半熟ドクターのブログ

旧テキストサイトの化石。研修医だった半熟ドクターは、気がつくと経営者になっていました

遠隔事始 その3:

 遠隔診療の本質として、患者さんはどこにいても診察を受けられるというメリットがある。

そして、それを拡大すると、医療側の方も、どこにいても診療を行うことができるかもしれない、ということになるだろう。

 これは現時点では議論されていないが、今後、かなり問題になってくるのではないかと思う。

* *

 遠隔診療については、2017年7月の現時点においては「実際の対面診療を補完するものであり、一度は「対面を診察をしなければならない」という縛りをもうけられている。

 ただ、これも、禁煙外来については「最初から最後まで遠隔診療でいい」という通達も出されたわけだし(その2巻末参照)今後緩和されてゆく可能性は十分あると思う。ただ、それはおそらく「遠隔診療 2.0」みたいなフェイズにおいてではないかと思う。

 私も古い人間ですから「最初から最後まで遠隔」はやはり抵抗がある *1し、自分としてもそこを業務として拡充していくつもりはない。「最初から最後まで遠隔」は、やっぱり現行の医療のあり方からいうと違和感がありすぎるから。

 今回は、対面診察と遠隔診療を混合させた診療形態について考えたい。

 が、現行の法整備でも、幾つか抜け穴が気になるところがある。

「医師Aが、B診療所で対面診察をするという形態をとる。遠隔診療の時、医師本人は診療所におらず、院外から遠隔診療デバイスで患者と交信する。診療報酬請求は診療所Bで行う」は是か非か。

これが疑問その1。

また「医師Aが、B診療所でリアルな対面診察をする。その後フォローアップの遠隔診療はC診療所で行う」という形態をとることは是か非か。診療所Cで報酬の請求ができるか。

これが疑問その2である。

もちろん、十分な情報共有ができることを前提としてで、ですよ。

 遠隔診療そのものは、ノートパソコンがあればできる。電子カルテとつながっている必要はない。クラウド型のネット接続の電子カルテもあるが、メジャーどころの電子カルテスタンドアローンで、ネットと接続していない事が多い。

 ちなみに、診療所の電子カルテへの記載はDAによる代行入力で多分問題なさそうだ。

* *

 疑問その1については、現在も手広く行われている「往診」という概念を拡大解釈すれば、問題がないのではないか、と考えられる。もちろん往診は患者の利便性を増すし、国の望む診療であり、診療所での診察よりも手厚く報酬がつけられている。「疑問1」の事例については、患者側にはメリットは発生しないので、この遠隔診療は多分優遇はされないだろう。ただ、報酬が認められない、というのは考えにくい。

 もしこれが許されるのであれば、考えられるのは、まずは、自宅にいながら遠隔診療を行う「引きこもりドクター」であろう。請求業務は、事務員にさせればよい。全く問題がない。遠隔診療の事務員用のアカウントに、内容を記載すれば共有はできる。

 そんなの得にならないじゃないか?と思われるかもしれないが、それは個人診療所は一人でやるもんだという先入観があるからだ。例えば診療所に在籍する医師が5人だとしよう。診療所で対面診察を行う日は日替わりで分担を決める。

 もしそうなら、診察室は一つしか作らないで5人の外来診療ができる。残りの日は自宅で遠隔診療をしてゆけばよい。

 シェアリング型の診療所であれば、固定費が劇的に下がり、開業のハードルがさがる。

 診療所の経済学が根底からひっくり返る可能性がある。

 さらにいうと、診療の場を自宅に限定する必要もない。さすがにスターバックスはオープンなのでだめだろうが、コワーキングスペースのブースを借りて、遠隔診療をしたって悪くないと思う。

 僕なら、学会出張のホテルの部屋で遠隔診療をしたい。これも、可能だろう。

 やや極端ではあるが、生活習慣病のフォローを行うDr.で、特に運動勧奨を行うような外来であれば、敢えてオートキャンプ場とかサンシャイン池崎のような格好のスポーツサングラスをしたドクターが、ランニングの途中にスマホから遠隔診療をする(そして松岡修造ばりのアツい指導を行う)みたいな「エクストリーム診察室」みたいなトリッキーな診療が人気を博す時代さえくるかもしれない。 *2

