半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

臨床研修指導医講習会

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先週末、東京の某所にて、臨床研修指導医の講習を受けてきました。
(あ、これは、研修医を指導する医師のための講習会ということになります。具体的にいうと、研修医を指導する場合に、
 指導も俺流じゃいかんわけだし、評価の方法もきちんと評価表というものがあるので、国の方向性というものを知ってもらわんといかんわけです。
 それで、こういう講習会があります。)

* * *

とにかくスケジュールがすごかった。

朝8:30集合、8:50分を超えたらぶっ殺すてな勢いで、土曜日は8:50から21:30まで、自由時間はほぼなし。
そんなわけで前泊したわけですけれども、東京とか近くに住んでいる人も一日目の夜は全員宿泊。
二日目も朝8:15分集合で、17:30までというスケジュール。これでもかこれでもかというワークショップの数々。
座る椅子も、数が決まっているので、全員が着席しないと次の講義が始まらないという恐怖の連帯責任仕様。
トイレ休憩もないので、合間に行ってきてねーマッハで!というスタイル。

結構面白かったんですけれども、ヘトヘトになりました。
この会に参加した理由は、また機会があれば書きます。

講師(タスクフォース)の人たちは、みなフランクかつ意欲的で、アメリケーンテイストなポジティブさが若干気になるくらいで、講習そのものはダレることなく無事に最後までつつがなく終わりました。
全体にためになることの多い講習でした。
しかしまあ疲れました。

勉強になったこととしては、今回のほとんどのカリキュラムが座学ではなくワークショップの形式で、なおかつそのパターンが多彩だったこと。
4-5人で即席のチームを作るバズ・セッション、隣席の人と相談するアイスブレイキング、K-J法も変法を取り入れてよりブレインストーミングしやすい形だったり。
ワークショップのバリエーションにいちいち感心しました。
私は2000年に卒業した旧世代なので、教育手法のこうした進歩は在学中はあまりなかったように思います。
実際、今回教育に関する講習だったので、現代の教育手法を身をもって味わうことができて、大変有意義でした。まあ、疲れましたけど。

また、班ごとの成果物のクオリティも高いなと思いました。
セミナーでのおもな作業は、研修指導プログラムを実際に作るというものでした。
過去いろんなセミナーでワークショップに参加しましたが、さすが臨床研修指導医の講習に行く(もしくは行かされる)人たち、現在の基幹病院で中核業務に携わっているようなバリバリの先生方なので、理解が異常に速く、問題解決能力も高い。非常にスムースに共同作業ができました。
医師のポテンシャルの高さを再確認しましたよ。ま、疲れましたけど。

ただ、やはりめちゃくちゃ疲れた。
次の週はなんか余力で仕事をしていたような感じだった。

* * *

よりよき研修医を育てるためにどうしたらいいか、というのがこの指導講習会の目的ですが、
学習指導要領、みたいな「研修医に必要とされる能力・資質」の評価表をみていると、
「俺、大丈夫?」という気になった。
研修プログラム上の、必要な資質・能力、技能をすべて身に付けることができれば、めっちゃ優秀な医者やん、と思う。
社会人、知的技術職としてものすごいバランスのとれた社会人である。
そんなやつ、自分の年代だったら、2割もいるだろうか……

昔のカリキュラムよりも今の方が、全人的に医師を育てようという、意思も方法論も充実していて、素直にこのカリキュラムの到達目標を考えながら成長していけば、確かにいい医者になれるんじゃないか、と素直に思った。

* * *

しかし、どうして現実はそんなによくならないんだろう?

すべての研修医がこの崇高なる目標のカリキュラムにのっとって教育されているのに、どうして、中小病院経営者の我々は、医師の確保に難渋し、およそ利他的精神とは程遠いアルバイトの先生の引き起こすトラブルに悩まされないといけないんでしょうか?おお神よ!

と、中世のヨーロッパの農奴がつぶやくのと同じような気分にもなるのだ。
なぜこんなに我々の暮らしは辛苦に満ちているのでしょうか?
審判の時が来て、我々が救済される日は来るのだろうか?

臨床研修指導制度、今のスーパーローテート制度が始まって、もう随分経つ。
でも、その間、医局の地域医師分配機能は失われ、市場原理に委ねられた結果、中小病院での医師確保は難しくなった。
医局に所属せず市場化された医師=ドロッポ医なる存在もでてきた。
場末の医療現場で出会うのは利他精神のかけらもないようなロクでもない医師ばかり。*1

研修指導評価表に、基本的な資質として「利他的精神」っつーのも書いてあるのだ。
でも、利他的精神なんていうものがあったら、ドロッポ医なるものは生まれないはずだ。

* * *

それに、研修指導のスケジュールと、「働き方改革」における労務管理が、真っ向矛盾しているのも気になるところではある。

まあこのあたりは、極めて微妙なバランス感覚であって、顧客である国民が望む医師像は、古典的な「聖職者としての医師」を期待するものだからなのだろう。
「医師の働き方改革」というのは、医師も市民社会における一職業にすぎない、という考え方に立脚している。
 どちらの方を我々は目指してゆくのか、ということになるのだろう。

* * *

講習会の理念や、ゴールについて、会の進め方なども含めて、大変いい会であったし、いい経験になったと思う。しかし、
・普段の環境から隔絶する
・集団行動をとらせて、帰属意識を高める
・肯定と賞賛による強化付け
・スケジュールをタイトにして熟考する時間を与えない
など講習会のプロセスそのものに、
はっきり意図的に洗脳の技法を用いているのが気になった。

