半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

「へパ医」の未来

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実は僕、橋の裏面の水面のゆれるところが大好きなんです。
川べりにずっと座っていたくなる。

肝臓学会に行ってきました。

以前にtwitterで自称脳外科の、匿名SNSならではの攻撃的な方に「ヘパ医」呼ばわりされたことがあります。
まあその先生は、外科至上主義の先生で、すべての医療従事者はもちろん他科の医師さえも、手術を行う医師に奉仕するために存在している、と思い込んでいる方で、僕が何を呟いても「へパ医が何いってんだ」みたいな妙なマウンティングをするので閉口しました。

「ヘパ医」という蔑称は、リアルな医療業界で聞いたことがなかったので、ある種新鮮ではありました。
そうかー。ヘパ医っていうのか…。悪口って奥が深いね。

ま、それはともかく、僕の目からみても「ヘパ医」こと「ヘパトロジスト」の未来はあまり明るくないとは思っています。
専門医更新のために必要な教育講演会を今回受けたんですけれども、5年後、再更新するかどうか、ちょっとどうかなーとさえ感じました。

「ヘパ医」とか言われつつも、存在しているなら、まだましやなと思う。
10年後、街場のヘパ医に仕事はあるだろうか?

* * *

30年前、肝臓内科はとても大事な科でした。それはB型肝炎C型肝炎の患者さんの数がとても多かったから。
それにともなって肝硬変・肝臓ガンの患者さんもとても多かった。
肝臓病は国民病だったんです。

そしてB型肝炎C型肝炎には当時、有効な治療法はあまりなかった。
強ミノという注射薬を使えば、肝臓の炎症はちょっと和らぎますーとかいって、それを延々と注射する、あとは安静にしていると肝血流が増える、っていうのが治療でした。
40-50年前はそういう患者さんが沢山いて、なんで入院しているんかわからん、みたいな人が2-3年入院している、なんてのが当たり前だった。
1992年、約30年前にインターフェロンってやつが、初めてC型肝炎を根治できる薬として登場しました。
ところが、とても副作用が強い注射薬の割に、ウイルス消失の有効率は10%から15%くらいとかなり低かったんです。
多くの患者さんが泣き泣き治療を受け、苦労の果てにウイルスが消えて喜ぶ人も、ウイルスは消えず悲しむ人もいた。治療が間に合わず、肝硬変になったり肝癌になり若くして無念の死を迎える人も沢山いたわけです。

6-7年前から状況ががらっとかわりました。2〜3ヶ月飲み薬を内服すれば、ほぼ100%ウイルスは消える薬がでてきました。
今では診断さえ、ひどく手遅れの状況でなければ、C型肝炎は完璧に治る時代です。
多くの人がC型肝炎の脅威から解放され、それにしたがってまず肝硬変が減り、じわりじわりと肝癌も減っています。

* * *

現在の肝臓内科の仕事を列挙しますと、こんなところではないかと思います。

  • B型C型肝炎の治療
  • 肝癌の治療
  • 肝硬変患者のマネジメント
  • 脂肪肝・アルコール性肝炎・肝硬変
  • その他の肝疾患の診断、AIH・PBCの診断と治療

こんなもんでしょうかね。

このうち、仕事の大半を占めていたウイルス性肝炎の治療は、若干の難しい症例を除けば、完全に開業医でもできるレベルの治療になっています。

肝臓癌については、今までは患者数も多く、どの基幹病院でも肝臓癌の治療をやるのが当たり前です。
しかし最近は肝疾患が終息しつつある地域ではじわりと数が減っているために、治療する施設は減り、集約化がすすんでいます。
おそらくこの傾向はさらに進み、全国20-30箇所くらいに高度集約されていくんじゃないかと僕は思っています。

高度集約された肝臓病センターの先生方の治療のクオリティは年々向上著しく、傍目に見ている限り、その差はどんどん開いています。
だから、そういうところへ紹介する方が、患者さんには誠実な行為だと思います。

上述した肝臓内科医の仕事を、肝臓内科医のいない世界で考えてみます。

  • B型・C型肝炎。今のお薬なら、プライマリケアに任せて問題ない。一握りの難症例に関しては大学病院レベルで対応。(不要)
  • 肝癌。10-20施設に限定して高度集約する。治療手技はそれでいいです。ソラフェニブなどの化学療法は、今は肝臓内科医がやってますが、肝臓内科がなければ、腫瘍内科がやってもいいとは思いますね。(高度集約施設以外は不要)
  • 肝硬変患者は、確かに肝臓内科医の腕のみせどころだとは思いますが、ひところに比べると随分減りましたし、治療もコモディティ化したので、プライマリ領域の新世代の家庭医なら対応できると思います(不要)
  • アルコールに関しては、色々な問題が山積みですね。精神科との併診も必要だし、アルコール問題飲酒患者そのものが医療受診率が10%程度と低いため、潜在患者はかなり多く、手付かずの分野です(不要…ではないが押し付け合い)
  • NASH/NALFDも、代謝内科、糖尿病専門医の治療に重なるので、それで構わない。プライマリで対応できます(不要)

