半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

公立福生病院の透析の事件について 

なんか物騒な事件が飛び込んできたですね。
matomedane.jp

医師が透析中止提示 患者死亡 | 2019/3/7(木) 6:24 - Yahoo!ニュース
(こちらでは全文が読めます)

まずは亡くなられた女性に哀悼の意を表したいと思います。なんせ、同い年ですからね。

記事になっている情報だけで、この一連の流れがよかったのか悪かったのかは僕には正直わかりません。
医師としては、判断すべきポイントはいくつかありそうだけど、そこは記事では伏せられていますものね。

はっきりしているのは、結構微妙な問題に踏み込んだ事例であるということ。
透析の、ではなくて、アドバンス・ケア・プランニング(ACP。最近は『人生会議』改称された。)に関しての。
「意思決定」って、本当に難しいことですね。

ガイドラインの解釈

うちも透析をやっている施設なので、今回の問題は他人事ではない。
ガイドラインを今一度読み返してみました。
日本透析医学会 - ガイドラインの中を探してみてください。「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」です。2014年)

新聞記事に違和感があったところが、一箇所ありました。
毎日新聞の記事では、

日本透析医学会が2014年に発表したガイドラインは透析治療中止の基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定。

と書かれ、いかにもこの医師が規定をはずれた間違った裁定をした、という風に書いてあるけれども、
正確にいうと、これは「医療チームが維持血液透析の見合わせを検討する状況」に限定されています。「医療チームが」です。

患者が自己の強い意志でもって透析の維持、もしくは導入を拒んでいる状況であれば、この条件に限らないはずです。
これは医療倫理学でいうところの「愚行権」というものにあたる。愚行権って言葉、どうかと思いますけど。

p.278の3行目には

維持血液透析開始あるいは継続によって生命が維持できると推定できる患者が自らの強い意思で維持血液透析を拒否する場合には,医療チームは家族とともに対応し,治療の有益性と危険性を理解できるように説明し,治療の必要性について納得してもらうように努力する.これらの努力を行っても患者の意思決定が変わらなければ,患者の意思決定過程を理解し,その意思を尊重する.

とある。
だから、この事例でも、患者さんの状態は別に問題にはならないはずです。ガイドラインには逸脱していない。

問題は患者さんが「翻意」を口にしたときのプロセスだと思う。
個人的には、ニュース記事にあるような患者さん、ご家族側の記載が正しければ、透析を再開してもよかったんちゃう?とは思ったが、意識レベルや自己意思決定権がどの程度失われていたか、という点は、自分でみているわけではないし、なんとも言えないところです。

透析は「翻意」が前提

ただ、腎臓内科の先生はよくご存知のことだが、透析導入に「翻意」はつきもの。
腎機能、クレアチニンが2-3mg/dl(腎機能を表す。高いほど悪い。普通は1以下。8くらいになると透析)くらいのときに
「将来透析することになりますよ」といっても
「いや先生あんなしんどそうなことするくらいなら死んだほうがましです」って6割くらいの患者さんはおっしゃる。
僕でも多分そう思う。好き好んで透析なんてしないもん。

もちろんそういうやりとりは診療録には残すわけです*1

だんだんクレアチニンが高くなってきて4−5mg/dlくらいになってくると、バスキュラーアクセス(シャントとかいいますけど、維持透析をするための太い血管を人工的に作るわけです)を作る必要が出てきます。
これを前もって作る、ということは透析の準備、ということになります。
この状態でも、
「いや僕は透析しません。死んでも構いません、ファイナルアンサーです」って方はいらっしゃる。
若い人でも。いや、若い人こそ、かな。

シャントを作らずに透析をする場合、いろいろスムーズにはいかない。
だからこの段階でバスキュラーアクセスを作るように、腎臓内科の先生方は言葉を尽くして患者さんを説得する。
その方が本人もラクだし、リスクも少ない。入院日数が少なく済みます。

それでもシャント作成に同意せず「しない。死ぬよオレは。透析しないよ」という人もまあまあいらっしゃる。
でも、ここも想定内。

で、いよいよ、自前の腎臓の機能が廃絶してきて透析をしないと「もう身体ももちまへん」という状態。
例えば電解質のKが排泄できなくなって高値を示したり、尿がでないわけだから、身体がとてもむくんで、肺に水が溜まって酸素不足になる。
そうすると、実際苦しい。
死ぬほど苦しい。

そのときにどうするか。
「やっぱ透析する?」と意思確認をします。そして「しない、死ぬ!」って言ってた人が翻意して透析をするっていうことは、よく、あります。
逆に、初志貫徹して透析をせずで亡くなる人、特に若い人は僕は見たことありません*2

