半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

死後の世界 その2

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いかんいかん。8月が終わり、9月になってしまった。
二週間も空いてしまった。その間に、安倍総理も退任を決め、台風の到来も近く、コロナウイルスは自然弱毒化のフェイズに入ったかのように感染者数を減らしている。
最近は、けっこう仕事が忙しい。
余暇の精神活動がほとんど止まっている。本は読んでいるけど、少し頭がバテています。

* * *

前回の続きである。
hanjukudoctor.hatenablog.com

「死後の世界」?
こいつヤベエ奴だな…と医療者の読者は思ったに違いない。

少なくとも、自然科学の体系の一つとしての現代医学をつきつめても「死後の世界」にはいかない。
論理体系の延長線上に死後の世界を構築することはできない。

死ぬと人は物体にすぎない。おそらく死ぬと意識はそこで途切れるのだろうと想像できる。
現代の生理学や脳科学などからは、脳の生命活動が止まり、肉体が滅びて意識が残留するとは考えられない。
そうでなければ脳死移植などできるわけないではないか。*1

現代医学の担い手は、当然死後の世界はないものとして振る舞う。

もちろん現役バリバリの脳外科医が、臨死を体験し死後の世界はあると宗旨替えしたような話はある。
ただ、今の所、主観的なものであり、死後の世界を実証するほどのエビデンスはないので、医学の論理体系では依然死後の世界は証明されていない。

人類史の中での「死後の世界」

ただ、自然科学を離れ、歴史を遡ると、現在まで残るすべての文明・文化は「死後の世界」を前提として存在している。
フィリップ・アリエスを引用するまでもなく「人間は死者を埋葬する唯一の動物」である。
そしてその逆で、死者を葬送しない文化は、ない。

ネアンデルタール人にも葬送の痕跡が残っているが、古代文明の随所に葬儀・葬式、埋葬など、死者に対する畏敬の念は感じとれる。鳥葬や風葬などの変わった葬礼はあるものの、ほとんどすべての文明において死者は他の無生物や動物とは同列には扱われない。

もちろん、花などで飾り立てたり、生前の持ち物を携えて埋葬をすることは、直ちに死後の世界を想定しているとは意味しない。が、現存する多くの社会において、死後の魂(明確に概念化されることはないこともあるが)という考えはあまねく認められ、そのような考えのもとに、死者は着飾られ、埋葬されている。


我々の文明の発展は「死後の世界」という概念なしではなしえなかったのではないか。
つまり「死後の世界」の概念は文明を推し進めるエンジンとして作用したのではないかと思う。
このことは死後の世界を否定する文明が存在していないことによって、間接的に証明される。
この辺りは、宗教学や死生学の領分ではあり、そこまで私も詳しくはないのではあるが、もう少し拙論に付き合っていただきたい。

文化装置としての「死後の世界」

発端がどうあれ、死後の世界は、社会を継続する装置として文明に必須なものとなった。
少し前に「自分が死んだら所蔵する『ゴッホの絵』を棺にいれて、一緒に燃やして欲しい」なんていう人がいた。
自分の意識は生きている間だけであり、自分が死ねば、無になりはてる世界では、死後世界がどうなろうが関係ない。
そういう世界では、自分の所有財産も、利己的に、生きている間に蕩尽しようと考えても不思議ではない。自分の行動として、長期的なスパンで責任をとる必要もない。後世が困ろうが、今がよければいい、という無責任な態度もとれる。
2〜3年で会社を移り変わる職業経営者が、中長期的なビジョンはともかく短期的な視点で業績をあげることを考えてみるとわかるだろう。

動物の場合は、遺伝子の保存のためだと思うが、本能で子や眷属のために利他的に振る舞う。
だが人間の場合は、本能による利他的行動は希薄だ。
ゆえになんらかの社会的規範がないと利他的な行動を促せないのではないかと思う。

概念としての「死後の世界」というものを設定し、我々の「個」が独りで生まれ、独りで死んでゆくという生物的な事実から、死んでも世界は終わらないのだ、と考えることができるようになった。

自分の死後も世界が続くのであれば、無責任な行動は取れない。
そして自分の死後も自分の意識が続くのであれば、自分の不行跡は、少なくとも自己反省を強いられるであろうし、その意識が、他者も交えた「社会」に置かれるのであれば、利己的な行動は、制限される。
なんなら自分の生前の善行の多寡で死後の世界の階位が決まる「天国」「地獄」概念まで後には作られた。
人はますます生きている間に利他的行動を取り続けることを求められるようになった。

アリの社会における働きアリと同じく、農奴のような人達は死ぬまで収奪され続ける。
が、それを本能なしで、死後の世界のためのポイント稼ぎという能動的行動に転換させたのは、死後の世界という文化的装置のなせる技である。


「死後の世界」という発明で我々人類は本能以上の利他的行動をとらせられるようになった。
その結果、余剰な物資を必要以上に蓄えることもでき、世代を超えた中長期的なスパンでの連帯・協力ができるようになった。
その結果、高度な文明を築くことができるようになったのではないかと思っている。