あとは、原因不明の肝障害の診断という安楽椅子探偵のような仕事とAIH/PBCの加療。
原因不明肝障害などは、AIでなんとかなっちゃうように、実は僕は思っています。

* * *

こうして冷厳に未来を予想しちゃうと、肝臓内科医いらないんじゃね?とか思っちゃうわけです。
もちろん、いいことなんですよ。肝臓が病気にかからない時代になった、ということだから*1

ただ、肝臓患者の絶滅よりもへパ医こと肝臓内科医の絶滅の方が早いかもしれません。
消化器領域に進む医師は、ほとんどが内視鏡志向で、肝臓志望の人はとても少ない。上述した危惧を若い人たちはきちんとみていて、先細りする領域を選ぶ人間は少ない。若い肝臓内科医は、急速に減っています。

* * *
hanjukudoctor.hatenablog.com
以前、他のエントリで書きましたが、本来、体の中で肝臓って大事だけれど、大事ゆえに、めっちゃ丈夫な部分です。
車で言えばガソリンタンクみたいなもので、なかなか壊れないんです。本来。
壊れた時には、もう遅い。

街場の肝臓医は、以前なら街中にある「東芝のお店」「松下のお店」みたいな感じで肝臓をみていました。
しかし、現在肝臓疾患の治療は高度化したため、高度集約施設でないと太刀打ちできなくなった。
ドライバーで簡単に修理してた時代から、工場に送らないと直せなくなってしまい、「東芝のお店」などの意義がなくなった家電業界に似ています。
街場の肝臓医不要論とは、そういうことです。

* * *

大学病院とか高度集約肝臓センターの仕事はなくならないけど、街場の肝臓医の意義は減っている。
大事なのは、そうした肝臓医達(僕も含めて)も、学会費を納める「養分」としての役割はあるわけなんです。

肝臓学会の会員が減ると学会としての力は漸減していくし、学会として、その辺今後の方向性はどう考えているのかな…
ということは感じますね。



*その他のBlogの更新:

*1:正直に言っちゃうと、C型肝炎の流行には太平洋戦争が大きく関与していて(輸血・ヒロポン回し打ち)、ある種の戦後の負債だととらえることができます

*2:正確に言うと、足だして

「リーダーシップ」とは

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ここ最近の出張ではランと食事我慢で、出張中のカロリー収支がなんとかマイナスになっています。…たぶん。
私の病院では、毎週、朝礼をしています。
……日本的企業の悪癖ですね(笑)
みんなの前で、自分は二週間に一度なんかしゃべっています。
この朝礼の内容のエッセンスを、このBlogに転用したらええんじゃないかと最近気づきました。*1
以下はその内容を加筆修正したものです。
* * *

毎年恒例ですが、年度のはじめに、医療法人としての方針説明会をしました。
その時に「職員はしっかり勉強して下さい」といいました。
変化の大きく先の読めない時代(VUCA)、時代に適応するためには、新たな情報をすばやく取り入れ、実践しなければいけないから。
おりしも「働き方改革」で、「同一労働・同一賃金」もじきに始まる。
これは、成長しないと給料は増えない仕組み、といってしまっていい。
同じ仕事をコツコツと20年、30年続けていて、定期昇給できる時代は終わりました。

我が法人のやり方が気に食わなくて辞めても、どこに就職しても、日本中がそういう仕組みになる。
ちなみに日本以外では、はじめからこうです。

* * *

だから、勉強をしなきゃいけない。とにかく。
では何を勉強したらいいのか?

そこは、ある程度ガイドを指し示しますが、自分の特性やキャリアに照らし合わせて考えればいいと思う。
それを自分で選べるのが学校とは違う社会人の面白いところです。
どういう道を歩むのかは、自分で選べる。それに制限時間もない。

専門職としてのスキルアップは当然専門職として必要です。
ただ、それに専念して追求するのは片手落ちでもある。一点集中突破で許されるのは一握りの一流のみでしょう。
自分の専門領域の周辺の理解を深めるという手もあります。周辺の知識を高め、連携をとりやすくする人間も、組織人としては重宝されます。

また、社会人として、つまり一人の大人として必要な知識・スキルもあります。
そんな数々の技能のなかで、リーダーシップについての話をします。

リーダーシップは関係性

「リーダーシップ」というと、統率力のような才能をさすと思いがちです。
リーダーシップに優れた人が、その人の能力で統率し、組織をまとめる。
古いモデルではこう考えられていましたが、こういう考え方は、あまり正しくないようです。
最近読んだ本の中で印象的だったのですが、「リーダーシップ」は個人の属性ではなく、ある種の関係性をさす言葉、だそうです。

例をあげてみると、例えば、パニック映画、「ポセイドン・アドベンチャー」とか「ウォーキング・デッド」みたいなものを考えてみるといい。
5、6人が集団で何かから逃げてる、みたいな状況。

