半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

公立福生病院の透析の事件について 

なんか物騒な事件が飛び込んできたですね。
matomedane.jp

医師が透析中止提示 患者死亡 | 2019/3/7(木) 6:24 - Yahoo!ニュース
(こちらでは全文が読めます)

まずは亡くなられた女性に哀悼の意を表したいと思います。なんせ、同い年ですからね。

記事になっている情報だけで、この一連の流れがよかったのか悪かったのかは僕には正直わかりません。
医師としては、判断すべきポイントはいくつかありそうだけど、そこは記事では伏せられていますものね。

はっきりしているのは、結構微妙な問題に踏み込んだ事例であるということ。
透析の、ではなくて、アドバンス・ケア・プランニング(ACP。最近は『人生会議』改称された。)に関しての。
「意思決定」って、本当に難しいことですね。

ガイドラインの解釈

うちも透析をやっている施設なので、今回の問題は他人事ではない。
ガイドラインを今一度読み返してみました。
日本透析医学会 - ガイドラインの中を探してみてください。「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」です。2014年)

新聞記事に違和感があったところが、一箇所ありました。
毎日新聞の記事では、

日本透析医学会が2014年に発表したガイドラインは透析治療中止の基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定。

と書かれ、いかにもこの医師が規定をはずれた間違った裁定をした、という風に書いてあるけれども、
正確にいうと、これは「医療チームが維持血液透析の見合わせを検討する状況」に限定されています。「医療チームが」です。

患者が自己の強い意志でもって透析の維持、もしくは導入を拒んでいる状況であれば、この条件に限らないはずです。
これは医療倫理学でいうところの「愚行権」というものにあたる。愚行権って言葉、どうかと思いますけど。

p.278の3行目には

維持血液透析開始あるいは継続によって生命が維持できると推定できる患者が自らの強い意思で維持血液透析を拒否する場合には,医療チームは家族とともに対応し,治療の有益性と危険性を理解できるように説明し,治療の必要性について納得してもらうように努力する.これらの努力を行っても患者の意思決定が変わらなければ,患者の意思決定過程を理解し,その意思を尊重する.

とある。
だから、この事例でも、患者さんの状態は別に問題にはならないはずです。ガイドラインには逸脱していない。

問題は患者さんが「翻意」を口にしたときのプロセスだと思う。
個人的には、ニュース記事にあるような患者さん、ご家族側の記載が正しければ、透析を再開してもよかったんちゃう?とは思ったが、意識レベルや自己意思決定権がどの程度失われていたか、という点は、自分でみているわけではないし、なんとも言えないところです。

透析は「翻意」が前提

ただ、腎臓内科の先生はよくご存知のことだが、透析導入に「翻意」はつきもの。
腎機能、クレアチニンが2-3mg/dl(腎機能を表す。高いほど悪い。普通は1以下。8くらいになると透析)くらいのときに
「将来透析することになりますよ」といっても
「いや先生あんなしんどそうなことするくらいなら死んだほうがましです」って6割くらいの患者さんはおっしゃる。
僕でも多分そう思う。好き好んで透析なんてしないもん。

もちろんそういうやりとりは診療録には残すわけです*1

だんだんクレアチニンが高くなってきて4−5mg/dlくらいになってくると、バスキュラーアクセス(シャントとかいいますけど、維持透析をするための太い血管を人工的に作るわけです)を作る必要が出てきます。
これを前もって作る、ということは透析の準備、ということになります。
この状態でも、
「いや僕は透析しません。死んでも構いません、ファイナルアンサーです」って方はいらっしゃる。
若い人でも。いや、若い人こそ、かな。

シャントを作らずに透析をする場合、いろいろスムーズにはいかない。
だからこの段階でバスキュラーアクセスを作るように、腎臓内科の先生方は言葉を尽くして患者さんを説得する。
その方が本人もラクだし、リスクも少ない。入院日数が少なく済みます。

