半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

いまこそ外部化された倫理委員会の設置が求められる

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2020, 東広島の寒い空

コロナ、コロナ、コロナ(Covid-19, SARS-CoV-2)……いや、やばいっすね。

北海道、大阪、多分いずれ東京も、医療提供がじわりと逼迫している。
大阪は特にやばそうな感じはするね。医クラの同志諸君は大丈夫だろうか。

逼迫した医療提供体制

ただ、こうした現状は歴史的経緯を振り返ると無理もない。
1990年代くらいから現在の超高齢社会は予想されていた。医療費だけではなく、介護・年金など社会保障に関する国費の負担は当然問題視されていた。
そういえばその頃には「医療亡国論」という言葉もあった。*1

だから、21世紀に入ってから医療費そのものはずっと増大しているのも確かだが、需要の増大に比してかなり上げ幅を切り詰めて今に至っている。
高度経済成長期に発展した地域の医療体制を、うまく組み替えて、時には薄めて伸ばして、現在の体制を維持してきたのが実情だ。

そこには当然現場の奮闘もあった。
昔に比べて、医療従事者は給料は下がり、仕事が増えている。
患者の要求度も増しているなか頑張っている*2
だが、厚生労働省の施策も、かなりうまく取り仕切っていたと思う。うまい、というか、せこいというか、不公平にならないようにバランスをとりつつ、全員がちょっとずつ貧乏になるように、かなりうまくマネジメントをしていた。

もちろん、そういう仕事は、必要ではあるのだが、気の毒なことに感謝もされない。
蛮族の数は増えるのに、砦は損耗し兵士の士気はさがり予算が減る一方……ローマ衰退期の将軍のような心境だろうな。
誰からも悪口を言われる仕事ではあるが、誰かがやらないと、簡単に崩壊してしまう。

* * *

いずれにしろ、現在の医療提供体制は、薄めて薄めてのばしてのばしてなんとかやってきたようなものだ。
BMPをJPGにするような間引きが、その裏側にはある。
それで現在の医療は成り立っている。
病院の利益率が平均して1〜2%というのは、そうなるように巧妙に価格を切り下げ切り下げやってきたからなのだ。
その意味では効率化を極限まで進めて、今の日本の医療がある。


ところが、効率化と冗長化トレードオフの関係にあるわけだ。

ギリギリで保つような状況でやってきた医療体制にコロナのような全く想定外の災害がやってきたら、うまく回る余剰などないのだ。
冗長化された部分など、30年前にはあったが今の日本の医療にはどこにもない。

現場の裁量は、現場を疲弊させる

ということで、現場、医療が逼迫するのは、ギリギリで回しているから仕方がない。
ある種数十年の経緯の必然だからね。
では、こんな逼迫した状態を、現場でなんとかしろ、というのはなかなか難しい。

このまま行けば、需要(治さなきゃいけない人)と供給(確保できるベッド)のバランスが破綻する日はかならず来る。
要するに、治療したいけれど治療に割くリソースがない、という状況。
おそらく一部の地域についてはもう顕在化しつつある。
hanjukudoctor.hatenablog.com
四月に同じようなことを書いているけれども、では「誰を治療すべきか?」という選択を現場にさせるのは、現場にとって酷だ。

ただでさえ、重症のコロナ患者は致死率も高い。誠実に診療しても救えない命もある。
普通に診療していても無力感を感じてもおかしくないのだ。

その上に、助ける人、助けられなくて「見殺し」にする人、それを現場に選べと?
現場で治療をしている人が、その選択の責任を負うのか?

トリアージまでさせるということは、その責任を持つ、ということだ。
たとえ法的に責任を問われなくても、まともな医療者なら道義的責任は感じて当たり前だ。
一人の人間が耐えうる精神的な限界を超えてもおかしくない。その苦しみは死ぬまで続くのだ。

平時は、現場の裁量権はできるだけ大きい方がいい。
その方が現場が働きやすいからだ。
ただ、今回のような異常事態で「トロッコ問題」のような選択をしなければいけない場合は、現場にそのストレスを負わせるべきではないと、私は思う。

「倫理委員会」という名の下のトリアージ

現場の精神的負担を減らすための理想は、現場はあくまで「来た球を打つ」という体制で、粛々と仕事をする形にした方がよい。
そのためには、治療現場の「供給の限界点」をきっちり設定し、それを決して超えないようにしないといけない。