もともと他人の数人が固まって行動すると、自然にグループが形成されます。
こういう時に、映画のシナリオだと、例えば、最初は、会社の社長とか、将軍とか、社会的な肩書きが上の人がリーダーになったりしがちです。
しかし、それがうまくいかない。
別に肩書きもないけど、こういう常識の通用しない場面で冷静な判断力であったり観察力のある人がなんとなーくリーダーっぽい感じになる。
そして「俺はこいつを支持する」とか言う人も現れたりしてね。
グループの中でリーダーに推挙される場面、見たことないですか?
2時間の映画だったら、前半1時間くらいでこうしたチーム・ビルディングがなされ、残りの時間で、反撃、そして勝利、となるわけです。
こういう映画のシナリオを見れば、リーダーシップが関係性によるものである、ということがなんとなくわかるかもしれません。

トップとしての行動だけがリーダーシップではありません。支える人間にもリーダーシップが必要です。
要するに利己的な発言や行動ではなく、グループの目的を理解し、発言や行動を行う。
そしてグループの目的にのっとって各人の行動を調整する能力が、広い意味でのリーダーシップ・マインドといえるでしょう。

最近Twitter医クラで、「医学部の部活なんて何の役にも立たない」みたいな発言がバズったりしました。
学校の部活のような経験が、もしなんらかの役にたつとすれば、集団行動の中で醸成されるリーダーシップ・マインドを経験できることだと思います。別に部長・キャプテンでなくても、組織を統率する経験、もしくは統率される経験は、チーム・ビルディングという点では役に立つとは思う。
無駄ではない。
問題は、そこから学べるかどうか。*2
あと、学校の部活だけが、これを経験できる場でもないと思います。

* * *

いささか、話がそれました。
つまり「リーダーじゃないからリーダーシップはいらない」と考えてほしくないんです。
全体のことを考えるのは上に立つ一握りの人間だけ。下の人間は自分のことだけ考えていればいい。
それでは組織はうまく回りません。

もちろん、上に立つ一人の人間だけに裁量権がある状態では、下の立場の人たちはリーダーシップを発揮できません。
リーダーシップは、上に立つ能力ではなく、個人の目標と組織の目標を調整できる能力です。

ここで注意していただきたいののは、組織の上位層の人間が上に立つ理由が、権力欲とか自己顕示欲だったりすると、リーダーシップは発揮されないことです。なぜならそういう考え方は、個人の目的を集団の目的に優先させることそのものだから。
上がそれでは、皆利己的に振る舞うしかありません。
こうなると、組織のチーム力は存続の危機にさらされてしまいます。

また旧来の「リーダー=偉い」という風潮もあんまりよくないなと思っています。
サーバント・リーダーという、権力を振りかざして命令を行うのではなく、よく対話を行い、方針を決めるやり方が、最近は脚光を浴びています。
ま、これって、旧来の、日本的な「和をもって貴しとなす」の世界に近いんですけれどもね。

多くの医療機関や組織では、医師・看護師・コメディカルなど専門職たる職種の人たちは、専門職としての仕事が好きすぎて、組織の中での管理職を非常にいやがります。下っぱの方が気楽に働けますからね。
みな、リーダーシップには無頓着であろうとしますが、最近の医療は人材集約型産業であり、チーム医療です。
もう一度「リーダーシップ・マインド」というものを考え直してみたらいかがでしょうか?

*その他のBlogの更新:

*1:ちなみに文字起こしした朝礼の内容は回覧される会報にも掲載されますが、文字起こしした後の文章校正は僕がやっています。理事長の職掌ではないと思いますが、意図を正しく、口語から文語に直すのには一定のスキルが必要だと思う。

*2:ちなみに私は医学部時代医学部の部活には属していませんでしたけれども

SNS時代〜「メディBAR in Osaka」に参加して〜

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会場の様子 すし詰めとはこのこと。
週末は、プライマリケア連合学会(JPCA)にお邪魔していました。
私は自分は内科医と思いますが、実際プライマリの診療もするわけです。
それよりプライマリケア連合学会には、メタ視点からの有意義な知のフレームワークが豊富なんですよね。
メタ視点から診療を再定義するような、目から鱗の情報をもたらしてくれる。

今回はそれに絡めて、Twitter 医クラの会「第3回メディBar in 大阪」というのに参加してきました。

* * *

医クラというのは医療クラスターの略で、医療関係のツイッタラー。
Twitterについては結構前から始めてたものの、本格的に使いだしたのは去年くらいから。
で医クラの人たちの存在に気づいたわけです。

Facebookなどの実名SNSは、ほぼリアルに会った人とのつながりです。
いわばリアルの延長ですが、Twitterは、そもそも多くが匿名で、全く関わりのない方向から予想もしないレスポンスが帰ってくることもある。

私、Web上の活動、2000年にこのサイトの前身を作ったこともあり、歴だけは長いんです。
でもTwitterもBlogもアクセス数も伸びないし、あまり最適化できてない、もっと言えば、現代に対応できていないなーと思ってました。

