半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

時の流れ/タクシー

 時間というのは、絶えず一定の速度で流れていますが、この3月4月のころは、とみにその流れがわかりやすい時期だといえます。時間が流れそのものが、ほとんど可視できる*1瞬間さえあるのです。

 流れにのっている当人、例えば部署を異動した人、入学、入社する人たちは、流れの中で自分を見失わないようにすることで精一杯でしょうが、その流れにのっていない自分は、この時期ひどく冷静です。

 まるで、渓流を泳ぐ魚を見上げる川底の石のような気持ち。

 宮沢賢治の「くらむぼん」の沢がにのようなものでしょうか。

 いかんねぇ、この季節。いかんいかん。

 割とうつ傾向に陥るというか。

* *

 自分はタクシーに普段乗りません。

 現在は田舎に住んでいるので、移動手段の殆どが自家用車です。それに飲酒をしないのでタクシーの必要がないのです。過日実に久しぶりにタクシーにのりました。

 ちょっと遠方にでて、研究会の会場へ向かうところだったのですが、夜桜を見ながらタクシーの運転手と世間話をしていますと、タクシーに乗ってもそれほど違和感を感じなくなっている自分に気が付きました。

 僕の両親はいわゆる「ケーエーシャ」で、経費になるようなタクシーチケットの束をもって、ちょっとした距離を行くのにもそのチケットを使う人間でしたから、嫌味な話ですが子供の頃からタクシーには乗り慣れていたのです。

家族で移動する時、それこそタクシーは下駄代わりでした。あ、そうです。僕ぼっちゃん育ちです。

 しかし、親元を離れ、独り暮らしをするようになりますと、当然そういうメンタリティからは遠ざかり、それほど上品ではない生活をしていますと、どうもタクシーに乗るということに心理的な抵抗感がずいぶんあることに気づきました。

 おそらく、太宰治の感じていた「出自がブルジョアジーなのにプロレタリアートでありたい自分」のようなメンタリティに共通する感覚ではないかと思うのですけれども、そういうのがありましたし、今でもあります。特に感じるのが一人でタクシーに乗る時ですね。

 乗る時も「僕みたいなもんがタクシーなんて使ってすみませんね、へへ」というような感じですし、運転手も「なんだこの若僧が、一人でタクシーなんか乗りやがって」みたいな態度に、数台に一台は出くわしたものです。金さえ払えば誰を運ぼうが関係ないはずなんですけれども、タクシー運転手の中には、客の「乗り慣れない感じ」というのを敏感に嗅ぎつけるものなんです(いや、乗り慣れているっちゃあ乗り慣れているんですけれども)

 ところが、見た目にもおっさんといいますか、ここ数年いい感じに自分容姿にウェザリングが施されたおかげで、少なくとも最近はタクシーで不愉快な思いをする事がめっきり減ったことに最近気づきました。

 なんだか、タクシーの運転手さんと軽口の世間話なんかをしていても、完璧にリラックスしている自分というものを発見し、「大人としての振るまい方」というか、大人の階段を一つ上ったのかなあと思いました。

 ま、これがいいこととも思いませんけれども。

*1:「可視できる」というのは頭痛が痛いというのと同じで、言葉としては破綻していますが