ま、まあそれはいいでしょう。いい理念に洗脳されるのは僕は嫌いじゃない。
洗脳されてもいい、とさえ思っている。

でも、会が終わった直後に「よし!いい指導をやろう!」と高揚した気持ちは、帰路につき、自院に帰り数週するとだんだん薄れてきている。
これって、やはり一種の洗脳なんだなあ。洗脳の効果が溶けている過程を見ているんだなあ…と自分で気づきました。

ただね、というかね、利他的精神とかそういうものは、洗脳で植え付けるしかないのではないかと思う。
だからこの我々に使った「悪いテクニック」をきちんと我々にも伝授して、研修医に利他的精神を洗脳する方法を教えてくれたらいいのに、と思った。

*1:あ、ちなみに今うちの病院の常勤の先生方は、弟子入りしたくなるようないい先生が多数です。自慢です。

終わりの始まりなのか、新しい日本の門出をみているのか。

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台風の被害、
千葉県であれほどひどい被害だったとは。
停電している地域の方、本当にお疲れ様です。

狭い地域の強い災害というのは、どうしても全国的な共感が薄くなってしまうところはある。
現在も停電地域の当事者の方々は、受けた災害のひどさのわりに報道のテンションが高くないことを腹立たしく思っておられるのではないかと思う。
というのは、去年の広島県の水害の時、僕らもそうだったから。

一番ひどいところには報道機関もSNSの投稿も難しかったりするので、速報にのらないのだよな…

* * *

電力の復旧には二週間くらいかかるということだ。

数々の災害で繰り返し言われていることだが、高度経済成長期に敷設されたインフラの老朽化が進んでおり、災害が来るたびに老朽化したインフラは壊れやすくなってゆく。そういう場合、応急処置では済まなくて、本格的なリプレースをやらなきゃいけない。お金も時間も結構かかる。

まあ千葉県だし、いずれ高架電線も復旧されるだろうとは思う。
でも、もし夕張市だったら、どうだろう?

* * *

外来での患者さんに、インフラ関係の土木やっている人がいるのだけれど、本当にあちこち駆けずり回っていて忙しそうだ。
そのせいで、よく外来をすっぽかすのだけれども、仕方がないなあとは思う。
(でもこっちとしては薬切らしたらいけない類の病気なので、悩ましくもある)
その人がいうには、来年・再来年先まで仕事はびっしり埋まっていて、やりくりのつきようがない。
しかも、去年の水害で、あちこち土砂崩れもさらに増えた。
マンパワーは有限なので(そして多分予算も有限なので)、過疎地はどうしても後回しになる。

実際、我が地域をカーナビで見渡してみても、山間部においては県道レベルでさえも、通行止めの部分がちらほら。
谷にある集落に入るメインの道はさすがに治っている。
でも、そこから山越えで隣の集落にいくような山道は、治っていない。
水害から一年以上経つけれどそうだ。

 そして、多分、集落の「限界集落」の程度にもよるだろうが、車が通れないままこのまま永久に放置される道はありそうな気がする。

 多分、5年後、10年後には、そういう状況はさらに進み、交通網は、交通「網」じゃなくなっていく。
 点と点は結ばれ、全く孤立した点はないだろうが、隣り合うすべての点同士を結び格子状に移動する自由性は担保されないだろう。
 すでに、地方はそうなりつつある。
 関与する人口が少ないし、その人たちも「しゃあない」と思っているから問題にもならない。

* * *

 電力についても同じことは言えるだろう。
 工業地帯や住宅密集地に電力を供給しないということはあり得ないから、鉄塔は復旧するだろう。

 でも、例えば、20km先に20戸くらいしかない孤立した集落があったとして、そこに電線を引いて電力を供給することはどうだろうか?
 余った土地に太陽光発電パネルを置いて自前で供給する方が、かかるコストは少ないだろう。
 もしくは中規模の天然ガスのジェネレーターを置いてもいい。
 そもそも製造業そのものが、垂直統合スケールメリットの時代から、水平分業の時代に移行しつつある。
halfboileddoc.hatenablog.com

 交通「網」は孤立した点があることは許されないだろうが、電力については、小規模の発電ユニットさえあれば、点は孤立していてもいい。
 その方がコストはかからない可能性は十分にある。
 千葉県であれば、たとえ突端の館山であったとしても、送電のメリットが上回るとは思うが、では島根県鳥取県だったらどうか。
 あそこまで人口密度が減ってきたら、過疎地に電線を引く損益分岐点は、かなりつり上がってくると思う。

 10年後は「スマートグリッド」どころか、グリッドの中に入らない地域が2〜3割あってもおかしくない。

 だが、別にそれでいいと思う。
「すべての地域に電力が普及しなければいけない」というのはその通りかもしれないが、すべてを中央から供給する必要もないのだから。
 過疎地は自然エネルギーがふんだんにあるだろうし、むしろそこから他所に売れるくらいになったら、電線が敷設されるのかもしれない。

* * *

 高度経済成長の時代には、すべての地域はアスファルト舗装された交通網で整備されてしかるべきであるし、すべての地域が送電網でカバーされ、すべての河川は大雨の際に河川災害が起こらないようにケアされる必要があった。

 だが、これらの命題は所詮ドグマにすぎない。
 田中角栄がどんなに頑張ったって、国土改造計画をやったって、結局は田舎の経済発展はできなかった。
 日本の人口動態には勝てなかった。

 だが、ドグマから解放されて柔軟に考えると随分風通しもよくなる。
 交通は辿りつきゃいいし、電気も形はなんであれ使えりゃいい。河川は、本当は洪水がおこらないようにしたいところだが、洪水で死ぬ人、流される家がなければいいだけのことだ。その代償として当然危険な地域に住む自由は失われるけれど。

 でもそうやって荒れ果ててゆく日本の山河は、案外美しい。
 里山から、原生林化してゆくのは、一抹の寂しさはあるけど、30-40年後は、アジアの他の国々は環境消耗が激しいだろうから、美しい山河を持つ我々の国は他国から羨望を持って見られる可能性だってあると思う。
 山河が復活すれば、近海漁業だって復活する可能性もあるしな。

メガネの話していいですか?