で、こういう集まりがあるんだ。へー。
ということで参加。
人生初のSNSオフ会になります。*1

* * *

大阪駅から一駅西にくだった福島駅のほど近くの会場に、少し遅れて参加しますと、
70人の参加で会場はぎゅうぎゅう!
医師・看護師・コメディカルいろいろ参加のカオスな場所。

仕切っておられるのは医クラ界のアルファツイッタラーの人たちでしたが、
みんなコミュニケーションスキルも高いし、会話も如才ない。
フリーランスであったり、病院勤務医だったりする彼らは、
普通に、リアルの知り合いだったら「よくできる医者」って感じの人たちでした。*2

端的にいって、いい意味で意識高い人が集まっていたんだと思う。
(特に医学生および研修医はそんな感じでした)

こういう超大人数の集まりだと、気圧されてしまいますね。しかし。
どうしてもちょい歳上同士の会話に加わったり、話が通じる開業医同士で集まってしまい、隠キャぶりを見せつけてしまいました。
このへんは自分の行動として反省したいところです。*3
二次会は着席した会でしたが、Twitter的にえらい(フォロワーが多い)人ほど腰が軽く、いろんなテーブルを回っていたのも印象的でした。

コミュニケーションスキルー!

関係各位のみなさまありがとうございました。
とても面白い時間をすごさせていただきました。
主催者の方々、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

* * *

こういう会を体験しても、やはりこのSNS/Blog時代に、自分は完全には適応できていないよなー、と思った。
(いや、ひょっとしたらどの時代のどの集まりのレセプションにも自分は適応できていない気もするけど……)
また「キャラ」としての消費のされかたに長けている人が、Twitterなりオープンなネット社会では強いのかなあと思った。
リアルな彼らは普通の好青年なので、Twitter向けのコメントのキャラ化はやっぱりうまいよなあと思う。

私も歴だけは長いけど、ブログの記事は3000-4000字と無駄に長かったり、リテラシーのない人がアクセスできない文章を書く。
そして、いろいろな属性を含みすぎていて、よくわからない奴だと思う。
平易な言葉で一般の方にもわかる情報提供、わかりやすさが、必要だなあと思う。

でも、Twitterでの立ち居振る舞い、多分変わらないだろうなあとは思った。

* * *

多分こういうSNSのつながりみたいなものも、人間関係として無視できないものになっていくんでしょうね。
地方都市では今はほぼゼロですが、大都市圏ではすでに当たり前になっているように思いました。

今の自分をとりまく人間関係は、高校大学の同級生、医局の人間関係、派遣先の病院での人間関係、学会などでの知遇。
そういうリアルなつながりに比べると、SNSでの繋がりというのは、ひどく自由でもあり、属性の違う様々な人とコミュニケーションできる可能性があり、随分と偶然性に富んでいるよな、と、昭和おじさんとしては思ったわけでした。

人間関係は複線あった方が、軋轢からも逃げ場ができ、息苦しくない。

* * *

ただし、人間関係に費やされるリソースの総量は有限だ。
SNSの人間関係の代わり、既存の関係性の何かが薄まるのは事実だと思う。
それがなんであり、それによって社会がどう変わるのかは、ちょっとわからない。

*その他のBlogの更新:

*1:厳密にはザウエルさん、あねごさんというHTML世代の人と会ったことはありましたが、旅先についで、という感じでオフ会というのとも少し違っていたように思う

*2:ごくまれに、あ、ちょっとやばいかも承認要求高めかも…という人いましたけど

*3:なんかおれKKO(キモくて金持ってるおっさんそのものちゃうん?とか思いながら挨拶してました)

香車のような人

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(注:今回のエントリは、所属団体紙に書く一言コーナーのようなところで披露したものを、少し加筆したものです)

* * *

ここ最近「チーム医療」や「他職種協働」が叫ばれています。
おりしも「働き方改革法案」によって、一人の人間がべったり張り付いて責任を持つ、みたいな働き方は今後不可能になりつつあります。
上手に情報を共有して、分担しないといけない時代。

が、今までの医療現場ははあえて言挙げしないといけない程度に、チーム医療でも他職種協働でもなかったのでしょうね。
最近の風潮は、医療現場も一般的な会社組織に近づいてきたのかなと感じます。

* * *

さて、仮の話であるが、職場にある人がいます。
優秀なのである。
部署の平均の人よりは明らかに仕事ができる。
ミスもしないし、量もこなせる。
要するに、すばらしいのです。
そこで、大変優秀な人だと見込んで大抜擢してみる。
部下をつけて、仕事の範囲も広げて、思う存分に采量をふるわせる
……と、これがうまくいかない。

個人としては自他ともに認めるくらい有能なのである。
ただ、他の人、特に自分より年少、もしくは劣っている人に業務の勘所をうまく伝えられない。
他人に自分のスキルを伝えるべき、と思ってさえいない、とう場合もあるし、伝え方を知らない人もいます。

そして、他者にやらせた不出来な仕事を責め、なじり、感情的にマウンティングさえする。
「あの子はできないから」とかいって自分の仕事を渡さない。
そのくせ、忙しい忙しいこんなんじゃやってられないと愚痴をいう。
こんな人、皆さんの職場にもいませんか?