では、その供給を超えて需要が発生した場合はどうするか?
そこは、何らかの上位構造によるマネジメントの出番だ。

誰がそれを担うのか?
ある種、究極のトリアージである。
カンビュセスの籤といってもいいかもしれない。

このトリアージは、どうしたって恨まれる。
あとで問題視もされる。
痛みを伴う、つらい仕事だ。

そこに、医療を全くわかっていない人が担うのは問題だと思う。現場に近い声は正しく咀嚼できないといけない。
しかし地方自治体の首長…まではいかないかもしれないが、ある程度の裁量権を持った政治的な立場の人間が加わることも絶対に必要だと思う。

個人に権限を集中すると、おそらく平時に戻った時に、その人は職業生命を失いかねない。
職業倫理に誠実な人も、これに関わると、残りの人生、迷み苦しみながら過ごすことにもなるだろう(だから現場には担わせたくないのだ)。

現場の診療に従事していないトリアージ専門の医療者の集団を策定するのが、もっとも穏当なのではないかと思われる。
地域の医師会の数人、基幹病院の幹部クラス数人、保険所長、自治体長、あたりを構成員に入れ、地域の「倫理委員会」というものを構成すればどうか。その委員会で、地域の医療提供体制とベッドの状況をみながら、集中治療を行うべき候補を選定するわけだ。

苦しみを伴う作業であるが、だからこそ、現場からそれを引き離して欲しいと思う。
そういうのがないと、多分、すべては現場に押し付けられ、現場が消耗し疲弊し、奉仕精神に満ちた医療者の心を傷つけるだろうから。

というのは、旧日本軍にもみられた、日本型マネジメントの宿痾だからだ。

アメリカ軍とかは、まあ資源が十分にあるというのもあるが、基本的に継続性を重視して十分な休養をとらせる。
日本人は兵站を重視しないというか、戦局を一時的なものと捉えて、継続して戦える体制を作るのに慣れていない。
そして、先の大戦で得られたその教訓も、現在の会社組織においても活かせていない。

だから、このままいくと、歴史的教養もないトップ*3が、戦意高揚だけして兵站を軽視した作戦を展開するだろう。
現場の将兵=医療従事者は英霊と化すという未来がうっすら見える。
だから、それをコントロールする「倫理委員会」が必要なのだ。

「倫理委員会」の外部化には大きなメリットがある

あえてこのトリアージを行う外部団体を「倫理委員会」と呼称したのは、こういう倫理委員会が医療機関に依らず地域に設置に永続的に設置されることが必要ではないかと個人的には思っているからだ。
もしそういう倫理委員会があるとさまざまなメリットがある。

個々の医療機関には、例えば臨床研究や治験の承認機関としての「倫理委員会」が設置されているのが普通だ。
が、近年、意思決定支援などを行うことが増え、病院の内部で倫理的な問題を取り扱うことが非常に増えている。
この部分は、ここ数年注目されてきており、当院でも、自院内の倫理委員会に、治療方針などを諮ることが非常に増えている。
(逆にいうと、一医師と一患者の関係性だけで決められないことが、とても増えているのだ。去年だったか、透析の福生事件というのもあったが、ああいう、簡単に意思決定できないことがとても増えている)

病院であれば、多職種そろっているが、例えば診療所であれば、意思決定を院内で円滑に行うというのは結構難しい。
現行の体制で、そういう意思決定支援を外部に諮る仕組みもない。
けど、そういう事例が今後も増えてくる。
倫理的なイシューについて(そんなに大岡裁きのようにクリアでなくても)共有する仕組みが、今後もあったらいいと思う。

問題はそれに関わる予算だよな…
今回の「極限状況」で各地域に「倫理委員会」のようなものの枠組みができると、戦後はその枠組みを少しスライドさせて使っていくことは可能なんじゃないかと思う。

*1:皮肉なことに、医療は亡国ではなく、基幹産業のように考えるべき、という考えもでてきている。ただ医療費が増大すれば国際収支は赤字に傾くのは確かだ。

*2:しかしこれは他業種も似たり寄ったりではあるので、医療従事者が「俺たちは大変なんだ!」と訴えても、今ひとつ響かない。みんな余裕がないのだ。

*3:誰とは言わないが、Y知事には、そういうインテリゲンチャの素養は極めて乏しいように思われる