マニアックな話をしていいですか?

これは密かな僕の趣味。メガネの話。

私は小学4年生からメガネ。
ちなみに、両親も、兄弟姉妹も、配偶者も、子供もみな近眼。
由緒正しい近眼の家系だ。*1
コンタクトレンズは、一度試してみたがしっくりいかず。
そもそも自分の容姿に自信のない人間は世界と自分の間に、メガネという隔壁が少しでもあった方が都合がよい。
……というわけで、コンタクトデビューは、思春期の自分にとっていささかハードルが高かったと言えよう。
そんなわけでメガネだ。
医者になってからは、感染防御の観点からもメガネの方が便利だと思っている。

* * *

そんな「眼鏡が顔の一部」の私の密やかな贅沢は、メガネ集め。
Jins眼鏡市場では買わず、きちんとしたメガネをTPOに合わせてかける。

メガネのいいところは、服は太ったりすると着れなくなるが、メガネはおおよそ体型の問題がない*2ことだ。

最後に買ったメガネは、去年買ったGernot Lindnerというやつ。
メタルフレーム、というか、このメガネフレームが92.5%のシルバー。なんと銀フレームなのだ。

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Gernot Lindner.

Lunorというドイツの有名なブランド*3のデザイナー、ゲルノット・リンドナー*4が総銀フレームの新しいブランドを立ち上げた…という記事を物欲雑誌で見て、いてもたってもいられずわざわざ東京渋谷のGlobe Specsまで買いにいった。
メガネを買う店は基本岡山の某店と決めているので、わざわざ東京でメガネを買うという不効率を冒してまでも行くということでよほどの覚悟示したわけである。*5

確かにかっこいいメガネで、リュクスな一本として気に入っているのだが、長くはかけられない(後述)。

嫁の眼鏡の話。

こんな感じで、私は色々なメガネを持っていて色々かけわけるタイプ。
ところが、メガネについては我が妻の方がより一途なメガネ愛を持っていると思う。

結婚すると、夫婦の生活習慣は夫・妻両方からもたらされるものだが、我が家の共通の習慣文化のほとんどは妻から私にもたらされた。
逆に、私から妻の習慣を変えた事例はほとんどないが、唯一あるのが、メガネの習慣である。

昔は妻はコンタクトレンズ一辺倒であったが、結婚してから私のメガネ道楽に付き合わされ、そして今では特別な事情がないかぎりほとんどメガネを掛けている。

そんな妻は、基本的に一つのメガネを使い続けるタイプ。
何度かメガネを新調したあと、10年くらい前にOrgreenというデンマークのブランドのメガネがいたく気に入り、それを今もかけ続けている(確かに、よく似合っている)。

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Orgreen フレームのおもてはブラウンで裏地はピンク。
Orgreenのメガネは結構タフだった。
子育ての時期、乳児・新生児を抱き上げてばっしんばっしん手で叩かれても、そう酷くは歪まない。
ヘビーデューティーにも関わらず劣化も少ない。

とはいえ、ずっと同じメガネをかけていると、エッジのところの塗装もはげてくるし、どうしても劣化はする。
新しいメガネはどうか?という提案をしていても「でもこれ気に入っているしなあ…」という感じで、実際にメガネ店に連れて行ってもあまり心動かされる様子もない。

仕方がないので、買った某店で相談。
Orgeenは定番のラインとして今もこのメガネを売っているので、在庫を確認すると、色違いのがあったので、相談した挙句にそれを注文し購入。
それを入れ替わりに、10年かけ続けたメガネを、工場に持ち込んで再塗装した。
見事なもんで、新品同様になった。

というわけで、今妻は色違いの同じデザインのメガネを二つ持っている。多分今後もこれを掛け続けるのだろう。
こういう執着を見ると、私よりも妻の方がメガネ好きなのではないのか?
と思うときはよくあります。
私は色々なメガネをかけわけるけど、それは単に『究極の一本』に出会っていないだけなのかもしれない。

メガネの硬さ・柔らかさ

ところで、妻にはぴったりはまったOrgreen、自分も二本ほど試したのだが、今ひとつ日常使いにはならなかった。

メガネには柔らかくしなるタイプと硬いタイプがある。
特にテンプル(メガネの角から側面にかけて)の部分のしなりがあるものは、身体にフィットしやすくかけやすい。
反対に硬いタイプは、硬さによるフィット感、かっちり感がいいんだろうと思う。うちの妻は多分後者だ。

前者の代表は、今は日本の代表的なブランドとなった999.9フォーナインズ)であったり、軽さ優先のLindbergやiC!BerlinやMykita
とにかく柔らかく、バネのように力を加えても元に戻る。

色々なメガネをかけてわかったことは、僕は前者のかけ心地しか許容できない、ということ。
後者のメガネ、例えば、Oliver Peoples、Oliver Goldsmith、Robert Marc、Theo、Orgreenなどのブランドはいくらデザインを好もうとも、一週間かけ続けようとは思えない。
残念ながら Gernot Lindnerもその類で、ほとんどしなりがない。
だから、例えば学会や講演会で壇上に上がる時とかにつける「よそ行きメガネ」にしているけど、普段長時間つけるメガネではない。