私も他者と仕事や成果を分かち合わず(もしくは合えず)、結果的に低いレベルで己の優位性を保つ人。
いろいろな病院、いろいろな部署で出くわしました。

* * *

医療現場は組織であり、チーム医療です。
お互いに得意な部分は共有するし、標準化・均てん化をしないとうまくまわりません。
その中に、そういう人の予想外の行動で、周りが振り回されてどえらい騒動になることがあります。
能力があるのは確かなのである。
ただ、広がりがない。

周りによい影響を及ぼすような働き方でないと、個人として優秀でも組織全体の改善にはつながらないのである。
上の立場だと、能力があるんだからもっといい待遇にしたい、とも思うんですが、
自分が出来ることで他者を貶めているようだと周りの恨みもかっているので厚遇もできない。

* * *

一定数いるこういう残念な人って、ああ、将棋の「香車」のような人だなと、しみじみ思ったことがあります。

間違いなく歩兵よりは能力はあるわけです。
ただ、周りもみえず限定した動きしかできないので、連携もとりにくく他者もカバーしない。

自分の優秀さを鼻にかける人って、多分自分を飛車や角くらいに自負していますが、惜しむらくは香車なのである。
歩兵と比べている時点で、知れたものなのである。
確かに「香車」ってやつは、歩兵の動きを極限まで高めたものです。
でも、直進のみです。
そもそも駒には他の動き方があることが、見えないのかもしれません。
ほんとうにすごい「飛車角」クラスの人って、職場の同僚なんかどうでもよくて、全国区の人をライバル視しますからね。

* * *

将棋という遊戯はよくできていると思います。
香車が自陣の端っこにいるのは偶然ではないと思います。
ああいう動き方、猪突猛進で他をカバーすることができない人材には中核人材はつとまらない。
陣営の端っこで限定した役割を与えるしかないのです。

* * *

しかし香車は、敵陣に入り、成り駒(=成香「なりきょう」といいます)になれば金と同じ動きになります。
ただしその場合は、今まで誇っていた直進能力(猪突猛進の才能とでもいいましょうか)は無くなるわけです。

これは、自分が得意だと自認する才能を頼らない働き方になれば、周りへの目配りができ組織を動かす中核人材への道が開けると示唆しているのかもしれません。

* * *

ま、僕将棋全然やらないんですけどね。

組織の人事を見渡す立場になると、こういう人の振る舞いに、とても傷ついたり、腹が立ったり、傷ついた職員のフォローをしたりするわけなんですけれども、まあ、有為な人材で期待しているからこそ腹がたつわけです。

才能は才能としてあるとして、しかし香車やなオイと思うことができれば、過度な肩入れをしなくてすむ。
そのための言語化ではないかと思う。

*その他のBlogの更新:

ジャズブログ:

気がつくと、一ヶ月くらい更新していない!いかんいかん。
これはなんだかんだいってある種のCreationなので結構産みの苦しみがあるのですよ。
成長のロードマップ - 半熟ドクターのジャズブログ
というわけで、急遽これを。

肝臓関係のOTCの周回遅れぶり

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それでも1日くらいは近場の大きな公園に行きました。
令和の御代になりました。みなさんお元気ですか?

うちの病院は4月30日と5月2日をあけていたので大して休みはとれてません。
連休中の日当直は非常勤医師(バイト)でまわしているんですが、連休中に入院した人は、目が行き届かなくなりがちです。
長い休みで、リレー方式で診療つなぐ場合、責任のある時間まではきちんとみるけど、休み明けまでの責任はとれない。
バイトだと担当している間に問題が起こらなければそれでいい、となります。僕もバイト医の時そうだったし非常勤医師にそれ以上要求するなら、病棟がしっかり医師と連携する体制を構築しないといけない。
それよりは週単位での治療の計画や修正は、誰かが横串をさして診た方がうまくいく。

そんなわけで1日1度は病院に行って、そういう入院の指示出しをしたり、場合によってはインフォームドコンセントしたりしていました。ま、僕は残業とか時間外手当の範疇の外にありますからね(泣)。

苦痛かって?一人開業医の先生よりはいいとは思ってます。
普段の週末は(出張とか)上京させてもらってますし。

* * *

今日のお題は、OTC薬、Over the counterの略なんですが、要するに受診せずにドラッグストアで買える薬。
ああいうやつ、よさげなCM流してますけど、医者の普段の診療の水準からは数十年遅れていたりするわけです。

例えば便秘薬。

酸化マグネシウム E便秘薬 【CM】

コーラックMg Web動画

なんかこれすごいいい便秘薬のように見えますけどカマグなんて50年前くらいから医療現場で使われている薬。
そんなんやから、医療保険だとクソみたいな値段です。
市販薬って、医療保険による自己負担分を除いた実薬分で、だいたい倍の値段しますね。
「薬九層倍」という昔の言葉を思い出します。
最近の便秘診療はアミティーザ、リンゼス、グーフィスなど新薬が立て続けに出ていて最近やや動きがあって面白いんですが、その分市場交代を迫られている酸化マグネシウムが、しれーっとOTCで、新しいパッケージで売られてる様を見ると、薬売る人間の良心なんてあてにできんなと思います。