* *

 現行の法制度というのは、医師が勤務する場所は基本的に固定されている前提で法整備されている。遠隔診療はその他の業種でのビジネスデバイスと同じく「ノマド系ワーカー」を可能にする可能性があるが、現在の法制度では、そういう就業形態はフォローできていない。 *3

* *

では疑問その2「医師Aが、B診療所でリアルな対面診察をする。その後のフォローアップはC診療所で行うという形態をとることは是か非か」という話はどうか。

 これは、さらに状況をややこしくするが、もしこれが可能であれば、例えば、僻地診療所の医師も、月に一度だけ東京のコワーキングスペース的な診療所に赴き、遠隔診療用の初診外来を行う。その後のフォローは僻地から遠隔診療で行う、という形態のビジネスが可能になるだろう。

 また、マーケット的にペイしない疾患の専門医であっても、ローコストの診療所を開設し、遠隔診療をメインとする(なんなら自宅でもいい)。対面診療は複数のエリアの診療所と契約し、順繰りに巡回する。基本的に対面診療は診療所を間借りして行うけれども、フォローアップの外来は遠隔診療で自院で行えばよい。専門に特化した外来の自分の顧客集団を抱えることが可能になる、なんてことも可能だ。

 さらに希少疾病の専門科でなくても、マンションの一室を遠隔診療室として開業する、というのがビジネスモデルになる可能性はある。えーと、まあ、「デリヘル」ドクター、ですね。言葉のイメージが悪いが「ヘルス」そのものですからな。

こういうのが当たり前になると、どうしても、医師の外来のパフォーマンスと報酬を連動させざるを得なくなってくるだろう。今は医師の外来診療の報酬は、時間枠でいくら、という形が多いが、遠隔診療となると、医師は個人事業主的な振る舞いを要求されることになる。1人いくらの報酬体系を導入せざるをえないし、間借りする診察室も、場所提供代と、診療報酬分をわけて考える時代になってくると思われる。

つまり、診療報酬の取り分が、場所、医療機関ベースではなく、個人の水揚げベースでみる時代になるだろう。かなりあからさまな形で。

*1:80年代の懐かしのキャラクター「マックス・ヘッドルーム」を思い起こさせる

*2:現在は診療側はPCが必要であるが、技術がすすめばスマホでできるようになるだろうと思う

*3:私は個人病院の院長をしつつ、週に1度基幹病院の専門外来を今も続けているが、これも法律的に多少想定外であることを身をもって体験している

遠隔事始 その2:

前回の続きである。

遠隔診療という形態は、病院と診療所なら、診療所の方が向いている。

なぜか。

* *

医療法では、病院の場合、入院人数と外来人数によって医師配置基準が算定されており、それを満たす必要がある。

リンク→<医師の配置標準について

簡単に言うと、入院にしろ、外来にしろ、人数を増やせばそれに応じて勤務する医師を増やさなければいけない。つまり、外来を増やせば、それに応じて医師を増やさなければいけない。要するに、病院の外来診療は、それに見合う単価を保証する必要があるということだ。

診療所なら問題ない。院長一人いれば、100人診ても200人診ても配置を増やす必要はない。3分診療にはなるだろうが、それはまた別の問題だ。繁盛しているから医師を増やすのは、当然ありうる。が、あくまで配置義務はない。これはコスト競争的にかなり有利だ。

遠隔診療は、少ない時間で数多くの患者さんを診察する、という「薄利多売」に向いている。アホほど外来をこなして回してゆくという形態に近い。だから病院では向いていない。構造的にペイラインに乗らないと思う。遠隔診療では単価はなかなかあげられないから。 *1

* *

当院の遠隔診療は、基本的には受診通院をしている人に付帯するサービスとして、という形で考えている。要するに、遠隔だけで完結する診療については想定していない。そういうことをするのであれば、診療所を別に設定し、外来機能を外出しにしてやるほうがいいだろうと思う。

* *

このCLINICSというアプリで検索すれば、いろいろなの遠隔診療の形がみてとれる。

最初から最後まで遠隔診療で完結するようなものも散見される。多くは自費診療だったりする。保険診療外で(つまりは自費診療)禁煙治療、AGAの治療薬、バイアグラなどのED改善薬などの販売については、問診と診察で済む。バイアグラシアリスなどは病院に出向くのに抵抗があることも多いので、遠隔診療の強みであるとは思う。