メガネ好き20年、メガネ装着歴30年にしてたどり着いた真理は、そういうことだった。

*1:ちなみに由緒正しいB型で左利きの家系でもあるし、ハゲの家系でもあるし、食道がんの家系でもある

*2:もっとも程度問題はあって、痩せてる人がかけたらサマになるけど太ってしまったらぷぷっ……というものはある

*3:僕は2002年に一本買ったことがある

*4:ゲルノット・リンドナーといわれても多分普通の人は全然しらない。ジャズでいったら、Toots Thielmansくらいの知名度だと思う。その名前を聴いて、めちゃ有名やん!と思うか、それとも知らん!と思うか…

*5:なお、残念なことにいつもいく岡山の某店も、Gernot Lindnerの委託販売をすることになった。タッチの差であった。

時給ベース

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働き方改革」の話は、大企業にとっても、我々末端の中小企業経営者にとっても重要な話だ。
今年度は有給休暇取得5日が義務化された。
こんなのは、まだまだ前哨戦で、基本的にはそのあとに控えている「同一労働同一賃金」の部分が大問題。
間違いなくこれまでの制度の大幅な変更を迫られる。
人事評価制度そのものを変えないと対応できない。

なぜならば、日本のお家芸的な制度である「定期昇給年功序列」は、この新しいコンセプトに真っ向から抵触するからだ。
おんなじ仕事をしていて、進歩もなく、職務権限も限られた高年齢者と、同じ仕事をする新卒は、給与に差をつける根拠がない。許されない。
逆にいうと、給与が高い人は、給与が高い業務をしていますよ、ということを明示しないといけない。
進歩のないやつに、給与が上がる資格はないのだ。

だから、まあ厳密にいうと問題なのは定期昇給
年功序列はそれはそれで不可能ではない。
年功にしたがって重要なポジションを与えれば、そこには高い給与が付いて回るのだから。
だがその状態では競争力やモチベーションも失われてしまう(若い人、くさっちゃいますよね…)


昔はそうではなかった。
かつて、農業や漁業などでは、一通りの天候の変化を経験していないと意思決定に取り返しのつかない誤りが生じる可能性があった。何十年に一度の日照りとか、洪水とか、そういう災害に対して、知っていると知らないではリスクヘッジのかけかたが異なる。
だから10年以上のキャリアの人間に一日の長があったかもしれない。*1
でも、今の仕事というのは、毎日の業務が目まぐるしく変化し・そして技術も進歩してゆく。
洞察力や問題解決能力が問われる時代に、年齢だけから積み上げられる経験は、あまり役に立たない。

生産性の差

ところで、全国企業ならともかく、医療や介護の現場というのは、言うなれば美容師と同じだ。
一人ずつ顧客に向き合って仕事をする。

専門職としての対人の仕事っていうのは、できる人とできない人の生産性の差って、どんだけあっても3、4倍だと思う。
プログラマーのように、千倍とかにはならない。
一人一人の職員の生産性にレバレッジは効かない。

まあ、その分業務量によるインセンティブを出しやすいのかもしれない、とも思う。
でも、チーム医療だから、個人で業績を切り分けるのにも、問題はあるんだよな。
結局、ほとんどの組織は、一兵卒の給与は横並びになってしまう。*2

問題は、その支払い方だ。

時給ベース

ここ1〜2年、先進的な取り組みをしている社会福祉法人や医療法人の話をいくつか聴いてきたが、給与を時給ベースにするのがはやっている。
法定労働時間で割った給与を「時給」として管理し、その分、働いただけ人件費を勘定し、医業、もしくは介護収入と比較する。

月給だと、働いた勤務時間と稼いだ収入などが、月によって細かく変わるので、結構計算がめんどうくさいけど、この方式だと、計算は容易になる。
計算は週ベースだ。
アメリカは昔から週給ベースですよね。それと同じ。

これの利点は、時給ベースで労働量を考えることにより、部門収益と人的コストの計算が容易で、部門ごとの生産性を可視化できることだ。
投入労働量(に各人の給与を掛ければ人件費になる)と、収益を比較しやすい。
また、この規則で動かす場合、シフト調整ができるのなら、法定労働の週40時間を、フレキシブルに配分することも可能で、多様な働き方にも対応できることだ。たとえば、1日に10時間で4日勤務。週休3日制で働いて、常勤職員ということも可能だ。

このような手法は、特に水平展開し、多数の小事業所を持っているような組織において有効だ。
事業所どうしの効率性を比較しやすい。
病院内とかでは、それぞれの病棟ごとの性格が違いすぎるので、同一条件での比較は難しいかもしれないけれど。

多分、今後こういう方式が、徐々に当たり前になっていくだろう。

* * *

僕自身は「働き方改革」自体にあまり不満はない。
簡単にいうとグローバル・スタンダードなやり方だからだ。
そんなに違和感はない。
ただ結局、問題なのは「変わらなければいけない」という事実に対して、どう反応できるかだ。
多くの組織では、システムや意思決定の方法に時間がかかる。

ま、だからこそ、「黒船」的な制度改革によって、無理やり日本の企業文化を変えようとしているのかもしれない。

* * *

「働き方を改善する」というと、90年代、ゼロ年代に、派遣社員正規雇用と非正規雇用みたいな話があった。
これは現代の身分制度ではないか?
みたいなことも言われた。
正規雇用の人々が、正規雇用の人々と同じ待遇になることを夢見たりだとか、そういう時代もあったわけだ。

同一労働同一賃金」はその当時の問題意識から発せられたものではないかと思うのだが、
少し皮肉に思えるのは、正規雇用の人が、時給ベース、週給ベースになる、という変化は、正規の人たちと非正規の人たちの差が、まるで正規の人たちが非正規に下りてきた形で解消されたように見えることだ。
差は解消されたかもしれないが、これは本当に進歩なのだろうか?