「あの世」がないと、どうなるのか

ここまで「死後の世界」というのを説明してきたが、実は「死後の世界」の二つの意味を敢えて曖昧にして述べてきた。

(A)自分が死んだあとの、現実の今いる世界。(そこでは自分は存在しない)
(B)そして、自分が死に肉体が滅びたあと、自分の意識がゆくとされる「死後の世界」。

現代では(A)はあるが(B)はないものとして取り扱われる。
文明が発展し、歴史も記録されるようになり、死んだあとの「あの世」(B)はともかく、我々の死んだあとも、我々の生きた証は、記録され、後世に語り継がれるようになった。(A)の世界は過去みられたどんな文明よりも精緻になっている。

その意味では、我々は死んでも、死後、世界(A)が続くことはあまねく共有されている。
我々が死んでも、我々が生きた痕跡は、いたるところに残るであろう。

ただし、その反面、直接体感できない世界(B)は、語られることはなくなってしまった。*2

ようするに昔は(A)(B)二つの世界で、自分の死後を保証していたのが、今は(A)世界の一本足打法になってしまった。

(B)は現代社会では否定されてしまった。
本当に(A)だけで大丈夫なんだろうか?
自然科学は完全に「あの世」を否定してしまったが、それは我々の意識をやはり変えてしまったのではないだろうか?


我々は現世主義になりすぎていないか?
自分が死んだあとの世界に対して、我々現代人はきちんと責任をとっているのだろうか?
もしそうなら、なぜここまで環境を破壊し、後世の子孫が困るような状況を作ることができるだろう?

(A)の世界でも、優れた業績などは記録に残され、栄誉は後世まで語り継がれる。
 だが、語られない部分については、記録に残らない一般人の行動に対してはあまり影響しないのである。
(B)の「あの世」は、記録にも残らない大衆に利他的な行動をとらしめる力があった。
 それは今はもうない。
それでも家庭を持ち、自分の子供がいる場合は、死後の世界(B)がなくても、自分の子や孫の住む社会がよりよいものであるように、と、素朴に考えて、利他的な行動をとることができる。
だが、それも、子供のない人口が一定の割合を超えてしまうと、おそらくうまく働かなくなるだろう。*3

今までの伝統社会で培われていた死後の世界(B)を殺してしまった我々は、
おそらく、文明の継続性のために必須な要素の一つを、葬り去ってしまったのかもしれない。

かといって、ないはずの「死後の世界」があるというわけにもいかないし、難しいものである。

*1:主観的な時間が無限に引き伸ばされることはあるかもしれない。要するに心臓が止まり、脳が止まるまでの数秒・数分が、主観の脳内では無限に感じられる。この場合も、主観的な自分は死後永遠の時間を生きることになる。もしそうだとするといやだな…

*2:物語の世界では今も脈々と息づいている。ファンタジー小説などもそうだし、例えば村上春樹の小説などは、そうした非(A)的な世界の存在が人間の活動に必須であるという本能的な直感で書かれているのかもしれない

*3:「無敵の人」は往往にしてそういう状態から作られる。

死後の世界はあるのか その1

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スウェーデントーチって言うんですってね

コロナ、コロナ、コロナ……(COVID-19, SARS-CoV-2)。
私は広島県福山市に住んでいる。先月クラスタ感染が発生した*1が、結局数百人規模のPCR検査を行い幾人かのPCR陽性者は発見されたものの、さらなる流行拡大の目を摘むことができたのか今のところ爆発的流行は回避できたようだ。よかった。
それなりに人口流動もあるし*2、散発例はでており、地域にコロナウイルスは少なからず存在するのだろう。これ以上は、封鎖でもしない限り抑え込むことはできない。大都市圏に比べるとだいぶましだ。

* * *

お盆だから、死後の話でもしてみよう。

hanjukudoctor.hatenablog.com

人生会議ことACP(アドバンス・ケア・プランニング)は、高齢社会の中でますます重要になっている。
高齢者を診察する機会が多いので、私もACPについてはかなり踏み込んで関わっている。
介護施設も含め、当法人の管轄では胃瘻や経鼻胃管で延命する患者さんと、しない患者さん(口から食べられるギリギリまで粘り、あとは従容と看取る)では、正確な数字はだしてないが20%:80%くらいだと思う。10年前は胃瘻の方が多いことから、隔世の感がある。

病い(やまい)は医療で治せる。
老い(おい)は治せない。
老いによって命の終焉を迎える場合、出来るだけ自然に、苦痛を少なく幕を引く方がいい。
多くの先人達もそう提唱してきたし、自分でも携わっていてやはりそう思う。

しかし老いの坂を降りる人に、自然の摂理に反して坂を登らせる場合は時にある。
例えば家族が強く望んでいる場合とか。
本人も、家族に求められている…とがんばるのだが、実際はなかなか大変だ。
不顕性誤嚥で肺炎を繰り返す、拘縮しかかった関節をリハビリでほぐして動かして、萎縮しきった筋肉に負荷をかけたりする。
どれも、かなり苦痛に満ちた作業である。エントロピーに逆らうのは大変なのだ。

うまくいく場合はいい(そういう時もある)。
しかし、家族の意向はともかく、できないものはできないじゃないですか。
たとえば、どうしても医者になってほしくて子供に医学部受験を強要する親。
 結局子の学力が伴わず、多浪の挙句人生の前半を棒に振った人、なんて話、医学部界隈にはゴロゴロしている。
老いに勝てないリハビリも、そんな感じだ。
(でも中にはADLが戻る人もごく稀にいたりもするから、人の体というのはおもしろいのだけれど)

* * *

そういうわけで、看取りの機会はかなりあるから、ACPにお世話になることはよくある。
学会や研究会主催のACPがらみのセッションにもかなり参加した。

そういう学会で、いつもモヤモヤしている。
ACPは「病い」よりも「老い」、もっと言えばその先の「死」への意思決定だ。
しかし、ACPにまつわる議論では死そのもの、もっといえば「死後」の話は、慎重に議題から外されている。
ACPに再しては個人の死生観に直面する必要があるのだから、本当は、ここの部分は結構大事で、もっとしっかり議論しなければいけないのではないのか?