ま、でも便秘薬はいいや。最低限、うんこはでるから。

* * *

一応僕は肝臓専門医なんですけれども、肝臓領域のOTC薬なんて輪をかけてひどいですよー。
ヘパリーゼ、ネオレバルミン、ウコン、ビタトレール、レバオール錠、ビィレバー……

その多くは、肝臓水解物*1とか、タウリンとか、コンドロイチンとか、そういう物質を混ぜ合わせて作ったやつ。
たまに甘草とかウコンとか入ってたりもします。時々ウルソとかも入っていたりもします。

まあ、はっきり言って、今の肝臓の学問レベルからいうと、どれも全く意味なし。
むしろ薬剤性肝障害の可能性になったりするので、悪影響の方が多いかも。って感じです。
よくこんなもの売るな……というのが正直な感想。

ま、ただ多くの健常な方の肝臓は、ほとんど問題にならない盤石な臓器なんですよね。
車で言えば、ガソリンタンクみたいなもんなんです。
例えば心臓って、車で言えば、エンジンみたいなもんですが、不調を来たせば、即症状に現れます。
でもガソリンタンクって、少々変なもん入れたって壊れないじゃないですか。

肝臓は俗に「沈黙の臓器」といいます。
大事な臓器ではありますが、ほとんど壊れたりしません。
異常も症状としてはでてきません。
もし壊れたら、その時は症状はでてきますが、まあだいたい手遅れ。
その変が、僕が肝臓=ガソリンタンクと言いたいゆえんです。

だからOTCの肝臓薬のほとんどは、昔ガソリンスタンドで勧められた「水抜き剤」みたいなもんです。
なくても、別に困らない。入れても害にはならないでしょう。

ま、しかし、一世代前に遡りますと、肝臓病はB型肝炎C型肝炎も今よりずっと多く「国民病」と言われ患者人口も多かったが、インターフェロンも発売されたばかりで、有効な治療薬の選択肢はほとんどありませんでした。
仕方がなく使っていたのが、強力ネオミノファーゲンC、グリチロン、ウルソ…という薬です。
原因がなんであれ、これらを使っていました。昔の医者は。

今ではウルソこそPBC*2に効くのでこの一連の薬剤とは別の扱いになります。それ以外の薬は、効果も実証されず、アメリカの教科書ではherbal medicineと一言で片付けられています。
それでも、治せる薬が他になかったからこれを使うしかなかった。

一世代前は、肝臓のデータ(GOTとかGPTとか)が悪かったら、週三回か週五回「強ミノ」を注射に診療所に通うのは、どこでもよくみかけたものでした。患者さんはずーっと注射を受けているもんだから、肘静脈がカッチカチになってて、病棟で注射当番をしていた研修医の僕ら泣かせ*3でした。肝臓のデータがなかなかよくならないので2年くらいずっと入院していた、とかそういう話も昔はざらにありました。

* * *

現在、肝疾患治療はかなり様変わりしました。
強ミノを使うことはほぼなく*4ウイルス肝炎はコントロールできるようになり、癌の薬も、肝硬変の支持療法の薬も、一変しています。

でもOTCの薬は、一世代前の知識のままです。
僕は、健康な肝臓、ちょっとアルコールで疲れているくらいの肝臓は、余裕がありますから、害がなければ、まあまあいいでしょう、と思っています。ただし、肝硬変の人が、たまに無知な友人にすすめられて、そういう薬を飲んでくるのには閉口しています。

肝硬変の人には「ヘパス」という、肝硬変に対して優しい栄養剤(BCAA製剤ですね。食品あつかいになってます)があるんですけれども、一度それをドラッグストアで買ってくるようにいったら、ドラッグストアの薬剤師がヘパリーゼタウリンをすすめたって、それを買ってきたのにはしびれたね。


*その他のBlogの更新:

*1:豚の肝臓エキスとか、そういうやつで、これって多分「医食同源」とか類感呪術の思想に基づいているんだと思う

*2:PBCのCが「肝硬変」から「胆管炎」に代わり時代を感じます

*3:多分患者さんはもっと泣いていたでしょうが

*4:たまに原因不明の肝障害で原因判明するまでおまじないがわりに使うこともあります。これも肝臓専門医ほど使わないですね。使うと爺医扱いされるので研修医は使わないように

令和元年にあたって。

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ハロー、ワールド。
ハロー令和元年。

平成の終わり

平成の天皇陛下皇后陛下
長年の公務お疲れ様でした。*1
やんごとないお方なのに、気遣いの力が傑出した方で、その資質も含めて深く国民に愛されたのは間違いない。

天皇制は、僕らが思っているより盤石な制度ではない。特に敗戦後は国民感情によっていかようにもなりかねなかった。
昭和天皇の「人間宣言」は、そういうことも見据えてか、国民感情を味方につけるという意味ではいい風に作用した。
親しみ深い人間天皇であろうというその路線を継承し、それを100点満点で言えば120点やりきったところに陛下の凄みがあると思う。