要するに、透析に携わる先生方は患者さんの「翻意」は常に経験していて、ある程度想定内だと思います。

だから今回の一件で、意志撤回を意志撤回ととらなかったのには、何らかの理由があるのかなー、なんて、考えてしまうわけです。

この方の場合は5年くらい透析をしてきているという「実績」があるので、それでも辞めたいというにはそれなりの理由があったんじゃないかという気もします。長らく透析をしてきた方で、いろいろな合併症をきっかけに「もう透析をやめる」と言って透析をみあわせるケースは、僕らもひんぱんにではありませんが、まれに経験はしますからね。そういう方の意志は、確かにわりに強固なところがある。

「翻意」したからって助かるわけじゃない

個人的な経験ですが、前述したような「絶対透析せん、わしゃ死んでもかまわんのじゃけ」と言っていた方。
やっぱりしんどくなって入院して来られて、
「透析します?どうなさいます?」
「……する」
となって、わーい透析透析、これで助かるよかったー、と思っていたけど、その日に初回透析をしたけれども、やっぱり心臓に負担があったのか、その夜心血管イベントで急変してしまった、という経験はあります。

そりゃあたりまえのことで、タクシーで「品川?東京?」
「うーんどっちにしようかな…品川、東京、品川、うーん、品川で!」
 ………
「お客さんそろそろ品川に着きますよー」
「……すみません、やっぱ東京で!」
とか言われているようなもので、そりゃ電車に間に合わないんですよ。
だから、翻意した状態から再開したら4年は生きたというのは、まあ医療裁判向けの謂いではないかと思いますね。

* * *

多分、この事件については、巷間いろいろな議論がされるのではないかと思うんですけれども、
医療費圧迫とかそういう観点は脇において*3、生命の自己決定権というところにしぼって考えるべきではないかなと思います。

個人的にはACP(あ、最近は人生会議でしたっけ?)を最近外来とかでもよく説明させていただきますけど、この透析に際しての患者さんの「翻意」を当たり前にみている身からしたら、元気で意志表明ができる時の考えで、本当に看取り期の意志表示にしていいのかな?とか、思っちゃうんですよね。

* * *

あと、この事件の多分本質的な問題は、決定のプロセスが属人的に決められたことで、医療機関の中で複数の人間で協議がされていないのではないか?ということ。

ただし、そのあたりはガイドラインでは「倫理委員会」という言葉でしか書かれておらず、もうちょっと強調されてもいいのかもしれないと思いました。
オランダの安楽死制度とかにしても、主治医以外の二人の医師との面談が義務付けられているんです。
意思決定の属人性は、多分改善すべきところではないかと思いました。
医療機関の管理者としては、他山の石にしたいと思います。

※ 太字部分、後で加筆しました。

*1:なかには残さない先生いるけどな!ひょっとしたら言ってさえいないのかもしれんけどな!

*2:めっちゃ高齢の方の場合、心臓・肺が負荷に耐えられないので短時間で昏睡状態やショックの状態になって亡くなられる方はしばしばおられますけどね

*3:なんか医療崩壊ガーとか、医療制度破綻ガーみたいな声も上がっていますけど

医療データの情報共有について その1

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日本医師会医療情報システム協議会というものに参加してきました。

電子カルテの未来

WHOに、日本の医療は世界一だと言われていた時期があるのは事実だとは思うが、今はどうだろうか?
日本が技術大国であったのは 90年代までで、今では家電などは韓国・中国の後塵を排している。
情報システムなどについてはどうだろう。
世界を見渡してみると、例えばエストニアは全国的に電子化が非常に進んでいる。
投票、確定申告、ほとんどのお役所手続きがコンピュータ上でできるし、当然医療情報についても、統一したインフラにのって、効率的に運用されている。*1

日本は、電子カルテの登場は結構早かったものの、むしろそれが足をひっぱって、全国的なシステムの統一が進まない。
複数のベンダーが入り乱れ、シェアをとりあっている状況は、非効率の極みではある。
中途半端に電子カルテが普及しているのも、状況を悪くしている。むしろ一から統一したシステムを入れる方が効率がいいだろう。*2

下手をしたらラオスカンボジアミャンマーなどの経済規模でも、今後統一化された情報システムが整備されるだろうから*3、そうなると日本は医療情報システムの効率性については世界で下から数えたほうが早くなる時代がくるかもしれない。

* * *

日本の状況を輔弼するために、電子カルテとは別に、医療機関同士をつなぐグループウェアが県医師会レベルなどで作られているが、これも、全国で統一したものを作ればいいのではないかと思う。これも無駄が多いわりに、実効性が低い。グループウェア、あまり便利ではない。