* * *

「月じめ」は変えられないのか

ちなみに給与の問題と同じく、収益とか事業実績の取りまとめとしての「月次報告」というのも、月ごとである弊害って結構多い。
「今月は営業日が1日多かったので、売り上げが4%おおくなっております…」とか、前月比の比較とかをするのも、スッキリしないので僕はキライだ。

武蔵野という会社の小山昇氏は、一年=52週を12ヶ月にわけるのではなく、4週x13期にわけているらしい、と本で読んだことがある。
これ、実は曜日と月のブレをなくせるので、かなりうまいやり方だと思う。

というか、これ診療報酬体系に取り入れて欲しい。
例えば、糖尿病のHbA1cとか、月に一度しか算定できない検査って結構多い。
例えば、8/1受診、次回4週後だと 8/29。
同一月で検査項目の出し入れをしなきゃなんない。
五週間後とかにすりゃいいけれども、30日処方制限のついている睡眠導入剤を飲んでいる人だとそうもいかない。
こういうことが、意外に外来の業務を複雑化し、オートメーション化を阻むのだ。

これも月ごとではなく4週ごとの区切りの制度で「4週に一度しか算定できない」とすれば難しく考えずに済む。
医療事務の人たちも、必ず月末月初に残業が増えるという生活パターンも、もう少し変わるだろう。

でも、まあ、そんな英断だれもしてくれないだろうけど。

その他のBlogの更新:

半熟三昧:

『心理学的経営』大沢武志 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『夜の歌』なかにし礼 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『アルコール依存の人はなぜ大事なときに飲んでしまうのか』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『繁栄と衰退と』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『封印されたアダルトビデオ』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)

7月を少し休み、8月に入ってから基本的にペースを半分に落としています。
そうすると、まあまあ紹介したい本だけ紹介するようになって、精神衛生上もいいですね。
ただ、一記事一記事が重たくなっているのも事実。だいたい2000字超えてしまう。

ジャズブログ:

使っていい音について その2 - 半熟ドクターのジャズブログ
これもこっそりアップしたやつ。その3を書きあぐねています。

*1:今のように天候も非可逆的にに変化してゆくようなご時世では、農業でさえ、過去の経験が頼りにならないのかもしれないけれど

*2:この辺りやはり有名どころのブランド病院では、人事評価制度がうまくワークしていて頑張っている人とそうでない人をきちんと峻別しているようだ。もちろん、新卒で大量に入ってきて、適応する人は残り適応できない人はやめていくという環境下の中でなら許されるのかもしれないけれど。

グルメであることにいいことなんてなにもない〜病院食の立場から

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お盆がすぎて、急に涼しくなりました。

* * *
このまえ、衣・食・住のレベルが高い医者とそうではない医者がいる、ということを書きました。
hanjukudoctor.hatenablog.com

医者に限らず、衣食住のハードルが高い人、低い人いますね。
お金がなければハードルは下げざるを得ないわけですが、あってもハードルが高い人低い人はいます。

病院に勤務し、老衰や病死を多く診ている自分の視点では、衣食住のレベルが高すぎていいことなんか一つもないと思う。

基本的に、好き嫌いや、食の嗜好が偏っている人。
うまいまずいの好みにうるさい人。
こういう人は、可能な限り病院の入院は避けたいところだと思う。

* * *

病院食は、基本、まずい。
かかわってくれている調理師さんや管理栄養士さんには悪いけど、うまい、とは言えない。

貧乏舌で、なんでも食べ、ほとんどの飲食店でまずいという印象を抱かない僕でさえ、現在の病院の食事で、すごいうまいな、と思ったことはない。肉魚は控えめにいってもCrispではないし、ぼんやりした味付けで、Dipが浸み出しているような調理だし、時間も経っている。

これはうちの病院がとりわけ悪いのではなく*1、8割がたの病院がそんな感じだ。
治療食は、塩分が少ないので、エッジの効いた味付けにはなりにくいというのも一つの理由。

それ以外の理由は、主に二つある。

一つは業務委託の形態。
セントラルキッチンで作られたものをそれぞれの病院に配分しているパターンの病院は結構ある。
この場合、セントラルキッチンでの調理、そこから病院の調理場で適温調理してからも時間が経っている。
時間が経つと、やはり食事は作り置きっぽい味になってしまう。*2

もう一つは、単純にコストの問題だ。
食材費がかけられない。
2018年から一食460円となったが、以前は280円とかなり安かった。
280円となると食材原価としては100円代であり、どないしたってグルメには厳しい食事だ。

ちなみに現場感覚でいえば、2018年の値上げを境に食事が改善した印象はない。
病院食の委託業者は人手不足と食材費の高騰で赤字や廃業が相次いでいるのが現状である。
値上げに伴い質をあげる、という余裕はなく、これまで赤字カツカツでやっていたのが一息つけた…という雰囲気だった。
2018年の値上げで「これでやっと廃業せずにすむ…」みたいな業者も多かったのではないか。
当院でも、何度かネゴシエーションの果てに委託業者を変えたりもしているが、今現在、私が住んでいるエリアで、病院食委託業者の選択肢はかなり少ないのが実情だと思う。
(大都市圏などプレーヤーが多数いる圏域では、もう少し事情も違うのではないかと思うが)

