半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

コロナの恐怖

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2020, 津山

コロナ、コロナ、コロナ…(Covid-19, SARS-CoV-2)
ひょええ〜っ。
ついに全国的な流行の中で、自分の周りにもコロナがやってきた。

地方の中核都市に住んでいる分には、今まではコロナといっても、どことなく別の国の出来事のような感じだった。
が、今月の初旬には、自分の住んでいる街でもクラスター感染が再び生じた。
今度は地域内の病院でクラスター感染が発生したのである。

感染者は一気に桁が増え、高齢者の感染者の対応で、基幹病院も、病床を一気に埋める事態になった。
消防局でもコロナの感染がでたりもした。学校、保育園、会社、介護施設、ぽつりぽつりとコロナ陽性がでる。

ちなみに広島市内もまた結構なクラスタ感染があちこちででているらしく、現在広島県はかなりHotなところになっている。

実際、実際に知っている友人のコロナなどは、Facebookなどでうかがい知るばかりであったが、
今回の地域内の流行は、だいぶ距離がせばまった。
今までは「友人の友人」「知人の友人」がコロナだ、みたいな話だったのが、友人や知人そのものがコロナになる事例がじわっと増えた。
県をまたいで通っている娘(中学生)の学校の先生にも数人陽性者がでて、クラスタ感染となったらしい。
だいぶ、コロナとの距離が近づいてきた……
怖いね。

まあ、東京や大阪などの大都市に住んでいる友人のレベルにやっとなった、ということだ。
ただし、この地域は基幹病院が多くはなく規模も小さい。
だから地域内コロナ感染の流行で、拠点病院の収容能力の限界を越えるのも早いだろうと思う。

おそろしいな。医療崩壊が現実に近づきつつある。*1

年末年始

とはいえ、年末年始は静かなものでした。
もともと例年、年末年始は旅行などはいかずに、毎日仕事場にいって小さなトラブルを解決する「妖精さん」のような仕事をしている。*2
(こういうのは勤務医の先生に役割をふると、デューティが発生するし、ちょっとの時間ではあるが嫌なものである。自分でやるのが一番ラクなのだ)
個人的には、初詣にいくのをやめたことが、一番気持ちが楽だったな。
なんだかんだいって人混みは疲れる。
お祓いとかしてもらったり、破魔矢を買い替えたりなんやかや。
今年それをしないことで、随分心が静かでいられることに気づいた。

hanjukudoctor.hatenablog.com
(お祓いについては、以前こんなことを書いたことがある。もう10年にもなるのか…)

人生に必須なものなど、多分ない。
コロナで、人間活動の多くを阻害されたために、多分に厭世的になっているからかもしれない。


ただ、必須なもの、必要じゃないもので、ほとんどの人の人生は回っている。
僕だってそうだ。
医療というのは尊いものだ、と思いたい気もする。
自分がやっている仕事を心底くだらないものと思って続けることはできない。
でも、人の死亡率は所詮100%。破れほぐれた布を繕うような仕事に過ぎない…と思う時もある。

どこかで帳尻をあわせ、無駄をやらないと、経済はおそらく停滞してしまう。

おりしも、首都圏では「非常事態宣言」を出すという状況までなった。
飲食店が感染拡大に寄与しているということで、飲食業界を狙い撃ちにした政策になりそうだ。
もう2020年を生き抜く時点で、多くの店は、ストックを吐き出してしまっている。
ここで月単位の自粛が本当にできるのかどうか、わからない。
国にも、余力はそこまでない。休業補償が十分にできるのだろうか。

一番問題なのは、どこまで頑張り、耐え抜けばいいのか、出口がはっきりしていないことだ。

ただただ、無常を感じる一年の始まりだ。
あ、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
(そらぞらしい)

半熟三昧:

2020年買ってよかったもの【モノ編】 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
2020年買って良かったもの【書籍編】 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
一年のまとめを書くのは結構楽しいですね笑。2020年は割に本を読んだつもりでしたが、そうでもありませんでした。

*1:まあしかし、今私の住んでいる人口40万前後の都市で毎日10-15人の感染症患者がでている程度なんて、生ぬるいのかもしれない。例えばドイツとかだと、同じ人口規模だと、一日に800人とかの感染者だ。ひょ、ひょええ〜〜〜。

*2:フィーはでない。経営者だから。

M-1を観てマスターゲッティングの難しさを感じた。

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2020, 津山

コロナ、コロナ、コロナ(Covid-19, SARS-CoV-2)……
いや大変やわ!
このブログ書くのもはばかられるような地元の状態でした。
まあまあ大きな病院でのクラスタ感染が連発し、感染症拠点病院の病床利用率は50%を越える勢い。
何しろ大都市圏に比べて、当地は医療提供体制が脆弱。もうひと押しで、患者はさばききれなくなる。
これで、介護施設での大規模クラスタが発生したら、もうアウトのところまで来ている。