* * *

ただ、死後の話は、とても難しい。
特に日本においては。

現代医学は自然科学を元に構築されているが、自然科学はもともとヨーロッパ文明を出自としているので、その精神的なバックボーンであるキリストと医学は親和性が高い。*3
日本の場合は、神道・仏教なども入り混じっており、またその混交の程度も個人差が大きい上に、我々にその自覚もない。*4
自分の死生観が、いかなる思想(西洋のキリスト教か、神道なのか、仏教なのか、儒教なのか)をベースにしているのか、その混合比はどうなっているのか、明示できますか?*5

現代に生きる我々は普段あまり宗教的な心性に至ることはない。
そういうものを考えなくても毎日の生活はただ流れてゆく。
しかし、死がちらついてきたような人生の晩年に、自然科学的な考えーー死後の世界を積極的に裏付ける証拠は全くない。現時点では死は生命の終わりであり、個人の意識は終了するはずだーーは受け入れがたいものに思われる。*6
幾分かは宗教的な、あるいは哲学的な思惟を、その段階になって遅ればせながら考えることになる。(そしてスピリチュアルと称する訳の分からない混沌より出しものたちに身ぐるみ捧げることになるのだ)

終末期の議論をより良く行うのは、多分医療者だけでは無理だ。ではそれは誰に相談すればいいのか?牧師を呼べばいいのか、僧侶を呼べばいいのか。
その辺りも機微は難しい。
今のところ明確な受け皿はない。
(まあ、西洋だって、神父(カソリック)を呼ぶのか牧師(プロテスタント)を呼ぶのか、はたまたラビを呼ぶのかで、戦争だって起こりかねないのだから、いずれにしろデリケートな話だとは思う)

ちなみに、これ読んでいる皆さんは、死後の世界って、どう考えてます?

医師である私も、多分他の医師と同じように、死後の世界や「あの世」のような考えを持ち出されても*7
議論にはならない。
ただ、でも墓参りにもいかない、というほど唯物論的、無神論的なわけでもない。そこは整合性がない。
でも、みんなどうやってこの辺りの矛盾を合理化しているのだろうか。

続きは次週。

ジャズブログ:

セッションのロードマップーその4(離) - 半熟ドクターのジャズブログ
ジャムセッションのマナーというか、心構えみたいなものを、自分なりに書いたもの。完結するまで半年かかってしまった。
「セッション初級者に必要なのは、勇気!中級者に必要なのは、引き算!上級者に必要なのは、熱意!」
はい、大事なことなのでもう一度書きましたよ!。

*1:クラブイベントのような密な集会が発端

*2:実は私も他所の都市のジャズのジャムセッションに行っている。感染防御がかなりしっかりしているので、危険は感じない。ただ外食はほとんどやめている。以前こういう遠征の時にはその土地で飯食って帰るのが通例だったが、コンビニで食料を買い込み車中で食べて済ませる。ストイックだよね笑

*3:ヨーロッパ中世のキリスト教史観は現代の自然科学とは似ても似つかないものであるけれども…ただ死生観はキリスト教がベースにあるのは間違いない。そういう観点では医療倫理学は西洋の方がシンプルだとは思う

*4:ちなみにマルクス唯物史観を経た中国という国では死生観というのはどうなっているのだろうか?

*5:個人的には、自然科学をベースにした無宗教とみせかけて、古代神道の素朴な精霊信仰=アニミズム、つまり土着宗教だわね、の変形版の人が一番多いのではないかと思う。ただ、地獄極楽の思想もインドの仏教にはなかったわけだし、この辺りを掘り下げてゆくとさらに難しい

*6:これは自然科学そのものが死、そして死後の話への思索・研究を意図的に避けてきた、という所為もあるだろう

*7:そういえば、患者さんでも、医師に言ってくる人は、ほとんどいなくなったな。

原爆の日

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2020の初夏の広島

コロナ、コロナ、コロナ(COVID-19, SARS-CoV-2)……
吉村知事、やらかしてしもうたなあ。
考えてみれば、3月・4月の非常事態宣言直前以来、目立った医療系の「デマ」はなかった。
久々感はあるね。*1
それはともかく、思った以上にコロナウイルス治療開発は進んでいない印象だが(その割に重症化率はじりじりと下がっている)、ワクチンについては各社がしのぎを削っている。ただ、ワクチンが本当に有効なのかどうかはわからない。
どうもコロナは予想を裏切るからね。*2

