半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

介護利用者の世代変化~団塊の世代をむかえて

前回の日記では日本創生会議と高橋泰先生をとりあげました。

高橋先生、この「首都圏の介護不足」以外にも持ちネタは一杯あって、講演とても面白いんです。

そのネタの一つが、介護利用者の世代変化。

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団塊の世代が高齢者にさしかかり、いろいろな変化が起こっているそうで。

かいつまんで言いますと、今までの高齢者は、介護されることに対して不満を表明せず、まがりなりにも感謝のポーズを示してくれることが多かったわけですが、権利意識の高い団塊世代の場合は、ただ黙ってサービスを受けるということはない。介護は受けて当然で、不満についてはきちんとクレームをつけてくる、ということなんです。

これが、もう全国の医療や介護の現場でものすごく問題になっていて、一部のクレーマーのような人に対する対応で職員のモチベーションが折られ、介護職員の離職の一つの要因になっているというんですね。

「老人」と一言にくくって、演歌なんか流したって、デイサービスで童謡をみんなで歌いましょうー、なんてやったって、団塊の世代は見向きもしない。

やがて我々は、ビートルズを聴いて涙を流す認知症の方に向き合う時代に直面するわけです。


しかし少し冷静になって考えてみると「団塊の世代は、今の年寄りと違って権利主張をしっかりしてくる」ってのは、当たり前っちゃあ当たり前のような気もします。逆に今までの利用者は権利主張をあまりしない存在で、ということは、利用者を軽視して介護の現場が回っていた、ということなんでしょうかね?

私は団塊ジュニア世代に属しますが、団塊の世代が悪い、とは言えないような気もします。

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僕も以前にこのような世代感覚のことを書いたことがありました。

医療崩壊の波頭に立って~滅びの世代(http://d.hatena.ne.jp/halfboileddoc/20071215)

簡単に言うと、『団塊の世代』は高度経済成長の時期にアイデンティティ形成し、その後も日本経済の発展を見てきた世代なので、自分たちの生活や自分が老化し、できることができなくなっていく、という下降局面に対する耐性が低いんじゃないか?という話です。

ですから、いざ下降局面に立たされた時、そのことを受容できずネガティブな感情を発露しやすい印象がありました。

ま、弁護しますと、私はずっと基幹病院で働いていましたから、私が今まで対応した団塊の世代の方は、平均よりも随分早く大きな病気に出くわした方です。同級生の多くが元気でいるのに死の危険を宣告される不公平感は相当なものだと思います。「なんで俺が」という気持ちにもなるでしょう。病気の受容が難しいのも無理はない。また健康管理ができていない自律性の低い方の比率も高いわけで、必ずしも世代の良心を代表する層を見ているわけでもないですから、割引いて考える必要はある。

団塊の世代にかぎらず、自分が緩やかに老いの坂を下っていくということに冷静でいられるなんて、難しいのだと思います。

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じゃあ団塊の世代関係ないんちゃうん?という事になりますが、やはり団塊の世代ならではの行動様式はあろうと思います。それは名前そのままの「団塊」に対する反感、というかルサンチマンです。

施設介護の本質は、それぞれが家庭を築き「オンリーワン」で居られる自分の居場所から、ワンオブゼムの無名性の中に放り込まれることを意味します。

団塊の世代は、学童時代に最も酷薄な形でこれを経験しています。ですから、これに対する忌避感も格別なものだとは思います。

団塊の世代は「団塊の世代」というラベリングがいやなのではなくて、今までも、そしてこれからも「団塊」として扱われてきたことに対してルサンチマンがあります。そのことを僕たちはしばしば忘れがちです。

おそらく団塊世代の多くにとって「団塊」という括りから、個人の生を獲得することが個人史の中で大きな位置を占めると思うわけです。が、やっとの思いで確立した自分の棲家を離れ施設に入ることは、特に持ち家を入手するのに凄絶な努力をしてきた人にとっては蹉跌に違いありません。

そこでの振る舞いは、やはりネガティブな要素を含んでいるがゆえに、態度も修飾されていると思うのです。