* * *

ま、そんなこんなで、提供する側の病院経営者としては言い訳ばかりで申し訳ないのだが、
病院食は構造的にまずい。
これをもう少しよいものに改善してゆくことは医療側のつとめだとは思っている。
一部の病院は、飯がうまい。これも事実だ。*3

病を癒す場所での食事がまずい。
それは間違った世界だ。僕もそう思う。
でも、間違った世界は、すぐには直らない。変わる保証もない。
間違った世界に住んでいるぼくらは、今病気や怪我をすると、かつがれた病院の食事がまずい、ことは、確率的に大いにありうることなのである。

そんな時に、飯が喉をとおらなければ、大変につらい思いをする。
グルメでも、なんでも食べられる人ならいい。
だが、食のハードルが高い人は……
許容範囲が狭い人が入院していることは、本人にとっても医療側にとっても不幸だ。

* * *

離島に住んでいて、新鮮な魚を食べることが当たり前だった人が
「こんな魚が食えるか!」と吠えたときは、そりゃあ無理もないやな……とも思った。
ただ、そのクオリティに、病院食は持ってはいけないのだよ。

家ではいい食材でいいもの食べてた人が、病院で食べられなくて弱っていくのは他にも何例か経験がある。
これがご主人が入院したのだと、奥様が家で作った持ち込み食の黙認、とかでなんとかなるんだけど、
調理者本人が入院している場合は、不幸だ。

* * *

うまいものを食うことは人生の喜びではあるが、
まずいものを受け付けなくなると、後でえらい目に遭う。

これは何事についてもそうなのだが、食についてもカスタマイズしすぎていると、後で困るかもしれない。

人生、一度くらい貧乏旅行をして、まずい食いもんでも空腹を満たす、みたいな経験をした方がいいのかもしれない。

*1:残念ながらよくはないですが

*2:大規模フランチャイズでもセントラルキッチンによる食の分配は普通に行われているが、病院向けのフランチャイズはそのあたりの設備投資が甘い、という側面はあると思う。やはり顧客が自由に選べる外食産業に比べると、クオリティの淘汰圧は低い。

*3:差別化のため委託ではなく自前調理に回帰する医療機関もあるが、当院ではそれはだいぶ難しそうだ。スケールメリットも必要なので、小規模なところでは難しい。あとは、ハイエンドの食事だけ別系統・別料金で仕立てるという選択肢はあろうし、それは将来的にビジネスになりうると思う。ただし、皆保険のもと建前でも平等感がつよかった病院での療養環境にそういった差別化をとりいれる弊害は大きくなるかもしれない。

サンクコスト

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書棚の一部

サンクコスト:
埋没費用(まいぼつひよう、英: sunk cost 〈サンクコスト〉)とは、事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力のこと[1]。
Wikipediaより)

青年期から今までずっと音楽を趣味としてきているのである。
ジャズ、ボサノバ・ラテン、MPB。
ソウル・ファンク、R&B。
日本の音楽、時にクラシックも。…ジャンルは様々だけど、まあずっと演奏もし、リスナーとしても音楽をかなり楽しんできた自負はある。

ジャズ愛好家というとLPというイメージが強い。
が、保存に縦置きが出来ないのと、LPのプレイヤーがいろいろ面倒であること、それから、どうしても視聴の場所が限定されること、演奏者としては、トランスクライブのために巻き戻したりする必要があったので、LPには敢えて手をださなかった。
(もし手を出していたら、場所とる、手間とる、金とるの三重苦でえらいことになっていただろう…)
しかし比較的場所をとらないCDでも、積もり積もるとえらいもんで、家には数千枚(多分3000枚くらいだと概算)のCDがある。

* * *

正直に言えば、今現在CDをCDプレイヤーにかけて聴くようなことはほとんどない。
手持ちのPCでリッピングをして、iTunesで管理している。
自分のPCの中には3万曲くらいのデータがストックされている*1

ただ、現在の主流はストリーミングサービスである。
僕が青春の一時期を共にすごした音源たちも、SpotifyAmazon Prime Musicや Apple Musicで入手できるだろう。
現代は膨大なアーカイブを自分で持たなくても、自由にアクセスできる時代だ。
*2

* * *

自分の書斎に、さすがにプラケースから外してスリーブに入れて並べているけれども、
その乱雑に積み上がったCD/DVDなどのヤマをみると、つくづくため息がでる。
これは僕の頭の中の心象風景そのものだ。

ここで本題に戻るのだが、こうやって書棚の一角を占めている音楽関係の遺物は、
サンクコストに他ならない。このCDの残骸が日の目を見る日は、もうないのだから*3

とはいえ、まだこのCDを廃棄する気にはなれない。*4

もっというと、書斎そのものも、そうだ。
現在読んでいる本はほとんどがKIndle購入で、リアルな書籍はここ数年めっきり買うことが減った。
だから本棚の蔵書は一歳一歳古びてゆく。
蔵書は埃をかぶり新陳代謝がなくなった本棚は死んでいるのと同じだ。

家を建てた時には、こんな時代が来るとは思っていなかった。

* * *

戸建住宅の一室は、そのスペースを占有するコストを考えなくて済むから、
サンクコストに直面しないですむ。
毎年乱雑な部屋をほったらかしにしているコストを、今も僕は払い続けている。
経済合理性は全くない。
人は逸失費用に執着するという行動経済学の特性に、僕自身も踊らされている。

* * *

そう言えば、Twitterの医クラ界隈には、30代後半で童貞の医師がいる。
歯に衣着せぬ言動とナイーブなキャラクター、頻繁なコメントである種のカルトヒーロー化している彼は、厄介なことに、母校の後輩だったりもする。*5