こうした状況こそが日本の「失われたnx10年」の正体なんだろうな。

実際今のグループウェアの延長線上に理想とすべき、統一された電子化された医療システムに至るかといわれると、難しいのではないかと思う。

* * *

以前に「電子カルテの手切れ金」というのを書きました。
hanjukudoctor.hatenablog.com

電子カルテというのは、言ってしまえばただのリレーショナルデータベースの集合体だ。
ただ、結局医療者側のニーズを知ってか知らずか、電子カルテは、効率的な情報のアウトプットができない仕様になっている*4

最低限、限定された情報を吸い出すことはできるが、電子カルテそのものに、他所から情報を入れるインポート機能がない。
個々の診療録ベースでいえば、スキャンした診療情報提供書とか、CD-ROMから読み込んだ画像データなどはインポートできるが、テキストのインプットはできない。
電子カルテにテキストデータを入れるには、電子カルテにタイピングしていれるしかないのだ。現状。

なんか、偉い人達は、薬剤情報とか、画像データベースとか、採血データとかばかり気にするけど、本当に共有・統一化したいのは、データそのものであり、白文のカルテ本文だ。
逆に、それができないから、カルテの書き方の標準化もすすまない。
もし、自分が書いた患者のプロブレムリストとレビューが、どこの病院でも診療の下地になるのであれば、みんなもっと注意して、そして統一化した書き方でカルテ記載を行うはずだ。

電子カルテ以前の世代の先生方は、もちろん個人差はあるが、基本的にはカルテ記載が少ない。
手書きだと、多くの患者さんを診る場合たくさん文字を書けないからね。
昔のカルテって、一部を除けば、単語の羅列だったり、文章の体をなしていない。*5

電子カルテのいいところは、コピペができること。
一度きっちりと患者評価を行えば、カルテ記載の質が全体にぐっと底上げできる。

開業医からの「達筆」な手書きの手紙は、そこから文字起こしをするしかない。幸い文字数は少ないのだ。達筆の手紙などは。
だが、A病院もB病院も電子カルテを使っているのであれば、カルテ本文のやりとりができると、実は業務は相当効率化するだろう。

でもそれが今の電子カルテでは、できない。
これでは効率のよい業務など夢のまた夢だ。

* * *

なんとなく、希望すべき未来像はわかっているのだ。
どの病院でも同じような電子カルテを使っていて、他の病院での診療行為も、シームレスに見ることができる。
開業医も、基幹病院の専門医も、同じシステムの中でやりとりをすれば、非効率なこともずいぶん減るのではないかと思う。
普段診ている先生の情報を踏まえた上で、カルテを書くことができれば、病院の勤務医(Hospitalist)の負担はずっと減るのではないか。

ただ、今の日本の現状から、その完成形にもっていくには、どうしたらいいのか、ちょっとわからない。
パレスチナ問題のように、利害関係も積算された過去のいきさつも、錯綜しすぎている。

つづく。

*1:それに比べて我が日本は…マイナンバーの体たらくも…

*2:ただしそれには1兆円以上余分にお金がかかるだろうし、電子カルテからデータを吐き出させるのが難しいと思う

*3:一から整備するなら、中国かシンガポールのシステムが安価に供与されるという可能性は、高いと思う

*4:電子カルテのベンダーが言うのは「セキュリティ」であるが情報を抱えるだけ抱えて、エクスポートの手段しかないという状況は、セキュリティ以前の話だと思う

*5:非医療者の人に「カルテってドイツ語なんですってね…」とか言われることあるけど、昔のドイツ語のカルテで、ドイツ語文法まできっちり記載されているようなものって多分レアだと思う。「オレ 腹減った めし 食う」みたいな、単語の羅列やで。全然すごいことあらへん。

腎友会のミライ

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地域では一番大きな透析施設をもつ当医療法人には、腎友会の支部があります。

* * *

腎友会。腎臓病の患者さんの団体。
かつては政治的に大きな意味をもっていました。
透析黎明期、透析はひどく高額なもので、家屋敷を抵当に入れる覚悟がないと続けられないと言われた時代さえありました。
それが障害認定や、特定疾病療養受領証(マル長)や更生医療など社会制度も整備され、透析の可否にお金は関係ないようになった*1

各地の腎友会をとりまとめるのが全腎協(全国腎臓病協議会)で、日本最大の患者団体だそうです。
透析への手厚い社会制度の背景には、全腎協の地道なたゆまない活動の歴史がある。
だからこそ全腎協は現在も隠然たる影響力があります*2

* * *

うちの腎友会では毎年新年の会食を行っており。その日は医療従事者である我々は腎友会の招待を受けて出席します。
今年も参加してきました。

ただ、年々、腎友会、特に役員の高齢化がやはり目立つ。
今年度は、昔なじみの多くの患者さんが鬼籍に入られてしまい、腎友会の役員だった常連の方々はかなり数が減ってしまいました。
そして、役員には皆なりたがらないので、役員の引き継ぎにそうとう悶着しているようです。