* * *

8月6日は広島に原爆が投下された日、いわゆる原爆の日だった。
以前にこのブログの前身になるウェブサイトでも書いたが、私は広島県人で、中高大学と関西に出ていた。
広島ではこの日はとりわけ厳粛な日であり、真面目に戦争と平和について考えるのが当然だった。関西では、そこまでの謹厳さはなく、不見識な同級生が原爆について茶化すような発言などに驚いたものだ。(広島にも不見識な人間はいるが原爆を茶化す言動は、まずない。親戚を辿っていくと、被曝した人の一人や二人は居るのが当たり前。他人事ではないからだ)

そういう薫陶を受けて育ったので、基本的に頭でっかちで文化相対主義的な私も、原爆(もう少し広げて核兵器)についてだけは文句なしに反対だ。
(では原発はどうか…というと、それほどアレルギーはない。原子力潜水艦についても容認派だ。)

* * *

ただ、被曝都市広島の、平和発信運動が、将来も続けられるかどうか。
そもそも日本にとっは最後の戦争は太平洋戦争だけれど、その後世界大戦こそないものの世界は紛争で混沌としている。
ともすれば、いつ第三次世界大戦が起こるかもわからない(振り返ってみれば、今起こっている局地紛争が数年後の大戦の引き金になる、なんてことは十分ありえる)情勢でさえある。
その中で先の大戦の記憶が、紛争下の世界に、訴求力を持ち得るかどうか。

時間は距離だ。
時も地層のように堆積し、古い地層は、現代と隔たりがある。
75年の距離は感情移入を阻む。*3
(その意味で、ここ最近「この世界の片隅に」という名作は、あのころの広島との距離を縮めてくれた気がする。)

被爆者の団体も次々解散している。
あと30年もすれば、原爆をくぐり抜けた第一世代の方々はいなくなる。

被曝の語り部も、二世・三世だけではく、当事者とは関係ない若い人が語り部になったりもしているらしい。
伝聞を伝える、ある意味『被爆の琵琶法師』のような存在ということか。

しかしそれが、今の世界情勢のなかで、どれだけの共振力を持ちうるか。

無辜の市民がとてつもない災厄に襲われるという点では原爆は普遍性を持ちうるとは思う。
ただ、現在の世界秩序に反対している運動家からは、広島原爆は、アメリカに反抗して殲滅されてしまった(そして自らの主義主張を曲げアメリカに屈服してしまった)過去の事例ということである。
原爆を落とした側のアメリカは今日も『あやまちを繰り返している』。
では、我々が学んだ教訓は「アメリカには逆らわない方がいい」なのか?

その辺りのモヤモヤは、時代によって、結構かわる。
原水禁運動や、冷戦下の中での資本主義陣営の反対勢力的な要素は時間経過に従って洗浄されてしまった。
その意味では、時間による作用も、悪いものばかりではない。

ジャズブログ:

かなり久しぶりに更新したジャズブログ。以前に書きっぱなしだったシリーズがかなり残っていることに、いまさらながら気が付いた。
今までのコンテンツも、読みやすくすることはできそうだ。

*1:オルベスコの尻すぼみを考えれば、みんなイソジンに飛びつきはしなかったんだろうじゃないかと思う。まるで1910年のハレーすい星大接近の時のタイヤチューブがバカ売れした時のようだ

*2:ワクチン一番乗りに成功した場合のプレミアムは計り知れない。一方、コロナウイルスの感染様式のほとんどは自然免疫であるという説もあり、ワクチンがAdversiveに働く可能性も否定はできないだろう。

*3:ジャズなどという、古い地層の音楽をやっているお前が何を言うかと自問する。ただ、50-60年代というのは70年代生まれの僕とはギリギリ地続きである。それより昔のSP盤の世界には僕は距離を感じる。また今の若者は同じジャズでも自分たちと地続きの世代に親しみを感じているようだ。

『ダメになった王国』

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あつはなつい。2020年。

コロナ、コロナ、コロナ……(COVID-19, SARS-CoV-2)。
コロナウイルス、じわじわ感染拡大してますね。これで第二波なんてない、というのはちょっとどうかと思うなあ…
COVID-19、自分では診療してないのであくまで仄聞だが、病態は非常に興味深いね。特に重症例。

コロナウイルス属って人間界にありふれたウイルスなのに、今までほとんど研究対象になってない。
死ぬ病気でもなかったから、興味本位で研究しても予算もつかなかったのだろうけれど。

だから今回のコロナ禍、アカデミアを擬人化すると「今まで勉強していなかった分野が試験に出た!」みたいな感じなんじゃないかな。
コロナは人間界の盲点を突いた。

今回のSARS-CoV-2ウイルスの研究を通じて、旧型コロナウイルスの研究も進むんじゃないかと思う。
例えばコロナウイルスの感染が、膠原病とか、もっと予想もつかない疾患の発症トリガーになっていた……とか発見されても驚かない。
何しろ、今までろくに調べていなかったのだから。
答え合わせは数年後かなあ。

* * *

当院は80床の中小病院。
基幹病院に比べて高度な診療をしているわけではないが、介護的な観点、社会的な観点で難問を抱えた患者さんはむしろ多い。*1
その場合、入院中の診療もさることながら、問題は退院してから。どうやって安定した在宅生活を維持できるか、に知恵を絞る必要がある。
このミッションの場合、主役は医師ではなく、社会福祉士(MSW、ソーシャルワーカー)だ。

