半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

事故死と自殺の間。

 前回の日記Zard坂井泉水さんのことを書きましたが、彼女の死因が自殺かそれとも事故なのかというのでずいぶん論議をよんでいますね。

 確かに事故をするにもちょっと不自然であるし、自殺としてもちょっと典型的ではないのですが、色々読んで一番得心がいったのがいやしのつえDoctor’s Ink(224)坂井泉水さんの「本当の死因」でした。

ギリギリまでがんと闘ってきた坂井さんの「最後の死因」が事故死だったか自殺だったか、というのは、そんなに意味があることなのでしょうか?

 がんに、しかも肺への転移もみられ厳しい状態の癌の「苦しさから逃れるために自殺してしまった」からといって「弱い人間」だってことにはならないだろうし、むしろ、ここまで頑張ってこられたことのほうが、すごいことじゃないかと、僕は思うのですよ。

(中略)

 いや、もちろん僕にも「本当の病状」も「真相」もわからないのだけれど、他殺の可能性や医療事故・ミスなどの可能性が無いのであれば、実質的には「病死」だと考えるべきではないかなあ。

(いやしのつえ 「坂井泉水の『本当の死因』」より)

http://www5f.biglobe.ne.jp/~iyatsue/zard.htm

 客観的に言って、死が差し迫っている状態は、そうでない状態でははかれない心理状態といえると思います。それを、例えば病気のない状態での「自殺」と同列に考えてよいものか。

 例えば元気で若い僕らだって、体にいいことばかりをするわけではありません。

 タバコを吸う事。

 暴飲暴食をすること。

 夜更かしをすること。

 これらの行動は自分の体をいじめているという観点では「緩慢な自殺」と言ってもおかしくはありません。ただ、そういう考え方がバカバカしく思えるのは、圧倒的に健康な我々はこれらの行動の一つ一つではほとんど影響をうけないから。卑近なたとえをしますと、一億円くらい持っている状態で、小遣い銭でパチンコをしても、破産の危険がないのと同じです。

 しかし、遠からぬ死が予想される状態、その一つ一つの行動の重み、というのは全くかわってくるでしょうね。全財産が数万円しかない状態でパチンコをするようなもので。

 肺気腫の末期の状態でタバコを吸うことは、タバコを吸うという意味においては若い健康な人間のそれと同じはずですが、時としてその行動が死を意味しましょうし、本人も死を覚悟して敢えてそういう行動を取ることもある。

 そういう場合、それが元で死んだ場合は、自殺に含めてよいものかどうか。

 たとえば、吉村昭氏は膵臓ガンでしたが、最期は、点滴チューブの自己抜去でした。

 遠からぬ死が迫っている状態というのは、なんでもない行動の選択にも死の影が潜んでいるものです。

 例えば、落とすと壊れてしまうガラス玉を手のひらで転がし、左右の手に持ち替えているようなものです。左の手で持っている玉を右の手に渡す。右から左へ、左から右へ。何の意味もなく、ただただ手に持って、持ち替えている。

 手のひらにあるのが命です。

 割ってやろうと思って、思いっきり地面に叩きつけると、ガラスの玉は割れるでしょう。これは、第三者からみても明らかに自殺とわかります。

 しかし、玉を左右に持ち替えているうちに手がすべって玉を取り落とす。

 これは自殺なのか、それとも事故死なのか。

 確かに「落としてもいいや」という雰囲気はありました。

 しかし、本当に落としたかったのかどうかは第三者にはわかりません。

 尤も、当事者にすらわからないかもしれません。取り落とした瞬間、「あっ!」と思うか、「まあいいか」と思うか、一瞬の間に彼女に去来した感情はどうだったのか。




 僕は彼女の転落死は、こういうものではなかったかと思います。


 ところで、二階から転落死というパターンには先達がおられまして、Chet Bakerもそうです。

 坂井泉水さんとChet Baker、その人生には交錯するところはほとんどありませんが、最期の一点で括られる人生の妙かと。