ぐへえ、暑いなあ。もう。
塩の話は一回お休み。
僕は死刑に関しては一応廃止論者ではありますが、(以前に「殺してやりたいと思うこと」というのを書いたことがあります)このニュースには ちょっとびっくらこいた。
一九九九年四月に光市で起きた母子殺害事件で殺人などの罪に問われ、最高裁で無期懲役の二審判決を破棄、審理を広島高裁に差し戻された犯行時少年の男性被告(26)の差し戻し審初公判が二十四日、広島高裁であった。犯行時十八歳一カ月だった男性被告への死刑の可否をめぐり、検察、弁護側が主張を述べた。
弁護側は女性暴行目的で襲い、首を絞めて殺害したと認定した最高裁の判断について「自殺した母への人恋しさから抱きついた。乱暴の意思はなく殺意もない」と主張。女性暴行致死罪などではなく傷害致死罪の適用を求めた。
「家族から暴行を受けるなど精神的に発達する機会を失い、犯行時の精神状態は著しく未成熟で成人と同等に非難することはできない」などとし「贖罪(しょくざい)の気持ちを表し、生きて償おうとしている」として更生の可能性もあると強調、死刑回避を求めた。
一方、検察側は「少年特有の非行行為とはかけ離れた犯行。精神成熟度を検討する必要もなく極刑以外に選択の余地はない」と従来通り、死刑の適用を求めた。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200705250075.html
僕は、死刑に反対するという運動というのは、死刑「制度」に対する反対であると思っていました。
たとえ(現行の制度に照らし合わせるかぎり)「死刑」という判決を下さざるを得ないような罪を犯した人間に対しても、国家が彼の命を奪うということは不条理である。であるからして死刑という刑罰をなくしたい、と。という運動だと。
親鸞の言った、悪人正機論「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」にあるパラドックスのようなものを死刑制度廃止に関しても感じてはいたわけです。
つまり、逆にいうと救われるのは死刑囚でなくてはいけないわけです。
しかし今回の法廷戦略は全然意味が違っていて、「死刑に値しない、ちょっとした過失なのだ」という論法です。
死刑を回避できるならなんでもいいかのように見える今回の被告側弁護団の陳述には、死刑制度にはゆるやかな反対の立場をとる私も、違和感を感じました*1。罪状が、死刑に相当しない(例えば過失による殺害だとか)とアピールをすのは、死刑制度の廃止とは全然話が違うと思う。
安田氏は有名な死刑廃止論者であるそうですが*2、今回の弁護陳述は世論に死刑制度の廃止を訴えるという点では、全く逆効果であると言わざるをえない。
とはいえ、弁護というのは依頼人の利益の最大化が目的ではあるから、いかなる手段であっても、死刑を回避するためにこのような戦略をとらざるを得ないというのであれは、それは理解はします。
例えば僕は多くの医者と同じく風邪に抗生物質なんて必要ないと思う人間ですが、患者さんが「抗生物質をだしてくれ」と望めば、処方します。自分の考える理想の医療というものはありますが、患者に強要することはない。
そういうのと同じなんでしょうか。
安田弁護士は、自分の理想である「死刑制度」廃止運動に棹さしてまで被告の利益を守った、いうなれば弁護士のかがみなのかもしれない。
いや、違うな。