何人も見ていると、難問自体はいくつかのパターンに集約されるのだが、そういう一つのパターンに『ダメになった王国の王様(または女王様)』というものがある。

ダメになった王国

昔、自営業だったり中小企業の社長であったり、一国一城の主人だった人。
家族の中で家長だった人。
自分で意思決定して、他の人を指図していたような人。
つまりは自分の築いた王国の中で、『王様』(もしくは女王様)として振舞っているような人。

こういう人の中には、プライドが高くて、他の人に指図されることを極端によしとしなかったような人。
「わしは聞いてない」とかいって、他の人の発案を潰せるような人。
他人の助言も、他の人の言うことに従うのは沽券に関わるのか、一旦は退けて、少し時間が経ってからあくまで自分で発案したかのように言い出すような人さえいる。
とにかくイニシアチブを握っていないと気が済まない。
そういう人が世間にはいる。

こういう人が、認知症になったり、大病を患ったりすると、どうなるか。

こういう人は、自分の判断力が衰えても、自分の決定権=王権を手放さないのである。
家族の言うことも聞かないし、医療者のいうことも聞かない。*2
何十年も「王様」して振舞っている人には妙な全能感がある。
自分の体がよくならないのも、自分の体のためであると見なさず、よくならないのは医療者が怠慢か無能力である、と決めつけたりすることもある。余力があればドクターショッピングを行い、元気がない場合は、医療者の言うことを聞かなかったり、へんな代替医療に走ったりもする(要するに、自分の都合のいい意見をいう人に巡り会うまで「チェンジ」を続けるわけだ。リテラシーなどはとうに失われているか、もともと無かったりする)

こういう人。
家族がいる方の場合は、本人は家族の無限大の助力を当然に要求し、感謝もしない。
 家族は、あごで使われていて、気の毒だったりする。
もしくは、もう家族に見放されて、独りであったりする人もいる。
王国を失っても、王様然と振る舞う人は、いる。
自分の能力のほとんどを、いかに人心を操作して自分の望むように動かすかにだけ注力して、自分で何かをする能力を全く涵養してこなかった人は、どんなに窮地に陥っても、人に命令することしかできない。

そういう人が、いるのである。
自分では何もせず、他責的な人にとっては、老いの坂そのものが試練だ。
 我々の所にくる時点で、多くは落魄している。
ただ、その人の周りに従者然として存在している。
逃げ遅れた「いい人」が。*3

* * *

ちなみに「駄目になった王国」というのは、村上春樹の掌編にそのもの『駄目になった王国』(『カンガルー日和』に収録)から名付けた。
私はソーシャルワーカーの分野を系統的に学習していない。
だから、こういう人に対して『駄目になった王国の王様』という名前をとりあえずつけたけれども、この現象には、正式にはどのような名前が付いているんだろうか。もしよければ、ご教示いただければと思う。

解決策は難しいのだが、なるべく本人を傷つけずに現状を追認してもらうしかない。
ただ、どうしたって、現状と認知の歪みがある場合は、本人の自意識を引き摺り下ろす作業にはなる。
自分で降りてくれたらいいのだけれど、たとえ幻想であっても王冠というものはやすやすと脱ぐことは難しいものだ。

ダメになった王国には悲劇がある。
僕たちにできるのは、ダメになる前の王国で、王様然と振る舞う人に、そういう末路を見せて、今の傲岸な態度を改めてもらうことくらいだ。

*1:透析の基幹施設でもあるのだが、透析の患者さんはこれまた社会的な問題を複数抱えていることが多い。おまけに当院はもの忘れ外来もあったり、アルコール依存症の治療もしていたり…問題が大きい患者群が当院のターゲットである

*2:内弁慶で、医者の言うことにはその場では逆らわないが、自分の領地=家庭などでは好きに振舞っていたり、という複合技もある

*3:今風の言葉で言えば、こういう『王様』はテイカー、こう言う人に付き従っている人はギバーの典型なのかもしれない。ギバーでも、金持ちになれないタイプのギバーね。

ポストコロナのMR業とは

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2013, 金沢

コロナウイルス(Covid-19, SARS-CoV-2)第二波、まったなしですね……
住んでいる福山市でもクラブイベントの出席者に感染者が発生したりしました。
クラスター感染!
濃厚接触患者は200人以上ということで、国からクラスタ対策班にもきてもらい、のべ200人くらいにPCRを施行。
幸い、現時点では思ったよりも感染者は少なく重症者もいないようで、一安心ではあるけれども、さすがに警戒体制とはなった。
感染者は若い人が多く、コンビニ店員や飲食店員など、感染のハブになりうる人が感染している。
Go To トラベルキャンペーンも始めることだし、この先どうなることやら……
*1

* * *

MRさんの面談

製薬会社のMR(メディカル・リプリゼンタティブ。まあ営業みたいなもの)の対面も、コロナ以降完全になくなっていたのだが、
最近は、テレワークのデバイスを使ったチャット形式での面談の要請があって、2、3受けてみた。