自費診療の禁煙外来は5万くらいだそうだ。 *2

* *

最初から最後まで遠隔診療で完結するようなものに関しては、エリアの束縛がなくなるので、シビアな価格競争が今後生じてくる可能性がある。

イケダハヤトではないが、僻地に住んでいれば、生活コストを下げられる分、価格競争でいえば六本木に構えたオフィスより優位にあるだろう。まあ僻地診療は高報酬でもあるから、例えば開業の頭金を捻出するため、子供を私大の医学部に通わせるために、僻地に赴き、診療のかたわら合間に自費診療の遠隔診療でお金を稼ぐ「医療界のマグロ漁船」みたいなビジネスモデルもでてくるかもしれない。

遠隔診療というと、都市部の医師が医療過疎の僻地の患者さんを診療する、みたいなイメージがあるけど、田舎に住んでいる医師が、東京のサラリーマンのバイアグラを処方する未来が来るかもしれない。

* *

当院でも「遠隔診療」を立ち上げるからには、自費診療の禁煙外来とかやってやろうとも思ったが、下手に値頃な価格でやっちゃって、めっちゃエントリーきてもしょうがないのでやめた。

外来のボリュームは有限だ。他の地域の医療にリソースを分配する意味は、全くない。僕は「遠隔診療」がやりたいのではなく、自分の外来の患者さんがより便利になればいいと思っているだけだから。

ただ、もし人生をやり直すなら、遠隔診療を中心に行う診療所をやるのも悪くないとは思う。

* *

追記(7月19日)

この記事をエントリしたまさにその夜、厚生労働省通達で、「禁煙外来の遠隔診療、初診から再診まですべての診療を遠隔で行ってもよい」という通達が出された。

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017071501001706.html

ただ、3月にこの手の噂がでたわけだが、6月にはこのような記事もでている。

https://mainichi.jp/articles/20170630/k00/00m/040/103000c

これをみるかぎり、上記の「最初から最後まで遠隔診療で完結」というのは、まだGoサインがでていなくて、今回の通達で初めてOKになったようですね。少しフライングでした。ただ、この通達がでて、上述したことが現実のものになるわけです。遠隔診療単独で完結できるようになると、楽天のネット通販と同じで地方の小売店にチャンスが出たように、僻地の先生に商機がでてくるように思います。

ED治療剤やAGA治療などに関しては現在は「一度は対面をするように」という通達になっているようですが、これについては、おそらくなし崩しに変わっていくように思いますが、どうでしょうかね。

結構大事なことですが、例えば、A診療所で対面を行った医師が、B診療所で遠隔診療を行うことを是とするか、非とするか、というのが多分保険診療上の焦点になろうかと思います。

*1:遠隔診療の外来患者数を外来患者数の中に算定するのか、という問題はある。が、病院の勤務する医師のリソースの適正配置という観点から考えれば、算定するのがまあ筋だろうとは思う。

*2保険診療であれば自己負担は13000円~20000円程度。ただし、要件が厳格であること、呼気CO濃度測定が必要なので、遠隔診療では保険診療の「禁煙外来加算」がとれる診療はできない。

遠隔事始 その1

唐突であるが、今度遠隔診療をすることにした。

うちは、80床の地域密着型の中小病院である。とりたてて外来の人数は多くはなく(少なくもないが)目立った個性はない(と、自分では思っている)。集客については、今後の医療のトレンドを考えるとそうそう楽観視はしていられない。

* *

きっかけは、メディカルジャパンとかのITフェアーで、遠隔診療のデモをみたことだ。

デモをみると、スマホで、Skype的なインフラを使って行う診療は、スマホ世代には抵抗なく受け入れられるだろうと確信できた。だってSkypeFacetimeGoogle Hangoutとかと全くおんなじような感じだ。書き言葉はLINEのチャットのような形で残すことはできる。検査結果の画像ファイルの共有もできる。どうみても便利なのである。