私も地方医師会員の一人として対策会議の動向を見守り、時に自分にできるタスクをこなしたり、一方、徐々に増える発熱患者に対しての診療を行っていますけど、かなり剣呑な状況。前回のブログに書いたようなトリアージを行わなければいけない状況はぜひぜひ避けたいところです……

2020年M-1

仕事納めになってから、録画していたM-1を今更ながら観ていました。
今年は低調であったという意見もありましたが、いやいや面白い面白い。去年のミルクボーイの「システム漫才」の圧倒的勝利という構図ではなかったためかもしれませんけれども、多士済々なんじゃないですかね。ミルクボーイのシンデレラストーリーが、参加者に火をつけた感あった。

まあ僕みたいな素人が何をいっても二番煎じにしかならないわけなんで、感想とか書くのはやめときます。

気になったのは「アキナ」と「錦鯉」だった。

アキナの敗因

アキナは「気がある地元の女友達を楽屋につれてくる」というネタだった。
下馬評でも高評価だったのだが、結果はいまひとつ。審査員の講評でも「うまいのに…、順番かな?」みたいな感想だった。
しかし、一人サンドイッチマン富澤が「ちょっとオジサンには『好きな女子』という設定がハマらなかった…というところはありますよね」
というコメントを発していたが、これが真相を突いていると思った。

多分アキナは劇場で勢いもあり、笑いをとっているし、関西で実力がある芸人であるのは間違いない。
おそらくアキナは、そういう普段の主戦場でのリアクションを見て、決勝に持ってくるネタを選んだんだと思う。
ただ、劇場にいる同年代の芸人や、自分からそれを見に来ている熱心なファンというのは、年代も近いし、ライフステージも近い。
楽屋ネタ、芸人と芸人の近くの恋愛模様みたいなシチュエーションは身近に感じられるネタで、きっと劇場では、M-1以上にウケるのだと思う。
ただ、M-1の視聴者には、普段劇場で相手している観客にみられる均質さがない。
TV番組、しかもゴールデンタイムでの全国放送である。もう少し雑多で多様な集団である。

対象となる聴衆の特性の違いに注意を払わずに劇場向けにチューンナップされたネタをそのまま出してしまったことがアキナの低評価の原因だったのだろうと僕は思った。

ターゲットの範囲と笑いの強度はトレードオフの関係にある

ターゲットを広げることと、より共感度の深い「刺さる笑い」は、トレードオフの関係になる。
聴衆が多様であればあるほど、全員に刺さる笑いを作ることは難しい。

マーケティングの話でいうと、マスマーケット向けの商品とニッチな市場では競争力の原理が全く異なってくる。
アキナは、劇場という環境の中で研鑽をつみ、あえてターゲットの幅が狭いところで競争力を磨いた。したがって劇場の観客には強い競争優位性をもっている(下馬評の高さはそのためだと思う)。
しかし、M-1は、ある種のマスマーケットである。
そしてニッチな市場での競争優位性は、マスマーケットで通用するとは限らない。そこにはマスにウケるための若干のチューンナップが必要だったのだと思う。

まあそういう意味で「アキナ」は、普段相手にしている聴衆が透けて見えるコンビだった。

錦鯉の「ヨゴレ感」

「錦鯉」もそういう匂いがあった。
「錦鯉」はなんと私よりも歳上の49歳のボケ、モト冬樹と死神を足して2で割ったような風貌。
人生の澱を色濃く漂わせていて、無邪気に笑えない重さ(それは痛々しさにもつながる)があった。
ネタも「パチンコ」が題材だった。普段ターゲットにしている聴衆のバックグラウンドがうっすら透けて見える。
要するに関西言葉でいう「ヨゴレ」感があった。「お茶の間にだしたらあかん」感があったね。
いや、結構面白かったんだけど、彼らも、このニッチな場での圧倒的な競争優位を、マスターゲットに引き写す余裕もないがための違和感で、それが得点に反映されていたと思う。

かといって、はじめから全国放送向けの聴衆相手にウケるお笑いをイチから作ることもできない。
まずはお笑いの「強度」が先だ。その後、ターゲットを広げてゆく。
初めはターゲット層を絞ったエッジの効いた笑いを練り上げて、それをTV向けに、全年齢向けにうまく投射してゆくというのが、過去数多のお笑い芸人のたどった道である。
はじめからマスターゲッティングを相手にした場合、やはりお笑いとしての強度が弱くなってしまうのかもしれない。
んー、たとえば、森脇健児とか、中山秀征という名前が思いつきますね……。
そういう意味では、ダウンタウンとか千鳥とか、すごいですよね。あらゆる層をターゲットにしつつ、笑いの強度も確保しているわけで。

