はジャズの演奏などを趣味にしているんですが、やはり演奏に、性格とか、今までの経験などが多分に投影される。
ジャムセッションなどで一緒に演奏すれば、その人の性格は結構あらわになってしまうものだ。

ただ、それを味わうには、そのスポーツのルールを熟知していないといけない。
そのスポーツに通暁しているスポーツライターにしか書けないのである。

「人生」の中のスポーツの意味。

ところが、そういう記事は鑑賞するのに時間がかかる。
作るのにもとてつもなく時間と経験が必要になる。
「スポーツ」の中に見える人生を描くのは、大変なのである。

残念ながら、大部分のテレビの視聴者はそこまで興味も知識も求めていない。
だから、同じ「スポーツと人生」でも、随分とレベルの低い話に帰結する。

「一緒にがんばってきたお母さんが、テレビの向こうで応援しています!」
「スランプのときに、一緒にがんばってきた友の思いを託されて…」とか、そういう話。

これって、その人の人生の中で「この試合がどのような意味を持つか」
を紹介しているだけなんですよね。
これは「人生」の中に見える「スポーツ」を描くだけ。
 これは、そんなに難しい作業ではない。

そりゃあ、手っ取り早くその人となりを知るためには格好のやり方かもしれない。
そのスポーツをあまり知らなくても書けちゃうし、下調べも深くは必要ではない。
だから、テレビなどの報道では、このスタイルばかりになる。

実際オリンピックなんていうのは、いろいろな種目が入れ代わり立ち代わり出現する。
一つ一つの競技をじっくり噛みしめる暇なんてありゃしない。
受取り手である視聴者も、1時間も2時間もかけてその競技のことを深く知りたいのでもないのだ。
だから自分の身近な経験から類推できるような、メダリストにもある人間臭い苦労譚を垣間見ることができれば、それでいいのだ。


そういうレベルの低い記事や報道が横溢しているのを見せられる、というのも、オリンピックのような広範な祭典のいいところなのかもしれない。
あ、諧謔精神を存分に出しちゃった。
しかし最近私も歳を重ね、共感力も老人力も十分にあるもんだから、そういう浅い記事をみてもじーんとしたり涙ぐんたりしてしまう。

結局、自分という存在を賭けて競技に臨むアスリートの尊さ「命のかがやき」の前では、言説なんて大した意味を持たないのだと思う。

*1:もっというと、ワクチン接種済の医療従事者が、δ株のスプレッダになりかねない、という事実だ。