100まで生きたい、という患者さんは結構いる。
診察室で「あたし(おれ)100まで生きたい」っていうのは今まで何度か耳にした。
これについて、どういう返事をかえすべきか?医師のみなさん、どうしてます?
若い頃は、普通に「100までですか… それは、なかなか難しいんじゃないですかね?」
とか言っていました。まあストレートな球をストレートにかえしていたわけです。
しかし、これって「つまらないものですが…」って手土産をもってきた人に「つまらないものですか。そうですか」って言っているようなものだよね。日本的な文脈を完全に無視した、いささかアスペルガー的な答えでさえある。
今にして思えば、この頃は医者としてもかけだしであったため、とにかく「医学的な正確さ」とか「科学的であること」が自分の意識の前面にでていたような気がする。
「うそは、いっちゃいかん」と、多分思っていた。
また、この頃は、深刻な医療不信や医療過誤の裁判などがあった頃でもあり、医師が患者さんにいう言葉というのに細心の注意を払ってたように記憶する。リップサービスにしろ適当なことを言って言質をとられたらかなわん、という意識もあったのかなあ……と今では思います。
で、そこから少し時代が下って。大学院が終わり基幹病院でガシガシと診療をしていたころ。10年前くらいのことですかね。この頃は、
「そうですか、100まで生きたい?はっはっは。いいじゃないですか。
なんなら 120まで生きましょうよ!」
みたいに返してた。いわば、さらに話を「盛り」返しているわけです。100まで生きたい、の「生きたい」の部分を、抽出して強調していると言える。
患者さんがいう「100」というのは、具体的な100歳ということを意味するわけではない。ニュアンスとしては「千代に八千代に」に似ている。今風に言えば「フォーエバー」だ。つまりずっと生きていたいということだ。
だから「自分は長生きをしたい」という本人の思いに他愛のないうそで答えている。少なくとも患者さんの気持ちには寄り添っているし、笑い飛ばす意味でも120と「盛り」返すことは、それなりに効果があったような気がする。
この頃は(ま、今もだけど)「外来はできるだけ楽しく」ということを一番に考えていたと思う。
ただ、さすがに120といえば、医師としての正確さ、妥当性は欠いている言辞であることは一目瞭然だ。ただ、前述の反動もあってか、医学的な妥当性よりも、気持ちを汲み取ることこそが重要と思っていたんですね。
ただ、今では、こういう言い方はあまり使わない。
一つには、やはり明確な嘘であること。医学的な妥当性・正当性には欠けた言辞、自分でリップサービスにすぎないのがみえみえな言葉を繰り返すと、心のキャリブレーションが狂うのである。
多分、飲み屋のおねーちゃんの「また来てくださいね~」と同じで、心無い。 *1
ちょっと力んだ空回りのようなものを、今は感じる。
で、今では、どう対応しているかというと。
前述のごとく、100まで生きたいと言っている人の心情の要諦は「今が幸せだ。この幸せがいつまでも続けばいいのに」という現状肯定にある。苦しみが多く、現状否定の場合「100まで生きる」という言葉は、普通は出てこない。
だから、幸せな人がいう「もういつ死んでもいい」と「100まで生きたい」は対極ではなく、案外紙一重なのである。
ということで、今はシンプルに現状肯定の部分にしみじみ共感している。
もしご家族の付き添いがあれば
「○○さん100まで生きたいんですって!(大抵家族は苦笑する)
これって、今がとっても幸せだっていうことなんですよね。
みなさんがとってもいいように生活を整えてくれてくれているからですね。
実際に100まで生きられるかどうかは神様が決めることですけど、みなさんが
心を砕いてお世話している証拠だと思います。
すごい孝行をされていますねー」
と言っている。本人だけの時には
「○○さん、100まで生きたいの?そりゃあ、今が幸せだってことだねえ。
ご家族にも恵まれたのかなあ。
今までいい時も悪い時も頑張ってきたおかげだねえ。
こっちも注意深くみていきますから、身体に気をつけてね」
みたいなことを言っています。
まあ、渇いた心でみたら、これもリップサービスです。でも嘘偽りのない本心です。
「100まで生きたい」と思わしめる周りの環境設定って、すごくない?
あと、こうやって発することによって「ああ、100まで生きたいって思っているってことは、あたし幸せなんだ今」ということに気付いてもらうこともできる。周りとの関係性がよくなると、みんなもっともっとハッピーになれる。
ちなみに、100まで生きたいという言葉の多くは現状肯定から発せられていることを忘れてはいけない。あくまで100まで生きる、ということをクライアントの要望ととらえると、ニーズを読み違えることがある。
今の状態が損なわれてまでも長生きをする、というのは、多くの人は望まない。
高齢者の多くは可塑性が失われているので、変化にはなおさら耐性がない。
例えば、まあまあな癌が見つかるとする。
年齢的には厳しいが根治手術ができなくもない。
結構大きな手術だけど、どうする?みたいな事例はしばしば発生する。
すごく悩ましい。
常日頃より100まで生きたい、という発言をされている場合、そりゃ根治手術をして長期予後を確保すべきだろ、と医者なら考えがちである。僕も今までそういう考え方で、ちょっと無理な手術をすすめたりもした。
うまくいくこともあったし、行かないこともあった。
しかし最良の結果でさえ、術後ADLをやはり大きく落としがちではある。
医者としては「要望にこたえた」と思いはしたが、本人は必ずしも幸せそうではなかったような気がする。
ただ、一律に手術しないのがいい、とも思わない。
これについてはまだ答えがでていないが、「100まで生きたい」という本人の言にあまり引きずられすぎない方がいいような気がする。