というわけでガチガチの医療系の記事ばっかり書いてましたけど、今年最後はタイミングもはずしたM-1の感想という、いかにも薄ぼんやりしたエントリで締めくくります。一年間ありがとうございました。
ちょっと12月は停滞していたので、もうちょっとがんばります。

いまこそ外部化された倫理委員会の設置が求められる

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2020, 東広島の寒い空

コロナ、コロナ、コロナ(Covid-19, SARS-CoV-2)……いや、やばいっすね。

北海道、大阪、多分いずれ東京も、医療提供がじわりと逼迫している。
大阪は特にやばそうな感じはするね。医クラの同志諸君は大丈夫だろうか。

逼迫した医療提供体制

ただ、こうした現状は歴史的経緯を振り返ると無理もない。
1990年代くらいから現在の超高齢社会は予想されていた。医療費だけではなく、介護・年金など社会保障に関する国費の負担は当然問題視されていた。
そういえばその頃には「医療亡国論」という言葉もあった。*1

だから、21世紀に入ってから医療費そのものはずっと増大しているのも確かだが、需要の増大に比してかなり上げ幅を切り詰めて今に至っている。
高度経済成長期に発展した地域の医療体制を、うまく組み替えて、時には薄めて伸ばして、現在の体制を維持してきたのが実情だ。

そこには当然現場の奮闘もあった。
昔に比べて、医療従事者は給料は下がり、仕事が増えている。
患者の要求度も増しているなか頑張っている*2
だが、厚生労働省の施策も、かなりうまく取り仕切っていたと思う。うまい、というか、せこいというか、不公平にならないようにバランスをとりつつ、全員がちょっとずつ貧乏になるように、かなりうまくマネジメントをしていた。

もちろん、そういう仕事は、必要ではあるのだが、気の毒なことに感謝もされない。
蛮族の数は増えるのに、砦は損耗し兵士の士気はさがり予算が減る一方……ローマ衰退期の将軍のような心境だろうな。
誰からも悪口を言われる仕事ではあるが、誰かがやらないと、簡単に崩壊してしまう。

* * *

いずれにしろ、現在の医療提供体制は、薄めて薄めてのばしてのばしてなんとかやってきたようなものだ。
BMPをJPGにするような間引きが、その裏側にはある。
それで現在の医療は成り立っている。
病院の利益率が平均して1〜2%というのは、そうなるように巧妙に価格を切り下げ切り下げやってきたからなのだ。
その意味では効率化を極限まで進めて、今の日本の医療がある。


ところが、効率化と冗長化トレードオフの関係にあるわけだ。

ギリギリで保つような状況でやってきた医療体制にコロナのような全く想定外の災害がやってきたら、うまく回る余剰などないのだ。
冗長化された部分など、30年前にはあったが今の日本の医療にはどこにもない。

現場の裁量は、現場を疲弊させる

ということで、現場、医療が逼迫するのは、ギリギリで回しているから仕方がない。
ある種数十年の経緯の必然だからね。
では、こんな逼迫した状態を、現場でなんとかしろ、というのはなかなか難しい。

このまま行けば、需要(治さなきゃいけない人)と供給(確保できるベッド)のバランスが破綻する日はかならず来る。
要するに、治療したいけれど治療に割くリソースがない、という状況。
おそらく一部の地域についてはもう顕在化しつつある。
hanjukudoctor.hatenablog.com
四月に同じようなことを書いているけれども、では「誰を治療すべきか?」という選択を現場にさせるのは、現場にとって酷だ。

ただでさえ、重症のコロナ患者は致死率も高い。誠実に診療しても救えない命もある。
普通に診療していても無力感を感じてもおかしくないのだ。

その上に、助ける人、助けられなくて「見殺し」にする人、それを現場に選べと?
現場で治療をしている人が、その選択の責任を負うのか?

トリアージまでさせるということは、その責任を持つ、ということだ。
たとえ法的に責任を問われなくても、まともな医療者なら道義的責任は感じて当たり前だ。
一人の人間が耐えうる精神的な限界を超えてもおかしくない。その苦しみは死ぬまで続くのだ。

平時は、現場の裁量権はできるだけ大きい方がいい。
その方が現場が働きやすいからだ。
ただ、今回のような異常事態で「トロッコ問題」のような選択をしなければいけない場合は、現場にそのストレスを負わせるべきではないと、私は思う。

「倫理委員会」という名の下のトリアージ

現場の精神的負担を減らすための理想は、現場はあくまで「来た球を打つ」という体制で、粛々と仕事をする形にした方がよい。
そのためには、治療現場の「供給の限界点」をきっちり設定し、それを決して超えないようにしないといけない。