この改元が祝福ムードで迎えられたのも、そもそもこの方の決断であることも忘れてはいけない。
昭和→平成の改元昭和天皇崩御そして即位でしたから、むしろ昭和天皇崩御に際してのTV番組とかも自粛ムードの方が記憶に残っている。
こんな風に国民全員が改元をことほぐ雰囲気に導けたのは、やはり陛下のご決断あってこそ。
初期はだいぶ退位、叩かれてましたよね。識者に。
我々は陛下の正しい決断を記憶しておかなければいけない。
まあGW 10連休はどうかと思いますが、それは政府筋のプランですからね……

それに生前退位BCP(事業存続計画)として当然だと思う。
卑近な例で恐縮ですが、経営者とかやってて思うのは、元社長の訃報と、現役社長の訃報って、全然意味違うからな。
体制の変更や、各種の届出とか、書類関係とか、すっごい大変で、時間もそれなりにかかる。
葬儀だって、多分現役社長の社葬なんて、すげえ大変。
これが、予想外の急死だったら、次期社長や次期経営陣だってすぐ決められない。
もし重要な経営判断を迫られている局面だったら……ぞっとしますね。
実際一昨年、うちのクリニックの院長先生が急死されたとき、保健所と厚生局には院長の変更を速やかにとどけてください、なんて言われましたけど!
大変でしたよ。
内部の医師は誰もやりたがらず(人間関係的に!)
僕が病院院長を辞し、クリニックの院長に転出、病院院長には前院長=名誉院長に現役院長に返り咲いていただきしのぎました。
それでも、院長空白期間が2〜3週くらいあった。
天皇家は、少し違いますけど、やはり継承に関わる不確定要素を最小化しておきたいという気持ちは、責任感の強い方であれば、当然のことだと思う。

31年の在位は、気遣いも多く大変だったと思いますが、間違いなく国一番のお嬢様を伴侶とし、幸せな夫婦生活を歩まれたことは、とてもよかったことだと思いました。
国民の我々が胸をはって、あの方々が日本一のご夫婦だと言い切れる。
これってすごいことだと思う。
まだまだ男尊女卑的な昭和文化ではちょいちょい批判も受けていましたが、振り返ると、30年進んでいたのだと思う。

令和

元号の変更に際して、業務に関する書類とかみなさん苦労しませんでした?

何か困るって、元号ってやっぱり曖昧な部分がだいぶあることですよ。
例えば、年度の問題。
2019年度は平成31年度とすべきか、令和元年度とすべきか?
平成31年度は1ヶ月で区切るのか?いや、そんなわけないよな。
ただし、昭和の時は63年度だったので、年度始めの元号でいくのなら平成31年度だが、令和元年度が正しいらしい。

また、令和元年という表記が正調であるそうだが、令和1年という表記は許されるのか?ローマ字だとR1が正調?
など。いろいろ。

こういうのって、日本人同士であれば、通じるかもしれないけど、例えば元号に知識ない外国人には不効率でしかない。
もっと言えば、人間同士ならまだいいほうで、コンピューターからみると非効率にしか見えない。
日付は、今や人が目を通すものではない。というより、むしろコンピューターで管理している部分の方が多い。

元号の制度は、アルゴリズム化すると、かなり複雑である。
例えば、平成30年12月1日から、令和元年5月1日まで、何日間ありますか?という計算を考えてみればよい。
西洋暦は、離散数で、それほど複雑な工程を要しない。二点間の距離(期間)の計測もただの引き算で事足りる。

結局のところ、元号を尊重するかどうかは、書類などの電子化に密接に関わっている。
今ではほとんどの書類が電子化(というかWordとかそういう活字化)されているとは思う。

その書類を紙に印刷し「書類は人が閲覧するためにある」とみなしている職場では、元号にそれほど問題を感じないかもしれない。
しかし電子化して、帳票をデータベース化し、そのデータをさらに二次利用しようと考えていれば、おそらく元号という非論理的極まりないものは容認しがたい。

例えば、最近ネットで話題になっている公的機関でのRPAとかの自動化作業。
令和元年という記入を認めたが最後、そこをOCR読み取りしてデータベースに入力するRPAがあったとしたら、今までは数字として処理していたのを「元年」と記入させることを容認した瞬間、テキストとして取り扱わなければいけない。
今までのプログラム、元号を追加するだけでなく、根本的に作り直さなきゃいけない。
西暦だったら、こんな作業全然いらないのに。
こんなのばかばかしくてやっていられるか?

