半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

考えること

 最近いろいろまた、益体もないことを考えるようになった。

 益体もないことを考えるのは、考える時間ができたからだ。

 社会人になりたてで、独身時代の私は、一人で益体もないことを考えて、文章にまとめてネットにさらしていた(昔の日記も消してはいません。blogなるものが始まる前の時代でしたが)。

 また、あの頃のようにぼちぼちと何かを書いていこうと思う。

 しかし今の私は、以前と違い、嬉々としてして文章をまとめたりはしない。考えることに、いくばくかの苦みがある。それは、人生に幾分かの苦みが加わったからだ。

 あんまり考えすぎると自家中毒を起こすので、楽器を吹いたりする。しかし楽器を吹くことも、昔のようにナイーブな行為ではなくなった。いろいろ複雑な要素があり、一筋縄ではいかない。もっとも音楽の上での友人はずいぶん増えた。だからこそ、である。

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 将棋でも囲碁でも、他のゲームでもいいが、序盤・中盤・終盤というものがある。

 今の僕の人生は、少なくとも序盤ではない。中盤から終盤の振る舞いを要求されている。中盤から終盤(まあ、さすがに終盤ではない、だろうが)は、一方向にがんがん押していいものでもなく、いろいろなことのバランスをとりながら局面を打開しなければならない。決断したことが実を結ぶのに時間がかかり、かつ結果が読めない。

 そして中盤のがんばりというのは、評価がむずかしい。

 序盤を評価するのは簡単である。みんなゼロからの出発であり、ある程度成果を数値化できる。ところが序盤の結果を引き継いだ形で始まる中盤は、中盤そのものの定量的な評価が難しい。たとえば、序盤優勢な状態から中盤徐々に押し戻されてフラットに戻った状態と、序盤むしろ劣勢な状態から、中盤で少し盛り返してフラットに戻した状態と、どちらが優劣なのだろうか?一見序盤がいい形にみえても、時限爆弾のように欠点を内包しており、それが中盤にて露呈する場合もあるだろうし、あまり時局に逆らわず手なりに進めただけで、序盤の欠点は膿を出し切るように帳消しになることもあるだろう。

 結局、中盤・終盤は相対評価ができるものではないのだろう。局面の数だけプロセスがあり、その際に我々が感じる苦悩がある。

 人生においてもそういうことで、僕の30代は、結構頑張っているように思うけれども、某氏の30代よりも頑張っているかどうかは簡単に比較出来ないし、それがうまくいったかどうかなんて、もっとわからない。

 でも、僕の中盤は、盤の形勢は一体どうなんだろうか?

 それは投了するまでわからない。

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 昨日は東京に泊まった。

 いわゆる旧御三家といわれるようなホテルで製薬会社の主催する研究会があったのだ。ご丁寧に、そこに泊めてくれる。

 ここ四、五年東京に出張に行くことがちょくちょくあったせいで、関東に住んだことはないのだが、東京駅周辺の、いわゆる"Capital"と言ってもいいような官公庁街の道路について、少なくとも一度も走ったことがない道、という感覚はようやくなくなった。

 東京特有のあのゆるやかな丘陵の連続と、それに応じたふらふらと定まらない道は、正確な地図を僕の脳内で結像させることを邪魔するけれど初めて来た時に感じた「コンクリートジャングル」感は、今は希薄である。

 ただ、この街は僕の街ではない。

 もっとも、この官公庁街は、たとえ東京で暮らしていても自分の街という感覚を抱かせるものでもないだろう。○○省、とか、やたら大きく有名なホテル、そして誰でも知っている大企業の本社達。あまりにも大きすぎるもの自分との関わりが想像できない。

 当たり前のことをあえて言うのは、今住んでいる地方都市ではそうではないからだ。

 今住んでいる街、僕が子供の頃から居た街では、大きな建造物の持ち主も、だいたい知り合いの知り合いまでゆけば突き当たる。それは我々の家族もこの市の中で少なくない地歩を占めており、我々一族が納めている住民税はささやかではあるが、それなりのプレゼンスがあるからかもしれない。我々はこの街にどうしようもなく根を下ろしており、我々はこの地域を、部分的でこそあれ、生かし、そして当然ながら、生かされているのだ。

 そういう事実は、私を時にひどく暗鬱な気持ちにさせる。仕事をしている際に、そういうことを考えると、フリーハンド、フリーマインドで仕事が出来ない。現実的には目の前の仕事をこなすことに、さしたる差異はないのに。

 東京に住んでいても、例えば任意の建物を指して、その持ち主と自分の関わりを探しても、知り合いの知り合いの知り合いの…といくら知り合いを辿っていっても、辿り着けないような気がする。東京の中枢を担っている人達はお互いが結構知り合いである可能性が高いが、閉鎖的な気がする。少なくとも今の僕が東京に移住しても、そういう「大きいはなし」は全く他人事である。個人として関われることなんて、この大きな街では微々たるものだ。それは、今の僕よりもずいぶん気が楽なことではないだろうか。それはそれで、別のフラストレーションにつながるのかもしれないけれど。

 ということをホテルから東京駅までの、ゆるゆると続くワインディングの中でぼんやりと考えた。僕たちは、ちっぽけな存在で、この街はぼくになんか、興味はもってくれない。

 タクシーの運転手は、話好きの朗らかな人であったが、車が走り始めてすぐ、車酔いを予感させられる運転をする。13年くらいこの仕事やっていますがね、そりゃあ色々なことがありますよ…という言葉と、その運転は矛盾してはいないか、と思ったが、そんな事はいわない。客としての私は、カクテルに例えると、まるで酒だと感じさせないようなさらりとした喉越しを信条としているから。

 それにしても、せっかくいいホテルに投宿していたのに、朝食も食べずに引き返すのも、風情のないことであるねえ。




 久しぶりに、よくわからないけど心の中のもやもやしたものを書いたけれども、うまく書けただろうか。すこし、関節が錆び付いているような気がする。頭の中の関節が。