* *

以前から、勤労世代は仕事に穴をあけて平日に受診しにくいという問題は少なからずあった。「受診したいんですけど、もう有給がないんです…」とかいって、ドロップアウトする人も少なからずいる。

*1

遠隔診療を何が何でもしなければいけない、とは思っていないが、おそらく、今後外来診療の一定数が、遠隔診療に切り替わる可能性はあると思ったし *2、先んじて使ってみることにより、問題点の抽出もできるであろうと思って、メドレー社の「CLINICS (クリニクス)」というインフラを使ってみることにしたのである。

契約は終了し、現在詳細を設定中である。

地方都市にある風采の上がらない病院としては、早いほうだと思う。

ちなみにメドレー社から営業やサポートの人は当院に一度も来ていない。メールとGoogle Hangoutで担当者といろいろ協議している。サポートとか設定はこれで全部済みそうである。

ま、いわゆるテレビ会議ですよね。これも個人的には初めての経験だったので、結構圧倒された。

世の中進んでるんだねえ……

そりゃまあ遠隔診療を売るなら、遠隔での対面でいいよなあと思う。そりゃそうだ。

* *

 今回私が導入する遠隔診療は、勤労世代、スマホ世代用のインフラであって、離島などの僻地診療とも、高齢者の在宅往診の補完用でもない。多分、これはこれで別のインフラを必要とするだろう。

* *

 ただ、個人的な事情を言えば、今現在自分の外来は完全に飽和しており、新たに遠隔診療を行う余地はあんまりないのである。外来、入院、院内の様々な会議で、今僕は自分の時間を切り売りしてなんとか仕事を回している。

 だから、今回新たなマーケットにアクセスする手段を得たが、現実的に応需する力は乏しい。

 かといって、院内の他の医師は、あまり遠隔診療に興味はないのも現状である。うーん、どうしよう。

*1:よく、ネットには「病院とか平日に行けるわけないじゃん!なんで休日やってないの?」みたいな書き込みが定期的に出現し、ものわかりのいいはてな民が「医療わかってねーなー」的なブクマコメントをつけてくださったりするが、単純に消費者側の都合を言えば、まあ無理もない意見ではあるとは思っている。勤労状況は、やっぱりいろいろシビアだもん。

*2アメリカではめちゃめちゃ普及しているらしい

応召義務のスマートな回避方法

「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」なんて言葉もありますが、医師は「聖職者」というくくりで認識されていることが多いわけです。

 医師に本当に聖職性があるか?と問われると口ごもる私ですが、ただ、普通の職業と違うんやで?という一端として「応召義務」というのがあります。皆さん、応召義務って知っていますか?医師法で決まっているわけですけれども、

診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。

医師法第19条第1項)

 要するに普通の仕事の場合は、「あーつかれた、もう切り上げます。閉店です」という形で、業務を終了することができるわけなんですけれども、医師は、応召義務で、こちらの理由で業務を終了できない、という、ちょっと考えると恐ろしいルールなわけです。

 これを拡大解釈すると、電通なんてめじゃないブラック労働環境が容易に生まれてしまう。

「応召義務」があるかぎり、医師は、プロレスラーのように相手がかけた技は一旦受けてから返さなきゃいけない。よけちゃダメなんですよね。

 ちなみにアメリカには「応召義務」なんてありません。

* *

 勿論、どんな人間だって、 40時間くらい診療を続けることが常態化すると、ぶっ壊れます。また、休日が全くない状態でフルタイムで半年働き続けても、ぶっこわれます。ですから、本音と建前っつーものがありますね。中にはプロレスラーよろしく、一切技をよけないストロングスタイルの医師もいます(特にメジャー科)が、愚直に「応召義務」に準じていたら身がもたないですから要領よく休息をとっているのがまあ実情。 *1

 ただ、仕事を切り上げようとしているところで「診ろいや診ない」みたいな押し問答になったとして「応召義務があるじゃないか」みたいに葵の御紋のように持ち出されると、議論するのも面倒くさいので、おそらく多くの臨床医はため息をついて診療することを選ぶでしょうね。そういう「建前」上は最強のカード、それが応召義務です。 *2

