半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

桜の花をみること

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 福山では、週末はまだまだ桜も二分咲き程度の様子でしたが、土曜日、日曜日は陽気に包まれたために桜もほころんできたようです。

 桜は、いわゆる名所といわれる場所でソメイヨシノが群生して辺り一面が桜色に染まったさまに圧倒させられるのもきらいではありませんが、なんでもない市街地のあちらこちらに誰ぞが植えた桜がひっそりと咲いているさま、いつも通る道が華やいだ感じの方が、私は好きかもしれません。ダンスを踊るような満艦飾のドレスよりも、さえないおじさんがボタンホールに花でもさしている方が、はっとさせられる。

 桜が一斉に開花してぱっと華やいだ瞬間というものほど、春を、そして一年がまた巡ってきたということを感じさせるものはないと思います。しかし、私に関する限り、正直にいえば、二三日経つと、まあどうでもよくなり、また散り始めて車に散った花がへばりついたりなんかすると、むしろ厭わしく思えるものです。桜に対して去来する感情は、極めて微分的です。たった数日で印象がここまで激しく変化する面白さは、これこそが、綺麗に咲いた桜の一瞬に強い感情を抱く根拠になっているのではないでしょうか。

 桜といえば、ぱっと咲いて潔く散るというイメージですが、あれは、ソメイヨシノの特徴でありまして、桜の野生種は必ずしもああではないようです。山桜なんか、二週間くらいずーっと咲いているものもありますよね。「一斉に咲いて、すぐ散る」という特性こそが美の本質である、と考えた造園家達が作り上げたのがソメイヨシノという種であり、それによって日本の、桜=散るというイメージがより強調されることになった。

 私も、桜の「はかなく散る」というイメージに「もののあはれ」を強く感じますし、桜の美しさを愛でること、ひいては日本人が営々と築いてきた季節の移り変わりを大切にする心性に強く共感はしますが、しかし「潔く散るからこそ美しい」という感性が、時に行き過ぎているんじゃないかと思うこともあります。

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 3月31日でわが町にあるデパート、福山ロッツは閉店になりました。地方都市では、中堅どころの旧時代的な百貨店は、閉店を余儀なくされています。

 閉店となると、人は出向き、いろいろな記憶に思いを馳せ、いい店だったなと愛惜の感を抱いたりします。閉店だけでなく、鉄道の廃線などがまさにそうですね。廃止が決まったことで、沢山の人が集まって、別れを告げるわけです。

 が、あれに私はいつも違和感を抱きます。だって、そんだけ人が集まるのであれば、その路線は廃止にならないし、店も閉店にはならないわけですから。

 閉店などで感じる「もののあはれ」を否定する気はありませんが、こういう感性は、桜の花をみて感じる無常感と同根です。

 我々は総じて、そういう「咲く」「散る」という微分的な事象に繊細な感性を磨いています。しかしその反面、いや、だからこそかもしれませんが、そういう事象の背景に横たわる構造的な事物について、積分的な思考を施すことには意識が向かなさ過ぎるのではないだろうか、と思います。

 桜が咲き、そして散ることに、はっとさせられます。それを美しくも思います。

 しかし同時に、皮相的なものを追いかけて、堅牢な構造思考をなおざりにしているのかもしれないなあと、この季節、僕は若干いつももやもやと反省的な気持ちになるのです。