今の所、あまり感触はよくない。

会社によって使うアプリが違う

 社内規定によるのだろうが、会社によってMicrosoft TeamsとかWebexとか指定してくる遠隔会議ツールが違う。(Zoomはさすがに少ないが、一社だけあった)。当然こちらの方で、それでけアプリをインストールしないといけない。三つ目くらいになると、だんだん「なんでこんな、やらなあかんの?」とか思ってくる。
 そして、これは完全にこちらの問題なのだが、診察室に置いてある病院のPCは低スペックで、音がとにかく割れる。
 使用環境が悪いと、面談時間の満足度はやはり落ちてしまう。
 MRの接遇の基本としては「医師を不快にさせない」なのだろうけど、現状は今までのMRのありようのスタイルにそぐわない気がする。

すっぽかしのリスク

 面談時間は、外来や病棟のICの合間にやっている。
 もちろんアポイントは取っているのだが、アポイント通りの時間にならないことはよくある。
 それは医療が、スケジュール通りにいかないからだ。
 少し早めに始まったり、初診とか、外来の患者さんが入院になるなどで予定外の仕事が発生すれば、逆にどえらく遅れたりもする。
 あまりにひどく遅れそうだったりする場合は一声かけて後日アポにするが、30分くらいならMRさんは待つことが多い。

 ところが、ひどく忙しい日、連絡もなくMRさんの遠隔面談をすっぽかしていたことに、翌日になって気づいた。
 いつもは「実際に待っているMRさんの姿」がリマインダになっていたのだと、その時に気づいた。

プレゼンの時間

 MRさんのプレゼンは、普段からiPadなどのタブレット端末を用いて自社のパワーポイントを見ながら解説する、というスタイルが多い。
 テレ面談も基本的には同じだ。
 だが、PCを通した場合、丁寧なMRの面談のものいいが、冗長に感じられてしまうのだ。
 説明動画とかで冗長な場合、1.5倍とか速度をあげられるけど、対面だとそういうわけにもいかない。

 多分いままで対面の場合、話が長いと「それで?」とか「結論は?」とか次を促していたり、もしくはこちらの顔を読んで、MRさんがプレゼンを端折ったりしていたんでしょう。テレ面談だと、その辺の機微が伝わりにくいらしく、説明にイライラさせられることが多かった。

 MRさんは医師に対して「医師を不快にさせない」よう「過剰に丁寧」に接遇するスタイルが身についている。
 しかしそれがテレワークのような率直なコミュニケーションツールに本質的に馴染まないのではないかと思うのだ。
 ICTはダイレクトなコミュニケーションの方が馴染むんだと思う。ただ、そういうスタイルは、今までのMRさんの行動様式と真逆である。

先がない

 MRの対面は「情報提供」という名目で行われている。
 が、その実、ある程度医師と面識を得て、地域の講演会に来てもらうきっかけを作ったり「その先」が目的になっている。
 もちろん、情報提供そのものの大事なミッションではあるのだけれど、でも情報提供だけが目的であれば、もっとストレートな媒体はあるはずなのである。やはりMRの面談には、別の目的があるのだ。
 MRの面談はぶっちゃけ「ドア・オープナー」たま。ナンパテクでいう、道を訊くふりをして話しかけるきっかけにするやつ。もしくは「今度飲みに行きませんか?」といって口説くきっかけにするやつ。

 しかし、対面の面談にしろテレ面談にしろ「ドア・オープナー」の目的である肝心な講演会がないわけだ。そりゃ面談も身が入らないというか、ちょっと別のものになってしまうのだろうなと思う。

* * *

以前からMRさんは情報の中間流通業者としての存在だと論じてきた。
hanjukudoctor.hatenablog.com

これはコロナとか関係ない時に書いたものだが、コロナによって、全国規模の講演会も学会も封じこめられてしまった。

情報の流れを切るわけにはいかないのでICTを駆使してWeb上で学会発表、シンポジウムを開催することになる。実際そうなっている。
製薬会社主催の講演会もウェブベースで開催されているが、製薬会社別のWebsiteに誘導会員登録させるやり方は、なんとかならないだろうかね。もう一度いいますけど。

いずれにしろWebフォーラムが主体となるのであれば、地域に配置していたMRは、本質的に不要となる。
今よりもWeb面談に特化した専属のMRがコールセンター的な役割を担うのかもしれない。
僕たちにしても「この薬使ったことないけど教えて」とすぐ教えてもらえるなら、その方がありがたい。

* * *

MR側からみると、今のこの現状はかなり憂慮すべき環境であると思うが、例えば、弊院の先生方としては「いやーMRさんの面談がなくなって快適ですわー」という感想をもらっている。当院はベテランの先生が多く、例えば臨床研究とも無縁で新薬に対する興味も低いというのもあるから、基幹病院ではもうちょっとMRは求められているとは思うが、これも現場の声の一つであると思う。

*1:個人的な行動としては、ジャズの場に行きジャムセッションは続けていますが、むしろ外食の危険が無視できないほど高くなったと思う。自宅の食事か、コンビニ食を余儀なくされた。

リニアやめたら?

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2020, 広島

コロナ、コロナ、コロナ……(Covid-19, SARS-CoV-2)
第二波!!来た!意外に早かった!

