半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

医師である僕が風邪の人に点滴をする理由(2)

 前回、私は風邪に点滴なんて意味がないと書きました。

 でも、風邪の人が来たら、点滴をします。

 これは、論理的には明らかに矛盾しているし、少なくとも非科学的な行動ではありますね。初等医学教育ではこういう因習的ではあるが効果の不定な治療法は、しないようにと教えられますし、僕も若い頃はそうした教えを墨守して、外来で点滴をしろしないの押し問答をしたこともあります。

 こういう「効かない」点滴をするような医者は、患者のいいなりに処方する駄目な医者か、金儲け主義の医者であるというイメージがある。「医学」という面からみると確かにそうです。

 我々は「医者」という職能集団に属しています。我々は産業革命以後に確立された西洋医学体系に基づいて治療行為を行う職能集団です。しかし「医者」というものを包括する「治療者=ヒーラー」といった職能集団はどの文明にも必ずあって、それらには脈々とした歴史があるわけです。

 そういった「ヒーラー」のアートというものは、当然あるのですが、我々西洋医師は、あまりに西洋医学体系が強力であり、かつ膨大な学問体系であるがゆえに、しばしばこの「ヒーラーイズム」をおろそかにしがちです。

 

 あなたの求めている薬は効きません。

 だから、出しません。

 というのは論理的には正解ですが、「治療者=ヒーラー」という観点でみると、こうした答えは全くの0点です。

 治療というのは真実ばかりでは動きません。たとえ人生というものが絶望的であったとしても、絶望的でないとすることが患者の救済につながるのであれば、絶望以外の道を示すことが、治療の第一歩なんです。

 半分水が入っているコップをみて、50%しか入っていないというか、50%も入っているというか。

もし50%も入っているということで何らかの救済が得られるのならば、治療者=ヒーラーはそう言うべきなんです。

 近代医学のプラグマティズムは、こうした曖昧さを剥ぎ取ることによって発展してきたわけですが、いやはや、人間という存在は、サイエンスという名の残酷な真実に、時として耐えられない。無神論者、つまり寄る辺のない我々にとっては一層そうです。

 

 僕は、風邪の人に点滴を出します。確かに、これは、若い医師にとっては、悪い見本でしょうけれど。

 医療費の無駄遣い?
 風邪の点滴にかかる実費などは全体の医療費に比べたら微々たるものです。平均寿命を越えた高齢者に、しかも本人も同意していないのに胃瘻を作って生きながらえさせることを考えると、如何ほどのものでしょうか。

 大体、点滴は医学的には正しくないから出さないという医者だって、いわゆる総合感冒薬なんかは出します。でも、この論法に忠実であるのなら、これだって、医療費の無駄遣いですよね?

 風邪の人に

「風邪は薬を飲んでも飲まなくても同じです。だから薬はだしません。帰って寝て下さい」と言ってもいいはずです。別に薬ださなくたって、治りが遅くなることはないし(平均すれば)。

 薬を出すのは、薬を出さなければ、患者は怒り出すからであります。ではなぜ患者は怒るのでしょうか?

 

 「報酬系」がよい説明を与えてくれます。

 報酬系とは、語義通りには、ヒト・動物の脳において、欲求が満たされたとき、あるいは満たされることが分かったときに活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系のことです。

 逆に言えば、人は労した自分の行動に対して、なんらかの具体的な成果を得られることを望みます。なぜなら、その方が「気持ちいい」から。  

 もし自分がある状況に対し、具体的な行動を取り、それによって状況が好転した場合、我々はその好転した状況は自分のとった行動の成果であると思いたがるものです。それが真実であるかはさておき、「報酬系」はそう思うことに対して快楽を与えてくれるからです。

 喩え、理性的に考えると自分の行動が直接は結果に寄与していないだろうという場合でさえも、我々はその結果が自分の取った行動の影響を受けているというドグマから逃れることはできません。もし理性で否定していても、第三者から肯定されると「やっぱりそうだよな。」と、非合理な判断に易々と身を委ねてしまうものです。なぜなら、その方が「気持ちいい」から。