最近ある本で、「童貞はある種のサンクコストである」という話を読んだ。

まず童貞の価値について、です。
童貞さんは童貞を大事にしすぎているきらいがあります。
せっかくだから好きな人と、せっかくだからホテルで、せっかくだから付き合って一年間経ってから。
童貞を捨てられる機会があったとしても、なぜか守るほうに動いてしまう。
このように「せっかくだから」と守り抜いた童貞を大切にすることをサンクコスト効果と呼びます。
人は自分がお金や時間を投資してきたものを簡単に止められない心理が働きます。
パチンコで5000円をすってしまったら、その5000円を取り返すまでパチンコを止められない心理になるのと同じです。
パチンコへ夢中になっている人からすれば「何がなんでも取り返したい「5000円」ですが、はたから見ればさらにお金をつっこむくらいなら、居酒屋バイトでもした方が早いんじゃないの?と思えるコスト。
童貞は他人から見ると、パチンコですった5000円と同じ。
だからそんな童貞を守らないで風俗行けば?というアドバイスが出てきてしまうのです。


サンクコストの損切り処分には痛みを伴う。
僕の数十年の音楽狂いの帰結としてのCDの処分と、童貞の処分。
囚われていない人から見ると、どちらも馬鹿馬鹿しい事態に違いない。

*1:もっとも、この前MacBookProが飛んだ時があったのだが、その時データとしてこのアーカイブは失われてしまった。幸いiPodClassicと同期した分から戻したわけだが、曲数を比べると、およそ1%の300曲くらいの数が合わないのである。ただ、それを付き合わせて確認する時間も熱意も、すでに今の僕にはない。

*2:現在は、ストリーミングサービス間のカバー率が十分でないため、目指す音楽を聴きたいと思った時に、サービスを切り替えてアクセスしなければいけない。これのユーザビリティが不満で、過去集めた音源を自由に閲覧できる現状から乗り換えようとは思わない。ただ年々状況は改善しているため、いずれストリーミングサービスに完全に屈服することになるだろう

*3:ありえない話だけれど、世界が滅亡してしまい、大規模なネットワークが消滅してしまったら意味を持つのかもしれない。もしくは米中のブロック化が極限まで推し進められ、日本が中国陣営に与し、アメリカのストリーミングサービスにアクセスできなくなるとか。

*4:多分僕の死後、家族は途方にくれるのだとは思うが…

*5:「これだから男子校は…」って言われちゃうよね

軍人皇帝と貴族皇帝の話

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「不自由さ」の心象風景。
いい車に乗りたい、と思う。

* * *

少し前のことだが、消費税もアップするということで、車を買うことにした。
ただ、納車は10月なんだって。

* * *

控えめにいっても、医者は平均収入が高い職業だ。*1
経営に携わらない専門職で年収1000万を超えることって、そうはない。*2
だからか、いい車に乗っている人も多い。

ただ医師の中での収入の多寡と、高級車・外車に乗っている比率は、意外に相関しない。
大きな病院の勤務医の先生の車は、研修医から部長、院長クラスまで過去見てきたが、研修医でもポルシェに乗っている人もいるし、部長以上でも普通の車の人もいる。

開業医になると原則として所得は上がる。*3
しかし、皆が皆、乗っている車をグレードアップさせるかというと、そうでもない。
もちろん「ハデな車」が好きな人は、グレードアップするみたいだ。*4

まあしかし、医師の車について言えば、現在の収入よりもその人の生活の「ハデさ」に起因するように思える。
車にこだわらない、自分の生活を華美にしない人は、収入が増えようとあまり変わらない。

* * *

これは車に限った話ではない。
基本的な生活レベル、つまり衣食住に関してもレベルが高い先生と低い先生がいる。

「医師たるものこれくらいは」と思っているのか、ブランドものに身をまとい、車・時計も高級車。
いざ旅行にいくときはいいホテルでないといけない、という先生もいる。
衣食住のレベルに関して、レベル以下を良しとはしない人もいる。
そうかといえば、全く頓着のない人もいる。

大学勤務で薄給でも、実家が太い場合は、高い生活レベルを維持している。
結局、その人の育ってきた環境とかなんやかやで、生活レベルは決まる。

* * *

僕は、というと、車に関しては、まず頓着がない。
正直にいうと僕はあんまり運転がうまくない。
運転も好きじゃない。
理事長とかだし、安全性を重視してそれなりの車には乗ってはいる。
それ以上のもの、例えばベンツ・BMWアウディという車は、今後も乗らないんじゃないのかなあと思う。
もちろん、フェラーリ・ポルシェなんぞ、もってのほかだ。

衣食住のレベルも、あまりこだわりがない。

もちろんそこそこの収入だから、全身ユニクロとかはさすがにいかがなものかと思う。
が、ファッションのテイストとしては、ユニクロ無印良品の上位互換のノームコアファッションである。
家は僕には過ぎた家に住んでいるけれど、床で寝ているくらいだからな。

* * *

多分、こういう違いって、生育環境に規定されるのだろうけど、もう一つは、自分が所属しているコミュニティが医師同士の中に限られているのか、それともコメディカルも含む一般人平均の中に開かれているか、で違うのではないかと思う。

医師は基本的に狭い世界で生きている。
医学部も、医学部医学科の中だけで完結しているし、部活も医学部限定の部活に所属している。
基本的に医師もしくは医学生以外と交わることが少ない。
そういう医者業界のコミュニティで、過ごそうと思えば過ごせる。
国立であろうが、私立であろうが、開業医の医師の子弟も多いから、生育環境の衣食住のレベルが高い人も多いし。