僕らの世代が、組織活動をしないことについて

団塊の世代前後の政治集団のロールモデルというのは、学生運動だったり安保闘争であったりします。
腎友会であれ、地域の町内会であれ、昭和世代の集団は似たような性格を帯びる。
日本的な、昭和的なムラ社会

団塊の世代の方々は、人が多いことに慣れているのは確かで、集団の組織編成に一日の長があります。
勢い、意見の糾合や、組織編成については彼らが先導することになります。
ただ、彼らの作り上げた旧型の集団は、今の時代に適応しているわけではない。

オープンで、フラットな集団性が担保されているわけではなく、
構成員の社会観を反映して、年功序列かつ男尊女卑の傾向はぬぐえません。

少し年少の、団塊ジュニアである僕ら前後の世代は、そういった集団の中での活動に、非常にネガティブな印象をもっていますね。
そもそも政治参画に対して消極的であるし、政治に限らず、労働組合や町内会やPTA活動など、あらゆる集団行動について、勤労世代の中核たる30〜40代は、参加率が低い。
それがために、地域の集団の「組織力」は徐々に失われているように思います。

僕がみる限り「腎友会」も、そうした普遍的な課題に直面しているかのように思える。
これは全国的な趨勢であり、各地の腎友会も、人数を減らし、活動を終了したところも多いようです。

* * *

我々の世代はなぜ集団活動に対してかくも消極的なんでしょうか?
我々の世代を集団活動・政治活動に巻き込むにはどうしたらいいのだろうか?

SNSとか、対面や集会を現代的なものに置き換えて、意思決定の時間的コストを下げる、という手段はそれなりに有効なのかもしれない。
いや、それは、もうすこし下の世代に向いているが、40代には今ひとつささらない気がする。

結局、我々の世代は「狭間」感が強いな…と感じます。
就職氷河期で旧来社会に参画を拒否され、未熟なままで地殻変動を繰り返すジャングルに放り出されてしまった。
集団闘争の経験がない我々は、個別に社会と対峙し、なんとか荒波を超えてきたわけです。
うまくいった人も、うまくいかなかった人も、多くの活動は個人をベースにしたものであり、集団による問題解決、という成功体験がそもそも希薄です。

女性主導のコミュニティ

そんなことを思いながら、今年の腎友会の新年会を眺めていると、今年は、女性の参加が多いことに気がついた。
若い世代は少ないのだが、60代〜70代の女性が、いきいきと楽しそうにしていた。
去年までの腎友会、では世代的な特性として男尊女卑的な傾向はあった。
(田舎であることも関与しているのかもしれない)
その暗黙の了解で、女性は役員になることはなかった。女性はどちらかというと「二等市民」的な扱いを受けていた印象が強かった。
今回男性の役員の多くが亡くなられたため、相対的に女性の参加が優位となった。
結果的にではありますが、女性中心のコミュニティが形成された、ということになります。

政治目的のために組織統率を行う学園紛争型の組織ではなく、共感と相互承認を基礎としたおばちゃんの井戸端会議的な穏和な組織。
組織のあり方をこのように変革し、ゆくゆくは全世代が参加しやすい組織にかわっていけばいいなと思う。

* * *

ただし、腎友会は、我々が主体ではない。
私がこういうことを考えても、主体である患者さん達が、そういうふうに考えてくれるのかどうか。

*1:医療経済的には諸外国のスタンダードを遥かに超えてしまっているせいで、批判にさらされることさえ、ある。

*2:歴史的役割を終えたという意見もありますが、私は重要だと思います、今でも

組織のパラドックス

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現在の私は、いわゆるプレイング・マネージャーです。
平日の営業時間のほとんどは、内科医としてあくせくと病院を走り回っており、理事長らしいことはできておりません。

正直、プレイングマネージャーの形がベストとは思ってはいません。
が、うちの法人には医者が十数名いますが、年齢的には僕、下から二番目なんです。
組織のヒエラルキーと、医者の年功序列って、別だったりします。
だからどんどん仕事捌くしかないじゃないですか。*1

司令部にどっしりと座り、周りに目を配り、方針を明確に立て、それを周知させ組織を動かすという経営者らしい経営者が本来的なものだと思います。
ただ、プレイング・マネージャーは、現場の肌感覚は誰よりもわかる、というメリットはありますね。*2現場の忠誠心も得やすい。

ま、この形は過渡期のスタイルです。
このスタイルが許されるのは、上杉謙信アレキサンダー大王だけで、個人の武力が抜きん出ているような人でないと討ち取られてしまいますから。

* * *
そんな「なんちゃって組織管理者」の私ですが、なんだかんだいって5年目。
それなりに様々な経験を積ませてもらいました。

最近感じることは、組織管理、組織運営の要諦って、矛盾した二項のバランスをとることじゃないかな、ということ。
パラメーターを、ちょうどよく振り分ける、そのバランス感覚こそが、管理者に必要なんだろうと思います。