患者が貧困であるという理由で、十分な治療を与えることを拒む等のことがあってはならない。

 医師法第19条にいう「正当な事由」のある場合とは、医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られるのであって、患者の再三の求めにもかかわらず、単に軽度の疲労の程度をもってこれを拒絶することは、第19条の義務違反を構成する。

 医師が第19条の義務違反を行った場合には罰則の適用はないが、医師法第7条にいう「医師としての品位を損するような行為のあったとき」にあたるから、義務違反を反覆するが如き場合において同条の規定により医師免許の取消又は停止を命ずる場合もありうる。

休診日であっても、急患に対する応招義務を解除されるものではない[3]。

休日夜間診療所、休日夜間当番医制などの方法により地域における急患診療が確保され、かつ、地域住民に十分周知徹底されているような休日夜間診療体制が敷かれている場合において、医師が来院した患者に対し休日夜間診療所、休日夜間当番院などで診療を受けるよう指示することは、医師法第19条第1項の規定に反しないものと解される。ただし、症状が重篤である等直ちに必要な応急の措置を施さねば患者の生命、身体に重大な影響が及ぶおそれがある場合においては、医師は診療に応ずる義務がある

厚生労働省通達より)

 ほらね。相手が金持っていないことが明らかであろうが、休診日であろうが、専門外であろうが、診療は拒否できないんです。なかなかしょっぱいルールだと思いませんか? *3

 ただこれがあまり問題にならないのは、前述のとおり、医者はいろんな意味でタフで要領がいいので、うまいこと休んでいるというのが一つ。(それでも研修医で鬱で休職とか自殺というのは結構な頻度で発生している)

 もう一つはこの「応召義務」のデメリットをまともにかぶっているのは、田舎の赤ひげ先生みたいな、僻地とか地域医療の先生なんですけれども、大体は事業主を兼ねているから、被雇用者としてのブラック労働には該当しないから。被雇用者の労働は労働基準法で規定されますが、事業主の労働というものは、制限されません。なぜなら事業主には業務の裁量権があるからです。ブラックなのは好きで働いてるからやんな?みたいな解釈で。

でももっと大きい枠組みの「応召義務」には労働裁量権を認めてないわけで、これってやはり矛盾よね。

 というわけで、疲れている時にその言葉を聞くと、死神に心臓をぎゅっと掴まれたような気になる。それが応召義務。

 普段、スマートにひらりひらりと仕事をしていても、その言葉ひとつで、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ精神、攻撃はよけずに受けなきゃいけないという呪わしき運命を思い起こさずにはいられない、それが応召義務です。大げさだけど。

* *

 最近私の住んでいる地方都市(広島県福山市。人口40万人)でも、同年代の先生で、最近開業された先生が何人かいらっしゃいますが、例えば岡山に居を構えて、そこから通う、とか、そういう方が何人もおられます。

また、診療所そのものはまあまあ辺縁地区にあるのだけれども、自宅は駅前のタワーマンションにある、とか。

 職住近接ではないパターンが最近多いわけです。

 最初は「うーん、お子さんの教育のこともあるしなあ」と思っていたんですが(地方都市であれば、学校の選択肢が限られるため、教育熱心な奥様は、住みたがらない)、診療所に住み込まずにオフタイムには帰宅するなら応召義務に応じることは現実的に不可能。つまり応召義務を免責できる。そのメリットははかりしれんよなあと気づきました。

 昔ながらの地域診療は、診療所と自宅を併設するのが当たり前でした。それは地域社会に溶け込む点では意義深いとは思います。地元の名士を目指すのであれば今後もこのスタイルでしょうね。ただ「応召義務」は職住近接に潜在的なリスクを抱えることになる。

 職住をわけると、地域との一体感というのはなくなりますが、昼間の診療で、親切でしっかりした診療をしていれば、患者さんは来るわけで、それで十分経営が成り立てばそれでいいんでしょうね。

ただ、地域の医師会へのコミットは、どうしても薄れる。大都市圏における医師会の参加率の低迷も、こういうことが要因の一つになっているんでしょう。

私は、地元に帰って父の病院を継いだので、そういう選択肢を検討すらしなかったわけですが、職住を離す選択をされた先生は、どうなんすかね?そういうことについて意識的なんでしょうか、無意識下に最適な選択をしているんでしょうか。