それでもシャント作成に同意せず「しない。死ぬよオレは。透析しないよ」という人もまあまあいらっしゃる。
でも、ここも想定内。

で、いよいよ、自前の腎臓の機能が廃絶してきて透析をしないと「もう身体ももちまへん」という状態。
例えば電解質のKが排泄できなくなって高値を示したり、尿がでないわけだから、身体がとてもむくんで、肺に水が溜まって酸素不足になる。
そうすると、実際苦しい。
死ぬほど苦しい。

そのときにどうするか。
「やっぱ透析する?」と意思確認をします。そして「しない、死ぬ!」って言ってた人が翻意して透析をするっていうことは、よく、あります。
逆に、初志貫徹して透析をせずで亡くなる人、特に若い人は僕は見たことありません*2

要するに、透析に携わる先生方は患者さんの「翻意」は常に経験していて、ある程度想定内だと思います。

だから今回の一件で、意志撤回を意志撤回ととらなかったのには、何らかの理由があるのかなー、なんて、考えてしまうわけです。

この方の場合は5年くらい透析をしてきているという「実績」があるので、それでも辞めたいというにはそれなりの理由があったんじゃないかという気もします。長らく透析をしてきた方で、いろいろな合併症をきっかけに「もう透析をやめる」と言って透析をみあわせるケースは、僕らもひんぱんにではありませんが、まれに経験はしますからね。そういう方の意志は、確かにわりに強固なところがある。

「翻意」したからって助かるわけじゃない

個人的な経験ですが、前述したような「絶対透析せん、わしゃ死んでもかまわんのじゃけ」と言っていた方。
やっぱりしんどくなって入院して来られて、
「透析します?どうなさいます?」
「……する」
となって、わーい透析透析、これで助かるよかったー、と思っていたけど、その日に初回透析をしたけれども、やっぱり心臓に負担があったのか、その夜心血管イベントで急変してしまった、という経験はあります。

そりゃあたりまえのことで、タクシーで「品川?東京?」
「うーんどっちにしようかな…品川、東京、品川、うーん、品川で!」
 ………
「お客さんそろそろ品川に着きますよー」
「……すみません、やっぱ東京で!」
とか言われているようなもので、そりゃ電車に間に合わないんですよ。
だから、翻意した状態から再開したら4年は生きたというのは、まあ医療裁判向けの謂いではないかと思いますね。

* * *

多分、この事件については、巷間いろいろな議論がされるのではないかと思うんですけれども、
医療費圧迫とかそういう観点は脇において*3、生命の自己決定権というところにしぼって考えるべきではないかなと思います。

個人的にはACP(あ、最近は人生会議でしたっけ?)を最近外来とかでもよく説明させていただきますけど、この透析に際しての患者さんの「翻意」を当たり前にみている身からしたら、元気で意志表明ができる時の考えで、本当に看取り期の意志表示にしていいのかな?とか、思っちゃうんですよね。

* * *

あと、この事件の多分本質的な問題は、決定のプロセスが属人的に決められたことで、医療機関の中で複数の人間で協議がされていないのではないか?ということ。

ただし、そのあたりはガイドラインでは「倫理委員会」という言葉でしか書かれておらず、もうちょっと強調されてもいいのかもしれないと思いました。
オランダの安楽死制度とかにしても、主治医以外の二人の医師との面談が義務付けられているんです。
意思決定の属人性は、多分改善すべきところではないかと思いました。
医療機関の管理者としては、他山の石にしたいと思います。

※ 太字部分、後で加筆しました。

*1:なかには残さない先生いるけどな!ひょっとしたら言ってさえいないのかもしれんけどな!

*2:めっちゃ高齢の方の場合、心臓・肺が負荷に耐えられないので短時間で昏睡状態やショックの状態になって亡くなられる方はしばしばおられますけどね

*3:なんか医療崩壊ガーとか、医療制度破綻ガーみたいな声も上がっていますけど