標準化と属人性

現在当グループの職場の給与水準は、どんどん離職するほどは低くはなく、かといって誰一人辞めない状態ほどは高くもない、くらいの感じ。
働きやすさには注意をはらい、改善の努力の結果、ホワイト企業……とまではいいませんが、生成り企業……くらいにはなりました。
なので、募集をかけると、それなりに人は来る一方、人材流動性もそれなりに高い。

こういう職場では、業務の属人性をできるだけ廃するシステムづくりが重要。
業務を安定して継続するためには、役割分担と業務の標準化が必要です。*3
そういう組織づくりをすすめていますが、そうすると、業務が属人化されていた古くからの職員は、自分の仕事のやり方を否定されている気になるんでしょうか、やはり面白くないようですね。
お定まりの決まり文句の批判は「人は取替の効くコマではない」です。

でも、これからの仕事のあり方は、業務の標準化を前提とした組織づくりでないと、生き残れません。
仕事の足並みを揃え、業務の替えがきく状態は、チーム医療としてはとても大事なことです。

ただ、その状態を作り上げた上で、さらににじみ出てくる「その人にしかできない仕事」もあります。
これは二律背反ですが、その矛盾を飲み込んでこその経営なんだと思う。
完璧な均てん化は、むしろエクセレントな人のやる気を削ぐ。

多様性とまとまり

理事長の意見がすべて通ってしまうようなイエスマンばかりでは、理事長が状況判断を間違えば全滅してしまう。
組織には、いろんなスキルや考え方をもった人が必要です。
平時はぼんやりしているけど緊急時には人が代わったように動き始める人なんか、たまにいます。
ある特定の領域だけ、やたら得意な方っていう人もいます。
その意味では、多様性はとても大事です。
しかし、いくら多様性といったって、組織の理念や哲学に反している多様さは望ましくない。
また、いくら際立って得意な人だからって、業務をその人専用に属人化させてしまうと、そこがボトルネックになってしまう。
「多様性」と「まとまり」はトレードオフの関係にある。

冗長性と効率性

それは、組織力学的に言えば、冗長性と効率性のバランス、ということになるんでしょうね。
働き蟻の法則。アリの社会は20%の働き者、60%の普通のアリ、20%の働かないアリで構成されています。
「働かないアリ」はなんのために居るのか、という研究では、要するに、緊急事態に対応するため、ということらしい。
効率化を極限まですすめてしまうと、イレギュラーな事態に対応する余裕がなくなってしまう。

医療は、根本的にイレギュラーな事象を多分に含むものです。
ただし、このあたりは、予算的に厳しい昨今の医療制度のため、年々実現が難しくなっています。

下がることを許容できないと給料って上げられない。

これは余談ですが、給与にもパラドックスがある。
すごく頑張っている人に対して給与やボーナスで報いたいと思うのは、経営者としての本音です。
でも、給料って、なかなかあげられないんですよ。
30歳の人に、基本給(月給)を例えば 1000円上げれば、12000x35=42万を余分に支払うわけです*4
このあたりの感覚は、上げるひとともらう人で、ずいぶん違う。
たった100円でも5万弱です。
そもそも「今」の頑張りが退職まで続く保証もないので、「頑張っている」ことに対し給与アップはしづらい。
反対に能力と働きに対しては給与は上げやすい。
能力は「やる気」よりは目減りしませんから。

「今頑張っている」人には、ボーナスで報いればいいわけですが、
これまたボーナスって、固定給を補完するような形で職員には認識されているわけなんですよね*5
上げたものを下げると、皆気色ばみますねー。

その年に頑張っている分、ボーナスは上げる。
けどそんなに目立たない年には元に戻していい。

これが許されるのであれば、逆にボーナスを盛りやすいのです。
ボーナスを下げにくい(右肩あがりが当たり前の)組織風土では、頑張りに対して、増分を増やしにくい。

皆さんの会社って、ボーナスの制度どうなっていますか?