*1:医者っていうのは受験強者なわけで、まあどっちかというと要領がいいし、要領がよくないと潰れる。医者の学会なんて、単位とったら、結構する会場離れて割り切って観光したり、っていうのもまあまあ見るけど、看護とか栄養士の学会とかって、医者では考えられないほど真面目で、会場も溢れんばかり、誰もサボらない。

*2:もちろんそういう言い争いに長けた医師もいますが、大抵そういうやつは口先ばっかりで仕事ができないので、超過の仕事を割り当てられません。医療も他の業界と同じく、仕事のできるやつに不公平に仕事は割り振られるものです

*3:ここには専門外ルールは明記されていませんが、専門外であっても初療を行い、診療可能な医療機関を紹介する、という義務が発生する、と何かに書いてありました

「100まで生きたい」と言われたら

100まで生きたい、という患者さんは結構いる。

診察室で「あたし(おれ)100まで生きたい」っていうのは今まで何度か耳にした。

これについて、どういう返事をかえすべきか?医師のみなさん、どうしてます?

* *

若い頃は、普通に「100までですか… それは、なかなか難しいんじゃないですかね?」

とか言っていました。まあストレートな球をストレートにかえしていたわけです。

しかし、これって「つまらないものですが…」って手土産をもってきた人に「つまらないものですか。そうですか」って言っているようなものだよね。日本的な文脈を完全に無視した、いささかアスペルガー的な答えでさえある。

 今にして思えば、この頃は医者としてもかけだしであったため、とにかく「医学的な正確さ」とか「科学的であること」が自分の意識の前面にでていたような気がする。

「うそは、いっちゃいかん」と、多分思っていた。

 また、この頃は、深刻な医療不信や医療過誤の裁判などがあった頃でもあり、医師が患者さんにいう言葉というのに細心の注意を払ってたように記憶する。リップサービスにしろ適当なことを言って言質をとられたらかなわん、という意識もあったのかなあ……と今では思います。

* *

で、そこから少し時代が下って。大学院が終わり基幹病院でガシガシと診療をしていたころ。10年前くらいのことですかね。この頃は、

「そうですか、100まで生きたい?はっはっは。いいじゃないですか。

 なんなら 120まで生きましょうよ!」

 みたいに返してた。いわば、さらに話を「盛り」返しているわけです。100まで生きたい、の「生きたい」の部分を、抽出して強調していると言える。

 患者さんがいう「100」というのは、具体的な100歳ということを意味するわけではない。ニュアンスとしては「千代に八千代に」に似ている。今風に言えば「フォーエバー」だ。つまりずっと生きていたいということだ。

 だから「自分は長生きをしたい」という本人の思いに他愛のないうそで答えている。少なくとも患者さんの気持ちには寄り添っているし、笑い飛ばす意味でも120と「盛り」返すことは、それなりに効果があったような気がする。

 この頃は(ま、今もだけど)「外来はできるだけ楽しく」ということを一番に考えていたと思う。

 ただ、さすがに120といえば、医師としての正確さ、妥当性は欠いている言辞であることは一目瞭然だ。ただ、前述の反動もあってか、医学的な妥当性よりも、気持ちを汲み取ることこそが重要と思っていたんですね。

 ただ、今では、こういう言い方はあまり使わない。

 一つには、やはり明確な嘘であること。医学的な妥当性・正当性には欠けた言辞、自分でリップサービスにすぎないのがみえみえな言葉を繰り返すと、心のキャリブレーションが狂うのである。

 多分、飲み屋のおねーちゃんの「また来てくださいね~」と同じで、心無い。 *1

 ちょっと力んだ空回りのようなものを、今は感じる。

* *

 で、今では、どう対応しているかというと。

 前述のごとく、100まで生きたいと言っている人の心情の要諦は「今が幸せだ。この幸せがいつまでも続けばいいのに」という現状肯定にある。苦しみが多く、現状否定の場合「100まで生きる」という言葉は、普通は出てこない。

 だから、幸せな人がいう「もういつ死んでもいい」と「100まで生きたい」は対極ではなく、案外紙一重なのである。

ということで、今はシンプルに現状肯定の部分にしみじみ共感している。

もしご家族の付き添いがあれば

「○○さん100まで生きたいんですって!(大抵家族は苦笑する)