では、その供給を超えて需要が発生した場合はどうするか?
そこは、何らかの上位構造によるマネジメントの出番だ。

誰がそれを担うのか?
ある種、究極のトリアージである。
カンビュセスの籤といってもいいかもしれない。

このトリアージは、どうしたって恨まれる。
あとで問題視もされる。
痛みを伴う、つらい仕事だ。

そこに、医療を全くわかっていない人が担うのは問題だと思う。現場に近い声は正しく咀嚼できないといけない。
しかし地方自治体の首長…まではいかないかもしれないが、ある程度の裁量権を持った政治的な立場の人間が加わることも絶対に必要だと思う。

個人に権限を集中すると、おそらく平時に戻った時に、その人は職業生命を失いかねない。
職業倫理に誠実な人も、これに関わると、残りの人生、迷み苦しみながら過ごすことにもなるだろう(だから現場には担わせたくないのだ)。

現場の診療に従事していないトリアージ専門の医療者の集団を策定するのが、もっとも穏当なのではないかと思われる。
地域の医師会の数人、基幹病院の幹部クラス数人、保険所長、自治体長、あたりを構成員に入れ、地域の「倫理委員会」というものを構成すればどうか。その委員会で、地域の医療提供体制とベッドの状況をみながら、集中治療を行うべき候補を選定するわけだ。

苦しみを伴う作業であるが、だからこそ、現場からそれを引き離して欲しいと思う。
そういうのがないと、多分、すべては現場に押し付けられ、現場が消耗し疲弊し、奉仕精神に満ちた医療者の心を傷つけるだろうから。

というのは、旧日本軍にもみられた、日本型マネジメントの宿痾だからだ。

アメリカ軍とかは、まあ資源が十分にあるというのもあるが、基本的に継続性を重視して十分な休養をとらせる。
日本人は兵站を重視しないというか、戦局を一時的なものと捉えて、継続して戦える体制を作るのに慣れていない。
そして、先の大戦で得られたその教訓も、現在の会社組織においても活かせていない。

だから、このままいくと、歴史的教養もないトップ*3が、戦意高揚だけして兵站を軽視した作戦を展開するだろう。
現場の将兵=医療従事者は英霊と化すという未来がうっすら見える。
だから、それをコントロールする「倫理委員会」が必要なのだ。

「倫理委員会」の外部化には大きなメリットがある

あえてこのトリアージを行う外部団体を「倫理委員会」と呼称したのは、こういう倫理委員会が医療機関に依らず地域に設置に永続的に設置されることが必要ではないかと個人的には思っているからだ。
もしそういう倫理委員会があるとさまざまなメリットがある。

個々の医療機関には、例えば臨床研究や治験の承認機関としての「倫理委員会」が設置されているのが普通だ。
が、近年、意思決定支援などを行うことが増え、病院の内部で倫理的な問題を取り扱うことが非常に増えている。
この部分は、ここ数年注目されてきており、当院でも、自院内の倫理委員会に、治療方針などを諮ることが非常に増えている。
(逆にいうと、一医師と一患者の関係性だけで決められないことが、とても増えているのだ。去年だったか、透析の福生事件というのもあったが、ああいう、簡単に意思決定できないことがとても増えている)

病院であれば、多職種そろっているが、例えば診療所であれば、意思決定を院内で円滑に行うというのは結構難しい。
現行の体制で、そういう意思決定支援を外部に諮る仕組みもない。
けど、そういう事例が今後も増えてくる。
倫理的なイシューについて(そんなに大岡裁きのようにクリアでなくても)共有する仕組みが、今後もあったらいいと思う。

問題はそれに関わる予算だよな…
今回の「極限状況」で各地域に「倫理委員会」のようなものの枠組みができると、戦後はその枠組みを少しスライドさせて使っていくことは可能なんじゃないかと思う。

*1:皮肉なことに、医療は亡国ではなく、基幹産業のように考えるべき、という考えもでてきている。ただ医療費が増大すれば国際収支は赤字に傾くのは確かだ。

*2:しかしこれは他業種も似たり寄ったりではあるので、医療従事者が「俺たちは大変なんだ!」と訴えても、今ひとつ響かない。みんな余裕がないのだ。

*3:誰とは言わないが、Y知事には、そういうインテリゲンチャの素養は極めて乏しいように思われる

「新たな病床機能の再編支援について」

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2020 衆楽園(津山)

コロナで日本中がてんやわんやしている最中、実はこんな提案が厚生労働省からでていた。
あまりブログやSNSでも話題になっていなかったが、募集はもう終わったので掲載してもいいだろう。

<新たな病床機能の再編支援について>
https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000683711.pdf

読んでいただければいいが、病床削減をすると、その分お金だしますよ!というめっちゃ明け透けな提案だ。
一ベッドあたり、100万〜200万。
あとは病院間の統合によるベッド数削減や、債務整理などに関しても補助がでるという計画で、地域の病床再編を支援するという提案だった。