 つまり、自分が苦労して得たものには、陽性のプラセーボ効果が付与されるということになります。

 

 たとえば、癌の患者さんが、なぜ、アガリスクに走るのか、ということもこれで説明できます。医者がイニシアチブを握っている癌の治療において、患者の選択権はそれほど多くありません。実際、治療選択肢が複数あったとしても、現在の状況に最適であろうと思われる治療を選び、そして推奨するのは医者です。そこにはあまり患者の裁量権はありません。その代わり、現在の状況では明らかに「なし」である治療法を選んでしまうリスクを避けることが出来ます。

 それに対して、「アガリスク」などの「癌に効く」健康食品は、あくまでも自分で探し、自分でお金を払って得られるものです。もし、病院で化学療法をしているのに加え、アガリスクを服用している人の癌が、たとえ一時的にでも縮小したなら、その手柄は何に帰せられるでしょうか?いうまでもなく、アガリスクでしょうね。

 こうしてアガリスク信仰が再生産されるというわけです。

 

 風邪の患者さんは、熱や咳などのしんどい症状をおして病院に来ます。これは医者に対面する前に、患者が「前払い」をしている苦労です。

 前述したように、薬も出されず「風邪です。薬はあってもなくても同じですから、家に帰って休んでてねー」なんて言われようものなら、それは、家でそのまま寝ていた方がましだったということを意味します。*1

 我々の多くは煩悩多き衆生です。たとえ人格者でさえ、病を得た時は、多くは毅然としていられないのが普通です。病気の時は、余裕がない。ゆえに我々は相当非合理で理性的な存在ではありません。たとえ合理的な説明をされても、納得することは難しい。

 病院に苦労してやって来たという「前払いされた努力」に対しては、何らかの報酬が必要です。報いるものが無いという現実には人は耐えられない。故に、その苦労に対する何らかの代価として、風邪薬というイコンが必要になるのです。

 点滴というのはこうした報酬のイコンとしては、より適当なものです。風邪薬など、ドラッグストアで買えます。(薬の剤形としての見た目から言えば、市販の薬の方が、彩色などの面で、よりアトラクティブです)。

 点滴は、

 病院に行かないと、得られない。

 おまけに痛い。

 時間もかかる。

 窓口でかかるお金も、多い。

 点滴はまさに有効な報酬と言えるでしょう。

 だから「点滴は効く」という「点滴信仰」が生まれ、現在も再生産され続けている。

 良薬口に苦し。

 なんて含蓄の深い言葉でしょう。

 良薬が口に苦いのではありません。苦いからこその良薬なんですね。

 

 だから僕は風邪をひいて病院に来る人に「点滴は風邪に効きません」と言うことは、いつの頃からか、やめました。

 ま、風邪の際に本当に点滴の効果がないかというと、風邪などの発熱時というのは侵襲の一つですから、マイクロレベルの脱水が生じているのは確かで、それに対し点滴で補正をするという風に考えもしますが、まー8割方プラセボですな。

 もちろん、これは点滴をしてくれという人に限られます。点滴信仰のない人間にあえて奨めて、新たな点滴信仰患者を作り出しはしませんし、点滴をする時も、「ま、点滴というのは特効薬ではないんですけれどもね…」とやんわりとは点滴の無効性は(プラセボ効果を減じさせない程度に)アナウンスしています。

 ま、でも、やはりこういった現象は、誰かが流布した「点滴信仰」に振り回されているというのは確かですね。

 僕は今風邪をひいているしんどそうなあなたには、

「点滴は風邪に効きません」なんて言いません。

ですが、今風邪をひいていないあなたには言います。

 風邪に点滴は効きません。

 どうぞ『点滴かなにか』と病院にいうのはやめてください。

あと、前々から思っていたが、「点滴かなにか」の「なにか」って何だ。キスとかか。

*1:ぶっちゃけた話、実際はそうなんですけどね