 これって、今がとっても幸せだっていうことなんですよね。

 みなさんがとってもいいように生活を整えてくれてくれているからですね。

 実際に100まで生きられるかどうかは神様が決めることですけど、みなさんが

 心を砕いてお世話している証拠だと思います。

 すごい孝行をされていますねー」

と言っている。本人だけの時には

「○○さん、100まで生きたいの?そりゃあ、今が幸せだってことだねえ。

 ご家族にも恵まれたのかなあ。

 今までいい時も悪い時も頑張ってきたおかげだねえ。

 こっちも注意深くみていきますから、身体に気をつけてね」

みたいなことを言っています。

まあ、渇いた心でみたら、これもリップサービスです。でも嘘偽りのない本心です。

「100まで生きたい」と思わしめる周りの環境設定って、すごくない?

あと、こうやって発することによって「ああ、100まで生きたいって思っているってことは、あたし幸せなんだ今」ということに気付いてもらうこともできる。周りとの関係性がよくなると、みんなもっともっとハッピーになれる。

* *

 ちなみに、100まで生きたいという言葉の多くは現状肯定から発せられていることを忘れてはいけない。あくまで100まで生きる、ということをクライアントの要望ととらえると、ニーズを読み違えることがある。

 今の状態が損なわれてまでも長生きをする、というのは、多くの人は望まない。

 高齢者の多くは可塑性が失われているので、変化にはなおさら耐性がない。

 例えば、まあまあな癌が見つかるとする。

 年齢的には厳しいが根治手術ができなくもない。

 結構大きな手術だけど、どうする?みたいな事例はしばしば発生する。

 すごく悩ましい。

 常日頃より100まで生きたい、という発言をされている場合、そりゃ根治手術をして長期予後を確保すべきだろ、と医者なら考えがちである。僕も今までそういう考え方で、ちょっと無理な手術をすすめたりもした。

 うまくいくこともあったし、行かないこともあった。

 しかし最良の結果でさえ、術後ADLをやはり大きく落としがちではある。

 医者としては「要望にこたえた」と思いはしたが、本人は必ずしも幸せそうではなかったような気がする。

 ただ、一律に手術しないのがいい、とも思わない。

 これについてはまだ答えがでていないが、「100まで生きたい」という本人の言にあまり引きずられすぎない方がいいような気がする。

*1:まあ、僕の心の師匠は高田純次なので、まあそういうのが前面にでた言ではあると思う。

ダイエットの話

ところで、最近の私のダイエットは、というと、

これがはかばかしくないのです。

* *

2010年から2011年頃までは自転車にのって、結構快適にダイエットしていました。

事故を二回やったので(http://d.hatena.ne.jp/halfboileddoc/20110704)自転車はやめて、仕方がなくジョギングを始めたわけです。

旅ランと、家の周り。

月に60km、一番いいときは100kmくらい走っていました。

ガーミンのGPS Watchを使っていましたが、それが、Fitbitの体活動計になり、日々の運動量はそれなりにコントロールしていました。しかしFitbitは汗のためなのか、一年持たなくて、何回買い替えました。割と消耗品でした。

去年より携帯を iPhoneに変え、ライフログモニターがFitbitからApple Watchに変わったわけです。充電をこまめにしなければいけないことはともかくとして、まあ、Fitbitよりはラフに使えますね。Fitbitの一番安いやつ相当頻繁に壊れてましたからね。

* *

しかしデバイスを替えると、飛躍的に運動量が増えるかというと、そういうわけでもなく。

これは性的に倦怠期の夫婦がセクシーランジェリーを買ってみる…みたいなもんで、まあ物欲と新奇さから運動欲を喚起と思ってもそんなにそそられはしなかった。

というわけで、だんだんとお腹周りがあかん感じになり、服着るとまるで『浮き輪」みたいにウエストのところに肉が乗ります。「さぼったリング」と僕は呼んでいますけれど、さぼったリングまくりなわけです。それどころか、太もものせいで、ズボンの内側が擦れてきたりとか、後頭部の皮膚に脂肪が乗ってきたり、大変残念な事態に。