もちろん現時点では重症者はあまり多くない、という情報は、少し心強いけれど、重症者は多分遅れて増えてくるので、今の時点で少ないから大丈夫とは言えない。地方にもじわっと浸透してきて、全国的に再流行する雰囲気だ。
しかも、豪雨災害…*1

こんな中、Go To キャンペーン……ということだが、さすがに医療機関の我々としても大都市への出張は禁止せざるを得ないな。
あれ、本当にやるんだろうか。

僕も2020年中には多分東京には行けないと思っている。
それに、今までは東京に行って聴いていた経営セミナーとかそういう講演会とかも、Zoom とかを使ったものに変わってきていて、東京に行かなくてもなんとかなるのだ。ますます行く理由はなくなった。
正直、東京出張は、講演会が終わってから東京の『夜の街』を飯食いにいったり、飲みに行ったり、ライブ見に行ったり楽器持ってセッションに参加したりの「余禄」の部分も大きかったので、東京に行けないのは結構つらいんだけど。

* * *

ところで、今の体たらくをみていると、はっきり言えるのは、リニアいらんよな…ってこと。
静岡県が反対しているとかいう以前に、リニアそのものの必要度は大幅に下がってしまったのは明白だろう。
JRの旅客客も激減し、航空業界も大打撃でもあるのだが、数年後に、旅客数がV字回復をして、さらに需要が増える、とはちょっと考えにくい。
もちろん多忙なビジネス環境の中で移動速度が速くなることは正義だが、遠隔カンファレンスなどのゼロ時間にはかなわない。
まだそんなに作っていないんだったら、この際リニアやめときません?
まあそういうわけにもいかないんでしょうけど…

リニアモーターカー自体は僕らの子供の頃から未来の高速鉄道としてもてはやされていたけど、どうやら人口がこれから急減して需要はしりすぼみになる。おそらく2040年頃にはそんなに東京大阪間の大量輸送なんかいらなくなるんじゃないか…とは、ということはみな薄々感づいていた。
だからこそ急いで急いで2027年の開通予定だったわけだが、今回のコロナで旅客・鉄道の需要がゼロリセットされ、多分元の状態に戻るとしても3年くらいはかかるだろう(遠隔会議などで元の状態に戻らない可能性も十分ある)。旅客需要のピークが3年後ろ倒しになるとピークが消失してしまう可能性が高いんじゃないかと思う。
そうなってくると『リニアいらない感』は誰の目にも明らかで、地獄の公共事業になるのではないかと思う。
やめるなら早いうちがいい。今なら3年後にやめるより傷は浅いはずだ。

* * *

製薬会社のMR(まあ営業みたいなもの)の対面も、コロナ以降完全になくなっていたのだが、最近は、テレワークのデバイスを使ったチャット形式での面談の要請があって、2、3受けてみたのだ。いろいろ感じるところがあったのだが、この感想はまた今度。

*1:悪い予想通り遠隔地から応援にきた保健師がコロナ感染だったという泣きっ面に蜂みたいなニュースもあった

ボーナスとは何か

biz-journal.jp

コロナで、大なり小なり医療機関はダメージを受けているけれども、そんな中東京女子医大ではボーナスゼロの状態になり、看護師400人が退職するとかしないとか、それに対して経営陣は「足りなければ補充するしかない」と言ってさらに火に油を注いだとか注がないとか。

Twitterの医クラでも
・そんな現場の医療職を大事にしないような病院は潰れてしまえ! という意見もあったし、
・いや、ボーナスって業績連動なの知らないの?こんだけ赤字で、ボーナスが普通にもらえるなんて考える方がおかしいんじゃない?
という、どちらかというと経営側の視点の意見もあったりして、色々かまびすしい。
正直、ポジション・トークであるような気もする。*1

実際のところ、ボーナスはいわゆる「基本給」とかと違って、法的根拠はない。
ものすごく業績が悪くて赤字の場合、ボーナスをゼロにしても、法に触れないのは事実だ。*2
(一方基本給を勝手に下げることは、禁止されている)
そもそも給与規定というのは会社と労働者の間で交わされる一種の労働契約だが、ボーナス(賞与)については、規定がないことがほとんどだ。もちろん暗黙の了解や、社内のルールはあるはずだが、法的根拠まではない。
だから業績が悪い場合にはカットされることもありうるものではあるのだ。

ただ、一方、労働者の側では、ボーナスは暗黙の了解で、1ヶ月か2ヶ月か、それとも3〜4ヶ月か支給が当たり前と考えられている。
これも事実だ。
伝統的な日本企業では「ボーナス」は給与の一部に組み込まれているも同然で、もちろん業績で上下はするものの、まあ基本的にはでるものと思われている。

どっちが本当なんだろう?