高橋泰先生が「今後の日本の医療は撤退戦だ、信長が浅井朝倉連合軍と戦った時のようだ。すなわち金ヶ崎の戦い=「金が先」」なんて言っていたけれど、大筋はそういう考え方に沿っていると思う。今後病院の数は減らしていかざるをえないし、集約化は必須の流れだ。
hanjukudoctor.hatenablog.com


実際人口減少地域では、どんなに経営努力をしたって病床はなかなか埋まりにくくなっているのは事実。
10年後はさらにひどいことになる。
どうせ使っていない病床であれば、今こうやって返上して、コロナで毀損したキャッシュフローに当てても…と考える医療機関はあってもおかしくないだろう。*1

今回の計画の予算は約80億円。
一ベッドあたり 100~200万円(稼働率によって違うらしい。えげつない)てことは4000-8000ベッドくらいをまずは削減対象にするってことか。総ベッド数は一般88万、すべて合わせて150万床弱なので 0.5%くらいの量だ。
まずは観測気球として、地域のお手並拝見、ということなのだろう。
この提案に対する手上げの様子をみて、来年度以降も同様の政策を決定してゆくものと思われる。

コロナ下で、「医療体制の逼迫」という中での提案というのが、ややイメージが悪いが、そもそもこういう休眠病床は、今逼迫している高度急性期もしくはアクティブな急性期とは性格の異なる病床で、コロナ患者を受け入れる能力を有していないことが多い。*2
なのでこの部分を整理・削減してゆくことと、コロナで病床が逼迫していることとは、矛盾しない。
こういう経営効率の悪いところを切り捨て、需要のある方にリソースを分配していく方が、おそらく国全体の利益にはなるだろう。

ただし、地域格差や地域偏在などについては、悪化するのは間違いない。

それにしても、往時は、ベッドは病院同士で競り合ったり、これよりは高額なお金で売買していた時代が、嘘のようだ。
時代の流れを慨嘆するね…
大体一ベッドに患者さんを一日入院させていると、療養型であったとしても2万、地域包括ケアであれば3〜4万、急性期病棟であれば6万くらいの医業収入になる。病床利用率率を低めに(例えば60%)見積もったとしても、一年で2万x365x60%=438万は収入になるのだ。
それを返上して100-200万?一時的なお金だぜ?まあふざけた話にも聞こえる。
が、病院というのは旅館業などと同じく、固定費の多く、利益率の低い業種である。平均の利益率1-2%くらいなのだ。
まあ返上を考えているようなところでは万年赤字に違いないから一ベッドあたり得られる「利益」の数十倍の現ナマを掴ませてくれる……と考えることもできる。そう思うと、この提案は「ケリ」をつけるのにはいい提案なのかもしれない。
葬式代くらいにはなるやろ…という感じだ。

それにしても病棟返上は、縮小均衡そのもので、未来のない話だ。
ただ、地域事情に未来がないのだからしょうがないのかもしれない。


半熟三昧:

『皇帝たちの中国史』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
気がつくと、12月ですね。はー……
12月は例年あまり調子がよくないのですが、今年はなおのこと。

*1:実際まあまあの応募が地域によってはあったらしい。10月に発表されて、締め切りは11月末…理事会も社員総会も経る方針決定だろうに、みんなまずまずのスピード感だと思った

*2:こういうやや低機能の病床を、軽傷者のコロナ収容に当てられるのであれば、医療逼迫とはならないのだが、なかなかそうはならない。それぞれが民間病院であり、号令のもと、診療のあり方を強制できないからね。本当は、ホテルに収容するよりは、最低限の医療監視体制は備わっているので、そういう形で国民の福祉に貢献できていれば、このような存廃を問われる事態にはならなかっただろう

コロナはフレイルを招き、フレイルは顧客を長期的に毀損する

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2020, 福山

コロナ、コロナ、コロナ(Covid-19, SARS-CoV-2)……
第三波が、地域によってはシャレにならない事態を引き起こしつつあるようだ。
当地域は、第三波らしい波もまだ来ていないのだけれど、もしこの地にクラスター感染が多数発生し、重症患者がある程度出現しても、医療のキャパが低いから、あっという間に詰んでしまう。
その意味では、他の地域で起こっていることを、固唾をのんで見守っているのが現状だ。

外食もなかなかできないね。
歓送迎会とかそういうのが迫っているんですけどね…

クライアントの高齢者の方々:

私は地域密着型の中小病院と透析施設を擁する医療法人にいるのだが、我々の顧客は、透析患者さんであったり、近在の地域の方々だったり。
病院に通院・入院する人の常として高齢者が主力だ。