* * *

経営というのは、バランシングであり、答えがない。
そもそも経営というのは「なまもの」の企業組織を、安定して動かしてゆくことです。
一言で言えば「動的平衡」そのもの。
動的平衡そのものが、多分に二律背反をはらむものですからね。

その他のBlogの更新:

ジャズブログ:

これは、今週は更新なし。だんだん、エントリーが集積して、迷宮のようになってきました(笑)

*1:「きっついやつやん……」という感想を受ける勤務医の先生もいらっしゃると思います。実際まあまあきっつい、です。でも標準的な仕事量を自分をもって示すしかない、との思いで頑張っています

*2:逆に現場感覚がわかりすぎ、現場の都合を忖度しすぎる弊害もあるとは思いますね。

*3:そのためのマニュアル作り……というところにはまだまだ課題があります

*4:あ、こう書くと全然給料上がらないみたいなイメージを抱かせてしまいますが、当然定期昇給っつーのはありますからね。それにポジションがあがると、号が上がる、みたいなやつもある。

*5:多くの企業で、ボーナスは4ヶ月程度が暗黙の了解となっているが、これはドッジ・ラインの外貨引き上げで、日本国内の設備投資のために資金調達が必要となったときに、国民の給与所得の1/3を銀行に貯蓄させるために考案されたらしい。だから、各社横並びで、固定給に近いものになっている。

「介護保険審査会」のマネタイズ

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家の近所
みなさん、介護保険のこと、どれくらい知っていますか?

* * *

介護保険は40歳になると全員が強制的に加入するものです。
40歳になると、給与明細に項目が増えることで気づくかもしれない*1
ただし、介護保険を実際に「利用する」ためには、申請をして、介護保険の認定を受ける必要があります。

介護保険の申請があると、主治医は主治医意見書という書類を書き、あとは介護保険認定調査員という人やってきて対面の面会をします。
その情報をまとめたものを、介護保険審査会という会議で審査し、介護度が決定されるわけです。

審査会とは、医師や歯科医師・薬剤師・ケアマネ、看護師などの他職種(4人)で合議するものです。
私も参加して5年目になります。
月に2回、一回二時間程度の会議で、30人くらいの案件を合議する。

はっきりいって、あまりやりたくない仕事。
で、医師会の仕事を受けたときに「まあ、若い人はみんなやるから…」みたいな感じで、やらされました。

なんでやりたくないか、というと、はっきりいってめんどくさいからです。

* * *

30件の資料は1週間前くらいに届く。
事前に読み込みをするためだ。
読み込んでおいて、自分なりの結論をだして、それを会議では4人が意見を出し、意見をすりあわせて決定する。
この審査会にでるまでは介護度を決定するプロセスについて正直わかっていなかったので、お願いされてなんとなく始めた当初は、30件の読み込みに時間が結構かかっていた。最初は2時間はかかった。

だから最初は
「こんなんやってられっかっつーの!」と思った。
こちらはクソ忙しいんだ。なんでこんなことに時間をとられにゃいかんのだ。と。
会議そのものも、やっぱり2時間弱はかかっていた。

* * *

私もやっているが、うちの職場からもいろんな職種の人にも声がかかり、4〜5人が行っているようだ。
報酬額は、自治体によって違うが、一回の会議で15000円から20000円弱、という感じ。全職種同じ金額のはずである。
医者にとっては、決して高い報酬とは言えない。
が、給与の安いその他の職種にとってはちょっとした副収入にはなる。
僕は最初、不遜にも「こんなお金でやってられっかよ」とか思っていた。

* * *

2年毎くらいに審査会の4人のグループ(合議体という)は定期的にメンバーをシャッフルしている。
今のグループは、やたらと合議決定が早い。
30件にしろ、40分くらいで終わる(前は倍かかっていた)。

仮に一回の審査会での報酬が15000円だとすると、ゆっくりのグループで、二時間いっぱい使うと、時給は 7500円/時となる。
90分なら 10000円だ。
40分なら、なんと、時給は 22500円となる。45分なら20000円だ。
そうなると……これ、医者の仕事としても、それほど悪くないんじゃないか*2

もちろん移動時間の非効率性もあるし、事前読み込みの時間を勘案すると、とてつもなくラクな仕事ともいえない*3
ただ、医者の諸君は受験強者で、要領はいいはずだ。
私も今は事前読み込みの時間は30分以下で、なんとかなっている。
コツはいろいろとあるが、

  • 合議体のメンバー全員が、早く終わらせようという強い意志統一をしておくことがなにより必要なことだろうと思う。
  • 4人の合議体員で、進行役を決めて順番に案件を割り振るのだが、事前に順番を決め、自分が主のやつはしっかりみておく。そうすれば10件弱の読み込みでいい。
  • 一から介護度を考えるのは大変。要介護3という結論をだすのであれば、この人が要介護3である理由を滔々と論じるより、背理法というか、この人が要介護2以下でも4以上でもない理由を示す方が時間がかからない。
  • 更新申請のときは、前回の審査結果との論理的整合性を示すことで、省力化できる事例が結構ある。
  • 非該当〜要支援1のあたり、それから要介護5のあたりは、そももそ議論の余地がない。そこはざっくりと省略すればいいと思う。それだけでずいぶんと時間が省ける。逆に一次判定で介護1〜3あたりがでているやつは、時間をかければいいと思う。