 不眠というか「床で寝る」というのが常態化したこともあって(http://d.hatena.ne.jp/halfboileddoc/20160119)、なかなか朝起きて運動、というのができないわけです。仕事の上でも院長とか医師会とかの活動とかで、会食が随分増えて、ますます脂が乗ってきたわけです。仕事に脂がのるならいいけど、皮下に脂が乗りきってはねえ…

というわけで、昨年の2月、フィットネスジムの契約をしました。

* *

今は週に1~2回、ジムでエアロバイクをやったりマシントレーニングをしたりしています。

プライベートでは僕はコミュ障なので、ジムのグループレッスン、ダンスとかボクササイズとか、そういうのようしません。とりあえず軽くマシンでアップして、エアロバイク5kmくらいやって、マシンちょっとやって終わり。ささやかなもんです。こんなんでは痩せはしませんね。でもまあやらないよりはマシ。

ジムにはいいこともあります。たとえばジムで運動した日は、まあまあよく寝られます。やっぱ体も疲れますから、ジムの日はリビングでダラっとせず、ちゃんと寝床に入れば、朝割とすっきりすることに気づきました。

逆にいろいろ仕事や発表前の準備でテンパっている時って、ジムに行く時間もないわけですが、そういう時って、肩こりもひどいし、かえって日中は疲れやすい。だからちょっといろんなことがリセットできるんでしょうね、運動って。

あと、ジョギングは下半身だけだったんですが、ジムワークだと、上半身の筋力トレーニングをするようになったので、少し腕と胸板ががっしりしました。これで、脂肪を燃やせばいいんですが、なかなかそうはいかない。

「もう少しやせたらいいスーツを買おう」と、言って、もう3年になりますが、胸板の部分と、ウエストの部分のサイズの差をドロップと言うんですが、ドロップが大きい方が逆三角形でかっこいいわけですけれども、筋肉を増やそうとすると、ドロップだけでなく、肩と胸板のところも発展途上、という風になるので、よりスーツを買うことから遠ざかっています。計画的にパンプアップできればいいんですけれども。

* *

余談ですが、今の40代、特有のシニカルさを多分にもつこの世代にとって、ダウンタウン松本の今のありようは、「あの松本さんがやっているなら…」ということで、ワークアウトという行為につきものの含羞に対してずいぶん免罪符的な効果があると思います。僕がそうです。

* *

 それにしても、フィットネスってやつには筋肉ヒエラルキーみたいなものが厳然としてあって、そんな中でトレーニングするのは、なんかいやだなあと思っていたのだが、もう慣れた。

 低い体脂肪率と見事な筋肉をもつ人達は、かなりの頻度でジムに来ているので、まあ目立つ。きっとホモセクシャルか、すごいナルシストか、もしくはそのいずれかなんだろうなと思うけど、やっぱり少しうらやましいな、とも思う。

 女友達に訊いてみても、ああいうマッチョは全然ダメって言うけどね。

* *

そして、最近の私のダイエットは、というと、

これがはかばかしくないのです。

10周年

このはてなダイアリーに、それまで書いていた日記的なやつを移したのが、今さかのぼってみると 2007年の3月なんですね。気がついたら10年経っているんだ。その間ブログもたいして更新はしてないんですが、時々はなんか力の入ったこと書いてるわ。過去の僕。

もうちょっと更新頻度を上げると、点が線につながるのかもしれないけど。まあ最近はちょっとエッジの効いたこと書いたらすぐ炎上とかしますし、こういう閑散としたサイトにも、そのよさがあるんだと思う。そう思いたい。

ところで、昔に僕のこのBlog読んでくれてた人って、今でも読んでくれているんだろうか?アクセス解析とかしない(できない)んでよくわからないんですけれども。昔は掲示板なるものがあって、交流してましたよね。もしまだ見ている人いれば、リアクションください。

今はリアクションのないホワイトノイズを前にしゃべっているかのようです。まあ、これが僕のスタイルで、それはそれでいいんですけど。

むしろ、このブログはブログとして不特定多数に公開されているわけですが、自分に近しいつながりはTwitterFacebookなどでフォローいただいているので、そういうリアクションはありますけどね。

昔のインターネットにあった「アマチュア無線感」世界の全然知らない人と、突然窓が開く、みたいな感じは今のネットにはないですよな。