我々の使命は、クライアントである患者集団を、できるだけ健康で長持ちさせてゆくことだ。
コホートの損耗をできるだけ避けて、温存させる。ハザードレシオを高値に保ち、生存曲線を高止まりにする。
抽象的にいえばこういうことだが、もうちょっとわかりやすい感じで言おう。

大きな味噌玉のようなものを、お湯の中に入れて、できるだけ揺らさないようにして、溶け出て目減りしないようにして運んでゆく。
慎重に運べば、大きな味噌玉であろうし、揺らしたり雑に扱えば、味噌玉は溶けてなくなってしまう。

転倒後のリハビリであったり、誤嚥性肺炎の治療をしても、すべての人が助かるわけではない。
老いには逆らえない。寿命としかいえない顛末はあるけれども、質の良い医療を提供し、しっかりリハビリをして元気に退院する場合もある。後者が少しでも増えると、味噌玉の減りは抑えられる。

きちんと診療し丁寧な外来診療などで疾病を未然に防いでいれば、その見返りとして自分たちの顧客は減らず、良好な経営状態を保つことができる。その意味でいえば、顧客と我々医療従事者は互恵性がある共犯関係にあるわけだ。

2030年、2040年にむけてこれから地域の高齢者がどんどん減っていく。
自院の勢力範囲の味噌玉=クライアント集団にできるだけ質の高い医療を提供し損耗を抑えることが、地域密着型の病院の基本戦略なのである。*1

ところが、コロナによって、高齢者の方々は、少なからず、日常の生活を変えることを余儀なくされた。
『緊急事態宣言』の時は、みな外出を控えてテレビに張り付いて、いたずらに恐怖を煽り立てるワイドショーをみていた。不要不急な外出は控えましょうと言われ愚直に従い、朝晩の郊外の散歩などさえ控える人は沢山いた。
結果、歩ける人が、ちょっと歩けなくなったりして、要介護度が増えた。
介護施設の多くが面会不可となったのも大きい。家族の面会が減ると外的刺激も減ってしまう。精神衛生上もよくない。
認知症が通常よりも進行したよな…と慨嘆する事例はいくつか目にした。
もちろん、きちんと体を動かしていた人もいたが、むしろ少数派だった。

結果的に、どのくらいのインパクトがあったのかはまだわからない。
重要なのは、総体としてみて、我々が2030年くらいまで大事に大事に目減りを抑えて引き継いでいかなきゃいけない原資である味噌玉は、この2020年で、例年以上に溶け出してしまった、ということだ。
溶け出した味噌玉は、絶対に戻ってこない。

多くの医療機関での単年度の経営の悪化は、これは算出できると思う。
ただ、この顧客の健康状態に対する影響というのは算出が難しい。ストックの毀損なのだが、普段このストック自体はあまりとらえられていないからだ*2

シビアなことをいうと、地域の医療需要と介護需要のピークの再計算が必要ではあると思う。
需要予測カーブは、大幅に下方修正して考える必要があるのかもしれない。
2040年に事業をやめようかと思っていたのが、2035の時点で損益分岐点を割り込むようになっていた、とかだとシャレにもならない。

フレイル

しかし、高齢者のフレイルが大問題だ、など「上から目線」で語ったりしているけれど、
サルコペニアとかロコモティブシンドロームなどの身体的フレイルは高齢者に特有の弱点であろうが、
こと、社会的なフレイル=ソーシャル・フレイルに関しては、我々世代の方が現時点でさえよっぽど高齢者のそれより脆弱だ。

社会的なネットワークからはみだし、友達もおらず、一緒にご飯を食べにいく友人もおらず、休日も特にやることのない人は、沢山いる。
仕事に行っている時以外では、ほとんども口もきかない、とか、そういう人も沢山いる。

高齢者の心配なんかしてる場合なんかじゃない。
さらにいうと、現役世代の「経済的フレイル」(ファイナンシャル・フレイル)は数段深刻でもある。
数十年後に見える地獄のことはあんまり考えたくない。

*1:一方、顧客を抱え込まず、地域の診療所や介護施設・病院から重症患者を送り込まれてくる基幹病院ではフロー型のビジネスモデルになるので戦略は全く異なってくる。

*2:年齢調整人口と要介護度の比率という統計データの年次推移があれば、ある程度目に見える形にできるかもしれない

ユニバーサル・マスク

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2020, 松江

コロナ・コロナ・コロナ(Covid-19, SARS-CoV-2)……
地元市での流行はまだまだ散発的だが、全国的にはじわりと第三波といっても過言ではない。
八月・九月は緩みも許容されたが、コロナ、きっちり戻ってきやがった。

流石にこの状況では東京大阪への出張も控えざるをえない。
それにしても東京大阪、そして北海道の医療の逼迫具合は、かなり気になるレベルではある。
押し込める病棟がなくなったら、多分相転移が生まれ、それまでのプロセスを知らない人には「地獄か?」と思える状況が生まれるだろう。そして現場の医療従事者は非難され、感情の波濤に翻弄された最前線の現場戦士達は消耗してゆくのだろう。