おりしも働き方改革である。
ホワイトカラーの生産性向上とか言うのであれば、ビジネス文書での元号を直ちに廃止すべきだ。
SEの過労死が全国で50人ほど減らせること請け合いであろう。

*その他のBlogの更新:

*1:やんごとなきお方に「お疲れ様でした」という言葉遣いは、多分間違っているのだが、そういう細かいマナーを抜きにしてこういう気持ちを表出したいし、陛下はそういう国民の言葉はともかく心情は受け止めてくださるはずだ。

キングコング西野亮廣の演説

ネットで話題になっていたもんだから、近大の卒業式にゲストとして呼ばれたキングコングの西野の演説を観た。

詳細はこうだ。

キンコン西野 伝説のスピーチ「人生に失敗など存在しない」平成30年度近畿大学卒業式

最近Newspicksづいていたのもあり、西野氏の著作も何冊かみていた。
なので、はしばしにでてくる自己紹介やえんとつ村のプペルの話などは、今までにみたことのある情報ではあった。

でも、動画って視覚聴覚に訴えるので、文章とはまた別の情報が付与される。
僕の雑感は以下のとおり。

* * *

冒頭、入場して煽り直して再入場の流れは、これはライブとかに慣れた芸人の面目躍如だろうと思う。これは普通にうまいよね。

話す内容は、事前に構成はある程度決めていたとは思う。が、祝辞としては、いささか推敲の足りなさが気になった。
もともとの芸人=話し上手、というポテンシャルにたよりすぎではないかと思う。原稿がないことは別にいい。だが、早口すぎて詰め込みすぎてるように聞こえるし、重要な言葉を放つ時に、本来必要なタメがない。
ジャズのアドリブでいえば、いささか休符が少なすぎるソロだ。

肝心のラストあたりの時計のたとえを用いた「うまいこという話」であるが、これは別にいいんじゃないか?
そもそも卒業式の祝辞に、そんな凄い話なんてないよ。平均のクオリティよりはずっと上でしょう。
短時間ですっと理解できて多くの人が「ふーん」と思うようなたとえ話。
卒業式の祝辞としては、心に残りやすい。
もし卒業生が、社会人になってうまくいかなくて「あー」って思っている時にこの言葉を思い出し「もうちょっとがんばろ」という人が一人でもいたら、十分なんじゃないかと思う。

メッセージは明確。

  1. 挑戦することをおそれるな。
  2. 挑戦には、しんどい時間はかならずあるけど、それは必ず終わるから。

これから社会にでる若者に向けるべきまっとうでシンプルなメッセージだと思う。

格好としては、黒のモノトーンで、オーバーサイズ気味のロングコートみたいなやつ。ちょっと落合陽一的な。
まあ今時の流行りをおさえている。
でもこれ、ひと昔前のドレスコードやったらあかんやつよな。
もっと昔でいったら、『眠りの森の美女』で大広間で王に謁見するマレフィセントだよ。
記号的には。トリックスター感はない。
でもこれこそが現代のトリックスターなのかもしれない。

* * *

ただまあ、やたら早口で出口が見えない話し方といい、格好といい、基本的に西野氏は「若者に」向けた話をしようという意が強すぎたんじゃないか、とも思う。
基本的には大学生って、同年代との交流が多く「大人」との交流が少ない*1。今から社会に出て、全年代と交流しようとしている卒業生に、特定の年代にしか的をしぼり指向性をせばめた言葉を放つ、のは、あまりいいとは思わない。

それに卒業式は、卒業生だけのものでもない。
父兄や来賓、先生にも響く言葉だと、いうことなし。

というより、西野氏自身がまだ彼のライフステージの中で、すべての年代の、すべての層にひびく言葉をまだ操れていないのではないかと思う*2
今の世の中これじゃあいかんのじゃないか、とか思っている人には氏の言葉は届くけど、マジョリティを動かすには、彼の言葉は鋭すぎるのだ。

少しエッジを削ってでも、言葉は大多数に届かせた方がいい。
これは大学生の時の自分と今の自分をみくらべて、今思うことだ。
昔の方が僕も尖ったことを言えてた。
けれども、尖った言葉は、聴き手を選ぶ。

要するに、西野氏の演説、大学生に向けたもの、と考えれば、全然オッケー。
ただ、デイ0の社会人に向けたもの、と考えれば、すこし疑問符。
社会人の見本として、あの話し方は、あまりよくない。
西野氏、ディズニーに勝つつもりなら、やらなきゃいけないことがあるんじゃないですか?
動員数では勝てないんじゃないですか?
と、動画を観ながら僕が感じたことだ。

* * *

西野氏はネットなどでも好感度が低いので、西野のことが嫌いであれば、なんかまた目立ちやがってと腹が立つのだろう。
でも、まあいいこと言っていると思う。
完成度が高い、とは思わないけど、卒業式への祝辞っていうのは、無条件の善意と応援の言葉なのだから。

僕もいろんなところでしゃべったりするけど、やっぱりそれなりの人数を前にして喋るときは、原稿かっちりでなくていいから予演をしておくべきだと思ったな。

*1:今は変わったのかな?大学時代にいろんな年代の大人と話す経験はしておいた方がいいと思う

*2:老人はあの話し方だと、絶対聞き取れないもの