* * *

「日本 呪縛の構図」というちょっと前に話題になった本には、こうある。

世界史に詳しい方は「ドッヂ・ライン」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。
第二次世界大戦後、GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジ(デトロイト銀行頭取)は通貨供給量を絞り、インフレを安定させる政策をとった。当時アメリカは極東における防共の砦として日本を使うかわりに、さまざまな経済支援や在日米軍の駐留(当時の日本にとっては軍事費の負担なしに防衛する意味で経済効果は大きかった)などで日本を支援したが、アメリカから日本への資金流入アメリカの財政を圧迫していたことも事実で、財政安定策は表向きの理由だが、米国政府にとっては自国益優先もあった。
通貨供給を絞り緊縮財政におちいり、インフレは抑制され物価は安定したが、産業界としては、深刻な資金不足におち入り失業や倒産が相次いだ(いわゆるドッジ・不況)。

 ここできわめて重要な役割を果たしたのが、池田勇人のような人々の創意工夫だった。彼らは財政金融システムの監督方針を通じて、日本の大手輸出企業が海外市場制覇のために必要な資金を辛抱強く捻出できるようにした。そのために、日本独特の構造的特徴を持つ金融システムを集中的に利用できるような融資調達のメカニズムを構築したのだ。
 これらの政策の多くは戦時中の資金調達方法を応用したものだった。*3一般家庭の貯蓄を預金受け入れ金融機関に預けることを強く奨励し、それらの機関に政府の発行する金融商品を購入させるという手法もその一つだ。
 国民に貯蓄を奨励するためにありとあらゆる手段が講じられた。一般世帯が子供の学費を払い、老後資金を蓄え、その上住宅を購入したければ家計を事細かに管理して定期的に貯金するしかなかった。
 一般的な企業では給与のほぼ三分の一が年に二度のボーナスとして支給されたが、これによって各家庭の主婦は給与の三分の二で家計をやりくりする方法を強制的に学ばされた。ボーナスシーズンには銀行や郵便局から宣伝や広告が殺到して国民にボーナスを貯金するように勧誘した。(『日本 呪縛の構図』第5章 高度経済成長を支えた諸制度 より)

月割りで月給がでていてもそこからまとまった額を貯蓄することは難しいが、ボーナスとしてまとまったお金がでていれば、それを貯蓄するというのはさほど難しい話ではない。
要するに、国民の給与を銀行に還流し、それを資金調達の財源として使うというスキームを誰かが考えた。日本のボーナスのシステムは、そのために作られたわけだ。
ただし、巧妙にそのシステムがつくられたので、ルールの背景はあまり知られていないし、今では裏の意味もみな知らずに制度だけが残っている。

企業の業績がいい時だけ、ご褒美に賞与として支給する。
表向きはそうなっている。法律的にもそうだ。ボーナスに法的根拠はない。
でも、実は、想定年収の 三分の一か四分の一を、年二回の賞与として支給という形で最初からデザインされている。
ドッジ不況」の時に誰かがそうすることを企み、だいたい年収の25~30%はボーナスという形に変えて支給することにした。*4
そして、もう何十年もそういう「暗黙の了解」で世の中は回っている。

「ボーナスが全額カット」と言われると、あたかも当然最初から与えられた権利を、奪われたように感じるのはそのせいだ。

* * *

実は戦後こっそりと作られたシステムを、あたかも所与のものであるかのように錯覚しているものはよくある。
僕は団塊ジュニア世代で、僕らが子供の頃は「日本人は勤勉で、貯蓄を当たり前のようにする民族だ」みたいになんか刷り込まれていたけれども、なんのことはない、戦後に作られた比較的新しい慣習にすぎない。
終身雇用だってそうだ。

* * *

今回のボーナスカットについてどうこうは思わない。これくらい業績が悪ければ「聖域」とも言える部分もカットせざるを得ないだろう。
経営者の当然の権利、とも思わないし築き上げてきた組織に大きなヒビが入ることも承知の苦渋の選択であることは想像に難くない。左手を切断するか、それとも右手を切断するか、みたいな究極の選択なのだろうとは思う。まあだからこれだけ看護師が離職するのだろう。

ただまあ、議論の中心となっている「ボーナス」の歴史について、意外にみんな知らないみたいなので紹介してみた。
これもまた、戦後の遺産だ。

うちでも、そういう事実を踏まえて、ボーナスの分は全部本給与に含めて、ボーナスという制度やめる?という提案をしたこともあったが、しかし、みんな制度を変えることにはすごく抵抗を示すもので、うまくいかなかった。
考えてみれば、貯蓄を生み出せるボーナス制度は、そう悪いものではない。
ただ、このスキームの弊害は、そうやって得られた種銭を、深く考えずに「銀行に全部預ける」という習慣が日本人に根付いてしまったことだ。日本人が個人の投資後進国になってしまった原因でもあるだろう。本当は、ボーナスで出た原資を個人投資に全部まわす、というのが、2020年のマネー・リテラシー的には正解なのだろうけど。

あ、あと「日本 呪縛の構図」はとてもいい本なので一読することをオススメします。

その他のBlogの更新:

もう一年の半分がすぎたなんて信じられないね。6/30はハーフタイムの日らしいですよ。
コロナで増えたZoomの講演会とリアルの用事ががちにぶつかって、出かけないといけないのにZoomで家に縛り付けられる…みたいなのが増えています。なんじゃそりゃ本末転倒やん。

*1:それに、ボーナスは色々我慢してきた最後の砦であり、単に一度のカットだけではやめたりしないだろう、というのも真実ではあろうとは思う。でも過去5年くらいも赤字だが、ボーナスはしっかり出ていた、というのも事実ではある。

*2:そもそもボーナスがカットされる方が会社がつぶれるよりマシだろ、という考えになる

*3:要するに、国民総動員体制で、民間人の持っている財産や貴金属を拠出させたやり方と似ている

*4:それは住宅や車を買うなど個人のまとまった消費のためにも合理的ではあった。だから給与所得者も反対しなかったのだろう。