* * *

以前に書いたが、初期の段階で専門家会議はかなり巧妙に感染防御計画を立てていた。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「三密」という言葉、人混みではマスクをしましょうと、割と明確にメッセージを打ち出していた。

今や世界でも常識になっているけど、初期は感染しない人はマスク不要、が欧米では常識。
マスクにはエビデンスがない、と言われていたことを皆忘れてはいけない。
三密についても、欧米のロックダウンとは明らかに違う次元の提案だった。我々はもっと感謝してもいい。
専門家は、初期の段階で、感染防御について、かなり明確なドクトリンを打ち出していた。
そしてそれは今見ても妥当なのである。

日本では、もともとインフルエンザの流行期に、満員電車などでマスクは当たり前だったので、全員がマスクをすることについてはあまり抵抗感がなかった。
しかしエビデンス厨は、そういう海外の知見を引き合いにだして「マスクは不要です」というメッセージを打ち出していた。

* * *

結局のところマスクには、飛んでいる飛沫を防ぐ力はそれほど強くはない。が、飛沫を飛ばさない、という点では一定の効果がある。
そりゃ、手術の時に術者がマスクをしているのだから、それを延長して考えれば、わかりそうなものだ。
だから全員をマスクで覆えば、たしかに感染はかなり抑えられるだろう。

でも、欧米では、いまだかつて、インフルエンザや風邪の流行期のマスクは推奨されてはいなかった。
これ、欧米でコロナ以前にマスクが否定されていたのは、
「仮に全員がマスクをするような事態が作れるなら…」を仮定しても、
『その仮定絶対無理じゃん』と、そこで棄却されていたからだ。
それは社会的に無理だよなとマスクの効果の実証以前に門前払いだったわけです。
そうすっと、個人単位でつけているマスク防御には限界がある。だからマスクにはエビデンスがない、ということになっていた。

今回のコロナ禍で、全員が(しぶしぶにしろ)マスクを強制着用しうるという状況が生まれた。
そうすると、やはり感染防御効果が高いのではないかという事実が学術的に共有され『ユニバーサル・マスク』という言葉が生まれた。
そして新たなエビデンスが生まれつつある。

でもそれって、エビデンスがない時代から、日本では暗黙知でなんとなく取られていた戦略なんですよね。

* * *

しかしせっかく日本の感染防御は、エビデンスない状態でも先行して、まあまあの成果を上げていたのに、
エビデンスが揃って各国足並みをそろえる今、むしろ日本はエビデンスから遠ざかり、後退している。

ホリエモン尾道餃子店でのマスクとるとらないの話とか、飲食店での振る舞いとか。
メディアに出る人たちが、マスクなしのフェイスガード・マウスガードをつけて出ている様など。
むしろユニバーサルマスクに反する行動が、ここにきて目立つ。

せっかく自国がまずまずの戦略をとっていたのに、その戦略の価値をわからず、自己解体してしまう。

こういう状況って、何度か見るよな。
例えば、太平洋戦争初期の航空機の運用。緒戦では世界よりもはるかに先進的な用兵をして大勝していたのに、むしろ航空機へのリソースをまわせず、損耗するパイロットを保護しようともせずフル回転で稼働させ、いたずらに消耗させて、最終的には航空機戦において遅れをとり、敗北した。

例えば戦後レジームの中で未曾有の経済的成功をおさめたのに、バブル崩壊以降、世界の金融の潮流から完全に背をむけて、経済発展ではアジアの後塵を拝してしまう、とか。

サイエンス・リテラシーが低いのか…
ウサギとカメでいえば、どちらかといえばウサギ。最後には負けるやつ。

真実のかけらをつかみかけていたのに、その価値の見極めができないため失敗してしまうというね。
朱子学的な要素があって、理念先行した場合の現実との解離を修正できないのか。
日本人は目はいいが、頭が悪い。悲しいことだ。

「とりあえずビール」の謎

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2020, 庄原

全国の感染者数はそれなりに居るみたいだし、フランスをはじめとしてヨーロッパでは猛威をふるっているみたいだ。
でも、ここ地方都市にいる限り、コロナもインフルエンザも、遠き対岸の火事だ。
いつ我が事になるのか……背中に冷や汗を感じその日に備えつつ粛々と仕事するしかない。

「とりあえずビールね」の意味

昔の世代と今の世代で、うけとめがかなり違うのは、この「とりあえずビール」だと思う。
今や、乾杯の飲み物だって、めいめいに好きなものを頼むのが普通。ノンアルコールを頼むのも別に問題がない。