* * *

どこも、介護保険の審査会は、不人気である。特に医師。
基本的に人手不足の医療業界で、余分な仕事を背負うことをみんないやがるからだろう。
しかし上述したように、徹底的に時間がかからないようにやれば、時給1万以上の仕事にはなる。
そもそも、地域包括ケアシステムを論じるのであれば、審査会を一度も経験したことがないというのは片手落ちであろう。

総合診療医の専攻医の若手って、この審査会参加を義務付ければいいのにと思っています。
Hospital GeneralistにしろFamily Physicianにしろ、介護保険のことをわかっていないGPなど、僕は信用できない。

44歳の自分が「若手」みたいに扱われる現状は、いかがなものかと思うし、非効率な運営もあまり好きではない。
今回の僕の発言はまるで「手抜きのススメ」みたいに見えるかもしれない。
そうではなく、ただ短時間で集中して、気持ちよく仕事を終える方が建設的だな、と思います。

* * *

今回のエントリーは、介護保険審査会のあり方がどうとか、人選とか、決定プロセスなど、制度の根本的な部分に対しての意見ではありません。
そもそも、いろいろ介護保険制度そのものについては、いいたい人もたくさんあろうかと思いますし、僕もどうかと思う部分はあります。

ただ、地域診療・介護は所与の制度の中で回っています。

自分もその中で最善を尽くすだけであり、また制度に組み入れられた人間として、自分の行動は最適化しなければいけない。
医療・介護に関しては、低賃金、非効率性という部分が、社会問題化しているので、自分が携わっている部分だけでも
効率化したらいいとは、思うのです。チリも積もれば山となるはず。

介護保険審査会に関わる人達は、あまりネットにはつぶやきも出てこないので、いろんな意見をいただけると幸いです。

*1:40歳になり、介護保険分ひかれることで、若干歳を感じて凹む、というのはあるあるですね

*2:大学の関連として来てもらうバイトにしろ医師の時給換算で10000円前後という感じだ。(当直などはまた別の計算になる)

*3:事前読み込みを簡単に済ますときは、審査会中にも読み込むのだ。結構集中力が要る

このブログの「顧客」はだれですか?ねえドラッカー?

f:id:hanjukudoctor:20190114084232j:plain:w350
去年の9月、はてなダイアリーからはてなブログにうつして4ヶ月くらい経ちました。
ほぼほぼ死に体だったダイアリーから、ブログとして復活はしたわけです。

けれども、読者数なんて、それほど増えるわけでもないし…
今後も、多分そんなには増えない気がしますね。

ブログなんてものを書くからには、バズりたい。
っつーのが人情ですよね。

* * *

でも、でも。
だいたいさあ、そもそも、なんのために書いているのかが、自分でもわかってない。

人に読んでもらうため?
有益な情報を伝えるため?
いや、そうでもないんじゃないか。

だって、正直にいって、自分の書くこのブログ、長いもの。
さらっと読むにはいささか重いもの。

2000字を超えると、自分でも読み直すのに「うげっ」となる。多分、読み手を選びます。

* * *

ドラッカーの言を借りれば「顧客の設定」が重要なわけです。
この「ブログ」の顧客って誰なんだろう?僕は、誰にむけて書きたいんだろう。
医療従事者?
他の医者?
患者さん?
経営者?

* * *

患者さん相手だったら、親切さが足りない。医学知識の説明も補足しなきゃいけないし、長い。
他の医者相手にしても、読んで納得のいく話や有益な情報を届けなきゃいけない。そもそも他の先生に僕がいわなきゃいけないオリジナルな内容なんて、ないしなあ。医療従事者向けに話すなら、用語が医者向けすぎると思うし、経営者、ということであれば、医療分野以外の経営者に話す共通言語がなさすぎる。医療の経営者なんて、開業医と病院で全然違うし。
……なんか、すべてが中途半端なんです。

そう思うと、やっぱりこの文章って、自分のために書いている。
「僕に役立つことは、僕に似た誰かにも役立つかもしれない」…そういう思い。そして、共感。
そうですね。僕がほしいのは、共感です。多分。

* * *

多分、僕のブログの顧客は僕なんだ。
だから、PVは増えない。
やっぱりこれは自分のためのブログだよな。

読書記録なんてのも、こうやって記録することで、読書遍歴や、感想でその当時考えていたことを思い出す事ができる。
読書・音楽記録なんて、自分自身の体験のクロニクルで、それが積み重なると、自分なりの味がでる。
でも、それが他の人の役に立つかどうかは、ちょっとわかりません。

* * *

多分、こういうスタイルやマインドで書かれたものは、昔のテキストサイトではありふれたものだったと思います。
だけど、今はブログって、情報商材であったり、いかにマネタイズするかっていうツールだよな。