就職してからも、医師同士で飲みに行ったり、昼間も医局で同僚の医師としか接していないような状況は簡単に作り出すことができる。
コミュニケーションのほとんどを医師としか取らない場合、自分の生活レベルは同職種の医師としか比較しないことになるだろう。
奥様方も、子供を私立に入れていると、まあまあハイソなコミュニティに身を置くことになるだろうし。

そういう生活であれば、研修医になった時点でも、外車を買ったりすることに躊躇がないんじゃないのかなあと思うし、逆に知人との交流において、衣食住でも「これくらいじゃなきゃ」という上方圧力が働くのかもしれない。

* * *

私は開業医の子弟で、それなりに裕福な中で育った。

ただ、中学高校は親元を離れて神戸の進学校に下宿して通った。
木造4畳半がしっくり馴染む生活。
大学では、医学部の部活には属さず、全学部生向けの部活(ジャズ研)に所属したりしていた。

そういうわけなので、実は医師のコミュニティ、もしくは医師以外のハイソなコミュニティにどっぷり浸かった経験も乏しい。

だから、医師のコミュニティが、実は苦手でもあるのだ。*5

ただ、ハードな勤務医の生活は、QOLが著しく低いので、生活レベルの許容範囲の閾値が低いことは、暮らしやすかったと思う。
セレブ感がないことは、僕にとってはよかった。
基礎生活レベルが高い人は大変だと思う。僕なんて、炊きたてのごはんがあったら全然暮らしていけるもの。

* * *

話はいきなり歴史に飛ぶのだけれど、共和制から帝政ローマの時代、さまざまな執政官や皇帝がいた。
貴族階級出身も皇帝もいたし、特に五賢帝以降は軍人出身の皇帝も多数現れている。

ただ、本人の生活の豪勢さと出自の階級は別に相関しない。
貴族の出身であったとしても、軍隊で遠征し、一兵卒と同じ宿営地で露営するのも厭わない皇帝もいたし、
軍人出身の皇帝であるが、平民を寄せ付けない宮殿に住み、戦争には全く行かないか、行ったとしてもオリエント君主のように華美な帷幕で一兵卒と交わらない皇帝もいた。

どちらがいいとも言えないが、統治能力が同じであるならば、マルクス・アウレリウス帝のように軍隊に随行して露営も辞さないタイプの方が人気は得やすいとは思う。*6

* * *

これを実践しているのが、もう解散が決まったが、京セラ稲盛和夫さんの経営哲学を実践する「盛和塾」だ。
盛和塾では、経営者というのは、自分の力でその地位に居るのではなく、「使命」を果たすために選ばれた存在である、と考える。
だから、華美な生活も、経営者としての本質を鈍らせるので、ご法度だ。

以前盛和塾にも参加されている介護シューズを作っている会社の社長が、
「でも、クラウンには乗りたかったぁ……」と絞り出すように言っていたのが印象的だった。
社員と一体の経営、盛和塾の理想とする経営では、経営陣も清廉であることが当たり前なのだ。

盛和塾には入らなかったが、盛和塾の教えは学生の頃から知っていたので、はやくから触れていた影響も大きいと思う。

* * *

僕はどちらかというと盛和塾ほどの純度はないけれど、
職員と同じ目線で「一緒に働く経営者」というスタイルでやってきている。
超然とした権威をもってみんなを動かすタイプでもないし、自分の部下にも、部下に偉そうに接するスタイルはとってほしくない。

盛和塾はどちらかというと古き良き日本の経営者の道であるが、これは、現代であるからこそさらに意味あいは重い。
「サーバント・リーダーシップ」という言葉もあるからだ。

だけど、もうちょっと小さい開業医のクリニックの先生が、経営者は経営者、雇い人は使用人、みたいな感じで、余剰利益を全部個人の所得*7にして、クリニックでは王様、衣食住の生活レベルもすげーハイレベル、みたいなのを見ると、やっぱり羨ましくも思うのだ。
いい車のりてーなー。マセラッティとか。

その他のBlogの更新:

半熟三昧:

『まどろみバーメイド』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『ハイパーミディ中島ハルコ』『最高のオバハン』 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『あり金は全部使え』堀江貴文 - 半熟三昧(本とか音楽とか)
『読者ハ読ムナ(笑)』藤田和日郎 - 半熟三昧(本とか音楽とか)

漫画率高いな!笑。
ホリエモンの本は相変わらず刺激にはなる。扇情的なタイトルだが、書いてあることはまとも。
それから熱血漫画家藤田和日郎の『読者ハ読ムナ』。
 クリエイティブなことに関わる人は一読することをすすめる。思った以上にいいこと書いてあった。
僕アマチュアジャズマンだけど、それでもなるほどなーって思ったこと多かったもん。

*1:多分、今後落ちてくる可能性はある

*2:これに匹敵するものといえば、トレーダーとか金融関係くらいだろうか…

*3:さすがにこの辺は都市部ではないので、ツブクリ丸出しなのはみたことがない

*4:功なり名遂げた感があり、開業2〜3年でフェラーリを購入している人もいた。こういうわかりやすいのは嫌いではない。すがすがしいよね。

*5:そういえば女医、もしくは女子医学生とつきあったこともないな。

*6:だが、そういう平民感をだしつつも、統率能力や大局観が劣る場合は、やはり支持されることはない。どんなに皇帝然と振舞っていても施政そのものがよければ人はついてくる。

*7:税法上は法人にプールして経費枠が潤沢なのかもしれないが、意味は一緒だ