20年くらい前、20世紀末に学生〜社会人だった自分の記憶はこうではなかった。
とりあえず、みなにビールのグラスがゆきわたり「乾杯!」の発声。
ノンアルコールという選択肢なかった。飲む飲まないはともかく手元にビールは振舞われたし、飲み干さないまでも、口をつけることは暗に求められていた。
全員が同じ飲み物を持ち「乾杯!」の発声で一斉に飲み干す。
これが昭和の「乾杯の儀」である。

* * *

「とりあえずビール」はWikipediaにも掲載されている。
ja.wikipedia.org

今でも「とりあえずビール」は是か非か?という議論はあるけど、
「用意がすぐ済む」「乾杯までの時間を短縮できる」という店側のオペレーションに関するメリット・デメリットの面、もしくはスタータードリンクとしてビールを飲むという健康的な効用の面で論じられることが多い。

でも僕は「とりあえずビール」のそもそもの民俗学的な起源を考えたいと思う。

共同体への参加

現代の社会は、新しい技術のもとで一から構築されたものではなく、古い社会(部族社会・村落共同体)に、新しい科学技術を付け加えて付け加えて、徐々に刷新していったものだ。
だから我々の生活様式に、驚くほど古い時代の因習が残っていたりするが「とりあえずビール」はその一つだ。

* * *

現代。グローバルな社会は、知らない人に会うことは珍しくない。
しかし古い世界では、共同体の中で生活している限り「知らない人」には出会わない。
「知らない人」は共同体の規範に従わない可能性がある異邦人である。
そういう人が許可なく単独で共同体の中を歩くことは許されない行為で、場合によっては殺されても文句は言えない。
自分がどの共同体に属しているかが生死をわける、ということが当たり前だったのである。*1

コミュニティへの所属は集団の同質性によって担保される。
わかりやすく言えば衣食住が共通であるか。
同じ服を着て、同じような住居に住み、同じようなものを食べる。
それで同じ共同体の成員であると見なされる。

それが転じて、異邦人がコミュニティに参加するイニシエーション(儀式)として、
飲食を共にする儀式は、世界のあちこちで普遍的にみられる。

インディアンの部族でも、友好の印にタバコ=煙管の回し飲みなどを行っていた。(聖なるパイプ)
村で作った酒をみんなで飲むことは、共同体への参加のイニシエーション。
若衆が大人になり飲酒をすることは、大人社会への参加のイニシエーションだった。
ムラの結束を高める効果があった。
「同じ釜の飯を食う」という言葉が、そのものずばり示している。

これが

  1. 「サラリーマンムラ社会」における「とりあえずビール」による乾杯の儀式
  2. 大学生の新歓コンパ(これも一つのムラ社会)で、とりあえず新入生に酒を飲ませて潰す儀式

のルーツ。
昔は村で仕込んだ樽酒をみんなで飲んだものだが、昭和期に都市部の大量消費材であるビールを同じ目的に使われたという経緯も記しておかなければいけない。

「とりあえずビール」の終焉は何を意味するか

現在「とりあえずビール」の風習は薄れつつある。
これは、社会のあり方が共同体社会から個人社会になっているからだ。
会社のあり方も変わった。
簡単に言えばゲマインシャフト(地縁・共同体社会)からゲゼルシャフト(契約によって成立した集団)にかわったのである。
会社は本来ゲゼルシャフトなのだが、高度経済成長期にはゲゼルシャフトゲマインシャフトに錯覚させ組織力を高めるという戦術をとっていた(その戦術の根幹は終身雇用・年功序列制度。要するに組織の外部との人材流動性を凍結させて、ムラ社会を形成したのである)。

バブル崩壊後、日本の会社組織は「会社というのはもともとゲゼルシャフトですよ」みたいな顔をして、終身雇用制度をくずし、会社内のムラ社会を解体してしまった(はっきりいって、ムラ社会はコスト高だからだ)。
 それにより集団の同質性・同調圧力は当然低下する。
 社内の理不尽なムラ社会の風習は21世紀に入り風化した。*2

 今、飲み会でも「とりあえずビール」じゃないことが当たり前なのは、僕はいいことだと思ってはいる。
 いい時代だな、と思う。
 僕は共同体社会苦手な、シラケ世代、SPA!世代だし。*3
でも「とりあえずビールであるべし」と今でも言いたがる御仁は、その意識の底流に共同体社会への回帰願望があることは自覚しておいた方がいいと思う。

*1:ユーゴスラビア紛争や、ルワンダ虐殺などの状況を想像してみればいい。前近代にはそれが平常だったのだ

*2:ただし、共同体社会としての組織のあり方ではない契約社会組織のあり方の完成形を僕たちは手に入れていない。日本社会の低迷はそのようなところにもあると思われる

*3:そもそも酒を飲む習慣もない