新しい革袋になって、喜び勇んで書き始めたのはいいけれど、自分のスタイルの古さに気付かされたというか。

家族葬もよしあし

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ホテルニューオークラ玄関口のオーナメント。新春の梅。

1月はインフル、インフル、またインフル…という趣でしたが、だいぶ落ち着いてきました。
なんとか乗り切ったように思いますが、手洗いのしすぎで、肌がガッサガサです。もう限界*1

* * *

長年の患者さん。患者さんは70代で、ややこしい病気も抱えているけど、まあよくしゃべる明るい方。
月に一度の外来で「なんかかわったことありました?」と当たり障りのない切り口でお話しを切り出すわけ。

「長年来の大親友がこの前亡くなっちゃったのよ…」

と少ししょんぼりしていらっしゃった。

「旦那が亡くなっても泣かなかったけど、今回ばかりは大泣きしたわね。
 もちろん葬式も行きたかったんだけど、最近家族葬が増えたじゃない?親友もいい年だから家族も、そりゃ家族葬でこぢんまりとやるわよね。
 でも、あたしにとっては、そこはちょっと複雑だったなー。葬式で死に顔みておくべきだったなーって」

* * *

確かにここ最近はほとんどが「家族葬」になった。気がついたら主流が家族葬になっている。
多死社会でもあるし、葬式も頻繁になっている。
定年退職してずいぶん時間が経っていれば交友関係というのも限られてくる。
要介護状態になって数年も経てば、確かに、友達が呼ばれて来る、というのも親族にしてみれば、ちょっと想像しにくい。

なにしろ、葬式は高い。
なんやかんやいって基本料金もするし、そこから「社会的な…」とかちょっと油断すると*2、どんどん費用がかさんでしまう。
どれだけ来るかわからないのに大きなスペースを用意して、結果誰も来なかったら、その人の人生そのものを否定された気さえするし*3、逆は逆で困る。親族の不見識を責められるだろう。

その点家族葬なら参列する人数もよめるしコストが抑えられるし、来客の対応とかそういうのにかかずらわなくても済む。
家族にしてはずいぶん楽だとは思う。

「香典辞退」も増えた。
これも端的にいえば返礼の人的コストを下げるためだ。
上記のように家族葬にして葬儀費用負担が現実的な値段におさまれば、現実的だ。

* * *

こうした冠婚葬祭のルールって、誰が主導しているわけでもなく、いつのまにか変化していることが多い。
考えてみると、すべて人間が日常的に触れるわけではないので、業界の外にいると、変化には気づかない*4
国際医療福祉大学高橋泰が(高橋泰先生については以前に書いたことがあります)、「最近胃瘻をしてくれという家族が減った」という話をよくされるのですが、
そのときに引き合いに出すのは結婚式の「仲人制度」の話。
hanjukudoctor.hatenablog.com

確かに、僕よりも前の世代であれば、結婚するのに仲人というものを立てるのが当たり前だった。でも今は殆どしなくなっている。
別に、そういう仲人制度に反対するキャンペーンとか社会運動とか、行政指導などがあったわけではないけど、気がついたら皆がしなくなっていた。

家族葬のトレンドも、これに近いと思う。
その他でいうと、お歳暮・お中元も僕らの世代以下では、基本的には廃れつつある。
だいたい、2000年の小泉改革の頃以来、そういうのに使える可処分所得はどんどん削られているのが実状だし。
年賀状も、そろそろやばい。年賀状2.0みたいなものがあると、いいな。
Facebookみたいに、全員がアカウントをもっていて、送る、というか、一年ごとに年賀のページを更新すればいいんだと思う。
それぞれが、年賀状のリストみたいなリンクリストをもっている。そういうの誰かが作っていれば、ひょっとしたら日本もFacebookとタメ張るSNSを作り出すことができたのかもしれない。

同様にSNS時代に、人の死・葬儀、エンディングに関する問題はどうにかできないのか。
多分なんらかのビジネスチャンスがあり、誰かがモデル化するのだと思う。

* * *

患者さんの話に戻る。
やっぱりエンディングノートに、葬式で呼んでほしい人のリストとか、書いておいたらいいんじゃないの?という話になった。

「そうねー。そうするわ」

とお帰りになった。

が、帰ったあとアシスタントが、
「でも、大親友というのも、主観的なものですからね……
 友人と思っているのは自分ばかりで、勝手に親友と思っていてて、リストに名前がないのもショックじゃないですかね…」
とぽつりとつぶやいた。

おい! 君! 何があったん?!

(※内容には一部フェイクが混じっています)

*1:とか言っていたら、インフルBが出た!

*2:旧来の葬祭会社は、このあたりの褒め殺しで料金を自動的にのせていく営業トークに、真髄があった

*3:なんか自己評価が過大、みたいな気になってしまうよね

*4:まあ、医療もそういう閉鎖業界の最たるものだ。てへ。